家路Ⅰ
今では大学として有名なグリゼリウスの名ですが、この一族の中から大人物を挙げるとすると、まずリャドかロッシュローの二人で決定戦になります。腕なら巨匠と称されたリャドが一段上のようですが、腕で有名なせいで玄人好みがするのか、結局はロッシュローが一等だと落ち着きやすい。どうも、当の人物以上に好んで語り継がれやすい教訓めいた名言逸話の類の多寡が決め手になっているような気配がある。新聞の生活面や育児書、啓発書のちょっとした囲み記事なんかにリャドの指導哲学を書いたのが今でもたまに載るから、その手の話がないわけじゃないんだが、良薬口に苦しというのか、どうにせよロッシュローの逸話のが娯楽調ですから票を稼ぐわけです。
有名な話ですが、グリゼリウス家というのの元は古代サーニー帝国の重臣で、フツヌス帝の頃にナルマーに援産所を開いて以来、知識や技術を教え込むのに熱中した家系であります。当初の方針通りに軽犯罪者や放浪人が真っ当に食って生きていける技能をつけてやるのに徹しておればよいものを、長ずれば高じてしまうものですから、
――万能の人間を生み出せないものか。
こんな余計な考えを起こしちゃったもんだからサーア大変。この考え方が、帝国を統治する皇帝権力こそ万能なるものと解してきた者らに叛意と捉えられちゃった。ま、こう過敏に反応されるくらいですからね、帝国もいよいよ落ち目の激坂を転げ落ちている真っ最中。あわれ、やや狂乱の気味もあるやり方で誅罰させられてしまいました。
ところがグリゼリウス家の家人が寄り合って育成の技術は磨かれてゆく。さりとて帝国のある間はなんぼなんでも旧主の家名は名乗れない。世を忍ぶ仮の姿として奴隷商いに手を出して、蛮族出の新たな統治者らに人材を提供していく時を重ね、やっとグリゼリウスの名を回復した。そこから数えてリャドは七代目、ロッシュローは九代目の頭首。祖父と孫であります。
倅に子ができそうだという。これまでに男子が二人、女子が二人ある。愛くるしく家中で人気の娘が嫁いだばかりだからか女子を願う雰囲気濃いが、リャドは男子を願っていた。自分にどんな非があったか、死産や若死が続いて、リャド自身は男子を一人しか持てなかったから、跡継ぎは定まっている。良識を備え、腕もあるし、血筋には珍しいおっとりした性格が巷でも評判なのは親として面はゆいが、倅当人に残念なのは跡継ぎ候補たちが自ら活性した奴隷の優劣で競いあうグリゼリウス家伝統の熾烈な継承式を経験できないことだ。これでは自分で頭首を選ぶのにどうする。頭首の背骨がないままでは、いつか愛着に流されやしまいか。跡継ぎ候補が三人ともなれば真剣に考えるだろう。
産まれたのは男子だった。産湯に浸かる赤ん坊にリャドが小指を伸ばして掴ませてみると、ぐんっと握り返してくる。よし。この力強さならまず丈夫に育つな。これで痛みを感じるとは俺も年をとったと思ったが、赤子の顔を映して飛び込んでくる光の強さで目の方が痛い。
――つくづく親に似ない子というのもあるものだ。こ奴まず尋常の育ち方はすまい。
本当にリャドの言かどうかは疑わしいんですが、親の条件について言ったものがあります。
――自分を自分の親にしても良いと思えるのなら親になる資格はまずある。結婚もその観点で考えればまだ過ちは小さい。
とかく子供は親の手を煩わせるもので、その煩わしさに負けて理非もなく叱りつけたり、半ば脅迫めいたやり口で言うことを聞かせるのもまま目します。自分ならどうやれるか。どう育てられるか。真剣に考えてできると思うなら、親になっても良いと言うんですな。男子二人女子二人、倅の奴もなかなかうまく育てたな、こう思っていた矢先に、どこかの線をはみ出して迷い込んできたようなロッシュローができた。倅奴はこの問題児をどう扱うか。親の条件云々がその姿を見て得た感想なら、偉人と呼ばれるような人でも親心というのは複雑なんでございました。
