5.虹の海
微かな、心地好い揺れが伝わってきます。
その震動に誘われるようにそっと目を開けてみると、柔らかな春の陽射しが優しく、青い瞳の中へと飛び込んできました。
右手の窓から、その暖かな光は射してきています。斜めに走る光の帯は、そのまま車内に入ると、古い木の板で出来た床の上に広がり、瞬いていました。
汽車の天井には、昼間でしたが、夕陽色をした炎のランプが揺れています。左右に振れるランプをしばらく見つめた後、少女は白くしなやかな指先で、自分が腰掛けている座席を触ってみました。少し、堅い感じがします。でも、座り心地はそれほど悪くありません。
…ここは、いったい何処でしょう。この汽車は、いったい何処へ行こうとしているのでしょうか……
十二歳の少女が考え込んでいる間にも、汽車は音も無く線路の上を滑っていきました。少女が座っている窓からは、鮮やかで若々しい緑をした草原が、ずっと遠くまで広がっているのが見えています。風の清らかな腕が、その草々の頭をそっと撫でては通り過ぎているんです。その様子がとてもはっきりと見えたので、遠くの景色なのに、静かな音色が車内にまで聞こえてくるようでした。
ふと、優しい瞳が向かいの席に移ります。その時、突然、そこには一人の少年の姿が現れていました。
少年は、じっと窓の外を見つめています。吹き込む風に短い黒髪が乱れ、正直な色をたたえた黒い瞳が、そっと細められます……
…えぇ。確かに、以前にこの少年を見た事があります。でも、その時はとても小さかったので、もっと幼く感じられたんです。十歳だと聞いていたのに、何だか、今、目の前にいる少年は、随分と大人びて見えます。
じっと見つめていると、少年がその視線に気付き、振り返って微笑みかけてきました。
「どうしたの? アンジェレッタ」
白くて雪のようなアンジェレッタの頬が、ほんのりと赤く染まっていきます。胸元まで赤くなっているのが自分でも分かったので、アンジェレッタは思わずうつむいてしまいました。
胸がどきどきしています。とても大きな音で、今にもラッセンに聞こえてしまいそうなんです。アンジェレッタは、その音を少しでも抑えようと、可愛い両手を重ねて胸元に押し付けました。
ラッセンも、健康そうなアンジェレッタから照れたように目を逸らしていました。いつも見ていたアンジェレッタよりも、今、目の前にいるアンジェレッタの方が可愛く思えるんです。それは、同じ大きさになっているからかも知れません。ベッドで横にならずに、自分と同じように生き生きとしているからかも知れません。でも、ラッセンにとってはどちらでもいい事です。アンジェレッタがこうして元気でいる…それが、ラッセンにとっては一番素敵な事でした。
二人とも、ずっと黙り込んでいます。でも、声にしない黄金色の言葉は、無数に二人の間を飛び交っていました。
だからこそ、二人は少し恥じらいながらも…やがて、真っ直ぐに互いを見つめると、幸せそうに笑みを交わせたのです……
「ほら、見て。ラッセン」
窓の外をずっと見ていたアンジェレッタが、不意に草原の向こうを指差しました。ラッセンも見てみると、そこには七色の光が次々と生まれては流れていたんです。
うっすらと輝きを弱めた最初の光は、次に来た波に飲み込まれてしまいます。でも、その奥からは、どんどんと新しい光の帯が走り始めているんです。
「何だろう?」
「虹の海ですわ」
急に後ろから声がしたので、二人は驚いて振り返っていました。
通路の向こう側の席に、いつのまに入ってきたのか、一人の女性が座っています。透き通るような金髪を背に流しているその女性は、太陽のような深みのある金色の目で、二人ににこりと微笑んで言いました。
「あの浜辺では、虹の砂が虹色の海と溶け合っているのですよ」
何だか、何処かで耳にしたような声です。優しく包み込んでくれるような、温かくて懐かしい声なんです…
「あの…あなたは…」
ラッセンがようやく口を開くと、その女性は僅かに微笑を深めて応えてくれました。
「私が誰であるかなど、《本当》に理解出来る方はいません。ですから、私は幾つもの名前を戴いているのです。ある所では、私はニーヴとも呼ばれています。ですが、ここではアンナと呼んで下さるのが一番似合っているのでしょうね」
「アンナ、さん…あの、ここは何処なんですか?」
少し、声が小さくなってしまいます。アンジェレッタには、このアンナさんと話をする事が、とても凄い事のように感じられたんです。僅かな一言が、とても重いものになりそうなんです。
「『ここ』と呼ばれる場所は、『時間』の中でしか存在しないものです。ですから、フロフスには『ここ』と言う場所はありません。いいえ、『在る』や『無い』といった言葉も、《影》の世界での意味とは異なっているのです」
ラッセンもアンジェレッタも、アンナさんの言っている事はよく分かりませんでした。でも、その『言葉』は深く胸に刻み込まれていたんです。それは、きっと、分かった事と同じなのでしょう。何かを知る事は、『時間』に縛られた行為ではないのですから…
その時、少しずつ汽車は速度を緩め始めていました。
やがて…小さな駅に着くと、静かに止まってしまいます。
「あっ…」
白く眩しいほどに輝いた駅の柱には、『虹色海岸』と書かれた看板が打ち付けられています。見れば、虹色に光る波が、これも虹色にさんざめく砂浜へと、すぐそこまで打ち寄せているんです。二人の耳には、優しい潮騒がはっきりと聞こえていました。
「行ってみようよ、アンジェレッタ!」
「でも、降りてしまって大丈夫なの?」
アンジェレッタが不安そうにラッセンに尋ねているのを見て、通路の向こうにいたアンナさんは静かな笑みを零して言いました。
