湯屋の張り番
人間ていうのはえらいもので、どんな稼業でも長く勉めておれば妙な直感が備わるもんでございます。規や矩で図らないでぴたりとした円や方形を象れるのから、書類に手をふれただけで案件の重大さを予知してしまう奴、人の面をぱっと見ただけで信用できるかどうかを見抜くような目の高いの。揃いも揃って、なんとなくそんな気がする、ていう常套句で教えてくれるんですが、これが不思議によく中る。理屈も根拠も曖昧だっていうんで、真逆そんなことがあるもんかと折角の助言を無碍にすると、やっぱり中ってひどい目に遭うのもよくあることでございます。
このほどお話に設けました湯屋の張り番なんかも、その手の直感が目から鼻へぴーんと抜けるような連中でありました。
親や祖父母に連れられて百まで数えた公衆浴場も、もう滅多に見ないようになりましたが、自宅に浴槽だなんて考えられなかった頃といったら豪勢で、善人も悪人も日々ここに立ち寄らないわけにいかない。善も悪も裸でくつろぐ湯船に衣入りはいけませんから、そりゃやられるわけです。金持ちなら着替えを見張りにやらせますけれどもね。湯屋の方も湯屋の方で見張りを置いたが、玉や宝物ならともかく脱ぎ置きの衣じゃ緊張感が続かないし、何百っていう人の衣が一つ所に山となってるわけじゃないから目も足らない。折角用意した補償の衣も、ぐるになった小悪党に一緒にやられた。そんなわけで、湯屋の張り番といったら門前にでんと立って、
――こいつぁ狡い。やるな。
と思った奴の出入りを遮って追い返すようになったものです。中に入れなきゃ盗られない、ていう考えだったよう。これが一部湯屋の出し物じみた水際作戦でなく、あちこちの都市の浴場で真似られたからには一定の効き目があったんでしょう。なにしろこの湯屋の張り番というのは、悪人退治を専門にやってきたちゃきちゃきの番兵の再就職先みたいな役で、今風に言えば引退刑事が興信所で浮気調査をするようなものだったわけです。悪党を震え上がらせた顔と技能を活かせるお仕事ですからどちらも都合が良かった。腕っこきの番兵を招こうと浴場側は競合していろんな贈り物とか待遇で引きつけようとしましたが、なにしろ当時は豪勢だったものですから、そうした賄もなかなかの物だったようですね。
市中を巡回する番兵と定点監視する張り番の相乗効果で都市の治安もいくらか改善されたとも言われています。世の中のお金の量が多くなればなるほど他人様の懐を狙う犯罪は大がかりになるもんですから、当時は持ち運びできる程度の小金を狙う掏摸が蔓延った時代でした。彼奴等の根城は橋の上とパン屋の前で、俺は今日どこどこの通りでという打ち合わせをして市中に散った後は、パン屋の前を通る人々の顔に表れる有り金で品定めする。熟練の掏摸となると抜いた銭入れから数枚頂戴して元に戻しても気付かれない妙術で傍若無人を極めたというに、市内の掏摸の面なら一人残らず覚えている元番兵の旦那が湯屋の前にでででんと立ってぎろりと睨みつけてやると、大概の掏摸は成算立たずと諦めて退散するしかなかったものでした。掏摸連の間じゃこれを湯屋の虎口前といったもので、ナトン市の番兵隊長カデンと掏摸合戦をしたリッツという格別なのを除けば、湯屋の前で掏摸をやれるようなのはまずいなかったことでしょう。
今はどうか知りませんが、一昔前は犯罪捜査の人々にはあだ名というか通り名というのが本当にありました。落としの八っつぁん、仏の熊さん、足長坊主とかいうやつです。その手の二つ名がつくような名人ていうのは引退しても天職の糸というのがなかなか解けないもので、若手や後輩に協力を頼まれるのも多いのはいつの世も変わらないことでした。
「刃使ったとなるとナルマー辺りの掏摸の仕業じゃねえなあ」
相談を持ち込まれた湯屋の張り番は悪くした左足をさすりながら言った。働き盛りも迎えぬ若いままに番兵から張り番の経歴を歩むのになったのも、刃物を持った対手と地に転がっての捕り物をして足を刺されてしまった訳があった。生まれつき俊敏で、杖をつかねば歩けない今でも山猫という通り名で生きている。シャーンというイブラ語を、この相談を持ち込んだ同期の番兵がつけた。
