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喧嘩調停

 昨今では喧嘩といいますと物騒な響きばかりで、調停といいますと加勢の方便かのような影がちらつきますが、そんなのはまあ振り回すのに手頃なちっこい力を持つ者が、我を見よ我を見よ、と喧伝しているようなもんですな。売名といいますか、いまいち使用の法を知らない。売り出し中の若いのなら、やれることも戯れみたいなもんなんですが、その戯れにも下される睨みの利いた罰法の報いを知っておかなくちゃならない肝心の親分が、勢いや幸運のせいでそれを知らなかったとしたら、これは親分ばかりか乾児が不幸に首根を捕まれます。右も左も知らないままにやらかした行状が行状だと調停なんて誰も引き受けてくれません。なにがなんだか分からないままに首が落ちます。墓も建ちません。親分は己の手落ちに気付かないまま、

 ――あの野郎は親の面に泥を塗っていきやがった。

 と憤慨して死体に鞭を打ちますし、倅の栄えない死を伝え聞いた実の父母が吐露できる親の情というのも隠れ忍んで気に病みながらやっとこできるといった憐れなものなんでございますよ。

 そういうわけですから、游侠の渡世は馬鹿が稼業と言われるものであります。堅気さんの世間なら馬鹿をやらず利口で過ごせるに越したことはないですが<馬鹿で成れず、利口で成れず、半端者ではなお成れず>の界隈じゃあ、本格の馬鹿を一度や二度も懲りずにやった分からず屋が何かの拍子で改心して、妙な案配で命が延びないことには立派な親方にはなかなかなれません。

 むかし親方と親分というのは実はこれで一字で万里の差がありました。親方というのは親分衆の中でも大が付くほど勢力のある一握りの人を呼んだもので、れっきとして尊敬が含まれます。その親方から人柄などを見込まれたのを親分といいまして、縄張りと親株を分けられたという意でそう言ったものです。親方がいるきちんとした筋目のある親分となると「あの親方が見込んだのならば」と周りの目はずいぶん落ち着いたもので、家筋のない、野良というと失礼ですが、そうした游侠者が縄を張った中の堅気さんから信頼を寄せられるのは並大抵の修行じゃあなかったようです。ここで真面目に修行するんならそもそも游侠の泥沼には入り込まないわけで、力ずくになります。ここが渡世の馬鹿の大事でして、いずれこの昔日の前非を悔いると人が違ったように立派になる。長命を得ると親方にもなる。一方で立派な親方に腰を抱かれた親分はそういう馬鹿をほとんどやらないから株を育てきるのは珍しい。普通の人間でも病気の総合商社のような人より病気を一度も卸したことがない人の方が不幸なのは、ともすれば忘れがちになる自分の折角の取り柄に筋金が入らないからなんですな。スロアーガの演劇でも有名な侠雄ローブが親方のガレー家の修行は、悪事はむろんやらせてはならないが悪事を積み重ねた先で知る神髄だけは掴ませようとする眼目で仕立てられていたようで、命知らずの若い游侠人でも「寿命が半分縮む」と怖じ気がつくほど類のないものだったというのに、優れた親分は山と出ても親方はとうとう出ませんでした。この辺<悪事をやれない者より、悪事をやれても決してそれを働かない者が成功する>という実業界の言い伝えとも多少重なるように思えます。

 ガレー家十人衆とはスロアーガの演劇からよく言われ始めたものですが、その中でもバットと二枚看板の親分バールはコルトセット公国の潔癖公に星取(債権の回収のこと)をやらされた先で、

 ――お前がような利口者がローブの下につく真意とはどんなものか。

 と直のお声がかりがあったんですが、

 ――悪友にこの道に引きずり込まれた隙だけは今も悔いていますが、悪事という悪事にはまるで無縁のまま今日まで来てしまいましたので悪を悔いるということがありません。悪人揃いの裏街道ですがあれで隙だらけの冷や冷やする危うい連中ばかりでして。ちょっと目を離すと、渡世の掟にも家の掟にも背くとんでもないことをやる。ついつい口と手を出してる内に離れられなくなりましてねえ。

