家路Ⅱ
ロッシュローも十四になって成人と見なされるようになったからにはもう喧嘩どころじゃありません。これまで隙を見つけては遊びに変えていた下働きから、本格的に家業の修行に打ち込まなくてはならないようになります。その下積みの他に、奴隷の仕入れから活性までして頭首に提出するしきたりがあって、期間が十年。活性の腕で良の字なら頭首座は逃しても活性役にはなれる。それも無理となれば責任を取るしかない。恐ろしいことにグリゼリウス家は親を滅してでも活性技術の秘匿を優先する。教圏半島でも指折りの雄家にしては不自然なほど家系が狭いのはこの為なんでございます。
「無能ならば死。尋常でないそれがこの家だ。他家と養子組を結んで一切の関わりを断つか、どうだ」
鷹揚な頭首もこの話を子にするのはロッシュローで三度目。きっと何度やっても慣れまい。かつて伯父と二人の叔父を葬った父の心配ももっともだ。巨匠とも呼ばれるリャドが早々と隠居して頭首座を譲ったのも、その熾烈な継承式を知らない自分がグリゼリウスの家督の重みに悩み迷って行き惑ったらば助言しようと見守ってくれているのだろう。
「やります」
自分の場合は他に継ぐ者がいなかったから辞退ならなかった。それなのに、二人の息子もこのロッシュローも不敵な子だ。どうして自ら望んで死地を歩まんとするのか。こうなっては誰か一人は葬らねばならなくなるかもしれない。誰だろう。生真面目だが道でよく躓いた長男か、気配り上手だが熱いものが苦手だった猫舌の次男か、一際手がかかったこの末っ子か。ああ、本当に愛着のせいで手緩くしまいか。
ロッシュローが邸を出たら奴隷広場の物陰に隠れる人影を見た。野郎、やっぱり困り抜いてここまで来やがった。
「おい、門破りの手筈はついたかえ!」
ロッシュローが大声でそう呼んでやったら、こそこそしてた人影のやつ正体を見せて吹っ飛んできやがった。数日前に脱法門から市内に入れてやった百姓の子ファウルだ。どうしたと聞いてみたら案の定、博打で熱くなって帰り賃まで巻き上げられたと白状した。
「馬鹿奴。それなら素直に番兵に自訴しろ。自訴さえすれば十日の牢役も七日に縮む」
「け、けんど、あの門の在処を聞かれたら、門屋や若旦那にも」
「抜け門なら番兵のがよっぽど詳しんだ。今更お前なんぞに聞く手間かけるか! ゾルム、こいつの自訴の世話でもしてやれ」
「承知しました」
話の途中から姿を見せていたのが、継承式に参加するロッシュローにつけられたばかりの助手ゾルムだった。祖父リャドが手塩にかけた傑作だというが、ちょうどいい機会だ。悪人とも言い切れない無邪気なファウルをどう取り裁くか見せてもらおう。
「ね、ねえ、若旦那、渡し賃を出してもらうわけには。今回だけ、きっと、ほんとうに返しますから」
すぐそばのゾルムにはもちろん、一切を任せて振り返りもせず行ってしまうロッシュローにも聞こえるようにも言ったが、どちらもまるで取り合わなかった。
「よすがいい。悪行には悪行の、善行には善行の報いがある。ここに昏いと野蛮と呼ばれる。お前は若さまに恥をかかせる気か」
「い、い、いや、そんなつもりはないんだが」
「ならば自訴だ。家には使いを出してやる。安心して報いを受けるがいい」
「ま――参った。きっとそうする」
往生際の悪い百姓の不良息子じゃそう素直に自訴してくれないが、親父に事情を告げられるとなったら神妙にもなる。牢役を逃れた悪知恵の方に家長の鉄槌が振り落とされて、まず勘当だ。ファウルは番屋まですっ飛んでいった。
――ホッ。報いとは面白い言葉を使った。手際も素早い。が、やり口は脅かすようでどうにも冷たい。返せる当てのない金を貸してしまえばお前を奴隷にするようなものだから、と言える温情がねえのかな。
ゾルムにこうした印象を抱いたロッシュローは市壁に面した原っぱにやってきた。草を食んでいる牛や羊の見張りをしている同年の男が一人いる。
「やるか」
目を合わせるや図張りと聞いてきた。
「よく分かるな」
「水臭いことを言うな。俺も牛や羊の言いたいことを察する家業の修行はこれからだが、十年近くも投げ合い殴り合いの喧嘩を繰り広げてきた男の覚悟を汲めないでどうする」
