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9.高原の汽車

 ふと、アンジェレッタは心地好い震動に気付いて目を覚ましました。

 青い瞳の中に、明るい光が射し込んできます。

 いつのまにか、アンジェレッタは汽車の中へと戻っていたんです。でも、何かが違っています…床板は新しく、まだ、おろしたての匂いがしています。天井の明かりも、前より温かく、ずっと綺麗に輝いているんです。腰掛けている座席だって、ふんわりと優しくアンジェレッタの体を支えてくれていました。

 車内だって、広くなった気がします。でも、それなのに、昨日までの汽車と同じようにも思えるんです。

 アンジェレッタがもっと周りを見ようと立ち上がりかけた時、すぐ隣りにラッセンの姿が浮かび上がってきました。

 …でも、ラッセンも少し変わったみたいです。前よりも、もっと優しさと力強さに満ち溢れているんです。その黒い瞳には、生命の煌きがいっそうの眩しさをもって感じられました。

 いいえ、ラッセンだって驚いていました。髪飾りを着けてくれているアンジェレッタが、何だかとっても美しく輝いて見えるんです。その体の内側からは、白く透き通った光の波が流れ出しているような気がします。とっても、とっても…アンジェレッタは素敵に見えました。

 黙ったまま、アンジェレッタは座りなおしています。その頬には赤みがさし、愛らしい口許には素晴らしい微笑が浮かんでいるんです。ラッセンも、そっと、静かにアンジェレッタの指先を取りながら微笑みました。

 暖かくも寒くもない日の光は、南への道を辿りながら、大きな窓から中を覗き込んでいます。そこには、金色の波に洗われた、幸せそうな二人の姿が映し出されていました。


 汽車は、太陽の下に見える山々を目指して、次第に高原の中を走るようになっていました。灰色の小さな石が積まれ、若々しく鮮やかな緑の牧草地を囲んでいます。所々にリンゴの木が立ち、その木漏れ日は草地に見事な絵を描き出していました。

 でも、牧草地にも牛や羊といった家畜の姿が見えないんです。いいえ、それどころか、人の住んでいる家すら何処にも見つかりません。

「誰もいないのかしら…」

 窓辺から覗くアンジェレッタがそう呟いた時、何か微かな音色が聞こえてきました。

「あれは…鈴の音だね」

 えぇ、そうです。今はアンジェレッタにもはっきりと分かりました。カラン、コロン…大きな、のんびりとした鈴の音がするんです。あの鈴は、きっと牛の首に吊り下がっているのでしょう。牛の姿は何処にも見えませんでしたが、アンジェレッタには、ゆっくりと草をはむ牛達の姿がはっきりと観えていました。

 汽車は、黒いくらいに青い空の下を、涼しい風と共に走っています。窓を開けて首を伸ばすと、目映い陽射しの中で、行く手には雪をかぶった山々が見えていました。蒼く霞んだその峰の上には、純白の、目も覚めるような雲が幾つかぽっかりと浮かんでいます。汽車は、真っ直ぐにその山々へと向かって進んでいました。

 もう少しすれば、最初の山のふもとに辿り着くことでしょう。


 アンジェレッタとラッセンは、ずっと手を握りあったまま、並んで窓の外を眺めていました。

 とっても高くて、いったい何処にあるのか想像も出来ないような青空が、汽車の上に広がっています。見上げていると、気が遠くなりそうなんです。アンジェレッタは、ちょっと怖くなって視線を下ろしてしまいました。

 そんな空の青を映している瞳に、緩やかに右へと曲がっていく線路が飛び込んできます。進行方向から射してくる太陽の光に、その道は白く、銀色に輝いて見えました。丈の短い草々に囲まれ、他の何よりもくっきりと浮き上がって見えるんです。その線路の脇には、濃い緑色の木々が、まるで絵のように立ち並んで風に揺れていました。

 何だか、夢の中でしか知らない景色みたいです。ほら、みずみずしい草葉に隠れて咲いている白や黄の小さな花なんて、まるで星のように光を放っているでしょう? その星達は、通り過ぎていく汽車に向かって、たくさんの色や輝きを見せてくれています。

 …えぇ、これはきっと『夢』なんでしょう。きっと、そうなんです……

 でも……『夢』って何なんでしょう…? こうして、ラッセンと一緒にいられる事も、『夢』なんでしょうか……

 ちょっぴり恐くなって、アンジェレッタはつないだ指先に力を込めてしまいました。

 そうです…もしも夢なら……いつかは、覚めてしまうかも知れないんです……

「どうしたんだい? アンジェレッタ」

 優しい声が、そっと包み込んでくれます。でも、アンジェレッタには応えられませんでした。こんな事を話してしまったら、夢から覚めてしまいそうなんです……

「この世界と『夢』とは、共に『同じ』ものなのですよ、アンジェレッタ」

 不意に、背中から重くて深い言葉が聞こえてきました。アンナさんです。

 すがるような表情で振り返ったアンジェレッタに、アンナさんは静かに微笑んでいました。

「『夢』は、それ自身が一つの世界なのです。そこへ入り込んだものが望まない限り、覚めることなどありえません。《影》の世界では夢は覚めてしまうものですが、それは《本当》の『夢』ではなく、《影》の言葉に従えば『幻』なのですよ。この世界では『夢』は幻ではなく、『実際の世界』なのです」

