4.出発
今日は、朝から雨が降り続いています。赤や黄に塗り分けられた森も、これではすぐに、たくさんの葉を散らせてしまうことでしょう。
大好きな青空も見られず、少し疲れている気がします。そんなアンジェレッタが白い寝間着を着てベッドに横たわっていると、ラッセンが床から話しかけてくれました。
「僕、もう帰るよ。ゆっくり寝たほうがいいよ、アンジェレッタ」
「えぇ…ありがとう、ラッセン」
いつも、ラッセンは心配して気遣ってくれます。
何だか弱々しい微笑みに見送られながら、ラッセンは本棚の隙間へと戻ってしまいました。
それから、すぐの事です。
久し振りにエルサ姉さんの髪飾りを取り出して見ていたラッセンは、不意に襲ってきた激しい震動に驚いて立ち上がりました。
(どうしたんだろう?)
あれは、玄関が勢いよく閉められた音です。
……嫌な予感がします。胸の奥が苦しいんです。
「アンジェレッタ…!」
急いで扉を抜けると、ラッセンは二階へと向かっていました。
古いネズミの穴を抜けると、枕元の灯りが見えてきます。本棚の影に隠れながら覗いてみると、アンジェレッタが苦しそうな声を上げているんです。その横で、お母さんが真っ青な顔をして座っていました。
きゅっと握り締めたアンジェレッタの愛らしい手を、必死になってお母さんも握っています。その時、息も出来ずにいるラッセンの耳へと、お母さんの呟きが聞こえてきました。
「アンジェレッタ…頑張って、お願い…フィオラのように、私達の所から去ったりしないで…」
その言葉にはっと我にかえると、ラッセンは外に出ようとしました。発作なら、あのシニアスの花が、もう一度役に立ってくれるはずです。
でも、その時、玄関に馬車が到着しました。偶然にも帰る途中だったお医者さまを、お父さんが見付けて呼び止めたんです。二人が走り込んでくる音を耳にすると、再びラッセンは部屋の中へと戻りました。
すぐに、お医者さまはアンジェレッタを診察してくれます。薬を調合して、注射もしてくれます。
おかげで、しばらくすると、アンジェレッタの呼吸も随分と楽になってきました。
「発作の間隔が短くなっています。もう、ベッドから動かしてはいけませんよ。きちんと守っていただかなくては、私もこれ以上はお約束出来ません」
「そんな……」
お母さんは、顔を両手で覆うと泣き出していました。本棚の影にいたラッセンも、とても大きな悲しみに泣きそうな顔をしています。もう、アンジェレッタは朝の挨拶さえ出来なくなるんです。フレッドさんの音楽も聞く事が出来ません。それは、アンジェレッタにとって、どれだけ辛い事でしょう…
「…いつも、覚悟はしています…全ては御心のままなのですから…」
お父さんはお母さんを支えながら、静かにお医者さまにそう言いました。
黙って、お医者さまも頷き返しています…
…みんな、もうそれ以上は何も言いませんでした……
雨の音だけが、窓の向こうから染み込んできます。でも、何処か静かなんです。深くて重い沈黙が横たわる中、ラッセンの心は鋭い痛みにずっと締め付けられていました……
翌朝には、雨は止んでいました。でも、青空の欠けらさえ見付けられません。まだ、灰色の雨雲が、空一面を覆いつくしていたんです。秋の弱まった日差しでは、とてもその分厚い毛布を剥ぐことは出来そうにありませんでした。
もう、アンジェレッタは目を覚ましています。上半身を起こす元気も無いのですが、それでもラッセンが声をかけると嬉しそうに応えてくれました。
「気分はどう? アンジェレッタ」
「ありがとう…ごめんなさい、心配をかけてしまって…」
「いいんだよ。そんな事、気にしないで」
落ち着いた声です。残念ながら床の上からでは顔は見えませんが、もう大丈夫なのでしょう…
でも、油断は禁物です。いつ、また発作が起こるかも知れないんです。
「今日は、もう帰るよ。無理をしたらいけないからね…」
「待って、ラッセン……」
帰ろうとしたラッセンの背中を、アンジェレッタの真剣な声が引き留めました。
「どうしたの?」
「お願い…聞いて欲しいの…
ラッセン……わたし、もう少ししたら…神さまのところに行くかも知れないわ…」
「アンジェレッタ!」
驚いて叫ぶラッセンに、アンジェレッタは静かに続けています。
「ううん…分かるの。もうすぐ、フィオラお兄さまのところに行くんだ、って…でもね、ラッセン……わたし、悲しくなんてないの…生まれてすぐに神さまに召されて、会ったことも無いけれど…お兄さまの住んでいらっしゃるところに行けるんだもの…」
「アンジェレッタ……」