「はっはっは、いかにもそうだった。じゃあ達者でな」
――あいつめ、あっさり行きやがった。
若い頃の喧嘩を通してロッシュローとは紛れもない友人と信頼し合うこの男は、市を訪れる外人の畜獣を預かる防疫が生業だが、壁際の住民のご多分に漏れず門屋もやっている。市の門限に遅れて、外で一晩を怯えて過ごす女子供や有力者相手の同業は、貴人門とか姫門と呼ばれて番兵の黙認も得やすいが、ファウルのような都市入来証を持たない不逞の輩を往来させる裏家業の方は取り締まりが厳しい。その裏稼業の子として、実の場面を何度も目にしてきたが、今みたいに振り返りもせず行ってしまえる奴は初めてだ。ガキの頃から思っていた、やっぱり奴は豪傑だ。
グリゼリウス家の次期頭首を狙うなら大事な大事な一年目だっていうのに、ロッシュローは行方不明になってしまいました。家内じゃ熱湯が湧いたような騒ぎになった。ナルマー市の隅から隅まで知れ渡ったのに誰の目にも留まらない。これは身代目的の事件に違いないと睨んだ番兵隊がだんだん調べてみたら、古馴染みの喧嘩仲間の証言でなんと家出説が濃厚だ。ちゃらんぽらんな奴が家族仲や家業が嫌になっちまった挙げ句によくやる思い付きじゃあなく、ファウルのような市外百姓の悪童にあれこれをここに埋めておけと指図するなどして何年も前から周到な準備を重ねてとうとう実行された計画的なものだった。家宛の手紙も市外で見つかる。
――しょせん十年と区切られたる不肖の命を使い果たしたく、これを機に壁向こうの世を知りに出立いたします。一年戻らずにいたなら死んだものと思し召して下され。
「ほいきた。あ奴とうとうやったか!」
「感心するようなことですか!」
リャドに相談にきた親父の顔色はもはやまっ黒で、常にもない荒声を上げた。犯罪まがい、というか犯罪そのものの手管で家を出た愚息に例のお袋さんはとっくに寝込んじまいましたから、そっちの心配も大変。今日明日にも死報だとか身代要求なんかが届くか戦々兢々。毎日毎日並大抵の心労じゃない。それをご隠居さまの気楽さでか、手を打って喜んでいる。
「まあ聞け。そもそもあれを並の人間と扱うから戸惑うのだ。あれに比べればお前もわしも複雑すぎる。随分前にも言ったが人間というのはだ、何が正しいかを己の心で定めたなら、どうやったらできるかを己の頭で考え、最後は己の体でやるかやらんかだ。並人では義理やしがらみに囚われて意気地を曲げざるを得ないが、あれは単純だから突き抜けてっちまう。わしでさえ親兄弟、家のことが気にかかってきっと壁穴の前で躊躇したに定まっているが、あれは行ったか。そうか、振り返りもせず行ったか」
リャドはううむと唸って話し終えた。
ほかならぬ末っ子が馬鹿みたいに単純っていうのは親父だって百も承知でしたが、どんな馬鹿でも無事を願うのが親心。グリゼリウス家の顧客や活性奴隷たちにどっさり手紙を書いた。柄の抜けた肥柄杓のような愚息ですが力になってやってほしい。ところが世の中にはいろんな受け取り方をする奴がいるんでして、なんでか領内に召し取りのお布令を出した領主がいた。そしてこういうことはよくあるもので、ロッシュローが足を踏み入れていたのがちょーどその土地であったという文字にしたよなお話となります。おまけにそうとは知らないご本人が大手を振って歩いているのを目の前で見てしまったのが、白も黒と取り違えて押し通すような強情の抜作ときたものですから、えらいこっちゃ。
「い、いたぞっ、いたぞおーっ!」
こう喚いては突進してって取っ組み合いとなります。いやいやそれくらいではロッシュローも狼狽えたりしません。故郷ナルマーで十年培った喧嘩の修行があります。突如地に押し倒されてからは血が疼いてしまって、抜作の喉がきゅうぅという空気を出すまで締めてやったら、ぴくっともしない。抜作の相棒といったら、うっかり者と相場が定まっていて、
「ひぃ、ひとごろしっ、ひとごろし……」
怯えて竦んだひょろひょろの走り方で触れ回った。
「はっはっは、田舎者は失神も知らねえか」
