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1.天使の住む家

 …真っ暗です。ここには、何も……星だって、見えていないんです。

 いったい、何処なんでしょうか…

 ………ふわっ……

(あっ!)

 目の前で、長い髪の毛が揺れています。自分と同じ黒髪をした女の子が、少しずつ離れていこうとしているんです。

(あれは…)

 駆け始めた後ろ姿が、青白い光に照らされています。えぇ、そうです。見間違えるはずもありません…

「姉さん! エルサ姉さん!」

 大きな声で叫んでいるんです。聞こえないはずがないんです。なのに、どうしてエルサ姉さんは立ち止まってくれないんでしょう。

「待って! 僕も行くよ」

 ……でも、足は少しも動いてくれませんでした…

(ラッセン、待っててね。すぐにネクトルの実を採ってきてあげるから)

「止めて、エルサ姉さん!」

 一瞬、ラッセンはにっこり微笑んでくれるエルサ姉さんを見た気がしました。

 その時、真っ暗な闇の中に、大きく光る二つの星が浮かび上がったんです。

 ……いいえ、星ではありません。あれは…

「危ない!」

 ネコの目です。冷たく輝いた、残忍な瞳……

「エルサ姉さん…!」

 力いっぱい、ラッセンは叫んでいました。本当に、力いっぱい……

 ……次に見えたのは、鮮やかな赤い空でした……


 …………………………………………


「うわぁぁっ!」

 粗い生地の掛け布団を握り締めながら、ラッセンは跳ね起きてしまいました。体中に、冷たくて気持ちの悪い汗が流れています。…寒いんです。どうしても、体の震えを止める事が出来ません……

 小さくなってきたベッドの上で、ラッセンは大きく息を吸い込むと、顔を布団に押し付けました。

 ……駄目です…涙は、布団に吸い込まれるよりも早く溢れてきます…

 しばらく泣き続けた後、ラッセンはようやく顔を上げる事が出来ました。濡れた黒い瞳が、すぐ横にしつらえたままの、もう一つのベッドに向けられます。天上から吊り下げられたランプの、抑えられた明かりに照らし出されるそのベッドには…もう、眠る人もいないんです……

 …また、ラッセンの幼い頬を、白い滴が伝い落ちていきます。

 ラッセンはきゅっと手を握ると、次にはベッドから飛び降りていました。そして、そのまま粗末な木の扉を勢いよく開けると、まだ朝の来ない森の中へと走り出してしまいます。

 ……まるで、何かから逃げようとでもするように…


 遥かな頭上に見えている青葉が、朝一番の光に誘われて緑色に輝き始めています。虫達も、うっすらと森の中に入り込んできた波に気付いて、歌の練習を始めています。そんな彼等をからかうように、小鳥達は見事な囀りをそこかしこで披露し始めました。

 …でも、ラッセンにとって、それらは何の慰めにもならなかったんです……

 古く苔むした切り株を背にして、また少し、泣いてしまいます。もう、幾度泣き止もうと決心した事でしょう…十歳なんだから、もう、小さい子供みたいに泣いたりしないんだ、って……でも、いつも涙は裏切って流れ出すんです…

 気の早い光の泡が、切り株にある扉の上で踊っています。ぼんやりと、何も考えないように、ラッセンはその泡を視線で追っていました。

 その時、不意に上から力強い羽ばたきが聞こえてきます。でも……ラッセンは、逃げる気もありませんでした…

「…また、眠れなかったようね、ラッセン……」

 優しい声がします。すぐ傍に舞い降りてから、初めてラッセンは瞳を向けました。

 赤くて丸い目が、そっと見守ってくれています。羽の縁は赤茶色をしていて、首の両側には青と白の綺麗な模様が編み込まれているんです。その人の体は、自分の背丈の二人分はあるでしょうか。いつも気にしてくれる、キジバトさんです。

 ラッセンは、頬に付いた涙の跡だけを拭って、正直に頷きました。キジバトさんは、痛ましそうにそんなラッセンを見ると、小さくデ、ポーゥと啼いてしばらく切り株の周りを歩き回りました。

「ねぇ…ラッセン。どうかしら…引越しをしてみない?」

「…え?」

 突然の言葉に、驚いてしまいます。ですが、キジバトさんはとっても真剣にラッセンを見ていました。

「もう、ここには住めないでしょう? 辛くなるものばかり、あるんですもの。だから、そういったものは全部ここに置いて、引越しをしてしまうの。人間の家だけど、いい所を知ってるのよ」

「だけど、僕は…」

「重い荷物なら、私が運んであげるわ。…ね? そうしなさいよ」

「キジバトさん……」

 じっと、見つめてきます。引越しだなんて…そんなにすぐ、決められません。確かに、ここには悲しいものばかりがあります。何を見ても、思い出してしまうんです…でも、それらを全部置いていくなんて……

「…僕には、分からない。…考えておくよ。ありがとう、キジバトさん」

「本当に、考えてみて。私なら、いつでも手伝ってあげるわよ」

 温かな声でそう言うと、キジバトさんは羽を広げて舞い上がりました。

「夕方、また来るわ」

 柔らかな言葉が降り注いできます。でもラッセンは、何も応えずに飛び去っていく後姿を見送るだけでした。

 初夏の緑葉の隙間から覗く空が、だんだんと白くなってきています。溢れてくる光に乗って、涼やかな風は草の強い薫りと共にラッセンを包み込みました。何だか、とっても新鮮な気分なんです。何かが、胸の中で弾けようとしているんです。

