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12.月の家

「……んっ…」

 微かな震動が伝わってきます。優しいその揺れは、アンジェレッタの体をそっと包み込んでくれていました。

 愛らしい瞼が震え、ゆっくりと青く清らかな光が覗きます。形良く調った指先で目をこすると、アンジェレッタの視界には微笑むラッセンの姿が飛び込んできました。

「目が覚めたかい? アンジェレッタ」

 素晴らしい笑顔が満面に広がってしまいます。心からの幸せに満ちた微笑は、周りのあらゆる存在に喜びを与えていきました。

「…? ねぇ、ラッセン。また汽車が大きくなったのかしら」

 えぇ、ほんの少しだけ大きく、新しくなった気がします。天井の光は、今や汽車のあちこちから、うっすらと流れ出していました。

「そうみたいだね。でも、やっぱり同じ汽車なんだよ」

「えぇ」

 しっかりと、まだつながれている手の温もりを感じながら、アンジェレッタは嬉しそうに頷きました。

 にっこりと、微笑みを交わします。そのまま、二人は一緒に窓の外へと目を向けました。

 太陽は、温かくも寒くもない光の腕を伸ばしながら、ようやく西に向かって転がろうとしているようです。今、その姿は汽車の左手に見えていました。

 空には、雲さえ消えてしまっています。何も無いんです。そこには、何処までも広がる、深い青の底無しの海が天を覆っているだけなんです。

 汽車の周りには、さまざまな濃淡のある草原が続いています。色とりどりの花が、不意に現れては後ろへと遠ざかっていくんです。今までにも、同じ景色を随分と見てきました。

 …でも、何かが違うんです。

「ラッセン…聞こえる……?」

「うん、聞こえてくるよ」

 二人の心の中に、少し前に聞いたあの歌が溢れ出してくるんです。それは、鮮やかな花の群れが通り過ぎる度に音色を変え、美しいメロディーを奏でていきます。胸の中の透明な音楽に耳を澄ませながら、アンジェレッタとラッセンはぼんやりと窓の外を眺めていました。

 風が、そんな二人にそっと触れては通り過ぎていきます。銀色の乙女達は、その腕に二人の音楽を抱き締めると、ありとあらゆる存在に聞かせようと、急いで旅を続けていきました。


 もう、ラッセンはこの世界の《全て》を受け入れていました。ここに、こうしてアンジェレッタと共にいる…それこそが、ラッセンにとっての《全て》だったんです。それ以外の《本当》はありませんし、それ以上の《真実》もありませんでした。その、『たった一つ』が《全て》であり、その他には何も存在していないんです。

 アンジェレッタにしても、同じ気持ちです。周りがどれだけ変わっても、それはただ姿や形が変わっただけなんです。それは結局、『たった一つ』でしかありません。それらは全て、ラッセンと一緒にいることから生まれるんです。アンジェレッタにとって、それらはラッセンと『同じ存在』でした。

 そして、二人が一緒にいるからこそ、この世界は存在しているんです。『二人』こそ、実は『たった一つ』なんです。

 アンジェレッタの細くしなやかな指先は、ラッセンの逞しい指としっかりと絡み合っています。そこから銀色の月は生まれ、二人の心の中へと流れ込んでいくんです。

 えぇ、そうです。ここにこそ、《全て》は存在していました……


 まるで何かに呼ばれているように、汽車は西の空に向かって走って行きます。太陽も、やっと半分まで落ちていました。でも、ちょっと休憩しているように思えます。それとも、まだ西の地平線には沈みたくないんでしょうか。

 何かが、この行く手に待っている気がします。今までは、景色の方が二人に近付いてきたんです。でも、今度は違います。何かがアンジェレッタとラッセンを待ってくれているんです。今度は、そこへと向かって、二人が近付いていく番でした。

 その時、急に汽車の速度が落ちました。えぇ、ほんの少しでしたが、何処かに停まろうとしているみたいなんです。

 アンジェレッタとラッセンは、互いの瞳を覗き込むと、次には窓の外に身を乗り出していました。

 陽光に照らされ、汽車の向かっていく先には濃い緑色をした森が横たわっています。枝の先端に広がる若葉が、きらきらと鮮やかに輝いているんです。一つではない、さまざまな緑に染まるその森は、北から南へと草原の中を壁のようにずっと伸びていました。