よく食べ、よく動き、よく眠る。こんなような当たり前の赤子であった。当時の育児法では生まれたばかりの赤子は、綿の帯で顔を除いてぐるぐる巻きにするが、これに極力抵抗する。乳母ら三人がかりでへとへとになってやっと巻きつけたら、今度はまるで泣きやまない。その泣き声の大きさといったら、板壁も割るんじゃないかと思えるほどだ。
――こう嫌がるんじゃ、やらん方がいいだろう。
綿帯を使った育児法は魔除け、感染症予防、成長矯正材でもあるのでなかなか強固な慣習だったが、ロッシュローの父はあっさりやめさせた。ご機嫌の赤ん坊ははばかりなく動き回るようになる。行動範囲は小さいが、名家の子だからちょっとの段差から落ちただけでも大事だ。おんぶをしてみるとやっぱりすぐに泣き出す。高いところを怖がるのかと思いきや、宙に投げ出されるのは大好きで途端に泣き止む。しかしそれもすぐのことで泣き出してしまう。宙に放り投げてあやそうとするなら高さを次々上げないといけなかった。手元が狂って落としたらえらいことになるから、背負ってあちこちを歩いた方がいい。道を変えて見せるものを変えれば泣かないから、どうも飽きやすい子供のようだった。
え、グリゼリウス邸がナルマーの丘の上に移ったのはこのロッシュローが頭首になってからですから、当時有力者が居を構えた広場に面しておりました。名前というのがまた図張りで奴隷広場。古くはきっと別の名だったんでしょうが、世間的に思い浮かべられる奴隷商人が続々とやってきては、商品を広場にずらっと並ばせたもんですから自然その名で定着してしまったんでしょう。この広場での素体奴隷買い付けは常に頭首自らやるのが慣わしで、たとえ血族でも任せられることはなかったといいます。グリゼリウスの技がいかに確かでも、頭首の目が悪かったら活性化も働かないし、活性役らも頭首を侮るようになります。頭首の条件は何より人を見抜く眼力が命でございました。もちろんこれが難しい。
――才能というのを持って生まれてくるのは少ない。百人いてせいぜい四人くらいだろう。己の目で人を見抜けるのはもっと少ないがネ。
まずリャドがこう言っている通りでしょう。
ロッシュローは赤子というに、人の面を見るのを好んだ。百人いれば百通りの顔つきがあるから、まず飽きはこない。ただでさえ手がかかるのに、一泣きするともっと手がかかるこの赤子を大人しくさせるため、乳母たちは奴隷広場に品が並んでいる日には、彼らの間を行き交って子守をした。恐れを知らない子で、あぅあぅ、というような幼児言葉と柔らかい手で広場に居並んだ奴隷の顔を触れようとする。奇しくも、頭首の見込みで買われるほとんどは、ロッシュローが特に感興を催して声を上げた者たちであった。いつしか乳母たちも気がついて、今度のご子息様はきっと天性がおありですよ、と言った。
「赤ん坊は正直だからね」
リャドは驚きもしなかった。グリゼリウス家の者なら誰でも分かっている。天性なら誰にでも宿っている。ただ、その天性を自覚する機会と磨き方と用い方を知らない輩が多いのだ。我々はそんな彼らを援助しているのです、とグリゼリウス大学では今も言う。
ロッシュローもついに自分の手足で動けるようになったからには、乳母たちの苦労もますます大変になります。はっと気づくともういません。おまけに生まれつきが、危ないからおやめなさい、と言われたらやらねば済まないような気質ですから、思いも寄らないようなところで見つかる。階段から転げ落ちかけていたり、火を掴もうとしていたり、水瓶に入ろうとしている。すんでのところで悲鳴って助け出すのが日に一回はある。そして必ず泣かれます。