「大丈夫です。動く時には、その知らせがあるものです。あなたがたは、その《声》を聞けるはずですよ」
「さぁ、行くよ! アンジェレッタ」
アンナさんの言葉を考える間も無く、アンジェレッタはそのしなやかな指先をラッセンに預けていました。
通路を走り、汽車の扉を抜けて温かな光の世界へと飛び出しながら、アンジェレッタは不思議な気持ちで自分を引っ張ってくれるラッセンの手を見つめていました。
今思えば、こうして手を握る事も初めてなんです。ラッセンが小さかった頃には、いつもアンジェレッタがラッセンを運んだり、導いたりしていました。でも、これからは違うんです。アンジェレッタは、ラッセンに身を任せてもいいんです。
また、胸がどきどきしてきます。とっても素直な気持ちで、アンジェレッタはこの素敵な出来事を受け入れていました。
駆けていく二人の足下では、小さな砂粒が高い音色を放ちながら、次々と輝きを強めています。それは七色の渦を作ったかと思うと、並んでいる二人の足跡をゆっくりと順番に消していきました。
「広いんだねぇ」
波打ち際まで来ると足を止め、ラッセンが驚いたように呟いています。森で育ったラッセンは、海を想像の中でしか見た事が無いんです。いいえ、それはアンジェレッタにしても同じです。アンジェレッタだって、本の中の海しか知らなかったんですから。
とても静かな雰囲気です。これだけ大きいのに、少しも恐さを感じないんです。いいえ、それどころか、アンジェレッタはこの虹の海に優しさを覚えていました。手を差し伸べたら、そっと握って励ましてくれるような気がします。きっと、泣きそうになったら、慰めるように自分の体をそっと包み込んでくれるでしょう…
…えぇ…ラッセンの言葉のように……
駄目です。どうしても、どきどきしてしまいます。真っ赤になっている自分を知られないように、アンジェレッタはラッセンの手から指を抜いて、砂浜にしゃがみこんでしまいました。
七色の線がすぐ足下まで滑ってきては、さらさらと美しい音を届けて、また沖合いへと戻っていきます。その波に手を浸したかと思うと、すぐにアンジェレッタは驚いて両手ですくいあげていました。
「見て、ラッセン」
「どうしたんだい?」
アンジェレッタは、両手を高く差し上げています。その中を覗き込むと、ラッセンも驚いて叫んでしまいました。
「この海も、砂で出来てるんだ!」
えぇ、そうだったんです。アンジェレッタがすくいあげたのは水ではなく、浜辺のものよりもずっと細かな砂粒だったんです。
指の隙間から溢れ落ちていく砂が、小さな可愛い虹を作っています。よく見れば、一粒一粒が七色に次々と変化しているんです。
ラッセンもその波打ち際に座り込むと、自分の手に砂を集めています。並んで腰を下ろした二人は、いつまでも飽きる事無く砂粒の光の誕生を見つめていました。
どれだけの時間が流れたのでしょう。
いいえ…確かに太陽は半分くらいまで昇ってしまいましたが、何だかここには『時間』なんて無いような気がします。太陽は、きっと自分の思い通りに動いているだけで、『時間』なんて気にしていないのでしょう。
アンジェレッタは、雪よりも白くて細い…でも、健康そうな足で砂浜を走っています。虹色の波を追いかけたかと思うと、次には楽しそうに逃げているんです。その可愛らしい唇からは明るい笑い声が溢れ出し、澄んだ青い瞳はきらきらと輝いていました。
黒い髪を風に遊ばせて、太陽の柔らかな陽射しを浴びているアンジェレッタを見ながら、ラッセンは眩しそうに目を細めていました。ベッドに横たわっていた時のアンジェレッタも、ラッセンにはとても大事でした。でも、こうして元気に笑ってくれるアンジェレッタは、もっと大事に思えるんです。なんて素敵な微笑みなんでしょう! ラッセンには、アンジェレッタが本当に天使になったのかと思えるほどでした。
「ラッセン…」
そっと見守ってくれる黒い瞳に気付いて、アンジェレッタはふと足を止めてしまいました。それでも、柔らかな視線は動こうとしません。不意に白い頬に赤みがさし、アンジェレッタは恥ずかしそうに目をうつむけると囁きました。
「そんなに見ないで…わたし、何処かおかしい…?」
「ううん、そんな事ないよ。とっても綺麗だよ、アンジェレッタ」
ラッセンの真剣で力強い言葉に、アンジェレッタはどうしていいか分からないほど真っ赤になってしまいました。でも、嬉しいんです。とても嬉しいんです。
「ありがとう……」
でも、それだけしかアンジェレッタには呟く事が出来ませんでした…
ラッセンだって、素敵なんです。小人だった時も大切でしたが、今はもっと、アンジェレッタにとってラッセンは大切な人でした。でも、それがどうしても言えないんです。伝えたくて…知ってもらいたくて……
でもやっぱり、アンジェレッタには、まだ何も言えませんでした。
何となくアンジェレッタもラッセンも黙ってしまった時、突然、二人は同時に『何か』を聞いたような気がしました。いいえ、耳に聞こえたのではありません。胸の奥の方から、静かで動く事も少ない心の下の方から、その《声》は届いたんです。
「さぁ、戻ろうか、アンジェレッタ。汽車が出るみたいだよ」
「えぇ」
すっと右手を出してしまいます。自分がそんな仕草をしている事にアンジェレッタが気付いた時には、もうその手はしっかりとラッセンが握ってくれていました。
でも、それが自然な事のように思えます。えぇ…この手は、きっとラッセンの中にある事が《本当》なんです……
虹色の浜辺を走りながら、アンジェレッタは幸せな微笑みをいつまでもその頬に浮かべ続けていました。
『虹の海』おわり