11.湖畔の遺跡
どれくらいの間、白く霞んだ太陽の下で、あの雪を戴く山々を見つめていたのでしょう。
アンジェレッタには分かりませんでしたが、気付いた時には緑の斜面を駆け下りて、汽車の中に乗り込んでいました。
温かな手を指先に感じながら、アンジェレッタが席に座ったと同時に、汽車は音も無く静かに駅舎から離れていきます。窓から外を眺めてみると、背の低い草に覆われた山が、少しずつ後ろに遠ざかっているんです。
風の柔らかな指に豊かな黒髪を遊ばせながら、アンジェレッタはあの素敵な景色を見せてくれた山を、淡い青に染まっていくまでずっと見つめ続けていました。
汽車は緩やかにうねる丘の間を、北へと向かって滑っていきます。
やがて、風の舞う峰々は、他の背景の山々へと溶け込み、緑の丘に隠されてしまいました。
何だか、とっても悲しくなってしまいます。あの素晴らしい風景は、もう二度と目にすることが出来ないんです。もう一度、見てみたい…いつか、帰ってきたい……でも……
清らかな光が、黒い瞳に溢れてきます。その時、ラッセンの声がすぐ隣で聞こえてきました。
「アンジェレッタ…悲しまなくてもいいんだよ。この世界には、『場所』すら無いんだ。だから、いつでも、必要になれば…あの山に出逢えるはずなんだからね」
「ラッセン……」
その深くて優しい言葉にアンジェレッタは振り返ると、そっとラッセンの腕に額を押し付けていました。
小さく細い肩が、微かに震えています。腕に熱い流れを感じながら、ラッセンはその肩に手を置いて囁きました。
「その時にはね、あの山も姿を変えてるかも知れない…でも、《真実》に比べたら、その姿なんてどうでもいいことなんだよ…
大丈夫。一緒に行けるよ。忘れずに、信じていたらね……」
えぇ、勿論、忘れたりしません。そうです、絶対にあの山上で見た景色と《声》…そして、ラッセンを忘れたりするものですか……
「ありがとう…ラッセン……」
いつも、そう言っている気がします。でも、もっともっと、たくさんの事を言いたいんです。なのに、こんな時には、どんなにアンジェレッタが望んでも、声は何一つ伝えてはくれません…それらの事をこそ、アンジェレッタは本当に伝えたいのですが……
でも、アンジェレッタがそう思った瞬間、ラッセンがそっと言ってくれました。
「アンジェレッタ……ありがとう…」
ちょっとびっくりしてしまいましたが、すぐに嬉しさが込み上げてきます。小さな胸の中に、黄金色の澄んだ波が満ちてくるんです。その《力》に素直に従って、アンジェレッタは顔を上げました。
健康的になった白い頬に、綺麗な微笑みが浮かんでいます。その笑顔を見て、ラッセンは自分でも驚いたことに、そっとアンジェレッタの額にキスをしてしまいました。
すぐに、透き通るような頬に赤みが差し、その赤みは喉元を下りたかと思うと、次には純白の服の中へと入っていきます。黒く濡れた瞳が下を向き、アンジェレッタは恥ずかしそうに身を縮めてしまいました。
でも、嬉しいんです。とっても嬉しいんです。たった一つの出来事なのに、無数の『言葉』がラッセンの心から流れてくるんです。アンジェレッタには、それがはっきりと分かりました。
だから、はにかみながらも、アンジェレッタはもう一度ラッセンの目を見上げることが出来たんです。
「…ありがとう……」
こんな自分を『好き』になってくれて、《本当》にありがとう……
アンジェレッタは、それ以上何も言わずに、そっとラッセンにキスを返していました…
空を等しく覆っていた霞が、少しずつ動いています。風の銀色の手でかき回されて、あちこちに濃淡が出来てきてるんです。渦を巻いて流れる白い毛布の隙間からは、やがて深い青空が覗き出していました。
太陽も、汽車の後ろの方でようやく顔を出しています。でも、何だか変なんです。だって、ラッセンとアンジェレッタが山に登り始めた頃にも、太陽は南の空に掛かっていました。なのに、太陽は未だにそこにあるんです。北へと向かっている汽車の中からは、もうとっくに山は見えません。いいえ、それどころか、もう汽車は草原まで戻ってきてるんです。
きっと、太陽はまだまだ西の空に下りたくはなかったんでしょう。淡い緑色の平原を眺め、時々現れる潅木に目を止めながら、何だかアンジェレッタは眠くなってしまいました。
まるで、夢の中にいるような気分です。アンジェレッタは、柔らかな笑顔を大切なラッセンに向けながら、そう口にしていました。
「これが全部『夢』なら、僕達もそうかも知れないね…」
その言葉を聞いて、アンジェレッタはちょっとびっくりしていました。