ロッシュローは悠々と街道を歩って行く。今のは粗忽な田舎者に人違いでふっかられけた喧嘩だと思ってたんだ。ところが、後ろから大勢の人間が地を踏み荒らす怒号が波のように打ち寄せてくる。振り返ったら、真っ先にいたのが息を吹き返した抜作とうっかりだ。
「いたぞ、いたぞーっ」相変わらず目当てがはっきりしていない。一体どこのどいつと間違えられているのか。「ナルマーのロッシュロー! そこで止まれえっ!」
さすがに動悸っとした。人違いでもなんでもないのも意外だが、自分の素性がなんだってこんな田舎に知れているものか。
「おい、俺がナルマーのロッシュローだが一体どうした」
「ど、どうしたもこうしたもあるか! 召し捕りだ! ご領主のお布令が出てんだ!」
「召し捕りというなら召し捕られてやるが、一体どんな悪事で布令が出たのだ。俺はこの土地に立ち入って道をまっすぐ歩く他はしてねえよ」
「馬鹿者! さっきのご領主手先役への乱暴含めて厳罰に処す!」
「そうだそうだ! お布令だ! 召し捕りだ!」
抜作とうっかりのつがいじゃ話にもなりゃしない。締め落とされた恨みで頭に血が上っているし、ここは大人しくしていた方が賢明だろう。どこそこまで来いと言うなら素直に行ったのに、いきなり縄などを持ち出してきやがった。
「おい、逃げも隠れもしない男を縛るこたないだろ。俺は無実だし、若いが恥を知ってる人間だよ」
こんな申し開きひとつ聞きゃあしない。あ、両腕だけならまだしも、あまつさえ腰まで繋ぎやがった。こりゃ重罪人の扱いだ。街道を引き回されて細い村道を入って着いたのは、抜作が生まれ育った農村だった。何かの手蔓を引いて領主のお手先役を当てたんだろうが、城勤めでもなく村番じゃあ、どうやら間の抜けた仕事を嫌われて捨て扶持同然で郷里に配所されたものだろう。村民の視線にも険しいものが感じられる。
「おおい、召し捕り人だ。預かり置け!」
抜作が声を上げたのは村で一番大きな家の前。冬に備えてすでに屋根が葺き直されて、土壁の塗り直しまで終えている立派なものだ。戸を引いて現れたのは意外にも若い女で、ロッシュローの身柄を預かれと強請るように言われる。
「亡くなった旦那の遺徳で未だいくらでも男手を借りれるご身分だ。召し捕り人を預かる厄介ぐらいは引き受けなきゃ、村の衆に面目が立たんだろうが」
義理でくるめた下心を断ったらどんな狡い嫌がらせを始める気だろう。後難を恐れて承知したのに、凶暴な召し捕り人を見張るためだとか何とか言って家の中に押し込む始末。土間に立たされたまま抜作の口振りを聞いていると、女は二年前に夫を亡くした未亡人だという。その喪が明けたばかりの婦女を、腹が減ったとか喉が渇いたとかで端女かのように扱う。まあ、これくらいならどこでもあるような小役人のちっちゃい汚職だ。脱法門を通って市を往来するファウルのような悪童を仕切ってきたロッシュローだから、ナルマー市にもこういう手合いがいるのは知っている。
が、いくらなんでも生臭さがきつすぎる。目の前の抜作には悪と知りながら悪事に手を染めなくてはならなかった悪人の悲哀がない。誘い込まれたわけでもなく、引きずり込まれたわけでもない。それどころか自力でもない威光を我が欲得の為に用いている。汚らしいだけだ。
――仮にも領主の手先がなんてえ醜態だ。
縄に縛られた両腕がぶるぶると震えてきた。
「おい抜作、てめえのそれは自分で正しいと思ってやってんのか」思ったことがそのまま口に出ていた。若い上に馬鹿みたいな単純だからやっちゃった。僅かな沈黙のあと顔を真っ赤にした抜作が手に物を持って殴りかかってくるのを女が庇ってくれた。
「ま、まってください。召し捕り人ならご領主さまのお裁きがない前に傷ついたなら、お手先のあなたが罰せられます」
従順と思い込んでいる女の言なら耳に入りやすいのか、ぴたりと止まった。抜作は今日の機会でとうとうこの女を物にしようとしていたんだが、色や情があるだけに興ざめを知っていた様子で、ロッシュローの縄をさらにきつく縛り直すと悪態ついて出ていった。
「あぁ助かりました」
