7.夕陽の川辺
菜の花は、現れたときと同じように急に無くなってしまいました。
今、二人の目の前では、若々しい緑色をした草のじゅうたんが、青空をくっきりと切り取ってしまっています。
いったい、この草原は何処から続いているのでしょう。そして、何処まで広がっていくのでしょうか。
(ううん…)
きっと、『場所』なんて存在していないんです。アンジェレッタは、アンナさんが教えてくれた言葉を思い出していました。この草原は、何処にでもあるんです。でも、何処にも無いんです。
おや? そこで、アンジェレッタはちょっと考え込んでしまいました。何だか分からなくなってきたんです。
「どうしたんだい? アンジェレッタ」
向かいの席から、ラッセンが首をかしげて話しかけてくれます。でも、アンジェレッタにはうまく説明することさえ出来ませんでした。
「ううん…何だか、よく分からなくて…」
何が分からないのか、これではラッセンにはもっと分かりません。目をぱちくりさせているラッセンに、アンジェレッタは困った顔をしてしまいました。
ラッセンは、いつもアンジェレッタのことをよく分かってくれています。それは、声にはしていない事でも同じでした。でも、だからといって全てを知ってくれているわけではありません。やっぱり、口にしなくてはならない事もあるんです。
こんな時、ちょっとラッセンを遠く感じてしまいます。アンジェレッタがどれだけ頑張っても、ラッセンは『他人』のままなんです…
でも……えぇ、アンジェレッタには解っていました。
『他人』だからこそ、こんなに『大好き』になれたんです。
《本当》に好きになれたんです……
…どうしたらいいんでしょう。胸元まで赤くなってしまうんです。どきどきしてしまうんです…それが嬉しいのに、何だか恥ずかしい気もするんです…
こんな気持ちも、ラッセンは分かっているんでしょうか……
うつむけた瞳をちらっと上げて、ラッセンの顔を見てしまいます。その視線に応えて、ラッセンは温かく笑ってくれています。それがまた嬉しくて、恥ずかしくて…
慌てて、アンジェレッタは窓の外に顔を出してしまいました。
ずっと以前、ラッセンが小さかった頃の自分とは、随分と変わってしまったように思えます。でも……今の方が素直な気もするんです……
アンジェレッタは、柔らかな風の中で小さく溜め息を吐いてしまいました。何だか、『自分』まで分からなくなってきたんです…
でも、どれだけ『自分』が変わっても、それは………
…えぇ、そうです。ラッセンのためなんです…それだけは、アンジェレッタにもはっきりと分かっていました。
涼しげな陽光を、眩しそうにいっぱい受けていた草原が、少しずつなだらかな丘へと変わってきています。幾つもの低い丘が重なり合って、柔らかな線を描いているんです。所々では小さな木立も見え始め、景色はいっそう豊かになってきていました。
太陽は、急いで北の空を転げ落ちています。早く、西の地平に入って休みたいのでしょう。何だか、あっと言う間に夕方が来てしまいそうです。
ラッセンは、さっきから黙って窓の外を見ています。でも、風景を眺めているようには見えません。アンジェレッタは、その黒い瞳に映る光を見つめて、少しだけ勇気を出して尋ねていました。
「ラッセン…何を考えてるの?」
「え? あっ、うん…ごめん。アンジェレッタを一人にしちゃったね」
慌てて振り返ったラッセンに、今度はアンジェレッタが急いで左右に首を振ってしまいます。
「ううん! ごめんなさい、そんなつもりで言ったんじゃないの…ごめんなさい、考え事を邪魔してしまって…」
「邪魔なんかじゃないよ。アンジェレッタと話すことは、他のどんな事よりも楽しいからね」
「ラッセン……」
二人とも、少しの間、黙ってしまいます。でも、やがて、ラッセンは変に乾いてしまった唇を少し舌で湿らせると、話し出していました。