 ラッセンは小さく頷くと、切り株の扉を開け、辛い思い出ばかりの詰まった家へと入っていきました。


 …………………………………………


 さぁ、キジバトさんに運んでもらう荷物は、これでやっと終わりです。ラッセンは、今度は自分の運ぶ荷物をまとめようと家の中に入りました。

 何だか、ぽっかりと空き地が出来たみたいです。エルサ姉さんの物は全て置いていくのですが、それでもあちこちに《穴》が見えます。小さな衣装ダンスの跡や、解体したベッドの跡。そこだけが、何処か白くて不自然なんです。

(もう、ここは僕の『家』じゃなくなったんだね…)

 えぇ、そうなんです。ここには、エルサ姉さんと一緒だったラッセンが住んでいたんです。それは、《今》の自分とは違うんです…

 ……溢れそうな涙を感じて、ラッセンは慌てて簡単に荷物をまとめました。ほとんどの物はキジバトさんが運んでくれましたから、持っていくのは小さな袋一つだけです。しっかりと紐を締め、肩に担ぎ上げると、ラッセンは急ぎ足で扉を抜けようとしました。

 でもその時、目に入ったんです。残されたベッドの脇にある、机の上の可愛い髪飾りが……

 不意に、豊かな黒髪が目に映ります。その黒い流れの中で、髪飾りはそこにある事が当然であるかのように、白く眩しく輝いているんです。これは、ラッセンが何ヶ月もかけて作った物です。とっても喜んでくれたエルサ姉さんは、いつもこの髪飾りを左耳のすぐ上に留めていました。

 …そう、あの時も……

(エルサ姉さん…)

 駄目です、今にも泣き出してしまいそうです。ラッセンは歯を食いしばって、敷居を越えようとしました。

 ……でも、出来ないんです。体が、少しも動いてくれないんです…

 必死で耐えようとする心に反して、ラッセンの右手は机の上に伸びていきます。そして、その指先が髪飾りを掴むや否や、ラッセンは外に飛び出していました。

 もう、何も言いません。ラッセンはしっかりと握った髪飾りを、黙って袋の中へと仕舞い込んでしまいました。

 大きく、でも少しほっとした溜め息が零れます。今は落ち着いた気分で、ラッセンは扉を閉めてしまいました。

 気が付けば、夕暮れ時から始めていたのに、もう朝になろうとしています。愛らしい枝葉の向こうでは、星がうっすらと光を弱めているんです。すぐにでも、朝の早いヒバリは消えかかる星に向かって舞い上がることでしょう。

 ラッセンは、改めて草の間から見える、住み慣れた古い切り株を振り返りました。厚い深緑の苔に覆われたこの家とも、今日でお別れです。…もう、二度と戻ってくることはないでしょう……そんな事をすれば、どうしてもエルサ姉さんの事を思い出してしまうのですから……

 もう、泣きたくはないんです。えぇ、もう、泣きません…

「…じゃぁ、行ってくるね。姉さん」

 ロートゥ川を越えた所にある、スイールと言う名の人間の町に住む事になったんです。ラッセンにとっては、初めての人間の家です。でも、キジバトさんは何も心配ないと言ってくれています。それに、何よりも大きな屋根がありますし、水も食料もすぐに手に入るんです。一人になったラッセンには、それはとても大切な事でした。やがて来る冬にも、きっと凍えなくて済むでしょう。

(だから、安心してくれていいんだよ。エルサ姉さん)

 一緒に行くんだったらいいのに…ちらっと、そんな考えが浮かびます。

 でも…それは無理な話です……

 再び濡れ始めた瞳で、ラッセンは最後にもう一度切り株の扉を眺めると、そのまま背中を向けて歩き出しました。

 一度も、振り返る事はありません。明日の夕方には、きっと荷物の整理も終わっていることでしょう。


 …………………………………………


 白いカーテンが、朝の光を受けて輝き出しています。部屋の中にある、たくさんの本が並んだ棚も、もう、ぼんやりと暗がりから見えてきているんです。

 アンジェレッタは、いつものようにベッドから起き上がると、静かに淡い黄色の肩掛けをしました。そして、ゆっくりと窓辺に近付いて…そっと、カーテンを引きました。

 素晴らしい光の波が、アンジェレッタの純白の寝間着を照らし出します。青白い腕や、細い足も、この時ばかりは健康を取り戻した気がします。

「素敵な青空…」

 澄んだ声が、幼い唇の間から流れ出します。アンジェレッタは、微かに笑みを浮かべると、音も無く窓を押し開けました。

 クリーム色をした石壁が、金色に燃え上がっています。すがすがしい空気を胸いっぱいに吸い込むと、アンジェレッタはその黒い瞳をずっと高いところにある空へと向けました。

 もう、あの空の下に出歩く事が出来なくなって…いいえ、部屋からさえも出られなくなって、六年になります。今度の誕生日で、アンジェレッタは十二歳になるんです。気分が良くて、熱もあまり無ければベッドからは出られるんですが…もう、アンジェレッタには、すっかり今の生活が『当たり前』になってしまっていました。

 下の方で、扉の開く音がします。お父さんです。アンジェレッタが良く知っているように、今日もその音と一緒に左隣のスコットさんが出てきました。

 まだ少し、朝の光を受けるには間がある細い石畳の道で、いつも通りに挨拶をしています。そして、これもいつも通りに、アンジェレッタに帽子を振ってくれました。

「おはよう、スイールの可愛い天使さん!」

「おはようございます、スコットさん」

 陽気な言葉に、思わずにっこりしてしまいます。例え、いつも同じ言葉でも、嬉しいんです。

 どんな時でも楽しそうなスコットさんが教会の方へと曲がってしまうと、今度は前のタックさんの家が動き始めました。その物音が大きくて乱暴だと、いつもアンジェレッタは、はらはらしてしまいます。そんな時は、きっとタックさんとチェルナさんは喧嘩をしているんです。