 ――ローブは厳父、バールは慈母、バットは令兄。名家かくの如しか。

 こんな問答があったとのことです。

 世がどう変わろうと、ああして間違いを許容しつつ根気よく善導してくれる人の有り難みは大層なもので、ローブの場合、この人はちょっと睨みが利きすぎるからか、街道ですれ違おうとする心に後ろめたい傷を持つ者は藪の中に飛び込んじまって姿を隠しちまうっていう話だし、親方と乾児の関係が厳しかった頃、まして自分の生涯を悪事償いの下積みと心得たお人じゃあ、他人様に教えを垂れるなんて機会はまず望みもしません。談判は何度かやりましたが、命ごと放り投げてくる不細工なもので、そりゃあご自身はそれでいいでしょうけれども、そんな抱えきれないような大玉を渡された人の身にもなってごらんなさいよ。狼狽えちまってねえ、理非もなにも明らかにならないまま、

 ――ガレー家の大親分がそう仰せなら。

 という風にうやむやになっちまうんですな。これじゃ調停というよりは預かり、先送りみたいなもんで、あんまり巧くありませんしょう。まあ若い者に手本として思い込ませられる出来じゃあありません。下手をすると五体のどこかが血飛沫上げて飛びます。そこでバールのようなのは俄然家内に重宝がられましてガレー家の調停役としてぐぐっと重きを置いた。専門で分けますとバールのは民事訴訟で、游侠の渡世ともガレー家とも関わりない堅気さん同士の揉め事がちょっとこんがらがった難しい案件を引き受けて、バットは刑事訴訟というか渡世が絡んだいざこざを調停してまわったもんです。どっちも甲乙つけられない腕っこきで、傍目で見るとどうしてそんなにすんなり行くのか不思議なほどなんだそうです。当然のことバールもバットも常々問われます。

 ――どうも親分たちは不思議な人だ。こりゃあどうしても上手くいくはずないていうような難題もすっかりまとめっちまう。何かコツでもありやすか。

 ――誠心誠意。

 ――真心だ。

 簡単だ、と前置きしたのにどっちも一言で片づけちゃいますからたまりません。もう一声と食い下がってみても、

 ――お互いが許し合えるように取り持つこと。

 ――許せる悪は許し、許してならない悪を懲らしめることだ。

 何となく分かってきました。もう一つ問い重ねたら二人の面目も出てくると思いきや、

 ――言葉を整えること。

 ぴったり一致しました。何でもそれが調停の秘訣なんだそうです。確かに双方ともに頭に血が上っている場だと何かの拍子ですぐ喧嘩ですから、言葉遣いは日常の心がけ以上に気をつけねばならない。ところが真意となるともう文字通りなんですな。本当に言葉を整えないとまともな会話もできない。都市化が進んだせいか今じゃ言葉なんてのはすっかり短絡なものに様変わりしまして、本職の語り手さえ味のある語りをするのが少なくなりましたが、一つの農村で生活が完結している上によそとの交流もないと自然、方言や訛りが深くなります。ふと流行した語が何十年も使われ続けてみょうちきりんな奇語として残る場合もあります。こうした田舎言葉はよそ者には味わい深いというよりは難解と言わなくちゃならない代物で、おや同じ台詞だなと思いきや同じ意味で使っていると限らない。ですからガレー家にまで持ち込まれる調停依頼ていうのは、言葉の使い方が全然異なる村と村、町と町、都市と都市といったのが多かった。そうすると調停役バールの役柄は、この言葉はどういう意味ですか? その言葉はどういう意味ですか? と地道に粘り強く聞き回るところから始まります。そうやって一から始めてみると今日まで揉めた原因は、当人らも見過ごした言葉のちょっとした行き違いの積み重ねと判る。両者の交渉代理人兼通訳みたいのを一人で請け合って話を整えてゆく。話せば分かる、というのは本当のことで、頭に上った血は通じ合ったっていう感触だけですーっと肚に落ちてゆく。肝心の争点も大抵は水とか土とか沼の使用権の話ですが、ばつの悪さも手伝って調停に奔走したバールが仲良く等分というところで折り合いをつけてすぐ手打ちになったもんでした。そういう手間を省いて化けの皮の理非だけで判断すると、人に恨みのあるものかをその身で知ることになるのは確実だ、と家中に言ったと伝えられています。

 ――本当に、あんなに話しやすい親分さんはないよ。

 巷の評判といったらまったく大したものでした。

 そうした日々の賜物で、言葉の造詣の深さといったら下手な学者じゃ仰天するほどのもんでした。紙の上の知識なんて一つも混ぜないで実際を潜り抜けて磨き切った地金のしっかりしたものですから、バールが監督したガレー家の言葉遣いは他の游侠人とじゃ比べようもなく品があった。咳払い一つとってもどことなく違う。ミナッツ王国の真珠島貴族ネギというのは、言語の天才だったルイジェセン大王に文字の強さを買われたのを生涯の誇りとしていたお方でしたが、とある談判でバールと話し合ったところ、

