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白湯一杯

骨編のフェリクス・フローディック 9を読んでいると分かりやすいと思います。

 商館員の道楽がどれだけ行き過ぎていたかは彼らの間でもっとも好まれた飲料が白湯というので、大凡は知れる。蛇口からじゃあじゃあといくらでも流れる夢物語じゃあるまいし、井戸があれば上々、多くは川汲みの時代の話。生水だから今よりもよっぽど健康に悪い。安全な果物の絞り汁くらい気の済むまで口にできるだろうに、レストンの上流、中流、ロイターの上流から下流、支流や傍流、地方の農村の井戸水まで飲み比べて、湯沸かしに費やす薪材なども、そこいらの建築場の端材だの枯れ葉で手を打つような連中じゃない。ブレンダン地方の柏木とレストン川中流から北に別れたナヨ川の水に満足されるまでの手間と費用で砦一つ二つは建った。

 今ではもう干上がってしまったナヨ川の水は、教圏半島北西部に降る大雨が源の軟水だから大陸人の口にも合ったんだろう。口に合う合わないは商館員には一番に大事で、料理に付く鉄味を忌やがって料理人に必ず木製の刃物を使わせた。これはミナッツ王国のルイジェセン大王の義弟で食道楽の嫌味で呼ばれたルシャートも木製の調理器具を私物として拵えてあったくらいだから、美食家と呼ばれる人々も往時はそれ位の心得があった。アルル(旧ドロス)や真珠島で商館員の道楽に振り回され鍛え直された料理人の中には、それを伝統として絶対に落とせない大一番の客席に木製の包丁を使わせる店が今でもある。ただ、扱いづらい木製包丁を使いこなせる料理人を今でも擁しているのはヤーカール、フェルナ・ヘルナ、六海亭くらいのもので、他では味の分かる商館員の訪れが絶えて味の下落は甚だしい。だから商館員が嗜む白湯を作る際にも鉄鍋なんてまず使われなかった。土鍋が用いられた。

 さて、星のように金をばらまいた程の費えで理想の白湯が沸いたとて、サア大変なのはこれからで、贅を尽くした料理には同じだけの器が不可欠というのは東西今昔の定まりで、商館員は当然のように器物も凝りに凝った。彼らの趣味系統が単なる豪勢であるのなら金ぴか銀ぴかで分かりやすいことこの上ないんだが、道楽の彼らにも世間のそうした分かりやすい物を愛でる者たちと同じに、国を売ってでもほしい器物があった。

 その頃、大陸東部デーンの陶磁器というのは大変な物で、滅多なことでは教圏半島にまでは出てこない。製法はもちろん素材も機密。官窯村で働く職人から人夫に至るまで死を経ない限り外界には出られなかった。秘密窯で極少数しか生産できない青白磁などエステ帝室とミナッツ王家さえデーン国から贈られた小皿を二枚か三枚しか持っていなかった。この非常な貴重品が流出するのは地域の政情不安、動乱を唯一機とする密輸などで、奇跡的に出回ったとしても後進地域の教圏半島では代価になるような動産が存在せず、皿一枚で丘から見渡す限りの土地が手に入った。

 むかし、どんな弾みでどんな筋道を通ってきたか知らないが、このデーンの磁器がドロスの商館組合に転がり込んだ一件があった。桐の箱に大切にしまわれた中身を見てみると、白磁と青白磁の杯が一対揃え。土地どころか国が建つ名物を手に持たされた高級娼婦は、

 ――あの姉妹杯を頂いて足腰浮ついて地の居所も忘れた夢心地は、こんな婆になった今でも覚えておりますの。もちろん、商館の先生方の目つきも未だに忘れ去ることができませんのよ。

 さぞ大変な欲目だったようで、具合の悪い日などは夢にまで追って出るあの目に魘されるのですと言う。

 その姉妹杯を誰が所有するかという問題は当時、各国商館で長々とした論争になったものらしく、その醜さは、社会と階級間の矛盾を得意の風刺物で徹底的にこき下ろした三代目スロアーガの<一瓶よろし、二杯いやらし>に喝采を分与した。結局、余りに値高過ぎる姉妹杯は公金の使途を独断しがちな商館長にさえ二の足を踏ませ、商館組合の供託金が費やされて共有物扱いになった。

 ところが、一致共通する名目も建前も持たない当時の国際社会を繋ぐ絆を象徴する姉妹杯の白磁の方が、ある夜の饗宴でどういう扱いの悪さでか木っ端微塵に割れてしまった。真夜中のことだというのに全ての商館に緊急招集がかけられて、この席を休む者はただの一人もいなかったし、顔つきは破局的な災厄を回避する為、あらゆる犠牲を覚悟しているように見えた。席上には片割れを失った青白磁の杯が、さぞ寂しそうに置かれている。

 商館の人間が巷の価値観とひと味もふた味も違うのはこの始末の付け方で、せっかく無事に残った値千金どころじゃない青白磁の杯を叩き割ってしまった。

 ――白物がないなら色物に価値はない。

 そういう結論になったらしい。どういうことか分からない。分からないが、道楽もここまで極まればいっそ立派だという気がする。口さがない三代目スロアーガ大喜びの話材料と贔屓客の期待とは裏腹に、スロアーガは知らないように無視した。

 ――親方はなんであれを話に書かないんです?

 後にガレー家物で大成する四代目スロアーガが尋ねると、

 ――小利口な連中や薄ら馬鹿ならいくらでもやれるがね、大利口なのか大馬鹿なのか分からねえのはちょっと困るよ。俺はね、あの後始末を聞いて商館の連中を笑い物にした前非を改める積もりだよ。

 と答えて数日もない内に引退してしまった。各国商館との付き合いを深めて、商館員の間で交えられるわざとらしい挑発をさらりすんなり受け流す独特の勘働きを要する弁法を取り入れた小話などで楽しませる余生を送る内に、いつの間にか新任商館員の相談を受ける世話人として過ごした。ただ、お陰様で何とかやっていけそうです、と御礼に招待される度にこれはどこどこの、これはあれこれのという白湯攻めにされたには、

 ――役損役損と言い聞かせたが、あれだけはどうにも参った。

 さすがに辟易して降参の様子だった。滅多に手の届かないほどに贅を尽くしたにせよ、ただのお湯じゃあねえ。その反動なのかどうか、三代目スロアーガの死は果実酒の飲み過ぎで元より弱かった肝臓を害したが因。

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