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3.神の住む家

 ゆったりとした竪琴の音色が、朝の柔らかな時間に乗ってアンジェレッタを包み込んでくれます。アンジェレッタは、目を閉じてその豊かな曲に身を任せながら、見た事も無い風景を心の内に描き出していました。

 北を巡る太陽の下、若葉のように澄んだ緑色をした平原が見えてきます。そこを流れる風は、優しく、そっと触れてはきらきらと輝いて通り過ぎていくんです。ずっと遠くには、雪で白く装った山々が青く霞んでアンジェレッタを見つめていました。

 とても気分がいいんです。ですから、静かに、吸い込まれるように竪琴の音が消えていくと、アンジェレッタはちょっと残念そうな顔をしてしまいました。でも、すぐに感謝に満ちた美しい笑顔で、アンジェレッタは木陰に座ったフレッドさんにお礼を言いました。

「いつも、素敵な音色をありがとうございます、フレッドさん」

「いいんだよ。俺こそ、みんなの天使に毎朝曲を聞いてもらえるなんて、そんなすごい特権を与えてもらったんだからね」

「そんな…」

 思わず、アンジェレッタは嬉しくて頬を上気させてしまいました。

 綺麗な細い髪をしているフレッドさんは、そんなアンジェレッタに片目をつむってみせると、外階段を上って二階に戻ってしまいました。

「キジバトさんも帰るんだね」

 フレッドさんの足下で虫をついばんでいたキジバトさんも、青空高く飛び去ってしまったんです。窓辺で隠れていたラッセンは、不思議そうな顔でその後姿を見送っていました。

「えぇ、いつもそうなの。まるで、フレッドさんの竪琴だけを、聞きに来るみたい」

 そう言って、アンジェレッタはラッセンを優しく台まで運びました。自分も、ベッドに腰掛けます。この前の発作から、アンジェレッタは以前ほど長く歩いたり立ったりする事が出来なくなっていました。でも、アンジェレッタはそんな事を誰にも知られないように頑張っていましたから、気付いているのはラッセンだけだったんです。

「フレッドさんの奏でる音色は素敵だからね。でも、どうしてもっと大きな町に出ないのかな?」

 フレッドさんの腕前なら、スイールよりももっと大きな町でも十分に認められるはずです。不思議そうに首をかしげるラッセンに、アンジェレッタは悲しそうな色をその青い瞳に映して言いました。

「…待っているんだと思うの。ラーシャさんの事を、ずっと……」

「え?」

 その辛そうな仕草に、ラッセンは真剣な顔でアンジェレッタを見上げました。

「…話してくれる? アンジェレッタ」

 アンジェレッタは小さく頷くと、淡い黄色の肩掛けをはずし、膝の上で握り締めました。その清らかな瞳も、じっとその指先から動きません…

「…三年くらい前まで…フレッドさんね、ラーシャさんて言う名前の女性と一緒に暮らしていたの……わたし、今でも覚えてる。フレッドさんよりも、もっと綺麗な金色の髪をしていて…どんな人にも優しくて、とっても思いやりのある人だったのよ…

 その日ね…ラーシャさん、木の実を採りに森へ入っていったそうなの。一週間に一度、必ずそうしてきたから…みんな、何かが起こるなんて思ってもいなくて…」

「アンジェレッタ…」

 雪のように白い頬に、涙が伝い落ちるのを見て、ラッセンは立ち上がって台の端まで駆け寄りました。でも、それ以上は行けないんです。どうしようもなくて…言葉でしか、慰めてあげられなくて…

「…ラーシャさん、森に入ったまま…とうとう、戻らなかったの……

 みんな、必死になって探したのに…わたし、何も出来なくて…ただ、ここでずっとお祈りする事しか出来なくて……

 …あんなに、ラーシャさんに優しくしてもらったのに…何も出来なかったのに…フレッドさん、いつもわたしの事を気にしてくれるの……」

「でも、アンジェレッタは、アンジェレッタに出来る事を一生懸命したんだよ。きっと、それは本当に一生懸命だったと思うし…フレッドさんだって、それが分かってるからアンジェレッタを大事に思ってくれてるんだよ。だから、そんなに自分を責めないで。そんな事をしたら、フレッドさんに失礼だと思うよ」

