どろりどろり
子犬も逃げ出すような強面の男にだって、生きててあんなおそろしい思いをしたのは二度となかった、と言って締めくくるナシダネがあるように、人間だれにでも恐いものがあります。若い娘に手を出して楽しんだのがなんでか女房に知られて、ちょっとそこ座ってて、と言われるほどに生きた心地のないのはないですが、そういう生の人付き合いでよくある神経が縮む類のとは意趣の違った、影も形も音も響きも残さないのにどろりどろりと出てくるのとなると詫びも賄もきかないんだからたまったもんじゃありません。
あの世あの世と言われても所詮この世のお隣さんみたいなもんでして、ふとした弾みでちょこちょこ出てきます。幸運を祝ってくれるなら血眼にもなって探し当てたいもんですが、大抵のは生前の恨みを晴らすべく出てきます。あたしも鎌倉の山ほっつき歩いていたら、いつの間にやら大昔の切腹場だか首切り刑場の跡地なんておっかない場所に迷い込んじまいましてね、山の湿気を含んだ空気が急にへばりついてくるように感じられて、背筋に垂れるいやぁな予感を背負って駆け下ってましたよ。振り向いたらそこに青火が漂っていたと言えるならこんな前口上もぐっと貫禄がつくんですが、惜しいことをしました。人に怨みのあるものかどうか、そりゃああるに定まっているんですが、余り余ってるからってああ無分別にどろりどろりされちゃあ困りますよ。当然というか、あの世とこの世の距離がもう少し近い時代じゃあ、こういうのにはますます手を焼かされたもので、悪魔祓い士ていう怪しげ加減ではご同類と言いたくなるようなのが正規にも非正規にもいたっていうのが、なにやら変におかしい話でございます。山のずいぶん深い中に遠ざけてくれるんなら身のかわしようもあるんですが、見せしめの気持ちが強いところだと、真っ昼間の大広場にわざわざ拵えた刑場の一等高いところで死罪人の首を吹っ飛ばしたりしまして、その血みどろの刑場が片づかない内に日が暮れかけて、おまけに雨がしとしと降った情景のおどろおどろしさといったら、いかにも「恨めしや」といった感じがいたしますからなあ。
このお隣さんの呼び方は古来から色々ありまして、化生の者というとなんだか互いの存在を承知しながら一つ屋根の下での棲み分けがきちんとしている印象なんですが、あの世の位置を<近きにありて遠くあり>とよくわからない格言風に語る時空ですと、出現、という意の言葉が当てられたのでした。
昔、船乗りの間で恐れられたのは嵐や空想上の怪物ばかりじゃあないですな。嵐の前触れや珍しい深海魚を見間違ったとしても、出現、という例のおっそろしい言葉も使われない。むしろ屈強な海の男たちにそんな言葉を使わせて震え上がらせたのが、中世ミナッツ王国の特殊工作船団トッレであります。海の歴史を紐解いてもこれほどに悪名が立った連中はないほどで、こいつらに比べればゲート船団の英雄ブライスに退治された海賊などはまだ愛嬌もんです。連中の悪名は性根から据わっていまして、ゲート船団の補助部隊だった頃から、常に不足しがちな船夫を調達する役目を負っておったんです。有り体に言うと海岸や砂浜で遊ぶ子供らを拉致しておったんですな。幼児は一点、少年は五点、青年は四点、成人は二点といった点数表まであって、それで評価と報酬が決まったといいます。白昼堂々事に及びもすれば、真夜中に誰にも気付かれずに持ってっちまう。我が子をいっそあの世よりも遠くにさらわれた父母の嘆きようを思えば、出現! と言うほどにその影に怯えていたものと想像できそうなもんでしょう。まして、こいつらの快速船に追いかけ回された日には、いやな予感どころの話じゃない。九死に一生を得た者なんかはまず間違いなく、
――生涯にあんな恐い目にあったのはなかった。
と青くなって言ったでしょうな。
