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6.クスノキの原

 アンジェレッタとラッセンが向かい合わせになって席に着いた瞬間、何の合図も無しに汽車が走り出しています。白い柱が並ぶ無人の駅舎は、北を巡る日輪の光に目映く照り映えながら、去っていく汽車の後ろ姿を静かに見送っていました。

 右手の窓からは、遠くまで虹の海が見えています。静かで深い潮の音色が、車内へと満ちてくるんです。アンジェレッタとラッセンはその音に誘われるように、一緒に窓辺に並ぶと、打ち寄せる七色の砂をいつまでも眺めていました。

 やがて、汽車は左へ……南へと緩やかに曲がろうとしています。少しずつ、虹色の波が遠ざかってしまいます。半分くらいまで昇った太陽の光で眩しく輝いている海原が、低い丘の向こうへと消えていこうとしているんです。

 七色の煌きが草々に完全に隠されてしまった時、アンジェレッタは少し悲しくなってしまいました。あんなに大きくて優しいものを、もう見る事は出来ないんです。

 黙って窓から離れ、座席に腰掛けると俯いてしまいます。その時、膝の上でしっかりと重ねられた小さな手に、力強い手がそっと加えれました。

「ラッセン…」

 黒い瞳が、励ますように覗き込んでくれます。アンジェレッタが悲しみに染まる目を上げると、ラッセンは更に手に力を込めてくれました。

「…ありがとう……」

 どうして、それだけしか言えないんでしょう。こんなにも、ラッセンは多くの『言葉』で話しかけてくれるのに……

「…アンジェレッタ。あの海は消えたりしてないんだよ。何処にでも…ここにだってあるんだ。僕には……アンジェレッタの中に、あの虹の海が感じられるんだよ……」

「そんな…」

 嬉しいんですが、それは違います。海があるとすれば、それはラッセンの中にあるんです。いつも、悲しい時に励ましてくれるラッセンこそ、アンジェレッタにとっては虹の海なんです。

 小さく頭を左右に振るアンジェレッタに、ラッセンはにこりと笑っていました。その目は、どれだけ否定しても、ラッセンがアンジェレッタをあの海だと思っている事を物語っています。

 アンジェレッタが、このもらいすぎの贈り物に口を開こうとした時、通路の向こう側から温かな声が聞こえてきました。

「虹の海は、あなたがた二人の中にあるのですよ」

「アンナさん…」

 二人の視線の先で、アンナさんは穏やかに微笑んでいます。

「それでいながら、海は『一つ』しかありません。アンジェレッタの中の海も、ラッセンの中の海も、『同じもの』なのです。それが《本当》なのだと、分かっているのでしょう? それを信じていればいいのです。《真実》は認められ、信じられるに値するものなのですから」

「……はい」

 二人は頷くと、互いに向き合いました。青と黒の瞳が相手を真っ直ぐに見つめています。

 次には、二人の頬には素晴らしい微笑が零れていました。


 海岸を離れ、汽車は青草の繁る草原を走っています。地平線が見える辺りまで、何処までも草の原は広がっているんです。白く霞む空の裾野まで満ち溢れている緑に、思わずアンジェレッタはみとれてしまいました。

 緑といっても、一つの色ではないんです。

「見て、ラッセン。綺麗な若草色…」

「本当だね。ほら、今見えてきた辺りは萌葱色だよ」

「その横は、金色に輝いているのね」

 黄緑や黄、白や深緑に浅緑…と、たくさんの色を見付けていきます。そんな楽しげな会話を運んでいく風によっても、草の色はどんどんと変わっていくんです。

 ずっと遠くまで広がっているのは、確かに同じ背丈くらいの草ばかりです。でも、よく探してみれば、小さな草だってあるんです。同じように見える草でも、その一つ一つが違った色を持っています。そして、だからこそ、これだけ集まればとても素晴らしい草原になるんでしょう。

 銀色の優しい風は、そんな青草の頭に少し触れながら、何処までも進み続けています。頭を撫でられた草が、陽光に煌いてそんな風を笑って見送っています。アンジェレッタには、その可愛くて愉しそうな声までが聞こえてくるようでした。