「すごいね。ねぇ、アンジェレッタ。あの森の中には何があると思う?」

 ラッセンの声が、耳元を通り過ぎる風のおしゃべりにも消されず、心まで届いてきます。アンジェレッタは、楽しそうににこりと微笑むと、ラッセンに応えていました。

「とても明るい木漏れ日の中を、きっと、綺麗な小鳥達が歌っているわ」

「きっと、そうだよ。それに、おいしそうな木の実も、たくさん落ちてたらいいな」

 アンジェレッタは、そんなラッセンの言葉にくすくすと笑い出しています。ラッセンも、その澄んだ美しい音色に合わせて笑い声を上げていました。

 森は、刻一刻と二人の汽車に近付いてきます。ほら、鮮やかな色の服を着た、可愛らしい小鳥達が見えてきました。青くて長い尾をしたものや、赤くて眩しい胸をした小鳥達がたくさん舞っているんです。その数は、汽車が森の中に入ると、もっともっと増えていきました。

 とても太い幹をした木々が、頭上のずっと上の方まで真っ直ぐに伸びています。その先で枝がぱぁーっと花開き、淡い黄緑の葉が微妙な濃淡を描きながら広がっているんです。その緑の天井から、光の泡粒は二人の髪の毛へと降り注いでいました。

 斜めに射し込む光の薄い幕に溶け込み、小鳥達は軽やかに飛んでいきます。その小さな体からは、澄み切ったさえずりが次々と零れ出してくるんです。うっとりするような、その柔らかな音色に耳を澄ませながら、アンジェレッタは瞳を軽く閉じてしまいました。

 木々の下を、無数の小鳥達が渡っていきます。その影が通り過ぎる下生えの間には、大きくて丸い木の実がいっぱい散らばっています。その木の実を避けながら、ガラスのように透き通った小川が汽車に寄り添ってさらさらと流れていました。

「あの小川は、きっと湖につながってるんだよ」

 ラッセンの声に目を開けると、アンジェレッタも美しい小川の水を見て嬉しそうに頷きました。

「森を出たら、大きな湖が広がっているのね」

「水鳥の群れがいて、魚もたくさん跳ねてるんだよ」

 ラッセンの言葉が終わらないうちに、ゆっくりと走る汽車は突然森の外に飛び出していました。

 ちょっと眩しくて、瞳を一瞬閉じてしまいます。でも、すぐに目を開いた二人は、そこに広がっていた景色に息を飲んでしまいました。

 青く澄んだ、それは大きな湖が線路の南に広がっていたんです。森の木々は岸辺まで押し寄せていて、漣がその太くて滑らかな幹にゆらゆらと光の波を映しています。汽車の下からは、白く輝く砂浜が波打ち際まで続き、その沖合いでは水鳥達の群れがのんびりと漂っていました。

 風に遊ばれ、波が優しく打ち寄せています。心地好い音楽が空中に満ち溢れ、その水の囁きは楽しい笑みを導いてくれるんです。胸の中から溢れる二人の笑い声に合わせて、湖面では魚達があちこちで飛び跳ねていました。

「素敵な所ね…」

「今度は何があると思う?」

「ラッセンは、何が見えてくると思うの?」

 ふわっと零れる素晴らしい笑顔に、ラッセンはにこにこして言いました。

「そうだね。牛がたくさんいる、真っ青な牧場じゃないかな」

 その言葉が空中に散った瞬間、大きな湖は終わり、目の覚めるような若々しい草に覆われた牧場が広がっていました。

 窓のすぐ下では、湖から溢れ出した小川が、やっぱり汽車の進む方向へと流れていきます。その水面に頭を垂れた青草は、南北の地平線までずっと広がっています。豊かな牧場の中には点々と白斑が散らばり、温かな日差しの中でのんびりと草を食んでいました。

 そんな牛達を見ている二人の耳に、不意に風が美しい鈴の音を届けてくれます。カラン、コロン…ゆったりとした音色です。アンジェレッタには、牛の首に下げられている、鈴の揺れる様子が目に見えるようでした。

 心が、この素敵な青空へと溶け込んでしまいそうです。柔らかな鈴の音色を近くに、遠くに聞きながら、ラッセンはぽつりと呟いていました。

「馬に乗ったら、こんな気持ちになるのかな…」

 頬に当たる風を感じながら、夢を見るような口調でラッセンは囁いているんです。アンジェレッタも、そんなラッセンを見上げて頷きました。

「とても気分がいいわ」

 その時、急に二人の視界に二頭の駆けている馬が飛び込んできました。驚いて牧場を見ると、そこには純白の体を輝かせた馬が軽やかな足取りで走っていたんです。汽車と競争でもするように、銀色のたてがみをなびかせ、楽しそうに跳ねています。ひづめはしっかりと大地を叩き、馬体は陽光によってその煌きを微妙に変化させていました。