――泣きたいのはこっちだよ。
次にも手遅れが起こるかもしれないと思うと乳母も心労がかさんで大変だ。
とうとう隙をつかれて外に出てしまった日の騒ぎったらない。乳母たちで家内のあらゆるものをひっくり返し、家人は命綱を括りつけて井戸に飛び込み、兄姉もが奴隷広場を見て回ったがいない。まだ手足歩きの乳児じゃそう遠くへ行けるわけがないのに、夕方になって最も遠い市の壁門で見つかった。事を糺すと、羊飼いが連れる羊の背だか腹にしがみついていたらしい。律儀者の番兵が一頭一頭確認していなかったら市外に出ていた。鷹揚な頭首もこの件には黙っていないだろうと思っていたら、誰一人罰さず、末っ子の捜索に走り回った苦労をねぎらい、その番兵一族を屋敷に招いて丁重な礼宴を催しただけで、ロッシュローの尻は叩かれもしなかった。
「あれは親の私でも手に余すのですから、他の者たちでは尚のことです。罰するなどととんでもない。初めて息子を抱いた日、親が子を所有していると勘違いしたなら家は傾くぞ、と戒めて下さったのは父上でございます」
しかしその方便はありがちな記憶違いだった。リャドは継承式を経験していない倅に、奴隷を所有していると勘違いしたなら、と頭首の心得を語って聞かせたのだった。もしや記憶違いではなく、説教する父を敬遠するつもりで子育てにも当てはめたのかもしれない。
「ならばお前もあの末っ子に何か語らってやれい。親父の感化がない子は締まりのない面構えになって物の役に立たんぞ」
「はい、父上」
どちらの意見がどこまで正しいかはどうあれ、ロッシュローは人の話を聞くにはまだまだ幼く、父の方も同意はしたが、自分にはまるで似ない鬼子をどこか恐れているままであった。
次の日からは早くもロッシュローは表玄関をぺちぺち叩いて外に出ようとする意志を示すようになった。それを見た頭首が首根っこを掴んで、
「ならん」
と低い声で脅すように言う。もちろん泣かれました。それも火の玉になったような今までにないほどの勢いです。とうとう親父と倅の根比べになったわけで、親父としたらここで負けるわけにはいきません。物で釣るのもいけません。そんなことをしたら、親には引き癖がつくし、子には押し癖がついて家内の序列っていうのがなくなります。
「ならんのだ」
念を押してあとは連れて行ってしまった。力の差が歴然としていた頃から月日が経って、二本足で立って歩けて口も達者になってくると、こういう力技もなかなか通じなくなるから子育ても正念場です。それだけ大きくなって子守もないでしょうから、一人でに出て行って一人でに帰ってくる。
「ずいぶん慌ただしく出歩いているようだが、外はそんなに面白いのかね」
「はい父上っ。特に喧嘩というやつはまた格別です!」
これでお袋さんが「わあーっ」と喚いてひっくり返った。ヘダイブ半島の都市貴族が出自の気優しいお方には、なかなか刺激が強すぎたんでしょう。目を覚ましてから、あれはいったい誰に似て生まれてきたのでしょう、と泣いた。親父は手にしていた杯を落として介抱したが、それは喧嘩という言葉を聞いて既に手元からこぼれていた。二親ともにこれだけ穏やかなのに、ほんとにどうしてこう末っ子だけが異人のようなんでしょうね。
「お前、この通りお前の母が気を失うほどに心配するのだから慎むべきでないかね」
「お大事にと思います。でも、明日の喧嘩は対手とも仲間とも約束をしているのでできません」
「今日はもう休みなさい。近いうちに話がある」