「僕はね、この汽車がいったい何処まで行くのかな、って考えていたんだよ。でも、きっと『何処』なんて言える『場所』は無いんだろうな、って…だったら、この汽車は何処からも出発していないし、何処にも行くことはないんだろう…そう思ってたんだ」
「ラッセン!」
驚いた顔で、アンジェレッタは真っ直ぐラッセンの目を見つめていました。えぇ、そうです。それは、ついさっき、アンジェレッタが考えていた事と同じだったんです。
「わたしも、同じような事を考えていたの。この草原は何処から続いていて、何処まで広がっているのかしら、って…でも、『場所』が無いのなら、この草原は何処にでもあって…きっと、何処にも無いのかも知れない…そんな事を思っていたの」
「そうだったんだ…同じ事を考えてたんだね」
にっこりと笑いかけてくれます。なんて温かいんでしょう。偶然でも、アンジェレッタには嬉しかったんです。いいえ、《本当》には『偶然』なんて存在していないのですが…
「でも、僕には分からないんだ。もしもそうなら、僕やアンジェレッタは、どうしてこの汽車に乗って、この景色の中を走ってるんだろう? 『何』がそこには存在してるんだろう?」
アンジェレッタにも、分かりません。
「あっ、そうだったね。アンジェレッタも、さっきよく分からない、って言ってたよね」
「えぇ…」
「何も存在などしていません。ただ、あなたがたはそうしなくてはならないから、この汽車に乗って、この景色を眺めているのですよ」
不意に、深くて静かな声が通路の向こうから聞こえてきました。
「アンナさん! 戻って来れたんですか?」
ラッセンが、驚いて叫んでいます。だって、さっきアンナさんは、あのクスノキのそばに立っていたんです。あれから、汽車は一度も停車していません。
「えぇ。戻って来たいと思うなら、人はあらゆるところに戻ることが出来るものなのです」
計り知れないほどに穏やかな微笑みは、アンジェレッタやラッセンの混乱していた心を、すっかり鎮めてしまいました。
「アンナさん…どうして、わたしやラッセンは、こうしていなくてはならないのですか…?」
アンジェレッタの小さな問いかけにも、アンナさんはこころよく応えてくれました。
「では、アンジェレッタはこの旅をやめてしまいたいの?」
「いいえ、そんなことはありません!」
思わず、力強くアンジェレッタは答えていました。ラッセンと一緒にいられるのなら、アンジェレッタは永遠にこの汽車に乗って、無限の果てまで行っても構わないと思っています。
「僕も、ずっとアンジェレッタと一緒にいたいと思っています」
「ラッセン……」
少し照れながら、でも真剣にラッセンはそう言ってくれたんです。アンジェレッタは、とても嬉しくて…青い瞳にうっすらと涙を浮かべてしまいました。ラッセンも、一緒にいたいと思ってくれているんです。こんなに幸せなことが他にあるでしょうか。
「あなたがたが、そう思っているからこそ、汽車はこの景色の中を走っているのです」
アンナさんは、優しい微笑でそんな二人をそっと見守っていました。
窓から斜めに射し込んでいる光芒は、アンナさんの透き通る金の髪を眩しく輝かせています。アンジェレッタとラッセンは、それ以上は何を言っても、疑問を口にしてもいけないような気がしました。《真実》は《全て》目の前にあったんです。それが何よりも素晴らしい、最良の疑問であり、応えだったんです…
汽車は、音も無く滑り続けています。下り始めた太陽に照らされながら、どんどんと南の方へと…自らが生まれてきた方向へと、汽車は速度を早めていました。
今日一日、北の空をえっちらおっちらと昇り、頂上で昼寝をした後、駆け足で坂道を転がり落ちていた太陽は、ようやく地平線にたどり着こうとしていました。