このトッレに目を付けたのが幽王の方のルイジェセンであります。人さらい集団を王直下の工作機関に仕立て直したこの人は、遠くで起こす大きな事を企てるには向いていたんですが、目の先で起きている小さな事を収拾するのは不向きだったようで、設立した王宮顧問団に苦手を一任すると、幽王の意とはもしやこっちか、と疑ってみたくなるほどにどろりどろりの親玉みたく人を戦慄させる工作に専念したような節があります。何しろこの幽王の在世中には海難事故と一言で片づけるには不思議な例がたくさんあるのです。予測のつかない波風が吹く海の上のことですから事故はよくあったんですが、それにしては幽王にとって都合のいい事故が多すぎる。
その頃、ミナッツ王国の真珠島と本土領を繋いでいたのはボイル市とオスカー市から往復する船便に限られておりました。他の海路は愛嬌ものとはいっても悪党には違いない海賊がうようよと徘徊しているし、だいいち真珠島の入港料といったらまたべらぼうだ。幽王によって公金が費やされるようになった王国船便なら格安だから専らこちらに誘き寄せられて、陳情の本土諸侯はもちろん、無茶な言いつけを携えた聖公座特使なんかも乗る。そしてどういう訳か島に行き着かない内に行方不明になる。大海原を六日間も漂流してとある商船に救助された人の今際の口からトッレの任務が船夫確保の下働きから王権伸張策の裏仕事になったと知れ渡るまで、海底に沈められた敵性分子は十二十どころじゃあないんですよ。
こんな行状に手を染め続けてきたトッレですから、大王の方のルイジェセンの頃に彼奴等に向けられる怨みの深さといったら相当なものでした。人を呪わば穴二つの諺通り、身に覚えのない海難事故のお鉢も回ってくるし、大王とて断腸の思いではあったでしょうが、反乱を起こした不肖の息子を沈める指令を下されたにはさすがに気が滅入ったでしょう。
要するに、この世とあの世の見えざる鬼と渡り合わねばならない孤独な稼業となったものです。よほど神経が太くないと勤まりません。生きてるのが対手ならどんな急所突きも悪どい裏技も平気な特殊工作員ですら、この手で確かに息の根を止めたのに連日連夜どろりどろりと出てこられたら、出現! なんて言える度も消え失せて、
「たのむ、もお勘弁してくれ!」
とうとう泣きを入れたものでしょう。ただでも不足する船夫なのに汚れ役に耐えかねて異動を願ったり、心を病んでしまうのが続出してトッレの人手不足はミナッツ船団の中でも特に深刻だったようですよ。ただその洗礼を潜り抜けた生え抜きの工作員ともなると心身頑丈の上に頭も切れるから、大王が太子ノルベルンを心配して組閣した王宮顧問団の実務担当者にはトッレ出身の人材が多くいたようです。
指導者の条件に<喜怒を色に表さず>という有名なのがありますね。たとえひどい劣勢の真っ直中にいようとも、一番に慌てるのが大将じゃあこれでもう勝負は定まったも同然です。ところが、常と変わらぬ意気溢れる面魂に加えて不敵な笑みさえ浮かべたなら、下の者たちはこの生き地獄を切り抜ける方策と手段を命ごと預けて、ある種の狂気を引き出したかのように一心不乱に走り回ります。特殊工作船団の船団長ともなると何で打っても敵わないような素敵なのが続いていて、海賊退治で有名な英雄ブライスも軍艦島長官もトッレ船団長には頭が上がらなかったようです。
そのブライスといえば有名なのがブライス号で、海賊退治の褒美として新造船に名があてがわれたのも異例でしたが、なんといってもその化け物じみた大きさです。船尾から舳先までは百歩以上、三段の櫂船で櫓が三〇〇挺と伝えていますから水手六〇〇人。更に船長以下士官の上級船員も乗るわけです。栄えあるゲート船団の総旗艦としてどんな大働きをしたかと思ったら、あんまりにも重いせいで第一次ジェルダン海戦では足手まとい、第二次ジェルダン海戦では移乗する敵を引き入れて焼き沈めるという捨て駒の憂き目でした。それならせめて設計開発当時におもしろい話でもないかしらと思って調べてみたら、どうも出たようです。どろりどろりとしたものが。