どうやら肝心の明日は家から出さない気だな、とぴーんと来た少年ロッシュローはもう夜のうちにこっそり家を出ていた。行き先は家督と頭首を息子に譲った祖父リャドの隠居住居で、祖父と孫以上に二人は妙に馬があった。
「お祖父さまは喧嘩をなさったことがありますか」
「あるとも。あんなに面白いのは他にないだろう」
「はいっ。でも、あんなに面白いものを、父上も母上もお嫌いの様子でした。どうしてでしょうか」
「食わず嫌いというんだ。それにあれはわしの一人息子であったから、あまり外には出さなんだ。喧嘩の一つくらいはやらせるべきだったと今は後悔しておる。親が子を所有していると勘違いしたなら家は傾く、と昔言われたが、ふっふっふ、あれもあれで立派にグリゼリウスの子であったわい」
次の日、約束通り喧嘩がおきた。おきたんだが、対手方にすごいのが加勢している。子供同士の喧嘩は十四歳未満というのが決然とした定まりだが、おいおいどこの過保護の親父さんだよ、と言いたくなる。歳を聞いてみたら、
「じゅ、十一です」と答える。うん、声の高さは自分らと同じだ。今まで見た覚えがないし、緊張が手に取るようにわかるから今日が初めての喧嘩だろうか。
「よしわかった。じゃあ喧嘩だ」
いや、それでもその新顔の喧嘩といったらまるで出鱈目だ。ひょいっと子犬や猫なんかのように年上でも持ち上げっちまう。そして橋から川に放り落とす。そんな芸当を片手で軽々やっちまうもんだら対手は怖じ気付いて勝敗は決まったも同然で、一等体格がいいロッシュローが体当たりをかましてもびくともしない。首根っこを捕まれて目の高さまで持ち上げられたら、にかっと笑った。片足を捕まれて二、三周もぶん回されてすごい高さから川へと真っ逆様に落ちたところまでは覚えている。わあっと気づいたら家の寝床でした。
あとになって祖父のリャドが見舞いにやってきて、
「おい、こないだの喧嘩はどうだった」と聞く。
実はこれこれでひどい目に遭いました、と答えると、
「それも喧嘩の醍醐味だ。どうだ、面白いものだろう」にやにやして教えた。
――さてはあれもお祖父さまが。
ロッシュローはあの喧嘩のからくりを推して知ったが、大男の素性や行方もふくめて結局はわからず終いになってしまった。
ナルマーの喧嘩というのは、おい喧嘩だ! ときたら、よし喧嘩か! と出張るもので、固定された面子というのはなかった。昨日の喧嘩を共にした仲間とも今日の喧嘩で殴り合う。たとえ誰に誘われても喧嘩だし、誰を対手にしても喧嘩だった。一件過ぎればすべてあっさり水に流す。やっぱり俺が友人と思っていた奴は、いざとなっても裏切らず、いざとなったら本気で来てくれる、そういう手応えを共感するための儀式みたいなものだ。<嫌いな仲にも礼儀あり、親しき仲にも流儀あり>これを小さい頃から骨身に叩き込む。それがナルマー市の自決主義の根本だ。リャドの世代もこれをやった。そして言う。
――世の中には親のない子供というのがいるが、これはさほどの不幸でもない。周囲に尊敬できる大人がおらず、信頼できる友人もいない。これこそ本当の不幸だ。養えるというだけで子を持つと遠からず所有していると勘違いするから家が傾くよ。
喧嘩の他にロッシュローは高い場所を好んだ。家の二階から屋根に登ったらそこより高い木が映った。市で一番大きな木に登った。さらに高い丘が目に映った。
ナルマーには大きな丘がある。市内に残った最後の森を越えてたどり着いた頂上から見られる市の有様は、ところどころ樹冠に遮られているが、家畜や人の往来も、奴隷広場に面する家も何もかもが小さく見えた。もう丘より高いものはなかった。しかし、都市を包む壁を越えた先にはまだ見たこともない平野や森、丘があった。
――今度はあの壁の向こうに行こう。