 ベッドで横になっていた部屋の外には、こんな素敵な風景があったんです。アンジェレッタには、これらは全部、本の中の想像の出来事でした。

 でも、今は違います。こんな素晴らしい景色を見ているだけでなく、実際に入っていく事も出来るんです。

 ラッセンと一緒に……

 アンジェレッタは思うんです。景色はとても美しいものです。でも、ラッセンが隣りにいるからこそ、同じように傍で笑ってくれているからこそ、この風景は素敵なものになっているんです。えぇ、きっとそうです。ラッセンがいなければ、この美しい風景も、ただの『絵』でしかなかったでしょう……

 ラッセンとは、つい数ヶ月前に逢ったばかりのはずです…不思議なんです。どうやって、それまで自分は喜びを感じていたのでしょうか…? アンジェレッタには、どうしても分かりませんでした。だいたいにして、ラッセンのいない『時間』そのものが信じられないんです。ラッセンはいつでも傍にいてくれます。それが《本当》なんです。きっと、ラッセンと逢うまでの時間は間違いだったんでしょう。

 そのラッセンは、アンジェレッタの横で窓の外を見つめています。アンジェレッタはそんなラッセンを見上げると、ずっと、いつまでも目を逸らそうとはしませんでした。


 風にそよぐ緑の上には、何処までも澄み渡った青空が広がっています。とても深くて、どんどんと吸い込まれてしまいそうなくらいに綺麗なんです。そんな青い天井に、薄い雲が、まるで刷毛ではいたように一筋だけ描かれていました。

 ラッセンがそんな青空から視線を下に戻した途端、急に目の前がぱぁーっと黄一色に染め上げられました。

「うわっ!」

「まぁ…」

 アンジェレッタも青い瞳を大きくすると、じっと新しい風景を眺めています。

 草原が、一瞬にして菜の花に覆われたんです。鮮やかに燃え上がるような黄色い花が、地平線の向こうまで、本当に、余す所無く満ち溢れているんです。二人の目の前で、太陽に照り輝く金色の花は、緩やかにうねりながら何処までも続いていました。

「綺麗だね…」

 ラッセンには、それだけしか呟けません。いいえ、アンジェレッタなんて、何かを口にする事も出来なかったんです。

 喜びを満面にたたえているアンジェレッタの横顔を見付けると、ラッセンは優しく微笑みながら、そこから目を放そうとはしませんでした。この幸せな表情を、もう二度と曇らせてはいけません。病気なんて、二度とさせるもんですか。アンジェレッタは、いつまでもこうして喜びと楽しさに抱かれているべきなんです。

 純真な黒の瞳が、強い決意に染まります。ラッセンは、もうしばらく優しいアンジェレッタの横顔を見つめた後、視線を窓の外に向けました。

 見れば、前方から大きなクスノキが近付いてきています。なんて大きいんでしょう! 一面の菜の花から顔を覗かせている、短い草の生えた丘の上で、そのクスノキは堂々と太陽に向かって両手を広げて立っていました。

 濃い緑色の葉と、黒い葉影が見事な模様を描いています。その絵柄の中に、時々、風のいたずらで陽光に煌く銀の閃光が加わるんです。それらクスノキが纏う素晴らしい絵は、考えられないくらいに太い幹によって、しっかりと支えられていました。

 何ものにも負けない、力強い雰囲気が辺りに放たれています。でも、何処か優しさも感じるんです。風にゆっくりとしなる枝先のためでしょうか、それともそこから流れ出している涼しげな音色のためでしょうか。

「……静かね…」

 アンジェレッタは、そう囁いています。風は、心地好い音楽を運んでくれているんです。それは、確かに聞こえています。でも、だからこそ…でしょうか。とても奥深いところで、沈黙がこの風景を包み込んでいる気がします。それは恐怖や悲しみを感じさせるものではなく、二人に安らぎと穏やかさを与えてくれるものでした。

 あのクスノキの下まで、どうにかして行けないものでしょうか。

 ラッセンは、あの木の力と優しさに触れてみたかったんです。静けさに抱かれてみたかったんです。

 そう思った瞬間、ラッセンは汽車の天井からさらさらと音が降ってくる事に気付きました。体には、光の泡粒が幾つも描き出されています。

「え…?」

 思わず見上げた先では、緑濃い無数の葉が重なり合っていました。風に揺れるたびに、その緑色の光は濃くなったり薄くなったりしています。そして、その枝葉の隙間から零れた光が、ラッセンの体に丸い泡を作り出していたんです。