「ラッセン……」

 濡れた視線の先では、ラッセンが心配そうに見上げています。アンジェレッタはそっと目を拭うと、恥ずかしそうにそんなラッセンに微笑んでいました。

「そうね…ありがとう、ラッセン」

「ううん…僕なんて、アンジェレッタに何もしてあげられなくて…せっかく、話してくれたのに…ごめん…」

 すっかりしょげているラッセンを見て、アンジェレッタは驚いて首を左右に振りました。決して、そんな事はないんです。

「そんな事、言わないで…ラッセンがいてくれるから、こうして一緒にお話をしてくれるから…わたし……」

 そう……楽しく笑って生きていられるんです…

 しばらく、声が続きません。でも、音の無い『言葉』は、アンジェレッタの心の中から黄金色の川となり、確かにラッセンへと流れていきました。

「だから…」

 ようやく、声に出来たのはそれだけでした。でも、その一言でラッセンは温かな笑顔を取り戻し、アンジェレッタに言ってくれました。

「ありがとう、アンジェレッタ。じゃぁ、アンジェレッタも…ね?」

 アンジェレッタは、ちょっと驚いた顔をしています。でも、すぐに真っ赤に頬を染めると、はにかみながら素敵な微笑を浮かべて頷きました。

「えぇ…もう、自分を責めたりしないわ…ありがとう、ラッセン…」

 何度も、何度も「ありがとう」って言ってる気がします。でも、アンジェレッタにはそれ以上の言葉が思い付かないんです。その事が、とてもじれったいんです…

 でも、目の前で、ラッセンはこんな気持ちも分かっているかのように笑っていてくれます。そして、それはきっと…《本当》に分かってくれているんです。

 アンジェレッタにとって、それはとても嬉しい《真実》でした……


 翌日も、フレッドさんは素晴らしい竪琴の音色をアンジェレッタに披露してくれました。

 …でも、少しだけ、おかしいんです。音の波が、微妙に揺れている気がします。

 アンジェレッタがじっと見ていると、フレッドさんは時々ロートゥ川のある方向に目を向けています。その先には、ラーシャさんの入っていった森があるんです……

(まさか、フレッドさん…)

 今までにも、何度かその仕草を見かけた事はあります。でも、音楽が変化するほど、フレッドさんの心に深く、その思いが取り付いた事は無かったんです。

 アンジェレッタは、心配と不安で口を開きかけました。でも、すぐに止めてしまいます。今はまだ、フレッドさん自身も自分の願いに気付いていないかも知れないんです。もしも、アンジェレッタの一言で決意してしまったら…

 どうすればいいんでしょう…どうすれば、フレッドさんを森に行かせずに済むのでしょう…

 ……結局、アンジェレッタは何も言えずに、家に入るフレッドさんを見送っていました。


 ラッセンは、そんなアンジェレッタの想いにすぐに気付きました。でも、別にもっと気になる事があったんです。

 今日も、また、あのキジバトさんが来ていたんです。ラーシャさんのいなくなった森は、以前、ラッセンが住んでいた森の事です。あのキジバトさんなら、何かを知っているのかも知れません。だから、フレッドさんの竪琴を聞きに来ているのかも知れないんです…

 すぐに、ラッセンはアンジェレッタに床に下ろしてもらうと、急いで走り出しました。アンジェレッタの驚いた声がしましたが、ラッセンは一度だけ安心させるように振り返って笑顔を見せた後、本棚の隙間に駆け込んでしまいます。