 あぁ、でも今日は大丈夫みたいです。さっと黒い扉が開いて、タックさんが飛び出してきました。でも、どんなに急いでいても、必ずタックさんはアンジェレッタを見上げてくれます。

「やぁ、おはよう、アンジェレッタ」

「おはようございます、タックさん」

「ほら、急ぎなよ、あんた!」

 威勢のいい声が、追いかけてきます。タックさんはそれを聞くと、慌てて坂を下っていってしまいました。

「おはよう、アンジェレッタ。今日は気分はどうだい?」

 家を出てそんなタックさんを見送った後、チェルナさんは優しく尋ねてくれます。アンジェレッタも、そっと微笑んで応えていました。

「えぇ、とてもいいんです」

「そりゃぁ、よかった。天使はいつも笑ってくれてなくちゃね」

 そう言って、豪快に笑い出しています。本当に、びっくりするような人なんです。アンジェレッタは、朝のこの挨拶だけで、どんなに辛い事も夕暮れ時まで忘れていられるんです。

 今度は、お父さんです。今日も山に木を伐りに行くんです。

「行ってくるよ、アンジェレッタ。無理はしちゃ駄目だぞ」

「はい、お父さん。行ってらっしゃい、頑張ってね」

 何もかもが、いつもと同じなんです。ほら、ヴェルンドさんも、ロートゥ川から戻って…

 どうしたんでしょう。少し、俯きかげんです。アンジェレッタは、透き通るような青い瞳を心配で翳らせながら、胸に手を押し当てて待っていました。

「…おはようございます、ヴェルンドさん」

「あぁ、おはよう」

 そのまま、坂を上ってしまいそうでしたが、ヴェルンドさんはアンジェレッタの辛そうな顔を見て立ち止まってくれました。

「今朝は駄目だったよ、アンジェレッタ。ほとんど魚が獲れなかったんだ…」

「…今日は、お魚さんの機嫌が悪かっただけです…明日はきっと、たくさん獲れると思います。ヴェルンドさんなら、大丈夫です。だから…元気を出して下さい」

「アンジェレッタ…」

 心から、心配しているんです。そんなアンジェレッタの姿は、声に出した以上の事をヴェルンドさんに伝えていました。

 ふっと、険しかった顔が優しく緩んでしまいます。ヴェルンドさんは、柔らかな声でアンジェレッタに言いました。

「有り難いことだ。アンジェレッタがそう言ってくれると、明日は本当に獲れそうな気がするよ。やっぱり、アンジェレッタは俺達の天使だな」

「そんな…」

 毎日の事ですが、これでは褒められ過ぎというものです。

(わたしなんて、何も出来ないのに…)

 アンジェレッタは知らなかったんです。どれだけ、みんながアンジェレッタの姿に安らぎを得ているのかを。確かに、病気で痩せていますし、元気だとはとても言えません。でも、『何か』があるんです。

「おはよう、アンジェレッタ。よく眠れたかい?」

 外階段のある家から今出てきたばかりのフレッドさんは、かつてみんなに、それはアンジェレッタの真心だと言っていました。

「ありがとうございます、フレッドさん。今日は、気分もいいんです」

「そいつはいいな。よし、じゃぁ今日は楽しくなる曲でいこうか」

 綺麗な髪をしたフレッドさんは、すぐに家の中に入ると竪琴を持ち出しました。やがて、その指先からは素敵な音色が風に抱かれて広がっていきます。

 アンジェレッタは、温かな日差しにそっと包まれながら、静かに耳を澄ませています。その時、一羽のキジバトさんが、すぐ窓の下にある庇にとまったんです。この鳥も、フレッドさんが竪琴を奏でてくれている時の常連さんでした。

「キジバトさん。今日は、どんな楽しい出来事を運んでくれるの?」

 いつも、そうです。キジバトさんは灰褐色の首を僅かに傾けて、まるでアンジェレッタの質問に応えてくれるかのように啼いてくれるんです。小さく、そっと優しく…

 そんな仕草と『言葉』に、アンジェレッタの胸は少しどきどきしてしまいました。いったい、どんな楽しい事が起こるんでしょう? 今日は、ずっと熱が下がったままなんでしょうか。それとも、発作も無くて静かに一日を過ごせるんでしょうか…

 ゆったりとしたフレッドさんの音色は、そんないつもと変わらないアンジェレッタの朝をそっと見守り、清澄な陽光へと溶け込んでいきました。


 今日は、キジバトさんが教えてくれたように、発作も無い穏やかな一日でした。ですから、アンジェレッタは、ベッドの上で窓の外ばかり見ていたんです。

 もう、部屋の中は薄暗くなっています。幾つか並ぶ本棚も、ぼんやりと煙って見えるんです。アンジェレッタは、夕陽が残してくれた茜色が全部空から消えてしまうと、小さく溜め息を吐いてしまいました。

 いつも、そうなんです。朝はあんなにも素敵な気分なのに、夕方になると悲しくなってくるんです。今日も、結局は今までの『毎日』と同じ一日だったんです……

 発作がなくて、気分が良くても…アンジェレッタには本を読むか窓の外を見る事しか出来ませんでした。誰もこの部屋には入れてもらえないので、この六年間というもの、アンジェレッタはお母さんとお父さん、そしてお医者さまとしか近くでお話しする事はなかったんです。