何しろ木造船としては史上最大と言っていい巨船ですから、その費えといったら大変で、金はともかく船材が王領三島だけではとても足らない。どうしても本土の森から調達しないといけない。こんな事情でもなければ毎年の大市が開催されるのは船便が往復している王家寄りの都市ボイルかオスカーで回り持ちですが、大量の船材を求めたい王国の意向でロイター川河口の都市ナルマーで初めて開かれました。その時ばかりは悠々と水を導くロイターが丸太の流れに変わったと言われて、ナルマーでもその大市のことを丸太市と言えば何百年も通じ、木材を扱う組合が急激に勢力を伸ばしたようですからよほどの活況だったんでしょう。
さあいよいよ船材が揃ったところで船造りです。ところが軍艦島の船渠でせっせと造られるブライス号が、夜ともなると苦しそうなうめき声を発するという噂がいつしか真珠島でも聞かれるようになります。うめき声というのも本土奥地の訛りが強くてよく聞き取れないが、
――根がないぞう、枝がないぞう、葉がないぞう。
というものだそうで、うめき声も段々と怒気や怨みの混ざったものすごいのになる。組み上げが進むブライス号の船鳴りと一緒に船渠のあちこちと反響してそれはもう不気味なものだと見てきたような嘘や、船材にブレンダン地方のご神木が混ざっていたなんて話もまことしやかに語られて、いったい本当の本当ていうのも分からないほど真珠島がこの噂話で持ちきりでした。トッレ船団に属する素潜りの達者があちこちを調べてみて回ったが不審はない。そのうち船大工たちが気味悪がってブライス号の建造も遅れが目立ってくる。王様というのは国中の気苦労を背負うのが仕事だから祭りごとは誰より楽しみにしている。神輿のブライス号が遅れていると知って不興を漏らした。えらいこっちゃ、ていうんで夜に火を焚いて働かせようとしたんだが、怨みが嵩めば嵩むほどこの世のことなんて構やしないのが連中です。
――根がないぞう、枝がないぞう、葉がないぞう……どこへやったああぁ。
興が乗ったのか、その夜は一文句多かったといいます。船大工たちは、出現! と叫んで己が腕の一部の工具を溜まり水にぽちゃぽちゃ落として逃げ出しちまうし、さっきまで力勢任せに怒鳴り散らしていた監督官なんかはやっぱり小心だから白目を剥いてひっくり返った。王領の中枢、王のお膝元の真珠島で聖界の力を借りるのはあまり例がないが、教圏、デステ帝国、ヴァイサーンの坊さんなんかが日替わりでやってきては祓い給え清め給えとやった。おかしなことに、デステ帝国とヴァイサーンの坊さんの晩はぴたっと静まるのに教圏の坊さんがやった後は、根がないぞう、と来る。こうなると沽券に関わるから一層肚に力を込めるんだが、根がないぞう云々はやまないし、小馬鹿にしたよな嘲笑まで混ざる。しまいに教圏の坊さんはお祓い組から外された。
お祓いが功を奏したかどうか知らないが多くの人の気を揉ませたブライス号も無事に完成したのに、係留されっぱなしで、これといった手柄もなければ敵と共に焼き沈められる名誉もない無惨な終わりを遂げたのも、建造当時の縁起の悪さのせいだったのかもしれません。もっとも物であったらまた造ればいいのだし、ブライスの子孫で第二次ジェルダン海戦を指揮していてその惨状を目に焼き付けたオロハス提督ら有志が記念碑を築いたように、人の作意を得ていつか怨みを雪ぐ日も来るでしょう。
ところが、そんな知己もないで長年経つと不思議なことが起こります。待ちに待たれたブライス号の進水式から幾日か経った日のこと、軍艦島のトッレ船団基地にて船団長の溺死体が見つかる怪事件が起こりました。ブライス号建造で世を騒がしたどろりどろりの黒幕は実はこの人で、いよいよ王領から教圏勢力の権威を削ごうと目論んで王の内諾も得られての工作だったと伝わっております。それにしてもそうたやすくやられっこないトッレ船団長ともあろう人が、船団基地というある意味王宮以上に警戒険しい陸の上で抵抗の形跡もなくなぜか溺死体として現れて、面子にかけて捜査したのに遂に犯人の目星もつけれないままの不首尾に終わったのも、かつてトッレがさんざん押し売って回った怨みの深さが、妖しくも海の底を越えてきたせいだといわれました。
掌編や短編だと普段やらないような話をやれるからちょっとおもしろい。それにしても今回はまさかの怪談でした。