2.交差
藍色をした東の空が、次第に白く柔らかく溶けていきます。やがて、そこは金紅色に燃え上がり……不意に、最初の光の矢が地平から放たれました。
矢は、まずスイールの町で一番大きくて目につく教会の塔に輝きを与えます。そして、後からどんどん続いてくる光の波によって、教会が金色に染め上げられる頃、町の北にある崖と公園墓地が朝を迎えていました。
毎朝、太陽は次々に立ち並ぶ家を美しく輝かせてくれるんです。どの家にも、そこに住む人々がどんな生き方や暮らしをしていても、全てに等しく、太陽は光を投げかけていきます。勿論、アンジェレッタの家にも…
「…う、…ん……」
ロートゥ川が澄み渡った青空を映し出した時、アンジェレッタはベッドの上で少し身を動かしていました。
「おはよう、アンジェレッタ」
温かな言葉が聞こえてきます。アンジェレッタは、その声にうっすらと目を開けると、話しかけてくれた小人の男の子ににっこりと微笑みました。
「おはよう、ラッセン」
床の上でカーテン越しの朝の光を浴びていたラッセンは、上半身を起こしたアンジェレッタに笑い返してくれます。
あれから、毎日ラッセンはアンジェレッタに逢いに来ていました。もう、すっかり二人とも悲しみの影を追い払っています。アンジェレッタのお母さんが、最近のアンジェレッタの楽しそうな様子に驚いているほどの変わりようなんです。
「気分は良さそうなんだけど…無理をしてないかしら…」
一度だけ、お母さんがそう呟いた事があります。なにしろ、アンジェレッタは恐らく治らないだろう病気なんですから……
…でも、ラッセンもアンジェレッタも、もうすっかり、その事を忘れてしまっていました……
「アンジェレッタ。十二歳の誕生日、おめでとう!」
ラッセンは、誰よりも一番にそう言ってあげようと、ずっと前から決めていました。ですから、こうしてアンジェレッタの目覚めを待っていたんです。そんなラッセンの言葉に、アンジェレッタは幸せそうに頬を染めてしまいました。
「ありがとう、ラッセン」
お気に入りの黄色い肩掛けをして、アンジェレッタはベッドから起き上がりました。雪のように白くて細い素足が、とても頼りなく感じます。無理をせず、ゆっくりとした足取りでラッセンの傍に近付くと、アンジェレッタは彼を優しくそっと手で包み込んでしまいました。
こんな特別な朝に、一番に出逢えたのがラッセンでよかった…アンジェレッタは、本当に嬉しかったんです。どうにかして、そんな気持ちを伝えたいんですが…困った事に、嬉しい気持ちがいっぱいすぎて、何も声になろうとしないんです。
「…アンジェレッタ」
小さな手が、そっと指を握り締めてくれます。アンジェレッタは、そんなラッセンに可愛らしい笑顔で応えると、そのまま彼を抱き上げました。
きっと…えぇ、きっと、こんな時は何も言わなくてもいいんです。きっと……
アンジェレッタは、そのまま窓辺まで小人の男の子を運んであげました。そして、朝の透明な光をいっぱいに浴びているカーテンを引きました。
窓ガラスを通して、夏の白い陽光が流れ込んできます。その波はアンジェレッタの白い手足を輝かせ、まるで彼女の体から光が射しているように見えるんです。ラッセンは、思わずこの人間のお友達をびっくりした顔で見上げてしまいました。
アンジェレッタは、そんなラッセンにも気付かす、窓を大きく開け放しています。その瞬間、爽やかな風が彼女の豊かな黒髪をなびかせ、白い寝間着の上で踊りました。
「あっ…」
その時、アンジェレッタの家の扉が開いて、向かいのチェルナさんが出てきたんです。こんなに朝早くから、どうしたんでしょう?