 アンジェレッタの家を飛び出した時、キジバトさんは今にも舞い上がろうとしているところでした。

「待って、キジバトさん!」

「どうしたの? ラッセン」

 大きく息を切らしている小人の姿に、キジバトさんは再び羽を閉じると首をかしげました。

「うん…ちょっと、聞きたい事があったんだ」

 近くの茂みに身を潜めると、ラッセンはネコや人間に聞こえないように、小さな声で言いました。

「ねぇ、キジバトさん…いつも、フレッドさんの竪琴を聞きに来るよね?」

「えぇ、とても素晴らしい音色ですもの。どこか、懐かしい気もするし…」

「懐かしい?」

「そうなの。過去の事なんて、すぐに忘れてしまう私が言う言葉ではないかも知れないけど…懐かしいのよ」

 そう言うと、キジバトさんは静かに、小さく啼きました。何だか、その啼き方が悲しそうで…ラッセンは、少し黙り込んでしまいました。

「…ねぇ、キジバトさん…」

 しばらくしてから、遠慮するようにラッセンは小さく尋ねていました。

「森の中で、ラーシャさんって言う名前の女性に会った事はない? あのフレッドさんと一緒に暮らしていた人なんだけど…」

 でも、キジバトさんが答える前に、ラッセンはふと思い付いたように付け加えていました。

「もしかすると、キジバトさんがラーシャさんだったのかも知れないね…」

 キジバトさんは、少しの間、黙って考えているようでした。ラッセンは思わず知っているのかと期待しましたが、残念な事に次にはキジバトさんは小さく首を振っていました。

「聞いた事は無いわ。それに、私が人間だったとも思えないし…過去なんて、覚えていないもの。でもね…私は、あの人の竪琴が『好き』なの……だから、もしかすると、そうだったのかも知れないわね…」

 最後は囁くようにそう言うと、キジバトさんは翼を広げて空に舞い上がってしまいます。

「じゃぁね、ラッセン」

「ありがとう!」

 ラッセンの言葉に、キジバトさんは一度大きく旋回すると、東のロートゥ川、そしてその更に向こうにある森へと帰っていきました。


 アンジェレッタは、その夜、少しの間目を覚まし続けていました。

 ラッセンの話では、あのキジバトさんですら、ラーシャさんの事は知らなかったんです。もう、絶対に森にはいないのでしょう…だったら、なおさらフレッドさんを森には行かせたくありません。

 あんなに、森に行ってラーシャさんを探したがっているフレッドさんを見るのは初めてだったんです。どうすれば、アンジェレッタにそれを止めさせる事が出来るのでしょうか…

 青い月の光が、窓を通して床に美しい銀の泉を創り出しています。流れ行く薄雲によって時々揺れながらも、輝き続けているその鏡を見つめながら、ふとアンジェレッタは別の思いにとらわれていました。

 …本当に、森には行かせない方がいいのでしょうか……

 フレッドさんは、ラーシャさんの事が本当に好きだったんです。例え、森の中で死ぬ事になっても…ラーシャさんを探し続けて倒れる方が、フレッドさんには幸せなのかも知れないんです……

 アンジェレッタは、自分の考えにびっくりして、少しだけ迷ってしまいました。……でも…でも、やっぱりフレッドさんには死んでもらいたくないんです。ラーシャさんだって、自分のためにフレッドさんが死んでしまったら…きっと、とても悲しむと思うんです。…いいえ……自分を恨むかも知れません…

 アンジェレッタは、その時、シニアスの花を採りに行って傷付いたラッセンの姿を思い出していました。思わず、恐くなって身震いしてしまいます。えぇ、きっとそうです…絶対に、ラーシャさんはフレッドさんに傷付いてもらいたくないはずです……

 アンジェレッタはベッドの上で半身を起こすと、そっと青い瞳を閉じました。白くて細い指先を、幼い胸元で組み合わせます。窓から斜めに射し込んでくる銀色のカーテンを前に、アンジェレッタは静かに祈り始めました。

「神さま、お願いします。どうか、フレッドさんを森に連れて行かないで下さい。フレッドさんは、とても寂しいんだと思います。でも、森に入って傷付いて…もしも死んでしまったら……ラーシャさんは……」

