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10.風の山

 ところが、とても残念なことに霞が出てきたようです。左右に見えていた雪に煌く山々は、少しずつその姿を隠そうとしています。青かった空も、白くぼんやりとした雲で覆われてしまいました。

 そろそろ頂点に辿り着こうとしていた太陽も、その光をうっすらと滲ませてしまいます。ちょっと悲しくなって、アンジェレッタとラッセンは互いに顔を見合わせました。

 汽車は、もう随分と高い所まで登ってきています。後ろを振り返ると、あの素晴らしい草原がとても遠くに見えるんです。木々も小さくて、まるで砂粒のようです。その薄い若葉色になってしまった草の原に、細く銀色に輝く線路だけが、二人の目にもはっきりと分かりました。

 それでも、こんなに高い所まで来ているのに、あの虹の海は見えてきません。そんなにも遠い場所から、一緒に汽車で旅をしてきたんです。そして、その旅はもっともっと、これからも続いていくんです。二人で、一緒に……

 それがどれだけ幸せなことか…ラッセンが瞳を下げると、その視線はアンジェレッタの微笑みにぶつかりました。少し恥じらいながらも、ラッセンもアンジェレッタも、素敵な微笑を浮かべて小さく頷いています。えぇ、そうですとも。ずっと、ずっと一緒なんです。それが《本当》なんです。

 その時、少し汽車の速度が遅くなりました。ゆっくりと、止まろうとしているんです。顔を出して前を見ると、白い柱の並ぶ小さな駅舎が二人の目に入りました。

「降りてみようか、アンジェレッタ」

「えぇ」

 アンジェレッタの細く美しい指先をしっかりと握りながら、ラッセンはすぐに通路に出て、広くなった車内を扉へと向かいました。

 外に飛び出した瞬間、爽やかな風に包まれます。駅を囲む草々も、その風に身をなびかせながら心地好い歌をうたってるんです。…でも、駅の中は少しだけ静かな雰囲気に満ちていました。薄く力を弱めた太陽に照らされて、微かに輝いている純白の柱のためでしょうか。でも、その沈黙は恐いものではなく、温かな安らぎでいっぱいだったんです。

 アンジェレッタとラッセンは、黙って駅の外へと向かいました。左手に、今までずっと汽車が目指していた山の頂上が見えています。とっても短い草に覆われたその斜面は、簡単に登っていけそうな気がしました。

「行きましょう? ラッセン」

「よし」

 ずっと、六年間も部屋から出られずにいたなんて思えない元気さで、アンジェレッタは歩き出しています。道なんてありません。でも、アンジェレッタにもラッセンにも、登っていくべき『道筋』は分かっていました。

 強い風の下、一歩ずつ足を出していきます。小石が多く、思ったよりも歩きにくそうです。

「ほら、気を付けて!」

 転びそうになったアンジェレッタを、慌ててラッセンは支えていました。二人の手は、今もずっと離れずに互いを握り締めています。

「ごめんなさい、ラッセン…」

 小さな声に、ラッセンは快活に応えていました。

「ありがとう、だよ。アンジェレッタ」

「…ありがとう……」

 アンジェレッタは嬉しそうに微笑むと、ラッセンの手を、もっと強く握っていました。

 すぐに、また歩き出します。急な斜面で幾度転げ落ちそうになっても、二人の指先は絡まったまま、絶対に離れることはありませんでした。


 もう、随分と登ってるんです。後ろを振り返ってみると、駅舎の白い屋根もとっても小さくなっています。停車している二両の汽車が、おもちゃのようにしか見えなくて、ちょっとアンジェレッタは恐くなってしまいました。

 急いで、前に向き直ります。すると、ハイマツのくすんだ緑色の群生が目に飛び込んできました。もう、すぐそこで幹を地面に這わせてるんです。あの中に入っていくんでしょうか。道は無いのですから、作るしかありません。あのちくちくしそうな木の中に、道を作るんです…

 ラッセンも、ちょっと考え込んでいました。頂上は、右手に見えています。ハイマツは頂上のすぐ下辺りでは無くなっているんです。あそこまで、回っては行けないのでしょうか。

 じっと、回り道を探してみます。ここから見る限り、ラッセンには危険そうな所は見付けられませんでした。もう一度確かめてから、傍で待っているアンジェレッタに振り返ります。

「アンジェレッタ、ここから真っ直ぐ右に曲がって、遠回りをして頂上に行こうか」

「えぇ」

 ラッセンは、きちんと自分の事も考えてくれて、そして尋ねてくれたんです。アンジェレッタは、すぐに信頼しきった目で頷きました。

 この山の尾根は、左の方から少しずつ上がって頂上に向かっています。二人はしっかりと手を握りあったまま、その尾根から吹き下りてくる風に抱かれて右に曲がって歩き出しました。

 透明な緑色をした草々を踏むたびに、ふわっと強い香りが立ち上ってきます。風にあおられて地面に頭をつけようとしているのに、草の間から聞こえる歌声はとても優しくて心地好いものなんです。黒く豊かな髪を激しく乱しながら、アンジェレッタはその音色に耳を澄まし、そっと微笑んでいました。