「多分。ルーリックか中原あたりの、まず流れ者の仕業だな」
「なら腕一本を流儀にするリッツらが黙っちゃない。次の日かその次の日には頭叩き割られた流れ者がロイターの川面に浮くだろうよ」
シャーンは昼から番しているが、ここを虎口と敬遠するはずの掏摸が朝から張り番をしていた。ふと目が合う度に頭を下げるが目つきは鋭い。二人の会話に割り込む失敬もしないが、掏摸の面を汚してくれた野郎にけじめを食わそうとする気概ははっきり伝えてくる。
「まずその辺の幕引きでいいだろう」
番兵のなりたてなら正義感をまくし立てるか、意地ずくの張り合いを申し込んだかもしれないが、シャーンは湯屋の張り番で、ソロモンも初心じゃあない。
かつては教圏外国家群の商家の小倅だったが帝国の戦に巻き込まれた。家財産はなくなった。命だけが残った。住めば都だが元手もなく、ミナッツ王国が提供した帰還船に乗ってからも一苦労で、陽の明かりも差さずさして広くもない帆船の貨物区にぎゅうぎゅうに押し詰められた。しかも季節は冬だった。大荒れに荒れるアレモ海に前後上下左右に揺らされて、天地の在処も分からないままのたうち回った。大勢の人が終点のナルマーで降りたのは、骨身に徹した疲労のせいでオスカーやボイルでは自力で降りられなかったからだった。ただ、ナルマーでは、市を実質支配する奴隷商グリゼリウス家の家長夫人アナールも聖地巡礼の途上、同じ抑留の憂き目で辛苦の底味を味わっただけに、愛息子のために大事にしていた持参金を費やして帰還民の世話を親身にやっていたから幸運だった。引揚組として異国人同然のソロモンが市の番兵になれたのも、イブラ語とシニウス語を流暢な生活言語として話せるところに着目したアナールの尽力だった。こうした引揚組はほとんどどこでも教圏帰還後に無茶苦茶をやらかして、初心だったソロモンが耳に入れると、
――俺がこうして真面目にやっているってえのになんてえ連中だ。
と無軌道な怒りを覚えたが、番兵の稼業について十年。世の裏側を一枚一枚目前で突きつけられて、世にもおめでたいシャーンの説を素直に受け取れるようになってきた。
――掏摸も悪事には違いないが、悪いと知りながら悪いことをやる奴はない。やむをえず悪いことと知りながらやる。あいつらほど可哀想な奴はいないんだ。他人様の物に手を伸ばす不細工な連中だって、初めの内は、すみません、ごめんなさい、と心を満たして手を伸ばす。それが二度三度続けてゆく内に生涯の地目が定まって抜け出せなくなる。やせ我慢せず素直に助けを求める乞食の方がいっそ立派なのかもしれないが、あれは序列や縄張りに想像以上にうるさい世界だから掏摸をし続けるしかないんだよ。
かつて掏摸を積極的に摘発しようとするソロモンにこう言って反対したのがシャーンだった。今なら分かる。自分とてナルマーにたどり着かなかったら、生きるためになにをやったか分からない。もしや掏摸では済まなかったかもしれない。番兵をやれている自分などは格別に恵まれているのだ。掏摸はもう掏摸以外の生き方ができない。そして、そこで必死に留まるしかない。舐められてはならない、敵視されてもいけない微妙な世渡りで。都市の治安を守る番兵といえど、こうした宿命に介入するのはやりすぎだ。追い詰めることになる。しかし、万に一つの勘違いで無実の者にけじめを食わせる不手際を犯しでもしたら、シャーンやソロモンのような話の分かる番兵とて黙ってはいられない。これぞ悲劇だ。だからといって現役の番兵が私刑に立ち会っては役目を軽んじる。
「というわけで、お前に頼みたいわけだ」これがソロモンの相談だった。人の善いシャーンだからもちろん承諾した。二人の会話に耳を寄せていた聞いていた掏摸も頭を下げる。自分らのような者を自分らよりも理解してくれる二人に涙目になっていた。