 そうです…ラーシャさんは、きっと……

 駄目です。涙が溢れてくるんです…でも、アンジェレッタは、きゅっと胸に両手を押し付けると、それでも小さく呟いていました。

「…きっと、生きていたくないと思います…」

 アンジェレッタは、いつしかずっとラッセンの事ばかり考えていました。ラッセンがもしも自分のために死んでしまったら…アンジェレッタは、生きていたいのでしょうか……

「お願いします、神さま…フレッドさんを、助けて下さい…」

 アンジェレッタは、自分の事のように真剣に祈り続けていました。涙がずっと頬を伝い落ちていても、それを拭いもせずにひたすら祈り続けます。アンジェレッタに出来る事は、それだけなのです…

 でも、それは《全て》をする事と同じくらい、苦しくて辛いものでした。


(アンジェレッタ…)

 ラッセンは部屋に入ろうとして、たまたまアンジェレッタの言葉を聞いてしまいました。悲しそうに、心からフレッドさんの事を思って祈っているんです。

 ラッセンには、神さまがどんな人なのか分かりません。でも、アンジェレッタは、神さまは教会にいらっしゃるんだと言っていました。残念ながら、アンジェレッタには教会に行く事すら出来ないんです。どれだけ、行きたいと望んでも無理なんです…

 …でも、ラッセンはどうでしょう。今までに、お祈りした事が無くても、少なくとも、教会に行く事は出来るんです。神さまと言う人に、アンジェレッタが動けず、ただ部屋の中で祈り続けている事を教えてあげる事は出来るんです。

 月明かりが、アンジェレッタの頬に伝う星を煌かせています。小さな呟きが続く中、星の流れも途切れる事無く溢れ出してくるんです。

 ラッセンは黙って頷くと、すぐに階下へ向かって駆け下りました。

(アンジェレッタ、僕が君の代わりに行ってあげるよ…)

 涼しくなってきた夜の空気が、家を飛び出したラッセンを包み込みます。ラッセンはそのまま石畳の道を右に曲がると、小人にとってはとても辛い坂道を上り始めました。

 何の物音もしません。でも、こんな時が一番危険なんです。ラッセンは、慎重に身を草や石に隠しながら、足早にクリーム色をした町並みの間を通り抜けていきました。

 青い月が、可愛い星達の光を抱き込みながら、空を滑っています。その銀色の光の腕は、ラッセンの小さな姿をとらえ、ずっと守るように追いかけていました。

 …どれだけの時間が過ぎたのでしょう。

 人間であればすぐなのですが、ラッセンにとってはそろそろ限界が近付いていました。森から出てきた時はもっと長い距離を歩いていたんですが、今のラッセンは、必ず明日の朝までに戻らなくてはならないんです。もしも戻らなければ、アンジェレッタがどれだけ心配する事でしょう。ですから、ラッセンは周りに気を配りながらも、必死になって急いでいたんです。

 ロートゥ川からそそり立つ崖の上に、ようやく、たどりついたようです。草の無い石畳の広場の端に立つと、足下にある茶色い屋根の向こうに星が見えています。その広場の先に、とても大きな建物が立っていました。

 ラッセンには、昼間であっても、この建物の屋根を見る事は出来ないでしょう。ましてや、今は夜です。建物は真っ暗な闇の中にとけ込んでいて、何処までも広がっているような気がします。いいえ、今から入ろうとしているこの教会は、夜の闇そのものかも知れません…

 少しだけ、ラッセンは体を震わせました。恐いんです。神さまと言う人は、どうしてこんな家に住んでるんでしょう。

 でも、その時、ラッセンは部屋の中で真剣に祈っているアンジェレッタを思い出していました。…そうです。どうしても、入らなくてはいけないんです。アンジェレッタのためなのですから…

 ラッセンは大きく息を吸い込むと、その建物に近付いていきました。勿論、人間のための扉を開ける事なんて出来ません。でも、その木の扉の下の方は、すっかり傷んでぼろぼろになっています。なんとか、入り込めるかも知れません。