 どんどん、部屋の中も外も暗くなっていきます。アンジェレッタは、その綺麗に澄んだ青い瞳を悲しみに染めながら、もう一度溜め息を吐いてしまいました。

 灯りも点けずに、細くて青白い腕を傍の台へと伸ばします。そこには、オルゴールがあるんです。アンジェレッタは、いつも眠る前にはこのオルゴールを聞くようにしていました。とっても悲しくて、でもとっても透き通った音楽は、こんな夕暮れのアンジェレッタにぴったりなものなんです。

 静かな音色が流れ出します。射し始めた月明かりの中で、銀色の踊り子がゆっくりと回り続けます。

 アンジェレッタはじっとその銀色の煌きを追いかけた後、黙って櫛を手にして背に流れている黒髪を整えました。

 やがて…音の葉が緩やかに床へと舞い降りようとする頃、アンジェレッタはいつもと同じようにベッドの上で目を閉じました。


 …………………………………………


 どれくらい、時間が過ぎたんでしょう。ゆったりとした黄金色の川に身をゆだねていたアンジェレッタは、何か微かな物音に気付き、その可愛らしい瞳をうっすらと開けました。

(……!)

 …床の上の…あれは、何でしょう。窓から射し込んでくる銀の月の光の中で、黒くて小さな影が踊っているんです。古く色褪せた床板が青く輝いている中で、その影はただひたすらに舞い踊っていました。

 ベッドに横になったままで、アンジェレッタは息をする事も忘れてしまいます。…これは、『夢』なんでしょうか?

 熱の下がった日にだけ掃除する床の上で、影はくるくると滑っています。とても素早いんです。もう、今ではアンジェレッタにも分かっていました。その小さな影は……人間と同じ姿をしているんです。小人なんです!

 自分に良く似た、濃い黒髪をしています。短いその髪の毛の下からは、ときどき月明かりに照らされて鼻や口までが見えているんです。

 …でも……どうしてか、アンジェレッタにはその小人が悲しんでいるように思えました。とても素晴らしい踊りをしているのに、何処か寂しそうなんです。

 いつしか、アンジェレッタの目は深い哀しみに彩られていました。

 その小人は、自分よりも少しだけ年下のように見えます。アンジェレッタは、その辛そうな様子に思わず口を開いて声をかけようとしましたが、もう少しのところで止めてしまいました。だって…恐がらせたくはなかったんです。きっと、この小人の男の子は、自分が目を覚ましているなんて思ってもいないでしょう。

 その時、急に空の月が雲に隠されてしまいました。窓の形に切り取られた床の上の光も陰り、消えていこうとしています。銀色の波が引いていくと、小人は踊り舞う事を止め、とぼとぼと部屋の隅へと歩き出していました。

 じっと、優しさに満ちた瞳が追いかけます。その小さな男の子は、やがて本棚の隙間にあった古いネズミの穴に入ってしまい、もうそれからは戻ってきませんでした。

 しばらくの間、動く事が出来ません。ベッドの上で身を支えながら、アンジェレッタは大きく息を吸い込んで……そして、ほーっと吐き出しました。青白かった顔は、ここ何年間も見られなかったくらいに明るく輝いています。とっても素敵な事が起こったんです。ぜひとも、アンジェレッタはあの小人の男の子とお友達になろうと決めてしまいました。

(明日の夜も、来てくれるかしら…)

 やつれた頬に嬉しそうな笑みを浮かべて、もう一度アンジェレッタは眠ろうと横になりました。そっと、目を閉じます。

 …月の光が床の上に戻ってきた時、その小さな唇の間からは、安らかな寝息が漏れていました。


 さぁ、ようやく朝になりました。いつものように、アンジェレッタは肩掛けをすると、窓辺に近寄り外を眺めました。

 スコットさんが、お父さんと挨拶を交わしています。昨日と全く同じように風景は流れているんです。ほら、ヴェルンドさんも今日は嬉しそうな顔で話しかけてくれます。アンジェレッタは、素直な喜びと共にそんなヴェルンドさんを坂の上まで見送りました。

 でも、やっぱり何かが違うんです。いつもと同じようにフレッドさんは竪琴を奏でてくれます。あのキジバトさんもその傍で耳を傾けています。でも、やっぱり何もかもが違って見えています。フレッドさんにお礼を言って部屋の中を振り返った時、アンジェレッタはちょっと心配そうに本棚の隙間に視線を送りました。

 昨夜の小人の姿が、鮮やかによみがえってきます。心配そうだったアンジェレッタの頬にも、知らずに優しい微笑みが浮かび上がっていました。

 どうすれば、あの男の子とお友達になれるでしょう。白い寝間着のままでベッドに戻った後も、ずっと考え続けます。でも、あまりいい考えは浮かんできません。

 ずっと、ずっと真剣に考え続けます。お母さんが、とても気分の良さそうなアンジェレッタに驚きながら朝食を用意している間も、昼食の片付けが終わった後も、まだアンジェレッタは考えていました。

 あれもこれも…やってみたい事はたくさんあります。でも、驚かせてしまって、もう会えなくなっては困ります。アンジェレッタは、あの小人の男の子とお友達になりたいだけなんですもの。