「嬉しいの…だから、ラッセン……
…その時がきたら、笑って欲しいの…喜んで欲しいの…ラッセンの、いつもの元気な笑顔で………」
「出来ないよ! 出来るはずないじゃないか!」
床の上から、震える事が聞こえてきます。アンジェレッタは流している涙を覚られないように、小さな声で呟きました。
「お願い、ラッセン……わたしのために、笑っていてね……」
「アンジェレッタ…」
ラッセンは、黒い瞳から溢れてくる涙を拭おうともしませんでした。エルサ姉さんがいなくなって、今度はアンジェレッタまでもがいなくなってしまったら…いったい、ラッセンはどうやって生きていけばいいのでしょう……
…いいえ、アンジェレッタがいなくなって……生きていたいでしょうか…
「お願いね…」
そう言った瞬間、アンジェレッタは少し咳き込んでしまいました。
「大丈夫かい? アンジェレッタ!」
「え…えぇ…」
激しく息を吸い込みながら、アンジェレッタは抑えていたものを吐き出すように、泣きながら言葉を押し出していました。
「本当は、一度でいいから…お兄さまのお墓に行きたかったの…お兄さまのところに行ける事を、お話したかったのに……」
物心ついてからは、アンジェレッタは勿論お墓など行けなかったんです。でも、最期の望みとなりそうな今、一度だけでも報告をしに行きたかったんです…
「わがままな夢だって、分かってるの…でも……」
「それ以上、何も言わないで! すぐに、誰かを呼んでくるから…」
「ううん! 大丈夫…大丈夫だから……」
全身に力を込めて、アンジェレッタは耐えていました。必死になって、頑張っていたんです。
…少しだけ、落ち着いてきます。
アンジェレッタは、床の上で心配と不安でいっぱいだろうラッセンに、そっと優しく囁いていました。
「ラッセン、本当に、いつもありがとう…いつも、ラッセンが傍にいてくれたから…わたし、楽しく笑っていられたの……
大好き、ラッセン……」
「…僕もだよ、アンジェレッタ……」
静かな、真剣な声が届けられます。その言葉が嬉しくて、アンジェレッタは発作なんて忘れてしくしくと泣き出していました。
「ありがとう…ありがとう……」
小さな呟きだけが、いつまでもアンジェレッタの唇から紡がれていきます…
いつまでも…いつまでも……
しばらくして、アンジェレッタは全てを告げられた事で安心したのか、静かな眠りへと入っていきました。その可愛らしい寝息を確かめると、そっと、ラッセンは本棚の隙間に向かい、部屋を抜け出しました。
自分の部屋に戻ると、ラッセンは椅子に座ってずっと考え込んでいました。手には、エルサ姉さんの髪飾りが見えています。刻まれている細工を意味も無く眺めながら、やがてその唇からは微かな呟きが零れ出してきました。
「アンジェレッタの代わりには…なれないよね……」
ラッセンにも、分かるんです。もしも……もしも、です……自分がアンジェレッタのように死を覚悟したなら…やっぱり、ラッセンもエルサ姉さんの所に行きたくなるでしょう。やっと、姉さんの所に行けるよ…そう言いたいんです。
でも、アンジェレッタには、それが出来ません。アンジェレッタにとって、それがどんなに辛い事か…どうして、アンジェレッタだけ、あんな思いをしなくてはならないんでしょう…
確かに、ラッセンなら危険とは言え、行く事は出来ます。
でも……
ラッセンが伝えても、お兄さんは喜んでくれるでしょうか。見た事も無く、近くに感じた事も無い人に、アンジェレッタの想いを自分が《全て》伝えられるとは思えないんです。アンジェレッタの願いが真剣であるからこそ、ラッセンは迷っていました。
前に、ラッセンはアンジェレッタの祈りを聞いてもらいたくて、教会まで行った事があります。でも、それはアンジェレッタの祈りそのものを伝えるつもりではなかったんです。アンジェレッタが祈っている事を、ただ知ってもらいたくて…何度も頼んだんです。アンジェレッタの代わりが出来るなんて、ちっとも思いませんでしたから…
でも、今度は少し違う気がします。アンジェレッタの代わりに、アンジェレッタの想いを直接伝えなくてはならないんです。出来るはずがないんです。ラッセンは、アンジェレッタが好きです。大好きです。でも…だからこそ、出来ないんです……
薄暗くなっている部屋の中では、一本のろうそくだけが瞬く光を放っています。その揺れる炎に照らされて、一瞬、ラッセンの手の中の髪飾りが銀色に輝きました。
その時、ふと思ったんです。エルサ姉さんなら、どう受け止めるでしょうか…