「その刃物の回収も?」
「ああ、一緒に頼む。どうもかなり小さな物らしい。こう、掌にすっかり隠せて二指に挟んで扱うようだ。指一本程度の大きさで俺らは指鎌と呼んでいる。重さよりも速さで切るんだろうから、なんかの職人か徒弟崩れだろう。もし、掏摸連じゃ手に余すような刃物の扱いに慣れたのが対手なら俺たち番兵隊が出る」
「なあ、逆様祭りで首をぶち落とされたコレコの奴も刃を使ったがあれは盗んだ包丁だった。五年と経たずこんな遣り口のが出てきたのか」
「刃物沙汰ならどこも増えている。お前の足が刺されてからずっとだ。それでもナルマーはまだ少ない方なんだ」ソロモンは口惜しくして言った。
やはり次の日にはロイターの川面に男の遺体があがった。誰がどう見ても堅い凶器で頭をかち割られた私刑死体。組合の規律に著しく反した者の末路としてお馴染みのものだが、顔面を石か何かで潰してあるのは、素性が知れて市と番兵にご面倒をかけさせまいとしたものだろう。私刑死体もここ十数年なかったのに、こう律儀にやれるのはよほど厳格な親方に違いないと、いろんな風聞が立った。遺体はすぐさま行路死体として無縁墓穴に放り込まれたが、その有様を眺める杖をついた男と番兵がいる。
「新しい代官の締め付けで流れてきたルーリックの奴だった」
「指鎌は?」
「持っていなかった。何度目かに使った後になくしたと言っていた」
「間抜けな奴だったな」
「哀れな奴だよ」
「――ああ、そうだった」
「指鎌はヴァイサーン人が作った剃毛用のものだ。衣なんか裂いたらすぐ駄目になる。駄目になったらどうするつもりだったのかを聞いたよ」
「考えがあったか」
「何も」
――そうなったらそこの掏摸と同じことやるさ! 片輪のてめえを真っ先に付け狙ってやるから覚悟してやがれ!
本当はこう居直って脅してきたのだが、すぐ掏摸連に頭を割られた。シャーンの足がもう少し丈夫なら止めたかった。せめて名前だけでも聞いてやりたかった。
流れ者が手零したという指鎌は、市内の漁りを生業にする賤民が拾っているだろうから、番兵隊がそれなりの値を付ければすぐに回収できるだろう。せめてもこの世の繋がりとして共に埋めてやりたいが、シャーンにもソロモンにも権限はない。あの流れ者は死後審判の場で、お前は生前何を成したかと問われてなんと答えるのか。
指鎌を使った窃盗が再び発生したのは月が半分以上満ちてからのことだった。事件を知ったソロモンは何も言わなかった。シャーンに知らせても何も言わない。放っておけば掏摸連が頭と顔を砕いておしまいだ。流れ者の悲惨な遺体がロイターの川面を流れてゆく。日々々々流れる。賤民役夫に担がれて無縁墓穴に放り込まれる。初めは悼んでも次第次第にぞんざいに投げ捨てるだろう。そんな日々がいつまで続く。一月か。二月か。何人死ぬ。何人の掏摸が死なせるのか。別の手口が広まればもっと増えるのか。
――昨日も一人川を下ったようですよ。
――明日は二人でしょうかね。それとも三人でしょうかね。どうです、賭けてみませんか。実は四日連続で当たったことがあるんですよ。
こんな非道も行われるのか。ここで。この、ナルマーで。一人や二人なら番兵隊も黙認するが、都市の品位が貶められるほどに深まるのならば断じて許されない。
仲間の番兵隊が犯人の一人を追い込んだ。西区では逃げられた。東区では捜索線が敷かれたらしい。追い込んでも指鎌より厄介な刃物を携えているかもしれない。実数不明。頭目不明。ナルマー市行政庁舎タムストール宮の布告官は市壁内での凶器所持を厳重に罰すると警告し、市民には不要の大金を持ち歩かないよう呼びかけている。
「どうにかならんか、どうにか」
「湯屋の張り番に持ち込まれてもな」
「分かってるさ。だがなあ、そこで張ってる掏摸だって実入りが乏しくなって何をやるかしれんぞ。俺だってこうなることは予測していたさ! 隊長にだって報告したよ。回収できた指鎌ごとタムストール宮にだって行ったろうさ! それでもこの態なんだ」