 夕食が並ぶ頃になって、ようやくアンジェレッタは決めました。ちょっとだけパンをちぎって、オルゴールの乗った台の引き出しに隠してしまいます。それから小さな可愛い紙を取り出して、アンジェレッタはそこに細い文字を書き始めました。

 少し悩みましたが、すぐにペンを置きます。一度だけ読み返した後、アンジェレッタは満足そうにくすくすと笑い出しました。これなら、きっと怒らせたり、怖がらせたりしないはずです。

 その紙もパンと一緒に仕舞ってしまうと、アンジェレッタはベッドの上から窓の外を眺めてどきどき胸を高鳴らせていました。

 本当に、お友達になれるでしょうか…

 夕食を、お母さんが片付けてしまいます。その足音が階下に消えてしまうと、びっくりさせないように今まで近寄らないでいたネズミの穴に、アンジェレッタはそっと近付いていきました。

 本棚の隙間、ネズミの穴の入り口に、さっき隠したパンと紙を静かに置きます。

(あの小人さんが、読んでくれますように…)

 小さな胸でそう願いながら、アンジェレッタは再びベッドに戻って横になりました。

 お父さんが、お母さんと一緒にお休みを言いに来てくれます。その後で、灯りが消されます。

 今日は、長く起きていてはいけません。目が覚めている事に気付いたら、きっと小人の男の子は出てきてくれないでしょう。

 でも…困った事に、そう思えば思うほど、眠れなくなってしまうんです。

 アンジェレッタは、温かな微笑みと共に、明日起こっているかも知れない出来事を思い浮かべていました。

 しばらくして……月は窓からそっと部屋の中を覗き込んでいました。その柔らかな銀の光が、暗闇の中の可愛い寝顔を浮かび上がらせています。

 オルゴールを聞く事も忘れ、ようやく眠りに就いたアンジェレッタの頬には、優しい微笑が残ったままでした。


 …………………………………………


 ……駄目です。せっかく新しい家に引っ越してきたのに…

 …一人で、部屋の中にいる事が出来ないんです。新しい家は、一人で住むには少しばかり大きくて……目は、どうしてもエルサ姉さんがいたかも知れない場所に向いてしまうんです…

 いるはずがない事は、よく分かっています。昼の間は、食料を集めに行ったりして忘れる事も出来るんですが…夜、一人になると、どうしても思い出してしまうんです。

「エルサ姉さん……」

 ずっと、二人で暮らしてきたのに…どうして、エルサ姉さんは自分を残していってしまったんでしょう……

 ラッセンは深くて重い溜め息を吐くと、作りたての椅子から腰を上げました。今夜も、あの女の子はぐっすりと眠っていることでしょう。少しだけなら、人間の住む部屋に入っても危険はないはずです。それに、キジバトさんもあの子にだけは、例え見付かっても大丈夫だと言ってくれていました。

 新しく付けた扉を抜けて、少し湿り気のある段を二階へと上って行きます。随分と遠いのですが、一階で暮らす人間の世界に入るよりは安全なんです。しかも、その部屋へと続く壁には、ちょうどいい大きさの穴をネズミが開けておいてくれていました。

「あれ?」

 その出口を、何かが塞いでいます。どこかのネズミが引っ越してきたんでしょうか。それとも、ネコでしょうか…

 素早く、階段の隅に身を潜めます。でも、少しも黒い物体は動こうとはしません。風も動きませんから、呼吸もしていないようです。独特の臭いや低い唸り声も、ラッセンには感じ取る事が出来ませんでした。

 しばらくの間待っていましたが、ようやく少しずつラッセンは動き始めました。用心しながら、一段ずつ近寄って行きます。あの人間の女の子が、何かを本棚の隙間に落としたんでしょうか。そう言えば、いつもはほとんどベッドから動こうとしないのに、今日はとっても気分良さそうに歩いていましたっけ。

(何か、便利な物だったらいいな)

 出口までもう少しという所で、不意にラッセンは足を止めました。甘い香りが漂ってきたんです。今はもう、ラッセンにも分かりました。あれは、大きなパンの塊なんです。

 慌てて走り出そうとしたんですが、その動きは途中で止まってしまいます。ラッセンは、少し厳しい目でその黒い影を見つめていました。どこかに、罠があるかも知れないんです。

 でも…どれだけ目をこらしてみても、床の上にあるのは自分と同じくらい大きなパンと、一枚の紙切れだけでした。

 そっと、音も無くラッセンは部屋の中に出ました。慎重に辺りを見回した後、まず、紙の方へと近寄ります。窓辺から射し込んでくる淡い月の光でも、そこに書かれた文字は読む事が出来ます。人間の言葉と文字を知っているラッセンは、その紙に書かれてある内容を、小さく声に出して読み上げました。

「昨日は、素敵な踊りを見せてくれて、ありがとう。あなたに会えて、とても嬉しかったんです。贈り物を受け取ってもらえますか? わたしの名前はアンジェレッタです。あなたの名前も、どうか教えて下さい」

 しばらくの間、何も言えません。とっても、とっても驚いていたんです。まさか、人間の女の子に見られていたなんて…しかも、贈り物までくれるなんて…

 人間は、とっても危険な動物です。いつも、罠を仕掛けて小人を捕まえようとするんです。そんな恐い話を、何度聞かされてきたことでしょう。このパンの中にも、毒が入っているかも知れないんです……

 ラッセンは、それでもパンの方に近付きました。その影から、女の子のベッドを見てみます。でも、アンジェレッタは、今日は眠っているようでした。

 緊張と恐怖の入り交じった顔で、今度はパンを見上げます。本当に、食べても大丈夫なんでしょうか。キジバトさんは、アンジェレッタはとても優しくて素敵な子だと言っていました。ラッセンがこの一週間見てきた限りでも、あの女の子は自分を捕まえるような人間には見えないんです。