 わくわくしてきます。なんて素敵なんでしょう! もう、すっかりアンジェレッタとラッセンは二頭の馬とお友達になっていました。でも、残念なことに、汽車の方がちょっとだけ速かったんです。馬は、少しずつ後ろに退がっていき、やがて二人の視野からは消えてしまいました。


 今度は、いったい何が現れてくるのでしょう。アンジェレッタの青い瞳は、汽車の行く手にじっと向けられています。きっと、次は家があるはずです。赤い屋根をした、可愛らしい家が……

 ほら、見えてきました。えぇ、考えていた通り、真っ赤な屋根をしています。石を積んだ壁には、白いペンキが塗られているんです。

「大きな窓があるだろうね」

 ラッセンの言葉と同時に、アンジェレッタの目には大きくて花の飾られた窓が見えてきました。桃色の可愛い花が、窓辺いっぱいに咲きほこっています。なんて素晴らしいんでしょう。そうですとも、アンジェレッタが望んでいた家は、ちょうどこんな感じのものでした。

 緑の草原に立つ家を見ながら、ラッセンも想像していました。きっと、あの家の裏手には小さな果樹園があって、丈の低いリンゴの木がたくさん植えられているはずです。だって、白い花でいっぱいの果樹園が、とっても似合いそうな家なんですもの。

 黒い瞳には、その瞬間、思っていた通りのリンゴの木の青々とした若葉が映っていました。甘くて素敵な香りまでもが届いてきます。緑の葉影では、丸々とした金色のリンゴが、光の泡粒に照らされそっと瞬いているんです。銀色の風は、その葉と実と花を一度につけた木に優しく触れると、辺りに素晴らしい薫りを運んでいました。

「ほら、見て」

 アンジェレッタの指差す先では、二人があったらいいな、と思った大きさの畑が広がっています。そこでは、ニワトリが一生懸命何かをついばんでいるんです。白く輝いているその体は、ちょこちょこと愛らしい仕草で畑地の中を歩き回っていました。

 澄んだ水を湛えて、細い小川は汽車を映して流れて行きます。その心地好い瞬きに包まれながら、アンジェレッタとラッセンは顔を見合わせていました。

「こんな家に、住みたいね…」

「えぇ……」

 勿論、ラッセンと一緒に、です………

 心からの《本当》の願いを二人が『言葉』にした瞬間、汽車はゆっくりとその白い家の前で止まってしまいました。

 驚いて口を閉ざした二人の心に、深くて優しい女性の声が響いてきます。

 …………お帰りなさい…アンジェレッタ…

 …………お帰りなさい…ラッセン……

 アンナさんの《声》なんです。なんて静かで、大きくて…でも、なんて温かくて柔らかいんでしょう! アンジェレッタとラッセンがその言葉を胸の中で繰り返した途端、次には二人はさやさやと風に揺れている草の間に立っていました。

 すぐ目の前では、明るい日差しに照らされて、白い壁が煌いています。風の歌や甘い香りも、汽車の中で感じていた以上にしっかりと二人を包み込んでくれるんです……

 ふと、アンジェレッタとラッセンは、音にならない《声》に気付いて後ろを振り返っていました。

「きゃっ…」

 アンジェレッタが小さく悲鳴を上げて、愛らしい手で口許を押さえています。もう、そこには汽車なんて無かったんです。あんなに長い間一緒にいた汽車は、もう何処にも、影も形もありませんでした。いいえ、汽車だけではありません。見れば、今まで続いていた線路も、そして、これから先に伸びていた線路も消えてしまったんです。もはや、二人の周りには《道》なんて何処にも存在していませんでした。

「やぁ、ようやく着いたようだね。ようこそ、レフリゲリウムへ」

 何も言えず、動くことも出来なかった二人の背へと、落ち着いた声が届けられます。慌てて振り返ってみると、果樹園の方から黒い髪をした少年が二人に近付いてきました。

 澄み切った青い瞳が、アンジェレッタとラッセンを見て、そっと瞬いています。その雰囲気がアンジェレッタに似ていることに気付くや否や、ラッセンは不意にずっと昔の出来事を思い出していました。