「おはようございます、チェルナさん」
「やぁ、おはよう、アンジェレッタ。もう起きてたのかい?」
「えぇ…だって、今日は特別な日なんですもの」
ちらっと、窓の横に隠れているラッセンを見てしまいます。
「そうだったね。誕生日おめでとう、アンジェレッタ。今、お母さんにプレゼントを渡しといたからね。後で見ておくれ」
「チェルナさん、いつも、ありがとうございます…わたし、何もお返しする事が出来ないのに…」
辛そうに青い瞳を翳らせるアンジェレッタに、チェルナさんは大きく笑い声を上げていました。
「そんな事、気にするんじゃないよ。それにね、あたし達はいつでも贈り物をいただいてるよ。アンジェレッタがそこで毎朝笑ってくれているだけで、とても幸せな気分になれるんだからね」
「そんな…」
嬉しいんです。とっても嬉しいんです…
「この頃、とても気分が良さそうだけど、無理はしないでおくれよ? アンジェレッタ。いつまでも、そこでそうして笑っていておくれ」
そう言って、チェルナさんは家に戻ってしまいました。
「…アンジェレッタは、本当にみんなに慕われてるんだね」
ラッセンも、アンジェレッタと同じくらい嬉しいんです。アンジェレッタがこんなにもみんなから愛されていて、本当に嬉しかったんです。
スコットさんも、タックさんも、ヴェルンドさんも、フレッドさんも、みんな、アンジェレッタにおめでとうを言ってくれます。その度に、ラッセンも自分の事のように喜んでいました。
「でもね、今日は、いつもの誕生日よりも嬉しいの…」
みんなと挨拶を交わし、フレッドさんが作ってくれた誕生日の曲に心からお礼を言った後、アンジェレッタはラッセンを振り返りました。
「だって、こうしてラッセンがいてくれるんだもの…ありがとう、ラッセン。いつも、こうして会いに来てくれて…」
「僕だって、アンジェレッタと友達になれて嬉しいんだからね。毎日、アンジェレッタといるだけで楽しくて…うまく言えないけど、もっともっと、たくさん思ってるだよ」
「ありがとう…」
……アンジェレッタは、思っていました。もう、これがここで迎える最後の誕生日かも知れない…そんな日に、ラッセンが傍にいてくれて本当に良かった、って……
「ねぇ、アンジェレッタ。下ろしてくれる?」
「えぇ」
床に降りると、すぐにラッセンは本棚の隙間に走り込んでしまいました。
「ラッセン?」
どうしたんでしょう。まだ、お母さんは上がってきそうにもないんです。
アンジェレッタが古いネズミの穴まで近付いてみると、その穴からラッセンが何かを押し出そうと頑張っていました。
「ちょっと、待っててね」
苦しそうな息の下でそう言いながら、ラッセンはようやく自分よりも大きな箱を入り口から出していました。少しよじれていますが、綺麗なリボンが結ばれているんです。
「僕には、こんな事しか出来ないんだけど…良かったら、受け取ってくれないかな」
「ラッセン…!」
まさか、ラッセンからプレゼントをもらえるなんて思ってもいなかったんです。アンジェレッタにしてみれば、ラッセンが傍にいてくれるだけで、一緒にお話をしてくれるだけで、それだけでもう充分な贈り物だったんですもの。
「ありがとう、本当に、ありがとう…」
おかしなものです。何だか、とっても泣きたいんです。嬉しいのに、涙が溢れてくるんです…
「ほら、泣かないで。せっかくの誕生日なんだからね!」
「えぇ……」
アンジェレッタは、濡れた瞳でそっと微笑みました。とっても綺麗な、優しい笑顔なんです…それは、ラッセンにはお返しが過ぎると思えるほどでした。
「…開けてもいいの?」
「いいよ。似てないかも知れないけど…」
ちょっと恥ずかしそうに、ラッセンはアンジェレッタから目を逸らしました。一生懸命、頑張ったつもりです。でも、どこか自分の感じているものとは違うんです。いいえ、想っているものに近付けなかったんです…
アンジェレッタは、その細く透き通るような指先をリボンにかけました。ラッセンが、必死になって結んでくれたのが良く分かるんです。ですから、そっと、大事にアンジェレッタはそのリボンを解きました。
ちょっと、どきどきしながら箱を開けます。中のものを静かに取り出した瞬間、アンジェレッタは驚いて目を大きく見開いてしまいました。
中に入っていたものは、小さなアンジェレッタだったんです。夕陽色の素晴らしい石を彫って創られた、とても細かくて、見事な像だったんです。
「わたし…なんて言えばいいのか分からないの…こんなにも嬉しいのに…」
微かに震える声と共に、ラッセンに向けられた青い瞳は僅かに濡れています。ラッセンは、そんなアンジェレッタを真っ直ぐに見上げると、静かに微笑みました。
「ありがとう…アンジェレッタの今の姿だけで、僕にはもう充分だよ…」
「ラッセン…」
何度も何度も、アンジェレッタは小さく頷いていました。
朝の清澄な日差しは、そんなアンジェレッタを優しく包み込んで暖めてくれます。今、アンジェレッタは確かに《特別》な『時間』の中に抱かれていました。
翌日は、お医者さまの検診があったので、誰も部屋にいなくなってから、アンジェレッタがオルゴールを鳴らしてくれる事になっていました。でも、いくら待っても階下のラッセンにはオルゴールの音色が聞こえてこないんです。いいえ、お医者さまの馬車も、ずっと玄関先で留まったまま走り去ろうとはしていません。
何か、嫌な予感がします。今まで、別に意識をしていなかったんですが、確かにアンジェレッタは病気なんです。ラッセンは、それ以上待っていられずに、立ち上がると扉を抜けて二階に向かいました。
ネズミが開けてくれた入り口に近付いた時、お医者さまの厳しい声がラッセンの耳に飛び込んできました。
「今は、これ以上出来ません。急いで薬を取ってきましょう。すぐに熱を下げないと、危険な事になります」
(何だって?)