 腰を下ろしている丘は、短く丈の揃った草に包まれクスノキを囲んでいます。丘の周りには、汽車の窓から見えていた可愛らしい菜の花が、ずっと遠くまで見えていました。その菜の花にそっと触れてきた風は、ラッセンの頭上で葉擦れの音を奏でては過ぎていきます。落ちてくる澄んだ音色の、涼やかで綺麗な事といったら! アンジェレッタの笑い声くらい、素敵なんです。

 丘に座って、笑いながら葉影に抱かれていたラッセンは、その時ふと、アンジェレッタがいない事に気付きました。とても驚くと同時に、悲しみと恐ろしさが胸の中に湧き上がってきます。さっきまでの楽しい気持ちなんて、もう何処かに消え去っていました。

 アンジェレッタがいなければ、この素晴らしい風景も意味を持たなくなるんです。今、ラッセンは独りでした。これからも、ずっとそうなんでしょうか……

 いいえ。アンジェレッタがいなくなるなんて、そんな事はありえません。そんな世界は、《嘘》でしかないんです。アンジェレッタが一緒にいるからこそ、頭上の青空は澄み切っているんです。アンジェレッタと見ているからこそ、菜の花は鮮やかな愛らしい黄色に染まっているんです。アンジェレッタといるのでなければ、このクスノキも力と優しさを失ってしまい、沈黙は重く苦しいものになってしまうでしょう。

 ラッセンは、大急ぎでアンジェレッタを探そうと立ち上がりました。その時、腕に細くしなやかな指先が絡まってきたんです。その温かな感覚に想いを寄せた瞬間、ラッセンは汽車の中に座っている自分を見付けていました。

「ラッセン…よかった……」

 目の前で、アンジェレッタが微かに濡れた目をしています。

「アンジェレッタ…?」

 茫然としているラッセンに、アンジェレッタは心を落ち着けると何とか笑う事が出来ました。

「ごめんなさい…ラッセンが急にいなくなったような気がしたから、わたし……何でもないの、ごめんなさい…」

 でも、白い指先は、いっそうしっかりとラッセンの腕に掴まってきます。ラッセンは、そのいじらしい指先を自分の手で包み込むと、そっと微笑んでいました。

「ありがとう…アンジェレッタ。……いつまでも、一緒だよ」

「ラッセン……」

 えぇ、そうですとも。これからは、ずっと一緒にいるんです。いつまでも、何処までも、アンジェレッタと一緒にいるんです……

 美しい赤に頬を染め上げているアンジェレッタは、恥ずかしそうに、でも嬉しそうに微笑んで頷いてくれます。その時、二人は『何か』に…《声》に導かれるように、共に窓の外を覗いていました。

 大きく緑の翼を広げたクスノキが、菜の花の海の真ん中で、後ろへ遠ざかっていこうとしています。そのクスノキが作る木陰には、今、一人の女性がたたずんでいました。

「アンナさん…!」

 えぇ、そうなんです。あの透き通るような金髪は、アンナさんに間違いありません。

 アンナさんは、透明なくらいに白くて細い両腕を、静かにそっとクスノキへと伸ばしています。その調った美しい指先が、歳を経た幹まで届いた瞬間……

「あっ!」

 アンジェレッタもラッセンも、思わず声を上げてしまいました。

 クスノキの枝先に、幾つもの白い花が咲き始めたんです。六枚の花弁を持つ可憐な花々が、次から次へと、無限に咲いていくんです。雪を散らしたように、白く小さな光は緑を背にして眩しく輝いています。

 なんて綺麗なんでしょう。

 なんて優しいんでしょう。

 胸の奥から、不思議な音色が湧き起こってくるようです。その心の高鳴りに合わせて、アンジェレッタの瞳からは、柔らかな真珠が溢れ落ちていました。

 クスノキは、次第に小さくなっていきます。でも、二人は互いに手を握り締めたまま、いつまでもその姿を見送って目を放そうとはしませんでした。

                                                                       『クスノキの原』おわり


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