ラッセンは、エルサ姉さんの柔らかな笑顔を思い出していました。きっと、エルサ姉さんなら…誰か他の人が行ってラッセンの気持ちを伝えても、真剣に聞いてくれるはずです。そして、伝えてもらって…例え、その内容が悲しいものであっても…喜んでくれるはずなんです。
えぇ……アンジェレッタの想いの《全て》は持っていけません。ラッセンにとって、それはあまりにも重すぎるんです。でも、必死になって話せば、アンジェレッタの気持ちの僅かだけでも伝わるかも知れません。少なくとも、アンジェレッタが伝えたがっていたと…それが出来なくて、ずっと悲しんでいたんだと…それだけはラッセンにも話す事が出来るんです。
ラッセンは決めてしまいました。今すぐ、崖の上にある公園墓地へ出かけるんです。
椅子から立ち上がると、ラッセンは手にした髪飾りを少しの間見つめていました。そして、それをポケットに仕舞い込むと、扉を抜けて家の外へと向かいます。もう、迷いなんて何処にもありません。
開かれた扉からは、微かな風が吹き込んできます。それは、誰もいなくなった部屋を一巡りした後、ろうそくの炎をそっと消し去ってしまいました…
東の空には、少し明るさが戻ってきています。このまま雲が薄くなれば、夜には星が見えるかも知れません。
でも、風はとても強く、ラッセンは吹き飛ばされないように用心しながら石や草の陰を歩いていました。おまけに、昨日までの雨で動きにくいんです。すぐに、ラッセンは泥で体中が黒く汚れてしまいました。
何度も上がっているんですが、今日ほどこの坂道が辛いと思った事はありません。でも、アンジェレッタのためなんです。アンジェレッタは、もっとベッドの上で苦しんでいるはずです。
ですから、ラッセンは弱音も吐かず、真剣な顔で石畳の小道を教会に向かって上り続けていました。エルサ姉さんが、ラッセンの今の様子を見たら、きっと、とても驚いて…でも、心から喜んでくれるでしょう。
ラッセンの顔は、もうすっかり大人のそれになっていたのです……
獣に襲われないように、気を張り詰めて…でも、必死になって急いで、ようやく教会にたどり着いた頃には、もう頭上の雲も、随分と淡くなっていました。西の方を見ると、空が少しだけ明るく茜色に輝いています。もう夕方なんです。
大きく肩を上下させながら、ラッセンは大きな岩の陰に隠れると、初めて少し休みました。公園墓地は、教会の裏手にあります。でも、そこに行くには崖の端を歩かなくてはなりません。距離は短いのですが、ラッセンにしてみれば、とても危険な所なんです。
呼吸が戻ると、すぐに立ち上がります。手足は痛みますが、ベッドの上のアンジェレッタを思い出すと、とても休んでなんかいられません。
風は少しおさまりかけています。ラッセンはすぐに教会の東側を回ると、公園墓地へと向かう細道に入りました。
ここで身を隠してくれるものは、まばらな草だけです。それも丈が低いので、獣からは守ってくれないでしょう。ラッセンは足を早めながら、一気にここを通り抜けてしまうつもりでした。
暗がりの中、遥か右下にはロートゥ川が見えています。昨日の雨のためでしょうか、水は茶色く濁り、激しく渦を巻いています。そこまでは、何も掴まる所が無い垂直の壁なんです。でも、ラッセンは恐いとも思いませんでした。ただひたすらに、墓地に着いてアンジェレッタのお兄さんに報告する事だけを考えていたんです。
不意に、左手の方で草が鳴っています。一瞬、ラッセンが立ち止まってそちらを向いた時……
…凄まじい突風が、ラッセンの体を持ち上げていました……
「うわぁぁー!」
あっと言う間の事だったんです…本当に、あっと言う間の事だったんです……
悲鳴は…ただ、空しく川に向かって落ちていくだけでした………
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「アンジェレッタ、気分はどう…?」
お母さんはアンジェレッタの簡単な夕食を手に、そっと静かに部屋の扉を開けていました。
でも、返事はありません。
薄暗い空気の中で、ベッドに横になっている姿が見えています。…眠っているのでしょうか。
お母さんが近付いてみると、顔にはとても穏やかな微笑みが浮かんでいました。とても、幸せそうなんです。見ている者までが、胸の中を温かくしてもらえるような、そんな優しい笑顔をしているんです。
お母さんは、少し涙ぐみながらアンジェレッタの額にキスをしようと身をかがめました。でも、その時、何かがおかしいことに気付いたんです。顔を寄せても、呼気が感じられなかったんです!