 やがて、頂上がすぐ上に見えてきます。もう、周りにはハイマツもありません。ここからは真っ直ぐ、あの頂上まで行けるはずです。

「もう少しだからね、アンジェレッタ」

「えぇ。ラッセンこそ、大丈夫?」

 自分をずっと風や小石から守ってくれていたラッセンに、アンジェレッタは心から心配して尋ねていました。でも、ラッセンは屈託も無く笑っています。

「平気だよ。ありがとう、いつも心配してくれて」

 慌てて、アンジェレッタは首を左右に振っていました。そんな、ラッセンを心配するなんて『当然』なんです。

 ラッセンは、いよいよ微笑みを深めています。その幸せそうな笑顔に、アンジェレッタも嬉しくなってこれ以上無いくらいに素敵な笑顔を浮かべていました。


 並んで、頂上へと足を踏み出します。幸運にも、灰色の石が少し不規則な階段を作ってくれているんです。アンジェレッタとラッセンは、交互に足場を確かめながら、慎重に一歩ずつ登っていきました。

 もう少しで頂上です。ラッセンはその視線を下ろした後、今までのように石に足をかけていました。

 でも、その石はしっかりと土の中に入ってなかったんです! ぐらっと大きくラッセンの体が揺れたかと思うと、石と一緒に落ちていこうと……

「ラッセン!」

 アンジェレッタは、両手でラッセンの手を掴むと、必死になってしがみついていました。目をきゅっと閉じて、力いっぱい、ラッセンの手を握り締めているんです。自分も下に落ちそうになりながらも、アンジェレッタは決して手を放そうとはしませんでした。

 不意に、力が抜けてしまいます。アンジェレッタは、まだしっかりとラッセンの手を掴んでいることを確かめながら、こわごわと黒い瞳を開けました。

 目の前で、ラッセンが感謝の色を満面にたたえて笑っています。えぇ、ちゃんと傍に立っていてくれたんです。アンジェレッタはその無事な姿を見ても手を放さず、ちょっぴり涙を流してしまいました。

「ごめんね、アンジェレッタ。大丈夫かい?」

 えぇ、大丈夫です……

 ラッセンが無事でいてくれたのが嬉しくて…でも、さっきの場面はとても恐くて…アンジェレッタは、しばらく声も出さずに泣いていました。その時、しっかりと握っていた両手の上に、温かなものが添えられます。霞んだ目に見えたのは、ラッセンのもう片方の手でした。

「ありがとう…ありがとう…」

 ラッセンの、真剣な呟きが聞こえてきます。

 二人は、しばらくそのまま動こうとはしませんでした……


 ようやく、頂上に辿り着きます。でも、その途端、アンジェレッタとラッセンは物凄い風に吹き飛ばされそうになりました。

 登ってきた斜面の反対側は、とても切り立った崖になっているんです。はるか下の方から、風は容赦なく吹き上がってきます。

 二人は急いで、傍に幾つも立っていた黒い石に掴まりました。

 これで、やっと周りを眺める事が出来ます。

「わ…あぁ…」

 そんな声を漏らした後、アンジェレッタもラッセンも、もう一言も口にすることは出来ませんでした。

 なんて、素晴らしい風景なんでしょう! 風が駆け昇ってくる崖の下には、とっても大きな森が広がっています。その淡い緑色の波は、左手に見える山並の裾野を緩やかに覆った後、遠くにそびえる雪山まで延びているんです。雪山の広い足元は白く霞み、上へ行くほど少しずつ青みを取り戻しながら、柔らかく二人の視線を受け止めていました。

 そこから右手は、ずっと白い幕に隠されて、何も見えていません。まるで、風に流れる海みたいです。黒い岩にしっかりとしがみつき、片手にはアンジェレッタの指先を握り締めながら、不意に、ラッセンはその白い波の向こうに美しい山脈を認めていました。

 たなびく靄の中から、青く染まった山頂が姿を現しているんです。その素肌には汚れ一つ無い、純白の雪のレースが掛けられています。なんて美しいんでしょう…その山々は静かに、ただ黙って佇んでいます…

(綺麗だね…)

 まるで、アンジェレッタみたいです……

 でも、ちょっと冷たいかも知れません。いいえ、優しくも見えます。

 ラッセンには、どんな『単語』で表現すればいいのか分かりませんでした。それなのに、山脈はあらゆる『言葉』で話しかけてくるんです。そっと、深く、厳しく、慎ましやかに…

「…きっと…神さまは、あんな素敵なところに住んでおられるのね……」

 アンジェレッタの、とっても微かな声が聞こえてきます。目にすることは出来るのに、あの山々はどんなに遠く離れていることでしょう。

 アンジェレッタの青い瞳には、いつしか憧れの光が浮かび上がっていました。

「行ってみたいね…」

 ラッセンも呟いています。アンジェレッタは、その言葉が嬉しくて、そっと握った指に力を込めていました。あの厳かで美しい峰に、いつか行くことが出来るのなら…

 …えぇ、勿論…それは、ラッセンと一緒に、です……

 その時、不意に二人の胸の中で『何か』がはっきりと湧き上がってきました。その『何か』は《声》になって、アンジェレッタとラッセンに話しかけています……

(きっと、行けるんだ。…アンジェレッタと一緒に……)

 えぇ、そうです。きっと、そうなんです。

 『時間』の無い世界に、『いつか』なんてありません。ですから、『いつか』行くことが出来るのなら、それは行かなくてはならない時に、必ず行くことになるんです。

 そして、アンジェレッタもラッセンも、あの山へと行かなくてはならない……そう、《声》は約束してくれました…

 青く澄んだ瞳も、黒く輝く視線も、共に白い靄に覗く山並から動こうとはしません。でも、雪に煌く山脈を見つめたまま、無数の黄金色の『言葉』は二人の間を行き交い、音も無く銀色の光を放ち続けています。

 指先は強風にも負けず、これ以上無いくらいにしっかりと、互いに絡み合っていました……

                                                                       『風の山』おわり


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