 いいえ。入り込むんです。ラッセンは一番柔らかそうな部分を選んで、無理に頭を押し込んでしまいました。幸い、隙間には、まだ余裕があります。そこで、一気にラッセンは教会の中へと滑り込んでしまいました。

 困った事に、真っ暗で何も見えません。光と言えば、奥の方で何かが揺れているだけなんです。その光は、よく分からない白くて大きなものを照らしているようでした。

 ラッセンは、木の床の上をゆっくりと歩いて行きました。どこに、神さまはいるんでしょう?

「うわっ!」

 何かにぶつかりかけて、思わず声を上げてしまいます。ラッセンは、びくっとしてしばらく立ち止まっていました。さっきの声で、神さまが近付いてくるかも知れないんです。勿論、アンジェレッタがお願いするほどの人ですから、神さまはいい人なんでしょうが…でも、やっぱり、どきどきしてしまいます。

 でも…何も出てきません。

 ラッセンは、もう一度、歩き始めました。

 近付いてみると、見えていた光がろうそくの炎だった事が分かります。赤い炎は、白くて大きな人と、その後ろにある、よくは分からないさまざまな色のものを照らしています。ラッセンはその光が届く所まで来ると、近くにあった椅子の足に隠れて白い人を見上げていました。

 両手を広げて、木にぶら下がっています。頭は、力無く垂れているんです。ラッセンにも、今はこれが彫刻なんだと分かっていました。でも、揺れる炎で生まれた影は、その彫刻に何か不思議なものを与えているような気がします。今にも、何かを話しかけてきそうなんです。

 この彫刻が、神さまなんでしょうか。

 …彫刻に、いったい何が出来ると言うのでしょう。

 でも、アンジェレッタはあんなに一生懸命祈っていました。それに、これは神さまではないのかも知れません。ラッセンには探し出せなかっただけで、もっと他の所に隠れているのかも知れないんです。

 朝までに帰るつもりなら、もう他を探している時間はありません。そこで、ラッセンはこの白い彫刻の方を向いて…でも、心は他の所にいるかも知れない神さまに向かって手を組みました。

「神さま…アンジェレッタのお願いを聞いてあげて下さい。アンジェレッタは、部屋から一歩も出る事が出来ないのに、あなたに真剣にお願いをしています…

 どうか、アンジェレッタの部屋まで来てあげて下さい。そうすれば、どんなに一生懸命フレッドさんのためにお願いをしているか、よく分かると思います。

 …アンジェレッタは、フレッドさんに森に入ってもらいたくないんです。だから、お願いしているんです。悲しんでいるんです…アンジェレッタは、とても優しい子です。いつも、他の人の事ばかり考えています。

 でも…アンジェレッタが、あんなにも悲しんだらいけないんです。……僕も、辛いんです……

 だから、僕のお願いです。神さま、アンジェレッタのために、お願いを聞いてあげて下さい。フレッドさんを、森に連れて行かないで下さい…」

 真剣に、静かに、ラッセンは話し続けました。アンジェレッタの代わりにお願いするなんて、出来るとも思っていません。だから、ラッセンは何度も何度も、神さまに祈り続けたんです。

 アンジェレッタのお願いを、聞いてあげて下さい、と……

 いつまでも、いつまでも……


 ラッセンは、アンジェレッタに心配させないように、気付かれないようにしたつもりでした。でも、不思議なことに、アンジェレッタには分かってしまったんです。

「ラッセン、どうしたの? とても、疲れているみたい…」

「え? あっ、その…」

 ラッセンには、嘘はつけません。どうしても、顔に出てしまうんです。

「ア、アンジェレッタだって、ほとんど眠ってないみたいだけど…」

 慌ててそう言いましたが、アンジェレッタは心配そうな目をしてラッセンを両手で包み込んでしまいました。

「ラッセン…まさか、その事で…」

 台の上まで運んだ後、アンジェレッタは黙ってラッセンを見つめ続けていました。青く澄んだ瞳が、じっと動かないんです。その心配と不安に彩られた視線に、ラッセンはとうとう話してしまいました。