「フィオラ!」

「え?」

 ラッセンの言葉に、アンジェレッタは呆然として目の前の少年を見つめています。では、このにこやかに微笑んでくれている少年が……

「…お兄……さま?」

「お帰り、アンジェレッタ…」

「お兄さま!」

 そっと手が離れていきます。今まで、ずっとつながれていた細い指先は、ラッセンの手の中から抜け出すと、フィオラの体をしっかりと抱き締めていました。

 フィオラも、優しく受け止めています。嬉しくて、嬉しくて…ラッセンはそんなアンジェレッタの姿を見ながら、その頬にいつまでも涙を流し続けていました。

 爽やかな風が、そっと優しく触れては三人を包み流れていきます。その風の乙女達は銀色の糸を引きながら、何処までも何処までも…青空の下を舞い踊っていきました……


 ちょっと、心が落ち着いてきます。

 アンジェレッタは濡れた瞳でフィオラを見上げると、ふわっと優しい微笑みを零していました。

「本当に待っていて下さったんですね、お兄さま…」

「そうだよ、アンジェレッタ。よく来てくれたね」

 大きな両手が、細い肩を抱いてくれます。アンジェレッタはその温もりが嬉しくて、また泣き出しそうになっていました。

 もう、決して会えるとは思わなかったお兄さま……

「お兄さまと、こうしてお話出来るなんて…」

「レフリゲリウムでは、別に不思議でも何でもないんだよ」

「……ここは、レフリゲリウムと言うのですか? お兄さま」

 アンジェレッタもラッセンも、初めてこの世界の名前を耳にしました。

「そうだよ、《影》の言葉で言えば『重ね合わせの国』になるだろうね。でも《本当》は、この世界もまだ『途中』でしかないんだ。僕達は、重なり合ったもっと大きくて眩しい世界へと入っていかなくてはならないんだよ」

 そこで、フィオラは少しだけ寂しそうな顔をしました。

「アンジェレッタ。こうしてせっかく会えたのに、僕は今すぐ旅立たなくてはならないんだ。もっと広い世界に入るように、《声》が呼んでくれたからね…」

「お兄さま……」

 アンジェレッタは、びっくりして…悲しくて、ちょっぴり涙を流してしまいました。

 …でも、《本当》は分かっています。必ず、お兄さまとは再び会えるんです。『時間』の無い世界では、その間の空白なんて存在しません。

 ですから、アンジェレッタはすぐに泣きやんで、微笑みを浮かべることが出来たんです。

「待っていて下さいね、お兄さま…」

「あぁ、待っているよ。いつまでも」

 フィオラは笑顔でそう言うと、アンジェレッタとラッセンを可愛らしい家の前まで導きました。

「これから、ここが君達二人の家になるんだ。気に入ったかい?」

「うん!」

 大きく二人は頷いています。でもその時、ふとアンジェレッタは今まで思いもしなかったことに気付いて呟いていました。

「でも、お母さんやお父さんは…」

 えぇ、そうなんです。アンジェレッタが戻らなくなれば、悲しむんじゃないでしょうか……

 その呟きに、温もりに満ちた微笑みを浮かべると、フィオラは静かに言葉を紡ぎました。

「…分からなかったのかい?」

 優しい『言葉』が流れ出しています。

 不意に、アンジェレッタとラッセンの胸には、抑えられない期待が、僅かな不安に縁取られながらも、大きく大きくふくらんできました。

「そう、確かに君達は《影》の言葉で言えば『死んだ』んだよ。ラッセンは崖から落ちて…アンジェレッタはベッドの上で……

 ……『夢』は覚めたんだ。今こそ、《本当》の『朝』が始まるんだよ」

 フィオラの姿が、どんどんと薄れていきます。

 やがて、黄金色の太陽の光はその淡い微笑みを揺らめかせ、銀色の風がそっと静かに運び去ってしまいました。


 …アンジェレッタの指先は、再びラッセンの手を探していました。

 温かな手が、しっかりと握り締めてくれます。

 二人は黙ったまま微笑みを交わすと、互いに手を取り合って、新しい家の中へと駆け込んでいきました………


 『永遠』に続く幸せな物語を、二人は今、銀の流れと共に創り始めたのです……



 そして……扉は閉じられました…


                                                                       『月の家』おわり





                                レフリゲリウム

                               そは 時間の鎖と 久遠の海

                               二つを結ぶ 黄金の鍵





                                                                       『レフリゲリウム物語』おわり


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