シャーンは急に冷血漢になったかのように口を開けないが、その有様を尻目にして狡い奴が浴場に入って行った。指鎌使いを張っている掏摸がいち早く銭入れを抜いて通りに放り投げたから入場は阻んだが、危なかった。ソロモンは管を巻きながら、シャーンは深く沈み込むようにそれぞれの考えに没頭している。六時課の鐘が鳴るまでに掏摸はもう二人の入場を阻んでいつかの恩を返したが、この日この浴場に指鎌使いは現れなかった。
しかし、翌朝のロイター川には流れ者の遺体が二つも浮かんだ。例によって頭を割られて顔面を潰されていた。番兵隊も二人の指鎌使いを捕らえて番屋牢に入れた。その体を改めてみると指鎌使いの体には共通点が生まれると分かった。人差し指と中指で指鎌を挟んで扱うのでその箇所に胼胝ができる。掏摸連もこの特徴で見分けていた。この目印を求めて番兵たちも街に散り、ソロモンは陽が落ちる頃まで街中をかけずり回って二人の指鎌使いを見つけ、番兵隊全体で十四人を把握した。番屋牢の指鎌使いたちが互いを初対面とする供述を裏付けるように、対手は頭を頂点に十数人の子分に働かせる指揮連絡系統を有する集団ではなく、少数の供給元から一人一人が指鎌を調達して犯行に及ぶ単独犯の連体であった。下っ端をいくら捕らえていてもきりがない。そして、供給元までは届かない。
――え、そんな使い方をする奴がいるんですか。よろしくお取り締まりを願います。
すっとぼけるだけだろう。畜生奴。
次の朝に見つかった遺体の様相は少し違った。一人の指鎌使いが川に浮いたのと、西区旧市街の行き止まりに全身を小さな刃物で細かく切り刻まれた掏摸が見つかった。ついに返り討ちにあったのだ。事態は徐々に闘争の様相さえ呈してきた。掏摸と新手の悪党との対立に市民たちも気が付きはじめる。行路遺体を始末する賤民は馴染みのある掏摸の味方だから、今後一切指鎌使いの始末はやらないと突っ張って、見かねたアドゥース派修道院が引き取るまでは橋脚に引っかかった遺体が日に日に増えてゆく凄惨なものであった。
ここナルマーでは、誰もが生まれる前から存在していたからこそその存在は認知されていて、掏摸は移ろいやすいある種の黙認によって生き延びてきた。毎日のように人死にを見せたのでは、やがて排斥を求める敵意と変わるだろう。市民感情の向かう先はまだ分からないが、微妙な世渡りをしてきた掏摸たちは自らの弱々しさを十分に自覚している。
――私らはどうしたらよいでしょうか。
殊勝にもシャーンの元に相談ごとを持ち込む掏摸もまた日に日に増えている。この中の何人かが本気で心機一転を望んでいたとしても、市内の他の稼業の者たちもまた、生涯の地目は定まったと思っている。所詮、彼らが新たに出てゆける所などどこにもない。番兵は番兵だし、掏摸は掏摸なのだ。だが、番兵ならば、湯屋の張り番ならば、悪とは言われない稼業ならば、役目の外の事柄でも人柄を見込まれて助けを求められることもある。掏摸にそんな機会などはない。この点こそが、自らの腕一本で生きてゆくしかないと、彼らに痩我慢を強いている。
「分かった。俺に任せておけ」
ひ弱な悪人たちを見捨てることはできなかった。
その日、ロイター川の水は当たり前のように高いところから低いところへと流れている。市民たちは、うっかりしたまま無惨なものを見つけてしまわないか、おっかなびっくりして歩いていたが、昼ごろには女子供も外を出歩き始めた。きっと騒動に調停が結ばれたのだと、誰からとなく漏らされたが、本当は調停などは何も行われていない。指鎌使いは多く市内に多くいる。指鎌を供給する元締めも野放しだ。それでも指鎌使いの犯行はこの日を境に激減した。