「うん…アンジェレッタのお願いを聞いてもらいたくて…その、教会まで行ってきたんだよ…」

「ラッセン…!」

 夜中に、あんな所まで出掛けるなんて…

「どうして、そんな事を…」

「アンジェレッタのためだからね」

 きっぱりと、真面目な顔でラッセンは言い切りました。その言葉は嬉しいんです。嬉しいんですが……

「でも…もしも、ネコに襲われたら…」

 ラッセンは、また自分のために傷付いていたかも知れないんです…

「…ラッセンが傷付いたら、わたし……お願い、もう、そんな危険な事はしないで……」

 涙が溢れてきます。ラッセンは、こんな自分の想いを本当に分かってくれているんでしょうか…こんなに辛い想いを…

「アンジェレッタ…」

 少し怒っているようなアンジェレッタの口調に、一瞬、驚いてしまいます。でも、すぐにラッセンは静かに言いました。

「…アンジェレッタ…アンジェレッタが苦しんでいると、僕だって苦しいんだよ……だから、やっぱり…アンジェレッタのためなら、僕は何でもするよ…」

「ラッセン……」

 アンジェレッタは、もう何も言えませんでした。アンジェレッタだって、ラッセンが悲しい時は、自分も悲しいんです。まさか、ラッセンもそんな風に想っていたなんて…

「ありがとう…ありがとう……」

 やっぱり、ラッセンは自分の想いを《全て》知っていてくれるんです……

「アンジェレッタ。心配かけて、ごめんね。でも、無理な事はしないよ。そんな事をすれば、きっと…」

 ラッセンは、少し赤くなりながら口を閉じてしまいます。アンジェレッタも、淡く頬を染めながら…途切れた言葉に付け加えていました。

「えぇ…わたし、ラッセンがいてくれるから笑えるんだもの…ラッセンがいてくれるから、毎日を楽しく過ごせるのよ……だから、ラッセンがいなくなったら……わたし、生きていたくなんかない…」

 小さく呟きます。きっと、アンジェレッタの心はこの通りなんです。ラッセンには分かってるんです。でも…アンジェレッタが死んだりしたら、ラッセンは…

 ……いいえ、ラッセンはその言葉を飲み込んでしまいました。ラッセンも、アンジェレッタも、お互いにそう思っているんです。そして、それほども想っているからこそ、相手のためには危険な事もするんです。お互いに…

 それは、もう言わなくてもいい事なんです…えぇ、きっとそうなんです……

 秋が近付く穏やかな日差しの中、二人は黙ったまま、そっと微笑みを交わしていました…


「どうぞ、家に寄っていって下さい」

「ですが…」

 その日の夕方、タックさんの声がアンジェレッタの部屋の中に飛び込んできました。でも、応える女性の声は聞いた事が無いんです。お客様でしょうか。

 アンジェレッタは窓辺に近付くと、ラッセンをそこに優しく下ろして外を覗いてみました。

(あっ…!)

 思わず叫びそうになったのを、必死で抑えます。アンジェレッタのそんな様子に驚いて、ラッセンも用心しながら外を見てみました。

 向かいの家の前で、タックさんが見た事も無い若い女性とお話しています。見事な金髪を背に流した、とても綺麗な人なんです。

「あんた。家の前で、何を話してるんだい?」

 不思議そうに扉を開けた瞬間…ラッセンが驚いたことに、チェルナさんはその人を見て悲鳴を上げていました。

「ラーシャじゃないか!」

(え?)

 ラッセンは驚いてアンジェレッタを見上げました。その尋ねるような視線に、アンジェレッタも微かに頷いています。

 えぇ、そうなんです。フレッドさんと一緒に住んでいた、あのラーシャさんにそっくりなんです!