 ――俺はこの世に俺ほどに文字に精通した者はいないと思っていたが、ガレー家のバールという奴は自分の名前も書けない游侠者の輩でありながら、その口語に深いことと利口なことには本当に驚いた。

 とまで言って誉めています。

 ところが、こんな人でも収拾できない話が一つありました。よりにもよって跡目にまつわるもので、これをやりこそなっちまって鉄の結束を謳われていたガレー家が真っ二つに割れちゃったというんですから、痛恨の大失態。並の跡目話ならバールにまとめられないわけがない。どうやら普通じゃない事情があると睨んでだんだん調べてみると、万能帝に反抗して中原を手にした僭主ガレー家と、変わらず世の裏街道を行くガレー家とに分けたのが、どうもこのバールの調停結果という風に見えてくる。ローブが死んで後、跡目を継いで不足ないほどの人望を得ていた両看板のバールとバットでしたが、この二人がどちらも遠慮をしたのがそもそもの発端。バールの言い分は、

 ――自分は悪事を知らないから。

 じゃあバットの方はというと、

 ――自分は汚れた身ですから。

 と言い張る。人殺しという大間違いをかましたからには親方の素質はあったんですが、大小幾百千の調停話をまとめてきたこの頃のガレー家はもう游侠一家と称しても周りが承知しないところに躍り出て、可哀想にも、その盛名がかえってこの人たちの一生を浮かばれないものにしました。人でなしの万能帝を打倒しようとする気炎を吐いた一番手ガレー家を、万能帝の呆気ない突然の暗殺をいいことに解放の英雄、中原の僭主として立たないわけにはいかないところに導いたのが、あの怪僧ウルフィラ。そりゃ化け物じみたあんなに手強い奴よりは遙かに扱いやすかったでしょうよう。

 つまりガレー家を真っ二つに割ることでしか家の名誉と游侠の意地を通せなかったんですな。ところが両者の不幸とはこれからで、僭主の方はローブの恩人の息子で、かつて教圏の聖都として名高いヴォレヌスの名家フロック家のローゼットを頂いて何とかまとまった。游侠一家の方は、肝心の調停を不調にしたバールの言勢はもう昔のような影と響きがなくなって、いよいよ跡目の声を強く受けたバットも、

 ――黒札で頼んだ手打ちに不平を垂れるような奴らのこたあ知らねえよ。

 家中の情けない有様に愛想尽かしをすると、これからのガレー家を待ち構える哀れな行く末を聞きたくないかのように両の耳を自ら切り落として、教会のつまらない使い番をしながらローブの墓守をやって、貧窮の内に困死してしまいました。残った主立った者たちでガレー一家のなんとか組と自称して銘々に家を分けて初めの頃こそは上手く連合しているようでしたが、一代二代と続いてゆく中あれよあれよの間に空中分解、時代の荒波に揉まれては消えていってしまいました。遡れば同じ親方の下で火の中水の中に飛び込んだ同士という理屈を携えて僭主の方へ援助を求めた奴もあったようですが、

 ――当家の方の昔からの定まりで、決して游侠の方々とのお付き合いをしてはならぬという厳法がございます。お引き取りくださいませ。

 けんもほろろの応対であったとのことです。するといつしか僭主、游侠の両ガレー家の者は互いを蛇蠍の如くに嫌い抜いて、往来で顔を合わせるとそっぽを向いたり、地に唾を吐くといった具合でした。

 自身を常に危ういところに持ち込んでは調停をし続け、今は二つに割れたガレー家もいつしか互いを許し合って再び一つとなる日を願えるところにバールの誠心誠意の面目があれば、もはやこの上は堅気と游侠の二つに割れるのは大いに許せても、堅気と游侠の二つが一つとなって渡世を汚すのは断じて許されぬ悪としたところにバットの真心の面目がある。馬鹿が稼業の游侠人の二人を良い悪いと言ったって所詮は馬鹿の内といえばそれまでなんですが、こうやって人間の筋を通せるようなのが果たして今どこにいるか。

 時流れて往年の面影もない僭主と游侠の両ガレー家の間で和解調停が結ばれたのは、分裂から九百年以上を経た1994年8月の暑さ盛る日のこと。ガレー家ものの劇作を多く持つ伝統劇団の第十四世スロアーガが司式を務めた。

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