アンジェレッタの瞳のように、高く、青く澄み切っていた空は、今は淡く柔らかな茜色に染まっています。とっても温かそうで、見ていると、心がふんわりとしてくるんです。空から降ってくるその光は、通路の向こう側にある窓からふわぁっと汽車の中にも入り込んできていました。
ラッセンとアンジェレッタは、お互いに顔を見合わせるとにこっと笑って席を立ちました。急いで、通路の反対側の席に移ります。でも、その時ラッセンはびっくりしたように言いました。
「アンナさん、何処に行ったんだろう?」
えぇ、そうなんです。いつも座っていた席にはいなかったんです。いいえ、それどころか、この車内の何処にも、アンナさんの姿はありませんでした。
「…ううん、違うわ。アンナさんは、何処にも行っていないのよ」
アンジェレッタは、そう言ってラッセンに笑いかけました。
「わたしたちの言葉では、『ここ』にいないの…でも、アンナさんは何処にでもいるのよ。アンナさんがいなくてはならない所に…ね」
「…そうだね」
ラッセンは頷くと、アンジェレッタの手を取って窓辺に近付きました。
不意に、水の流れる音が、はっきりと耳に届いてきます。二人は草がさやさやとなびく丘を目にしたと思った直後、窓の外にとても大きな川を見付けていました。
川は、右手の地平線の向こうから流れています。夕焼け色に燃える空から、綺麗な線を描いて流れ出しているんです。そして、それは汽車のすぐ傍を通り過ぎて、左手の空へと帰っていました。
「大きいね…」
それ以上、言葉が浮かんできません。夕陽の下の対岸が、随分と遠くに見えます。そのとてつもなく広い岸の間を、考えられないくらいたくさんの水が、とうとうと流れているんです。
地平へと隠れてしまいそうな夕日で、その川の水は黄金色に輝いています。目を開けて見ていられないくらい、眩しいんです。なんて綺麗なんでしょう。一時も静止すること無しに、光は次から次へと変化していくんです。そして、その輝きは、少し前の輝きよりも更に美しいものになっていました。
「…………」
アンジェレッタは何かを言おうとして…でも、やめてしまいました。何だか、声を出してはいけない気がします。こんなに大きくて、こんなに綺麗なのに…この川は、とても静かなんです。もしもアンジェレッタが口を開いても、きっとその声は押しつぶされて、この深い静寂の中に溶け込んでしまうことでしょう。
その時、窓枠に置かれていたアンジェレッタの小さな手を、温かなものが包み込んできました。見れば、ラッセンの手なんです。森に住んでいたためでしょうか。その手は、十歳にしては大きく、がっしりとしています。
(ラッセン……)
この夕焼け空のように、温かいんです。えぇ、本当に温かいんです…
さっきまで、アンジェレッタは『自分』が変わってきたような気がしていました。でも、このラッセンの手を見て思ったんです。本当に、自分は変わったんでしょうか? この手は、ラッセンの手の中にあることが《本当》なんです。なら、自分も、ラッセンのために変わっている限り、そのどれもが『アンジェレッタ』という本当の『自分』なんです。
……きっと…『自分』は、『ラッセン』のなかにあるのでしょう……
もう、自分が分からなくなることも、自分を探すことも無いはずです。いつでも…えぇ、そうですとも。いつでも、こんなに近くで見付けられるのですから…
「アンジェレッタ…」
優しい声がします。アンジェレッタは、夕焼けの茜色よりも、もっと鮮やかに頬を赤く染めながら、もう一方の手をラッセンの上に重ねていました。
「…ありがとう…いつも傍にいてくれて……《本当》にありがとう……」
そう呟くと、アンジェレッタは心の奥から流れ出す黄金色の想いのままに、そっと…でも、しっかりとラッセンの手を握り締めていました。
夕日が、川の向こうへと沈んでしまいます。でも、茜色は空に残り、もうしばらく、幸せな二人の姿を柔らかく照らし続けてくれました。
『夕陽の川辺』おわり