「いや、違うんだよ。この人はメリアさんと言って、森の向こうのキャスリアの町から歩いて来たんだ」

「初めまして…」

「…あっ、あぁ、そうなのかい。ごめんよ、あんまり知り合いに似てたもんだから」

「いえ、構いません。気にしないで下さい…」

 メリアさんは、しとやかに微笑んでいます。それを見ていたアンジェレッタは、少し声をつまらせながら呟いていました。

「不思議ね…ラーシャさんも、あんな風に笑いかけてくれたの…」

「アンジェレッタ…」

 見上げるラッセンに、アンジェレッタは素晴らしい笑顔を向けて言いました。

「嬉しいの…きっと、神さまがラッセンのお願いを聞いて下さったのよ…」

「ううん。アンジェレッタが、あんなに一生懸命、お祈りしたからだよ」

 互いに笑みを交わしている下では、チェルナさんが話し続けています。

「そうかい、旅の途中で泊まる所が無いんだね? だったら、さぁさ、中に入って…」

「いや、それが…」

「冬の間、この村に留まりたいんです。ですから、タックさんに無理をお願いして…」

 困ってしまったタックさんに代わって、メリアさんがそこまで言った時、教会の方の坂道から聞き慣れた足音が響いてきました。

「フレッドさんよ」

 アンジェレッタには、よく分かります。えぇ、この辺りの人達のことなら、アンジェレッタは誰よりも知っているんです。

 竪琴を手に、少し重い足取りでフレッドさんは曲がり角から姿を現しました。その目が、メリアさんに止まった時……

 高い音を立てて、大切な竪琴は石畳の道に落ちて転がってしまいました。

「フレッド。こちらはメリアさん。キャスリアの町から来られたんだよ」

 急いで、タックさんが話しています。アンジェレッタもどきどきして見ていましたが、しばらく動かなかったフレッドさんは、やがて竪琴を拾って何も言わずに再び歩き出していました。

 竪琴を手にした腕の震えが、ラッセンにも分かります。必死になって、フレッドさんは自分の気持ちを抑えようとしているんです。そんなフレッドさんに、メリアさんは素敵な笑顔で話しかけていました。

「初めまして、フレッドさん。竪琴をお弾きになるんですね」

「えぇ…よかったら、また今度、聞きに来て下さい」

「ありがとうございます」

 それだけで、フレッドさんはメリアさんの顔を見ないまま、足早に家に戻ってしまいました。

「さぁ、あんた。それじゃぁ、この先の空き家に案内してあげなよ」

「あ? あぁ、俺もそう思ってたんだよ」

 タックさんは慌ててそう言うと、チェルナさんに追い払われるようにして、メリアさんと一緒に坂の上へと歩き出しました。

 二人の姿が、曲がり角の向こうへと消えてしまいます。見送っていたアンジェレッタがその視線を戻してみると、チェルナさんが笑いながら片目をつむってくれました。

「チェルナさん…」

 アンジェレッタも、これ以上無いくらい嬉しそうな微笑みで応えます。

「さぁ、一人分、夕御飯を多く作らなくちゃならないね」

 そう言うと、チェルナさんは豪快に笑いながら、家の中へと入ってしまいました。

 夕暮れが、狭いこの道の中まで茜色に染めていきます。淡くて透明な桃色に縁取られた雲を見上げながら、アンジェレッタは胸の中で神さまに……そして、ラッセンに何度も何度もお礼を言っていました…



 …………………………………………



 翌日から、フレッドさんの音色は元の通り落ち着いてきました。でも、一つだけ変わった事があります。あのキジバトさんが来なくなってしまったんです。

 更にしばらくすると、朝の観客にはアンジェレッタとラッセンの他に、もう一人、メリアさんが加わりました。あの、キジバトさんの代わりになるかのように、木陰でフレッドさんの横に座っているんです。

 キジバトさんが、本当にあのメリアさんに変わったのか…ラッセンには分かりませんでした。

                                                                       『神の住む家』おわり


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