 そっと、ラッセンは腕を伸ばしました。

 …少しだけ、ちぎってみます。

 ひとしきり、その欠けらを見回した後…体中を細かく震わせながら、ラッセンはそのパンを口に入れてしまいました。

 しばらく、待ってみます……

 でも、何も起こらないんです。やっぱり、これは本当の贈り物だったんです。ラッセンは喜んで飛び跳ねると、急いでその贈り物を小さくし、下の自分の家へと運び始めました。

 大きなものでしたから、全てを運ぶのは一苦労です。でも、それも終わると、ラッセンは今度は布に包んだ大きな炭の欠けらを両手で抱えて、女の子の部屋に向かいました。

 アンジェレッタの書いてくれたお手紙には、まだ下の方に余白が残っています。ラッセンは、そこに歩きながら力を込めて、一生懸命文字を書きました。

「おいしいパンを、ありがとう。僕の名前は、ラッセンです」

 少し字が曲がっていますが、人間の大きさに合わせるんですから仕方無いでしょう。ラッセンは一度読み返した後、満足そうに大きく頷きました。

 もう、今夜は踊らなくてもいいでしょう。いいえ。ラッセンは、もう踊りに来た事なんて忘れているんです。さっきまでの悲しみなんて全て洗い流して、ラッセンはパンが待つ家へと戻って行きました。


 …………………………………………


 まだ、朝の光は地平から覗いてはいません。ロートゥ川で漁をしているヴェルンドさんだって、網を上げ終えてはいないでしょう。でも、それでも待ちきれずに、アンジェレッタはベッドから起き出してしまいました。

 今まで、何年間も見せた事が無いほどに、生き生きとした目をしています。まるで、病気である事など忘れているかのようです。熱も下がり、気分がいい日にだけベッドから出る事を許されているんですが…

 薄明かりの中、ぱっと見ただけでパンが無くなっている事が分かります。嬉しくて幸せな笑顔が、抑えられずに満面に広がってしまいます。でも、弱った足では小走りすら出来ません。心は急ぎながらも、それでも無理せずにアンジェレッタは静かにネズミの穴の前まで歩み寄りました。

 お手紙は、昨日のままに残されています。あの小人は、文字が読めなかったんでしょうか。もしかすると、お話をする事も出来ないのかも知れません…

 でも、それでもお友達にはなりたいんです。アンジェレッタはしなやかな、やせた指先でその紙を拾い上げました。すると、驚いた事に何かが力強い線で書き加えられているんです。

「おいしいパンを、ありがとう。僕の名前は、ラッセンです」

 もう、どうしようもなく嬉しくて……アンジェレッタは、紙を両手で強く胸元に押し付けてしまいました。『夢』ではなかったんです。月明かりに踊りを舞っていた小人は、本当にいてくれたんです。…いいえ、それどころか、お友達にもなれそうなんです!

 でも、アンジェレッタは隙間に向かって話しかけようとはしませんでした。ラッセンが眠っているかも知れないからです。それに、まだ姿を見せたくないのかも知れません。ですから、アンジェレッタは決めました。今夜、もう一度お手紙を書くんです。そして、明日の朝、会ってお話をしてくれるように頼んでみるつもりです。

 『夢』でない事がはっきりした今、いつもはおとなしくて物静かなアンジェレッタも、どきどきしてじっと外なんて見ていられませんでした。大好きな本を読んでも、ちっとも集中出来ないんです。早く、夜になってもらいたいんですが…こればかりは、どうしようもありません。

 すっかり、アンジェレッタは熱がある事なんて忘れてしまっていました。

 小人のラッセンのために、今日はチーズを一切れ引き出しに隠しておきます。お手紙も、もう何度も何度も書き直してしまいました。

 明日の朝、本当にラッセンは会いに来てくれるでしょうか…

 ようやく訪れた夕暮れの中で、アンジェレッタはお手紙とチーズの欠けらを穴の傍に置きました。そして、ベッドまで静かに戻ると、期待と不安の入り交じった幼い胸で、掛け布団の中に潜り込んでしまいます。

 オルゴールは、今夜も音色を奏でる事無く、静かにたたずんでいました……


 …………………………………………


 今夜は、悲しみからではなく、興味と期待からラッセンは二階へと向かっていました。

 アンジェレッタは、あの返事を読んでくれたでしょうか。今日の昼間は、何だかその反応を見るのが恐くて、ずっと外に出ていたんです。でも、ずっとずっと、ラッセンはあの返事が気になっていました。

 アンジェレッタの部屋にもう少しの所で、不意に素晴らしい香りが漂ってきました。この香りは……チーズです! ラッセンは、もう用心なんて忘れて、最後のいくつかの段を駆け上ってしまいました。

 薄く流れる闇の中に、運びやすい大きさのチーズが見えています。その傍には、今度も可愛らしい花柄をした紙が添えられていたんです。ラッセンは、昨日と同じようにまずそのお手紙を読み始めました。

「ラッセン、お名前を教えてくれてありがとう。本当に嬉しくて、なんて書けばいいのかよく分かりません。お願いです、ラッセン。明日の朝、会いに来てくれませんか? 誰もいなくなれば、合図にオルゴールを鳴らします。もしよければ、お友達になってもらいたいんです。わがままなお願いだって分かっています。でも、お願いです、ラッセン。