「あなたのような若い人だと、頭のおかしな人にだけは正論は禁物だって知らないの?」
「心の腐った人間だけはなにをやっても無駄だ、と祖父に教わった覚えはあるけども、黙ってられないことがあるんですよ」
あなたも少しおかしいみたいね、とは当然言わない。正論だからだ。
「お湯、飲む?」女はやや嬉しそうに聞いた。
「いただきます。あれ、きつく縛られたせいで手が利かないよ」
「お口を開けるだけでいいわ」
両腕はがんじがらめで、腰も括られているし、足枷までされちゃあ飲むのも食べるのもできない。体に入れる分はまだいいとして、出す番になって本当に困った。小便も大便もやっぱり一人じゃままならない。隅の仕切にある不浄箱にするんだが、どちらも女主人に手伝ってもらうほかない。尻を洗ってもらう気恥ずかしさといい、なにより十四という年頃だから逸物に触れられると反応してしまうのが仕方ない。
――はじめは俺も若気の至りがあって一角の自信というのがあったから、ずいぶん大人ぶった。ところが、飲み食いの世話に加えて、下の世話までされたらすっかりそんな気はでなくなった。女の側がまるで自分をでかい赤ん坊か何かのように扱うから、なにをどうしても敵わなくなるんだな。召し捕られた赤の他人でもこれだ。じゃあ、実際自分の子となったら一体どうするだろうなあ。
不敵の血筋グリゼリウス家でも最右翼のロッシュローに白旗を揚げさせた数少ない人物が、辺鄙な農村の一女性というのは実に意外な話ではございますが、人生を変えるような完敗との出会いはこうした思いも寄らない不意打ち気味にやってくるもんなんであります。私も若い頃にえらい目に遭いました。
例の抜作ですが、件のお布令に出ていたナルマーのロッシュローを召し捕らえました! と意気揚々に領主に報告したそばから、
――こっ、この大間抜け奴が! 召し取りと書いたのだ!
こっぴどく叱られた。恐る恐る布令をよく見たら本当だ。罪人ではなく客人扱いの記号が振ってある。城館に招いてグリゼリウス家の活性技術の秘密を探ろうとする魂胆だったのに、手先の不手際ですっかりご破算だ。御曹司を罪人にして縄でぐるぐる巻きにしたなんて知られたら、今後は人材を都合してもらえなくなるかもしれない。自ら馬を駆ってその農村にやって来た。
戒めを解かれたロッシュローは解放感のあまり踊り出したいほどになった。その最中に自分が捕まった経緯もあらかた聞いた。
「父がそんな手紙を撒いていましたか」
「撒いていたとは、そなた言葉が悪いな。グリゼリウス頭首直筆の手紙とは安いものではないぞ」
「家は関係なく出てきました」
「<親の心子知らず>とは言うが、呆れたな。そなたの家は奴隷はともかく子息の教育はまるで駄目だな」
「ナルマーでもそういう評判でした」
「――どうやら、そなたの父上の望みに叶うようにするには追放とするがよいだろうな。もうナルマーに帰って安心させるがよい」
「はい。実はもうそのつもりでいました。そこで伯爵さまにお願いですがね。私を世話してくれたあの女の人にしっかりした後添えを世話してもらえませんか。あんな抜作の見本のような悪い虫に飛び回られて可哀想です」
「どうもおかしな男だな、そなたは。お父上の気持ちもその心で感じられそうなものを。まあよい、そのことは考えておく。さあ行け。明日にも我が領内で見つけたなら、今度は本当に繋ぐぞ」
街道へ向かって村の間道を歩くロッシュローを待っていたのか、道の脇にあの未亡人が佇んでいた。赤ん坊のようだったのがやっと自分の足で歩いているのを見たら、その子はもう自分から永久に離れようとしている。あの日、言わぬが花と知りながら己の心に尋ねて言わないではいられなかった言葉で、たかだか女一人を守ろうとしてくれた男が去ってしまう。この想いがなんなのかは知らない。しかし、目が合って別れると、
「体を、大切にするんだよ……口にするのはお気をつけ」
子を送り出す母のような言葉をその背に伝えていた。
ロッシュローに母の偉大さを教えたこの女性は、後に父なし子を産む。父親の正体は知らない。
興が乗れば無視するけれども、なかなか5000字切れんねえ。