見れば、幼い胸も上下に動いていません…
夕食の入った器が、力無く床へと滑り落ちていきます。激しい音が鳴り響いた直後、お母さんは鋭い悲鳴を上げて部屋を飛び出していました……
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お父さんに呼ばれて、すぐに隣町からお医者さまが来てくれました。でも…もう、何も出来なかったんです……
お母さんが気も狂わんばかりに泣き続けています。その後ろで、お父さんは立ち上がったお医者さまに頭を下げていました。
「…全ては御心のままに…アンジェレッタは神に望まれ、召されたんです…」
黙って、お医者さまは頷きました。そして、もう一度アンジェレッタを振り返ります。
「…不思議な笑顔です…まるで、《全て》をやり終えたような…そんな、安らかさを感じます……」
しばらくして流れ出した言葉の後、部屋には痛ましい泣き声だけがいつまでも残り続けていました…
…………………………………………
「うっ…ん……」
「気が付いたかい?」
静かな声が聞こえてきます。ラッセンは、その言葉にうながされるように、そっと黒い瞳を開きました。
昇り始めた月が、銀色の腕を伸ばしています。その光の波を背にして、大きな人影がラッセンを覗き込んでいました。
「あれ…僕…」
えぇ、崖から落ちたはずなんです。その証拠に、すぐ近くにある茂みの向こうからは、ロートゥ川の荒々しい、かみつくような流れの音がしています。
でも、何処にも怪我はしていません。いいえ、体中の痛みや疲れも無くなっているんです。手足の泥までが綺麗に消えていました。
「思ったよりも、早く目が覚めて安心したよ」
そう言って、頭上から見下ろしている人影は楽しそうに笑いました。ふと、その笑い声がアンジェレッタに似ている気がして、ラッセンは改めてこの人間を見上げました。
月明かりでも、黒髪と青い瞳は分かります。十五歳ほどでしょうか、とても落ち着いた雰囲気があるんです。どうしてかは分かりませんが、ラッセンはこの若者を危険だとは思いませんでした。
「僕はフィオラ。君は?」
「え? あっ、ラッセン…」
「ラッセンか。よろしく」
差し出された指先を両手で包んだ時、初めてラッセンは大切な事に気付いて叫んでいました。
「フィオラ? じゃ、じゃぁ、アンジェレッタのお兄さんなんですね?」
「あぁ、そうだけど」
フィオラも驚いた顔をしています。そんなフィオラに、ラッセンは急いでここまで来た訳を話していました。
「アンジェレッタが、とても会いたがってるんです。話をしたがってるんです。あなたの所に行けるんだ、って……それだけを伝えたくて……ずっと、ずっとアンジェレッタはそう願い続けてきたんです。でも、アンジェレッタはもう部屋を出る事も出来ないから…
僕には、とてもアンジェレッタの想いを《全て》伝える事なんて出来ません。でも、アンジェレッタが心から悲しんでいる事だけは、知ってもらいたかったんです。
もう…これが、僕に出来る……アンジェレッタの最後の願いになるかも知れないんです……」
泣きながら、ラッセンは話し続けています。涙は真剣な光を宿す黒い瞳から次々と溢れ出し、精悍な頬を伝い落ちていくんです。でも、ラッセンはそれを拭おうともしませんでした。ラッセンは、男の子です。でも、泣く事が全て悪い事とは限らないんです。自分の想いのままに語り続けるラッセンは、もしかすると泣いている事すら気付いていないのかも知れません…ラッセンはただ、自分の想いに正直に振舞っているだけなんです……
涙を流しながら…でも、静かに話し続けているラッセンを、フィオラは温かく見守っていました。とても柔らかな光を映している青い瞳は、しっかりとラッセンの『言葉』を受け取っています…
「…お願いです…アンジェレッタの願いを叶えてあげて下さい……」
「ラッセン…」
濡れた瞳は、じっとフィオラを見上げてきます。その視線に対して力強く頷くと、フィオラはポケットから一枚の紙を取り出しました。
「なら、これを君の手から、アンジェレッタに渡してくれないか。これを持っていれば、必ず会えるから、と…
そして、僕はいつまでも待っているから…そう、伝えてもらいたいんだ」
「うん!」
勢いよく、頷いています。ラッセンはその大きな紙切れを受け取ると、何とか小さくして髪飾りの入っているポケットに一緒に仕舞いました。