右手の人差し指と中指に胼胝をつくった男が通りを歩いている。つい先日、おろしたての商売道具をなくしてしまったついてない男だ。また新たに仕入れようにも金が足らない。ナルマーにまで来たのは他の土地は既に同業者が幅を利かせていて隙間がなかったからだった。生まれ故郷は火で焼かれた。戦だったのか失火だったのか、雷でも落ちたのかは知らないが、帰る場所もない。手元にあるのは明日の食と代えれば、なくなる。それからは掏摸でもしようか。いやそんな器用じゃないからあんな刃物に頼ったのだ。はは、刃物を使っていたと思っていたら、その実俺という男は刃物に使われていたのだ。無手になってみればこの程度だった。ああ、それにしてもどこでなくしたのだろうか。それよりも、これからどうしたらよいだろうか。
「へえらねえか」
いきなり真横から声をかけられた。心はびくと跳ね上がったが、不安と心配が重すぎて体は山のように動かなかった。見てみるとまだ若いのに杖をついた男だ。
「お前さん、暗い顔だね。何があったか知らないが、とりあえず入らねえか」
「ここは、湯屋か?」
「湯屋だよ。俺は張り番だがね。ところで、入らねえか」
「いや、いい。それどころじゃない」
「そう邪険に急がずに、入らねえか。今日は湯屋の慶事でね、一分湯にしているよ」
「一分湯?」
「有り金の一分を支払えば誰でもお客さんだ。入らねえか。見ていると心配にいっぱいのようじゃねえか。風呂に入って気を取り直してみたらいい案文も浮かぶかも知れねえよ。入らねえか」
「一分で、いいんだな。本当だな」
「おう、入ってきな」
重苦しい心配事に体もずいぶんといじめられていたようだ。湯に浸かっただけで、真っ黒く色づいたような息が長く抜けていった。湯屋の外にはまだあの不安が口を広げて待ちかまえているが、今はこの湯を味わいたい。
「毛剃りいらんかね」
肩を叩かれた。毛剃りも一分では話があんまり美味すぎる。今のこの代え難い安息を邪魔しないでくれ。少しきつく断ろうと振り返ったら、見慣れた刃物が眼に飛び込んできた。
「あっ!」
見間違うはずもない。毛剃り屋の爺が手にしているのは、なくしたばかりの指鎌だ! それに背後じゃ張り番のはずの杖をついた男がこっちをじっと見ている。気づけば周囲の雰囲気もなにやらただ事ではない。ごくりと喉を鳴らして入浴客を見回してみると、同業、いや掏摸だ! こいつら全員が昨日まで命を狙い合った掏摸たちだ。
――や、やられる。
頭を割って川に流すような人の目に付きやすい私刑から密殺に切り替えたのかもしれない。ここで溺死させる魂胆だろうか。どっちにしろ俺の命もこれで終わりか。
「毛剃り、やらんかね」
「――へ?」
「お役継いどくれ。毛剃りでよけりゃあね」
「おい、毛剃りでもなんでも真っ当に生きてみねえか、指鎌よ」
「え」
実際には、命の取り合いなんぞするまでもなく指鎌使いを追い詰めるくらいは容易い。リッツら掏摸連の大物たちからは、自分らで連中の指鎌を片っ端から抜きますから、番兵隊の旦那方は卸元の方をおねがいします、というような請願もあった。詰まりながら思い返しつつ言ったから知恵を吹き込んだ奴でもいるのかもしれない。商売道具を失くした指鎌使いを尾行し続ければ、供給元の数も素性も三日といらずに判明した。シャーンもソロモンもここまでは考えていた。問題は、新たな供給元がどこからか湧き出てくる前に流通経路を潰すか厳密な管理下に置く方法だった。番兵隊からタムストール宮に意見書も提出されていたが、刃物一つに大がかりすぎる、と却下されていて、か弱い悪党ばかりが追いつめられた。
――世の中の稼業というものは、お客さんが求める助けに応じているから成り立つのです。お客さんの希望を叶えることにより、その報酬を褒美とともにいただくのです。いつでも自宅で湯に浸かりたいと思うのは人情ですが、それができないから人々は湯屋を利用するのです。湯に入りたい、体をきれいにしたい、だけど家じゃできないから助けてくれ。人々は本来こういう風に湯屋に詰めかけるのですし、都市のどんな職人も都合は変わりません。俺たちは鉄を加工するのに忙しくて畑仕事ができない、だから助けてくれ。