ラッセンは驚いて本棚の影まで飛び出していました。昨日まではあんなに元気だったのに、アンジェレッタの苦しそうな呼吸がここまで聞こえてくるんです。微かなうわごとを耳にした瞬間、ラッセンの胸は強く締め付けられました。自分自身も息が出来なくなったかのように、苦しくなってくるんです。胸の奥が痛いんです。
(アンジェレッタ…!)
いったい、小人の自分に何が出来るでしょう。お友達が苦しんでいるのを、黙って見ている事しか出来ないんでしょうか…
「先生、アンジェレッタだけは助けてください! お願いします、アンジェレッタだけは…」
取り乱しているお母さんは、お医者さまの腕を必死になって掴んでいます。でも、お医者さまは落ち着いた声で言い聞かせました。
「大丈夫。解熱剤を取ってくれば、熱も下がり、発作もおさまりますよ」
「お願いします…フィオラが死んで、アンジェレッタまでもいなくなったら…もう……」
お母さんは、床に座り込むと激しく泣き出してしまいました。お医者さまは、少し迷っています。アンジェレッタのためには急がなくてはならないんですが、お母さんをこのままにしておいていいものでしょうか…
でも、ラッセンはすぐに動き出していました。アンジェレッタの熱を下げる事が、今は一番大事なんです。
(頑張るんだよ、アンジェレッタ)
解熱によく効く薬草が、すぐこの近くに生えているんです。ラッセンは急いでネズミの穴を抜けると階下に戻り、別の出口から外に飛び出していました。
夏の、鋭い光が小人を激しく突き刺してきます。ラッセンは石畳の両側にある背の高い青草を選びながら、精いっぱい走り続けました。灰色の石垣の下の、川を見下ろす崖に薬草はあるんです。ほら、もう、すぐそこに……
ラッセンの姿が、濃い緑色をした茂みの向こうに消えていきます。その後ろ姿を、家の影から大きく丸い二つの瞳がじっと追いかけていました……
…………………………………………
ようやく、お医者さまは馬車に乗り込もうとしています。お母さんは玄関まで見送りにきていたんですが、すぐに苦しんでいるアンジェレッタの所へと戻ってしまいました。
「あら?」
アンジェレッタの部屋の床板に、小さな赤い点が幾つか見えるんです。まるで、血のようです。思わず身震いしたお母さんは、急いでアンジェレッタのベッドに目を向けました。
「……?」
ベッドの下に散らばっているのは何でしょうか…
近付いてみると、それは何本かの草花でした。紅紫色をした丸い可愛らしい花が、細い茎の先端で咲いています。お母さんは、その花が何であるのかよく知っていました。
慌てて、窓を開けます。お医者さまは、今にも走り出そうと御者台で鞭を手にしているんです。
「先生! シニアスの花があるんです!」
その言葉に、お医者さまは大急ぎで馬車から飛び降りました。シニアスの花なら、解熱剤の役割を充分に果たしてくれるはずです!