すっかりと晴れ渡った夜空から、月は四方へ銀の矢を放っています。その美しくも静かな矢を浴びながら、ラッセンはフィオラにスイールの町の入り口まで運んでもらいました。
「じゃぁね、ラッセン」
「うん、じゃぁね!」
きっと、フィオラはアンジェレッタの想いを分かってくれたはずです。その事を早くアンジェレッタに知らせたくて、ラッセンは大きく手を振ると、すぐにフィオラに背を向けてしまいました。
銀色の輝く腕は、フィオラの体をゆっくりと包み込んでいきます。ちぎれた雲の一片がその月明かりを弱めた時、フィオラの体は薄れていく光の中へと溶け込み、やがて見えなくなってしまいました。
…………………………………………
月の光は、アンジェレッタの部屋の中にも射し込んでいます。
今は、もう部屋には誰もいませんでした。お医者さまは帰りましたし、お父さんはお母さんを支えて下りてしまったんです。斜めに覗き込んでいる月の光は、ベッドの上のアンジェレッタだけを優しくそっと照らし出していました。
「アンジェレッタ!」
本棚の隙間から、声が飛び出してきます。その喜びに満ちる呼びかけに、アンジェレッタはうっすらと青い瞳を開けていました。
「ラッセン…」
「アンジェレッタ、アンジェレッタのお兄さんに会ってきたよ!」
「ラッセン!」
慌てて上半身を起こしてしまいます。その元気そうな姿に、ラッセンはいっそう嬉しくなって話していました。
「そうなんだ、会って話をしてきたんだよ」
「まさか、公園墓地まで…そんな危険な事を…」
「いいんだよ、それは。アンジェレッタのためなんだからね」
「でも……」
嬉しいんです。嬉しいんですけど…
「駄目だよ、アンジェレッタ。自分を責めたりしないで。アンジェレッタだって、僕のために悲しんだり苦しんだりしてくれてるんだから…
もう、何も言わないで…約束してくれるかい?」
「…えぇ、ラッセン。ありがとう……」
濡れた瞳で、にこりと微笑んでくれます。ラッセンは、そんなアンジェレッタの笑顔に優しく笑みを返していました。
「…アンジェレッタのお兄さんもね、そんな感じで笑ってくれたよ」
「ラッセン…」
ちょっと、恥ずかしくなって目を伏せてしまいます。でも、アンジェレッタはふと気が付いて、ラッセンを真っ直ぐに見つめていました。
「でも…フィオラお兄さまは、もう亡くなられたのよ…?」
「え?」
そうなんです。アンジェレッタは、フィオラお兄さまのお墓に行きたかったんですから…
「じゃぁ…夢だったのかな…」
でも、確かにラッセンは話をしたんです。えぇ、こうしてアンジェレッタと話しているように……
ラッセンの右手が、自然とポケットの辺りをさまよい始めます。その中に何が入っているのかを不意に思い出して、ラッセンはポケットに手を入れました。
その手は、一枚の紙切れを持って出てきます。そうです、確かにこれはフィオラからもらったものなんです…
「でも、ほら…僕は、これをアンジェレッタに渡してくれるように頼まれたんだよ。これを持っていれば、必ず会えるから、って…いつまでも待っているから、って……」
「お兄さまが……」
本物である事を確かめるように、アンジェレッタは白い腕を伸ばしました。
月の優しい光が、その腕を銀色に輝かせてくれます。
ラッセンも、その小さな体を月明かりに照らされながら、精いっぱい両手に紙を広げて差し出しました。
細くしなやかな指先が、紙の端に触れようとしています。アンジェレッタが、その紙の存在を受け入れた瞬間……
「うわっ!」
「きゃっ…」
二人の手にしている紙が、とてつもなく眩しい銀色の光を放ったんです。
……アンジェレッタもラッセンも、思わず目を強く閉じてしまいました……
すっかり雲を追い払った空では、銀色の月が穏やかな表情でスイールの町を見下ろしています。ロートゥ川を煌かせるその腕は、冷たさの増した風と共にクリーム色の町の中へと入り込み、アンジェレッタの部屋の窓から中を覗き込んでいました。
優しい微笑みを浮かべた少女が、ベッドの上で静かに横になっています。その頬を柔らかく照らしながら…崖下に横たわる少年と同じく、月の光は少女にも惜しみない銀の輝きを分け与えていました………
『出発』おわり
レフリゲリウム
そは 時間の鎖と 久遠の海
二つを結ぶ 黄金の鍵