それは困ります。『夢』ならいつか覚めてしまうのではないでしょうか。ラッセンとも、一緒にいられないかも知れません。いいえ、一緒にいたいと思っている、この『自分』さえいなくなるかも知れないんです……
『夢』と『自分』の《差》なんて、何処にあるんでしょう? やっぱり、こうしてアンジェレッタと同じ大きさになっているラッセンも、『夢』なんでしょうか……
(でも…)
えぇ、例え『夢』のラッセンでも、アンジェレッタは一緒にいたいんです。それが覚めないのなら、アンジェレッタにとっては、自分達やこの世界が『夢』であっても別に構いませんでした。
でも……《本当》にこれが『夢』なら…
…覚めることはないんでしょうか?
少し前に、アンナさんはアンジェレッタが望まない限り、『夢』は覚めたりしないと言ってくれました。でも…何故か、不安なんです。アンナさんを信じていないわけではありません。いいえ、アンナさんの言葉は、信じるとか信じないとか…そう言うものではないんです。
でも、アンジェレッタには、その言葉の《本当》の『意味』を知る事が出来なかったのでしょう。
…いいえ、《本当》の『夢』を前にして、戸惑っていたのかも知れません。
何だか、急に眠れなくなってしまいます。
なかなか下りようとはしない太陽と、その光に照らされた草原とをぼんやりと見つめながら、アンジェレッタはずっと考え込んでしまいました。
ちっとも太陽が動こうとしないので、もうどれくらいの間、こうして草原の中を走っているのか分からなくなっています。何処までも透き通った青い空の中でも、点々と白く輝く雲がじっと流されずに漂っているんです。後ろへとあっと言う間に滑っていく草原では、木々の影が少しも転がってはいませんでした。
動いているのは、この汽車と風だけです。でも、この汽車も風も、ずっと止まっていることなんて無いんです。それは、ずっと静止していることと変わらないのかも知れません。
ラッセンは、そんなことをぼんやりと考えながら窓の外を眺めていました。
青白い花が、線路に沿って並んでいます。その向こうでは、明るい若葉色の草々が、そよ風になびいて白や黄の可憐な花を時々隠しているんです。春に萌え出た葉を失っていない樹は、そのしなやかな枝を風の子ども達に遊ばせながら、小さくなるまで汽車を見送ってくれていました。
その時、行く手に何か灰色のものが見えてきたんです。あれは、いったい、何でしょう…ラッセンは、黒い瞳をじっと凝らして見つめていました。
草の海の上に、灰色の円柱が立ち並んでいます。建物の柱でしょうか。次々に、幾つも見えてくるんです。黒いくらいの青空を背にして、灰色のくすんだ列柱は、汽車を阻むかのように立ち並んでいました。
「何かしら…」
アンジェレッタも、少し考え事を止めて窓の外に首を出しています。二人が顔を見合わせて、再び視線を前に向けた時、アンジェレッタもラッセンも同時に声を上げていました。
「あっ!」
崩れかけた柱の群れの足下に、青く深い湖が見えてきたんです。白雲を写している波一つ無い静かな湖面は、まるでもう一つの空みたいです。
アンジェレッタとラッセンが互いの瞳を見つめた瞬間、二人はまた驚いて叫んでしまいました。
いつのまにか、二人はしっかりと手を握りあったまま、汽車から降りていたんです。短い草が、そっと足首をくすぐっています。心地好い香りが辺りに漂い、相変わらず空の上の方で輝いている太陽と共に、呆然としている二人を温かく包み込んでいました。
目の前には、向こう岸なんて全く見えないくらいに大きな湖が広がっています。その岸辺には、青草に囲まれて古い石の柱がたくさん並んでいるんです。
…なんて静かなんでしょう……湖面には、漣一つ見えていません。風にさえ、まるで動こうとしていないんです。湖は、ただ、そこに存在しているだけでした。
この、すぐ傍にある列柱だってそうです。影一つ動かさず、物音一つたてるわけでもありません。この柱も、昔は誰かの家だったのでしょうか。それとも、市場を囲んでいたのかも知れません。アンジェレッタの目には、かつてこの柱の下で歩いていたであろう人々の姿が見えるようでした。
でも、それだって静かなんです。今は、この柱だって、黙って一人で立っているだけです。何処か懐かしいのに、アンジェレッタとラッセンにとって、この風景はあまりにも孤独でした…
その時、思ったんです。こうして湖畔に立ち尽くしている『自分』だって、ここに存在しているだけなんです……この遺跡が、すでに終わってしまった『夢』の名残であるなら……『自分』との違いなんて、いったい何処にあるのでしょう?