 ……なら、安心してもいいはずです。だって、アンジェレッタは絶対にラッセンと一緒にいられるこの『夢』を、やめようなんて思わないんですから。

「……幻でなくて……本当に、よかった…」

「え?」

 きょとんとした顔で、ラッセンが覗き込んできます。その様子に、今度はアンジェレッタが驚いてしまいました。

「ラッセン、アンナさんのお話を聞かなかったの?」

「アンナさんなんて、いないよ?」

 ラッセンたら、そんな事を言うんです。ですから、アンジェレッタは通路の向こう側の席を示して…

 でも、とっても驚いた事に、そこにはアンナさんはいませんでした。

「アンナさん…」

 何処に行ってしまったんでしょうか。

「そこにいたんだね? アンジェレッタ」

「えぇ…」

 嘘じゃありません。でも、信じてくれるでしょうか…

 アンジェレッタが見上げる先で、ラッセンは柔らかく笑ってくれていました。

「じゃぁ、アンジェレッタの『場所』とアンナさんの『場所』が重なったんだね。だから、アンジェレッタには見えたんだ」

 それ以上、ラッセンは何も聞いてきませんでした。アンナさんは、アンジェレッタだけに『何か』を話す必要があったんです。それを、もしもラッセンにも聞かせたいのなら、きっと、アンナさんの姿はラッセンにも見えていたことでしょう。勿論、ラッセンはアンジェレッタが嘘をついているなんて、これっぽっちも思いませんでした。

「ありがとう…ラッセン……」

 アンジェレッタも、小さくそう呟いただけでした。

 こんなラッセンと一緒にいられて《本当》によかった…これが幻でなくて《本当》によかった……

 アンジェレッタは、心からそう思っていました……


 雪を戴く峰々の手前に、低くて小さな山が連なっています。その中の一つを、汽車は中腹目指してゆっくりと登り始めていました。

 所々、薄い緑の敷布を裂いて、茶色い地肌が見えています。ほら、右手の谷底では、白くて清らかな雪も、まだ解けずに残ってるんです。でも、この世界で、雪が降ったり融けたりするんでしょうか。南へと昇っている太陽からは、とても『冬』の気配なんて感じられませんでした。

「きっと、そうじゃないと思うよ、アンジェレッタ。冬じゃなくても、必要があれば、雪は降ってくるんだよ」

「…えぇ、そうね」

 だって、『時間』があるからこそ『冬』は巡ってくるんです。『時間』が無ければ、季節なんて生まれるはずがありません。

 二人には、けっこうな急斜面に見える所を、汽車は着実に登っていきます。草々の間にはタンポポの花が咲いていて、それは黄色く愛らしい模様を描きながら青い山を彩っていました。


 少し、開けた所に出てきます。青く霞んでいた高い山々も、とっても近く感じられるんです。銀色の岩肌の上で、白い雪のじゅうたんは眩しいくらいに輝いていました。

 汽車の窓のすぐ下からは、タンポポが無数に咲き誇っています。黒いくらいに濃くて、でも明るい緑の葉をした森の傍まで、その黄金色の海は広がっているんです。燃え立つような金色の光は、涼しい高原の風に吹かれて、ゆったりとした波を作り出していました。

 アンジェレッタは、その可愛い草原を微笑んで見つめていましたが、ふと何かに気付いて空を見上げました。

 なんて透き通ってるんでしょう。本当に、この青空には果てなんて考えられません。きっと、この世界では《本当》に何処までも続いてるんです。すぐそこにもありそうなのに、でも、手を伸ばしても触れないんです。

 自分の瞳にそっくりな青空へと目を向けた時、アンジェレッタはそこに小さくて、でもとっても鋭い『何か』を見付けた気がしました。じっと見ていると、それは光っているんです。星だったんです!

 アンジェレッタは、思わずどきっとして両手でラッセンの腕を掴んでしまいました。何だか、見てはいけないものを見てしまった気がしたんです。でも、目が放せません。えぇ、どうしても放せないんです。

 昼間の星は、とっても白く見えます。だからでしょうか、アンジェレッタにはこの青空が真っ黒な夜の闇に思えました。不意に、夜に引き戻された気がするんです。

「アンジェレッタ…」

 ラッセンの温かい声がします。でも、アンジェレッタには口を開くことも出来ませんでした。

「…どうして、こんなに美しく澄んでるんだろうね。雲だって、まるで水分を含んでないみたいだよ…星が見えたって、当然かも知れないね」

「ラッセン!」

 アンジェレッタは驚くと、黒い瞳を見上げていました。えぇ、そうなんです。ラッセンも、同じものに気付いていたんです。

「…わたし、見てはいけないものを見たんだと思ったの…でも、そうじゃなかったのね…」

「アンジェレッタ…」

 悲しそうに、アンジェレッタはラッセンに笑いかけていました。

「今まで、わたしが気付いていなかっただけなの…きっと、もっといろいろなことも、知らないでいたんだと思うわ……」

 昼の空にも、その向こうでは星が煌いているんです。アンジェレッタは、今までその事を《本当》には知っていませんでした。同じようにして、いったいどれだけのことを見逃してきたことでしょう…

「でも、それはこれから知っていけばいいんだよ。今までのアンジェレッタが間違っていたんじゃないんだ。自分ばかりを責めたら駄目だよ、アンジェレッタ…」

 優しいんです…本当に、とっても優しいんです……

「…ありがとう……」

 少し、清らかな青い瞳が濡れています。アンジェレッタは、視線を落とすと、ラッセンにすがりついていました。

 さまざまな色彩に埋もれながら、汽車は山の頂上を目指して走っていきます。ゆっくりと、ゆっくりと…でも、着実に汽車は進み続けていました……

                                                                       『高原の汽車』おわり


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