その代わりに俺たちができるのはこれだ、といって農具を修理したり、別の人の助けになったことで得た報酬で食べ物を買います。世の中がどう変わってもこれだけは絶対変わりませんし、お客さんが助けを求めているのにあべこべに詐すような稼業は世の中からなくされます。今、世間様を騒がせています掏摸も指鎌もどちらも人様の助けになるような稼業ではありません。他人様が人を助けたことで得た報酬をくすねるのですから悪事といって差し支えない所行です。しかし、心をもって生まれてきた人間なのですから、誰が好き好んで悪事などをするものでしょうか。致し方なく、本当にこうするしかないからそんなことをするのです。掏摸の方はまた事態が少々複雑ですが、指鎌の方はまだできたてで、更正の望みがあると思うのです。どうか、旦那様のお力をかしてください。助けてやってください。
熱弁を振るったシャーンが最後の最後に深々と頭を下げた相手は、番兵としては役立たずになった自分を拾ってくれた恩のある湯屋の主だった。
――お前さんの気持ちは分かったよ。ただね、その話しぶりで言うんなら、湯屋は湯屋のお客さんの助けに応じるだけでよかあないかね。なんで見ず知らずの大勢の悪党の、声も姿も見せない助けに乗ってやることになるえ?
――その通りかもしれません。悪人を相手にするのは古来から番兵らですが、助けているのは悪人に泣かされる善人なので、決して悪人を助けるものではありません。友人がグリゼリウス家にも聞いたところ、悪人を助ける能力を持った品などは古来あった試しがない、と言うのです。そうすると一度でも悪人にされた者はもう誰も助けてはくれないのでしょうか。本人が悪事に愛想を尽かして真人間に戻りたくても、誰も助けになってくれないのなら悪人は悪人のままです。旦那様の言うとおり、こんなことは誰のお役でもないですが、自分のお役で人を助けて、さらに一人の悪人から悪を除く助けもができるのなら、それこそお役冥利に尽きるものではないでしょうか。一人の悪人が悪を脱すればそれだけ泣かされる善人が減り、悪人が真人間になっただけ助かる人間も増えるはずです。どうか、お願いです。旦那様のお力で、助けてやってください。
結局、湯屋の主は論理というよりはシャーンの熱意に負けた。
これは都市そしてナルマーの自決主義に反するようなお節介かもしれない。悪人とは、かつて人間の当たり前の情動に耳を傾けず、張り通さなくてはならない意地を張りもせずに悪事を犯したのだ。誰しも心根にはその悔いがある。やむない悪事といえど、悔いている。強情や意地なんていうのは今こそ、こんな得難い機会にこそ脇に置いとくべきだ。
指鎌の多くは浴場で毛剃り屋として雇われた。そう遠くない日に散髪なども受け合うようになり、現在の理容そして美容の起源となる床屋の稼業で呼ばれて、組合を結成するようになる。そうなるまでに心の芯まで悪虫に喰い荒らされていた何名かは逃げ出してしまったが、男気を見せた湯屋の面子に泥を浴びせた報いの深さは、掏摸とは比べられようもない。ナルマーにはいられなくなったのは当然としても、さてどこへ行ったか。
指鎌の仕入れは湯屋の組合が厳密に管理することになった。今日まで網をくぐり抜けて指鎌を卸していた小商人では到底勝ち目のない強力な対手だから、指鎌を使った窃盗はもうほとんど起こらないだろう。湯屋は両成敗として、世間を血で騒がせた掏摸にも制裁を課すよう求めた。すると、掏摸連は番兵隊に、どんなに多くても一割を越えて取らない、獲物にするのは金持ちだけという掟を設けたと伝えた。掟を破った者はこれまで通りの私刑に処されて川を下ることになる。
シャーンは指鎌を誘い込むために開いた一分湯の費えを背負うことになったが、杖をつく張り番姿にはこれまでと違った犯し難い威厳と不思議な風格が備わったように感じられる。友人ソロモン、掏摸、指鎌使いらのいろいろな、ときに苦しく、ときに愉快な相談にのって平穏な一生を暮らした。
久しぶりに書いたら一万字近くなったけど、面白いね。