 待っています」

 ラッセンは、何度も何度もそのお手紙を読みました。綺麗で素直な字と、そこに流れる大きな想い…優しさと寂しさが、どちらもよく伝わってくるんです。

 ……でも、今夜は返事も書かずに、ラッセンはチーズだけを持って部屋に戻ってしまいました。

 誰もいなくなった床の上を、月の光は銀色に照らし出していきます。もう、ラッセンはその光の中で踊る必要は無さそうでした。


 …………………………………………


 とてもがっかりした事に、お手紙に返事は書かれていませんでした。でも、チーズは無くなっているんです。アンジェレッタは、黙ってそのお手紙を引き出しにしまうと、朝食のパンもまた一切れ隠しました。

 ラッセンは、お手紙を読んでくれていないのかも知れません。いいえ、昨日はラッセンが来ずに、ネズミにチーズを持って行かれたかも知れないんです。

 それでも、アンジェレッタは合図をしてみるつもりでした。今日が駄目でも、明日も明後日もあるんです。これからも毎晩、同じ手紙を置いておけば…いつかは……

 今日は、スイールの隣町から来たお医者さまに検診してもらう日です。いつもと同じように、お医者さまは優しく声をかけてくれました。そして、同じ薬を調合してくれたんです。

 ようやく、そのお医者さまの馬車の音も、石畳から消えてしまいました。これで、もう昼食の準備までは誰も部屋に入ってこないはずです。いよいよ、合図をする時が来たんです。

 こんなに、どきどきする事が病気になってからあったでしょうか。もう、六年間も同じ事を続けてきた生活に、『何か』が加わろうとしているんです。

 太陽の下で遊ぶ事のない腕は、少し震えながら台の上のオルゴール人形を引き寄せました。大きく、深く息を吸い込んで……アンジェレッタは、そっと、人形の足下にあるネジを巻き始めました。

 銀色の踊り子が、初めて陽光の下でゆっくりと回転していきます。その動きに合わせて、オルゴールからはとても悲しく静かな音色が流れ出してきました。

 何かを諦めさせるような…そんな、物悲しい音楽です。でも、今日は違うんです。それは、何かの予感を秘めているようでした。

 ふと、この微かな音色が本棚の隙間の穴の奥まで聞こえるのか、不安になってしまいます。でも、アンジェレッタには、古いネズミの穴まで近付く勇気も無かったんです。

 アンジェレッタはベッドに腰掛けたまま、黙ってじっと待ち続けました。

(……!)

 今、何かが隙間から飛び出した気がします。でも、ずっと待っていたんですが、何も姿を見せてはくれません。違ったのでしょうか。

 もうすぐ、オルゴールも止まってしまいます。澄み切った音楽が部屋の中を満たす後ろから、小鳥達の歌声が聞こえてくるんです。

 ……やっぱり、ラッセンはあのお手紙を読んでくれなかったんでしょう……

 アンジェレッタは、とてもがっかりしていました。…いいえ、とっても悲しかったんです。本当に、その青い瞳にはうっすらと涙が溢れてきました。

 青白い頬を、一粒の美しい滴が伝い落ちていきます…

「泣かないで! アンジェレッタ…」

 急に、アンジェレッタの耳に小さな男の子の声が飛び込んできます。驚いて床の上を見ると、そこにはあの黒髪をした小人の男の子が立っていました。大きな黒い瞳が、自分を見上げているんです!

「ラッセン……!」

 嬉しくて、嬉しくて…少しの間、何も話す事が出来ません。いいえ、ラッセンにしても、今までに無い経験で何を言えばいいのか戸惑っているんです。

 でも、幾度か唇を湿らせた後で、やっとラッセンは彼女に笑いかけていました。

「あの…アンジェレッタ。あんなに素敵な贈り物をありがとう」

「ううん…ラッセン。わたしの方こそ、とても素敵な踊りを見せてもらったんだもの。逢いに来てくれてありがとう…本当に、ありがとう……」

 この新しいお友達に、もっともっと色々な事を話したいんですが…困った事に、何も声には出来ないんです。ついさっきまでは、言いたい事が次から次へと浮かんできていたのに…不思議な事です。

 アンジェレッタはオルゴールを台に戻すと、白い寝間着のままでそっとベッドから降り、小人の前にひざまずきました。

「…ラッセン。わたし、初めて見た時からお友達になりたかったの…今日は、お話をしてもいいのね…?」

「うん、いいよ。じゃぁ…その台の上まで運んでくれないかな。その方が話しやすいからね」

「触っても…いいの?」

 気遣うような表情をしています。でも、そんな優しいアンジェレッタに、ラッセンは大きく頷きました。

 本当は、やっぱりラッセンでも、あんな高い所まで運ばれるなんて、恐いんです。それに、アンジェレッタが捕まえようとしたら、自分はどうしたらいいのでしょう…

 でも、ラッセンはさっきのアンジェレッタの涙を見ていました。この女の子なら、大丈夫です。きっと、素晴らしいお友達になれます。きっと……

 そっと、ラッセンの体をアンジェレッタの柔らかな指が包み込みます。小人の男の子の体を、アンジェレッタは本当にゆっくりと台の上まで運びました。そして、自分も再びベッドに腰掛けます。こうすれば、二人は楽に話をする事が出来るでしょう。