お医者さまが薬草を調合している間にも、床の上の鮮やかな点は部屋へと入り込む熱気に乾いてしまいます。どうしてシニアスの花が床に落ちていたのかなど、もう誰も知ろうとはしませんでした……
アンジェレッタは、次の日の夕方まで眠り続けました。もう、熱も下がっています。目を覚ました後で、夕食もほんの少しですが食べる事が出来ました。
その時、初めてアンジェレッタは床に散らばっていた花と、赤い血のような点についてお母さんから教えてもらったんです。
「血!」
アンジェレッタには、すぐに誰が花を採ってきてくれたのか分かりました。勿論、ラッセンです。でも、床に血が付いているなんて……
恐いんです。とても恐いんです。ラッセンは大丈夫なんでしょうか…ひどい怪我をしているなら、それは自分のせいなんです……
夕食なんて、もう食べる事が出来ません。げっそりとやせてしまった顔をいっそう白くさせながら、アンジェレッタはただラッセンの事だけを考えて震え出していました。
「あら、寒いの? 今日は、もう寝なさい」
そう言って、お母さんは夕食を片付けて部屋を出ていきます。寒い? いいえ、寒くなんてないんです。ただ、アンジェレッタはとても恐かったんです。とっても、とっても恐がっていたんです。
…アンジェレッタは、ラッセンのお姉さまがネコに命を奪われた事を思い出していたんです……
もしも、自分のためにラッセンがそんな事になってしまったら…アンジェレッタは、もう自分を許せないでしょう……
怯えた目は、ゆっくりと床の上を滑ります。確かに、小さく乾いた赤い点が本棚の隙間からベッドの下まで続いているんです。どんなに違っていてほしいと願っても…でもやっぱり、それは血なんです……
「ラッセン…!」
しなやかな指先をからめると、きゅっと強く胸に押し当てて、アンジェレッタは不意に泣き出してしまいました。
「ラッセン…ラッセン……」
苦しいんです…震えが止まりません…アンジェレッタの胸の奥で、何かが壊れそうなんです……
アンジェレッタは、力いっぱい、両手を胸元に押し付けながら、古いネズミの穴まで歩いていこうと足を下ろしました。
「あっ…!」
でも、衰弱しきっている足は、アンジェレッタの体を支えてはくれませんでした。何度やってみても、ベッドから離れる事すら出来なくなっているんです。
どうしようもなくて……アンジェレッタは両手で顔を覆うと、これ以上無いくらい悲しい声で泣き続けました…
「…アンジェレッタ…泣かないで…」
突然、微かな、本当に微かな声が足下から聞こえてきました。アンジェレッタは驚いて顔を上げると、濡れた瞳で急いでベッドの下を覗き込みました。
「ラッセン!」
小人の少年は、血と埃でひどく汚れたまま、必死になって床の上まで出ようとしました。でも、すぐに力尽きて倒れてしまいます。アンジェレッタは悲鳴を上げると、すぐにラッセンを台の上まで運び上げました。
「ラッセン…ラッセン…」
涙が止まりません。ぼろぼろの服を着て、ずっとこんなひどい状態でラッセンはベッドの下に隠れていたんです。それも、自分のような人間のために……
白く美しい滴で、やつれた頬を濡らし続ける優しい少女に、ラッセンは全身の力を込めて笑ってみせました。
「ほら…大丈夫だからね。泣かなくてもいいんだよ…ちょっと、ネコとやりあっただけなんだから…」
「ラッセン……」
もしかしたら…そう、もしかしたら、死んでいたかも知れないんです……
アンジェレッタは、いつまでも、いつまでも泣いていました。もう、ラッセンも何も言いません。少年は、そんな彼女を黙って見つめるだけでした…
「あはは、くすぐったいよ。アンジェレッタ」
「動かないで、ラッセン」
ちょっと怒ってみせると、アンジェレッタは包帯を綺麗に結んでしまいました。
ラッセンがベッドの脇の引き出しに入って、もう三日になります。でも、アンジェレッタの心からの看護のおかげで、しばらくすれば元気になることでしょう。
白い包帯でぐるぐる巻きにされたラッセンを見て、アンジェレッタは急に涙が溢れてくるのを感じていました。どうしてでしょう…今は、とっても嬉しいはずなのですが……
アンジェレッタはラッセンにそっと顔を近付けると、優しく囁いていました。
「もう…あんな危険な事はしないでね……」
突然の言葉に驚きましたが、ラッセンはすぐににこりと笑って彼女を見上げました。
「ううん。大好きなアンジェレッタのためだからね。もっと危険な事でもすると思うよ」
「ラッセン…」
ちょっと恐くて…でも、その言葉はとても嬉しいんです。アンジェレッタは、不意にラッセンを持ち上げていました。
「ありがとう…ラッセン、《本当》にありがとう……」
柔らかく包み込んだラッセンを、アンジェレッタは白い頬に押し当てます。ラッセンは自分の手のひらくらいある涙をよけながら、その滑らかな頬を軽く小突くと言いました。
「ほら、泣いたりしないで。今度は、どんな話を聞きたい? 三羽のメジロの話なんて、どうかな」
その言葉にくすくすと笑い出しながら、アンジェレッタはとても素晴らしい、綺麗な笑顔をラッセンに向けました。
「えぇ、そのお話を聞かせて…」
もう一度、そっと頬に押し当てると、アンジェレッタはラッセンを台の上に戻しました。
やがて、すぐに楽しそうな笑い声が部屋の窓から外に流れ出してきます。きっと、もうオルゴールの音色も聞こえなくなり、ただ明るい歌声だけが、この窓からいつも温かな風に運ばれていくことでしょう。
『交差』おわり