ちょっと視線を落とした先に、しっかりとつないでくれているラッセンの手が見えています。…そうです。確かに、『自分』も『夢』なのかも知れません。でも、この遺跡とは違うところが一つだけあるんです。
えぇ、アンジェレッタは孤独ではなかったんです。
でも…やっぱり、いつか、この遺跡のように『自分』の『夢』は終わってしまうのかも知れません。それが悲しくて…いいえ、恐くて…アンジェレッタはラッセンをそっと見上げていました。
ラッセンは、にっこりと笑いかけてくれます。そして、優しく頬に手を添えてくれました。
「アンジェレッタ…『夢』には終わりなんて無いんだよ。ほら、見てごらん。この石の柱は一度終わった『夢』だけど、それは今、僕達の『夢』の中に存在しているんだ。だからね、多分……僕達も、誰かの『夢』の中に存在しているのかも知れないよ」
「ラッセン…」
えぇ、そうかも知れません。そして、『夢』が『夢』の中で続くのなら、それは無限に続く《永遠》なのです。いいえ、それは続く続かないの判断さえも越えたものなのでしょう。もしもそうなら、決してこの『夢』は覚めたりしないんです。
少し、嬉しくなってきます。でも、ちょっぴり、まだ心配なんです。そんなアンジェレッタの心を観て、二人を夢見ている《存在》はこの静かな『夢』の《本当》を少し示そうとしました。
まるで動こうとしない青い湖面は、何も変わらずに広がっています。でも、『何か』が動き始めているんです。アンジェレッタもラッセンも、その『何か』に気付くと、息をのんで次の動きを見守りました。
不意に、水面から微かな歌声が湧き起こってきます。澄んだ『言葉』は、緩やかなメロディーに乗って青空へとどんどん昇っていくんです。でも、アンジェレッタに届けられた歌声は、決して『音』ではありませんでした。あの、心の奥から響いてくる《声》のようです。それに…ちょっとアンナさんの『言葉』にも似ているかも知れません。
二人には、とっても残念なことに歌声の意味は分かりませんでした。でも、優しく柔らかな力が胸の中に広がってくるんです。…えぇ、今ではアンジェレッタにも分かっていました。この風景は、この『夢』は、今もまだ続いているんです。『夢』には終わりなんてありません…少し姿を変えるかも知れませんが、それは常に『たった一つ』なんです。
アンジェレッタがそう思った瞬間、歌声に導かれるように遺跡の柱の群れが輝き始めました。月の光のように銀色の透明な煌きは、柱の内側から溢れ出し、汚れた表面を走ったかと思うと……
「……!」
柱の中の銀色の光は、次の瞬間、大きく弾けていました。すぐ傍らに立っていたアンジェレッタとラッセンはもちろんのこと、辺りの大気も《永遠》の輝きに飲み込まれてしまいます…
その、とっても力強くて温かな光の渦に抱かれながら、二人はそっと幸せそうに目を閉じていました。
『湖畔の遺跡』おわり