 アンジェレッタが指を開くと、中から驚いた顔でラッセンが見上げていました。

「アンジェレッタの手…とっても、熱いんだね」

 その言葉に、アンジェレッタは少し寂しそうに頷きました。

「えぇ…わたし、いつも熱があるの。だから、部屋を歩けるのも気分がいい時だけで、もう、何年も部屋の外に出ていないわ…」

「そうだったんだ…」

 ラッセンには考えられない事です。ずっと、ずっと部屋の中にしかいられないなんて……

「ラッセン…」

 黙ってしまった小人に、アンジェレッタはどうしても聞きたいと思っていた事を口にしようとしました。

「何?」

 少し、もじもじしてしまいます。話す事は簡単に思えるのですが…もしかすると、傷付けてしまうかも知れないんです。

 でも、ラッセンの事を大事に思うからこそ、アンジェレッタは小さな声で尋ねていました。

「あの…もしよかったら、教えてもらいたいの……わたしが月の夜に見た時…ラッセン、とても寂しそうだったの…」

 …えぇ…勿論、そうだったでしょう……

 それ以上は、さすがに声に出来ません。でも、心配している『言葉』は音も無く伝わってきます。そんなアンジェレッタに、ラッセンは静かに微笑んで言いました。

「ありがとう、アンジェレッタ。アンジェレッタって、優しいんだね…

 僕はね、少し前まで森の中の古い切り株に住んでいたんだ。…エルサ姉さんと一緒に…ね……」

「…お姉さまがいるの?」

 問いかけるアンジェレッタに、ラッセンは力無く首を左右に振りました…

「……いたんだよ…」

「え?」

 心から、心配そうにアンジェレッタが顔を曇らせています。ラッセンは、そんな人間の女の子に、にこりと悲しい笑みを向けました。

「…ネコにやられたんだ……僕の目の前で…悲鳴がして……」

「そんな……!」

 みるみるうちに、アンジェレッタの青い瞳には涙が溢れてきます。美しく澄んだ滴は、やつれた頬に幾つもの筋を描き出し、次々と流れ落ちていきます。

「…僕は、独りになったんだ。だから、引っ越しをして…どうしても置いていけなかった髪飾りだけを持ち出したんだ……でも、やっぱり、エルサ姉さんの事は忘れられなくて…思い出してしまうんだ、あの時の事を……だから、そんな悲しみをどこかに捨てようとして…アンジェレッタの部屋を借りてたんだよ…」

 ラッセンは、とても静かな口調で話しています。それが、いっそうアンジェレッタの小さな胸を悲しませるんです。アンジェレッタは、強く握り締めた両の拳を胸に押し付けて、何も言えずに、ただ辛くて涙を流し続けていました。

 ラッセンも、それ以上はもう語れません。でも、自分のために、姉さんのために泣いてくれる人間を見上げると、やがて、そっと口を開きました。

「…ありがとう、アンジェレッタ……」

 少女は、ただ、頭を振り続けるだけでした……


 しゃくりあげる声も、少しずつ小さくなっていきます。ラッセンは、この心優しい女の子に対して、明るい笑顔を見せようと頑張りました。

「だから、あの贈り物はとっても嬉しかったんだよ。一人で食料を手に入れるのは難しいし、危険でもあるからね」

 アンジェレッタにも、ラッセンが自分を気遣ってくれている事がよく分かるんです。ですから、彼女も一生懸命微笑もうとしました。

「…そんなに喜んでもらえるなんて…ありがとう、ラッセン。ちょっと、待ってね…」

 まだ涙に濡れている顔で、アンジェレッタはラッセンの足下にある引き出しを開けました。

「はい…これで、足りるかしら…」

 取り出される一切れのパンに、ラッセンは思わず飛び上がっています。

「僕にくれるの?」

「えぇ」

「ありがとう! 充分だよ、アンジェレッタ。今までの贈り物だけで、もう何日も食料を集めに行かなくて済むからね」

 小人のラッセンからしてみれば、とても大きな欠けらなんです。そのパンの塊を抱え込んだラッセンを見ながら、少しだけ、アンジェレッタは羨ましそうな目をしていました。

 もう、アンジェレッタには二度と外を歩く事など出来ないんです…多分、神様が迎え入れて下さるまで…二度と……

「アンジェレッタ……」

 真剣な声がします。浮かれていた顔を引き締めるラッセンに、アンジェレッタはぽつりと呟きました。

「…わたしには、もう、外がどんな世界か分からなくなっているの…わたしが歩けるのは、あそこに並んでいる本の中でだけだもの…」

「アンジェレッタ…」

 真面目な顔で、ラッセンは少女を見上げると言いました。

「じゃぁ、僕がアンジェレッタの目や耳になるよ。アンジェレッタの代わりに、外の世界の事をたくさん見て、話してあげる。…僕には、そんな事くらいしか出来そうにないんだけど…」

「ラッセン……! じゃぁ…毎日、逢いに来てくれるの…?」

「アンジェレッタが構わないならね」

 勿論、構いませんとも! アンジェレッタは、嬉しくてまた少し泣いてしまいました。ラッセンは、これからずっと会いに来てくれるんです。一緒にお話をしてくれるんです。

「ありがとう、ラッセン……わたし達、お友達よね…?」

「そうだよ、アンジェレッタ。よろしくね!」

 にっこりと笑いかけてくれます。アンジェレッタも、そんなラッセンにとても素晴らしい、天使のような笑顔を見せていました。

 窓の外では、いつもと変わらない暮らしが流れています。でも、アンジェレッタにとってもラッセンにとっても、今、『何か』が変わったんです。二人がいるこの部屋の中では、今や新しい『時間』が始まっていました。

                                                                       『天使の住む家』おわり


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