狂人・月詠 ――月の面影――
『狂人・月詠』の六番目です。
月の面影
月野さんと別れ、家に帰る。どこにでもあるようなマンションの一室まで、私は毎日毎日同じ動作を繰り返す。監視カメラの映像を見たら昨日も今日もその前も寸分違わず同じ動きをしているかもしれない。そんなことを考えると不意に耳の奥で人間は繰り返す、という月野さんの声が蘇った。
もちろん、彼は一日単位でその話をしたわけではないと分かっている。彼は人間の一生、前世や来世といった次元の話をしていたのだ。しかし、こうしているとその話が真実味を帯びてきた。人間は一日単位で同じことを繰り返すのだから来世でもそれは引き継がれてもおかしくはない。
人間は苦しみと悲しみを繰り返す。人間の一生は幸せより辛いことの方が多い。なら私はどうなんだろうか。私は何を繰り返しているのだろうか。鍵を回して、ドアを開いた。
「ただいま」
帰宅を告げても帰ってくる声はない。これも私の繰り返しの一部だ。しかし、寂しさも辛さも感じない。これが私の現実で、それは私の体に染み込んでいた。
リビングのテーブルには野菜炒めがラップをかけて置いてあった。その隣には『これと残り物で食べて下さい』、と走り書きが置いてある。三日ぶりに見た母の痕跡だった。
鞄を下ろした私はキッチンへ向かった。フライパンと菜箸が乱雑に水につけてある。どうやら今日も大手企業女性専務は忙しいらしい。コンロに置かれた鍋が水を張ったまま放置されているのを見たところ、味噌汁を作る余裕まではなかったようだ。私は冷蔵庫の中にある昨晩の残り物を確認すると味噌を手に取った。
壁に掛けられた時計が七時半を指し示している。私は静まり返った部屋で食卓についていた。この時間帯はテレビを点けてもバラエティばかりで私の興味を引くものはない。
「いただきます」
手を合わせる。静かな部屋で一人、真面目にこんなことをしなくても誰も咎めないとは思うが、これも私の繰り返しの一部なのだ。
以前、小学生の頃は静寂に吸い込まれていく自分の声が心細さを誘い、見もしないテレビを点けたままいただきますもなしに食事をしていたが、中学に上がってからそれもしなくなった。理由ははっきりとは分からないが、強いて上げるなら見もしないテレビの電気代を勿体なく思ったからだろう。両親が必死に稼いだ給金をそんなもののために使うのは気が引けた。
野菜炒めを咀嚼し、味噌汁をすする。不思議だと思う。繰り返す中で私は自分で食事を用意し、作業的にそれを食べていた。だから私の舌には自分の料理の味が刷り込まれているはずなのに母の料理の味が一番下に馴染む。自分の作った味噌汁はただ作ったものを処理しているだけに思えた。
「……ごちそうさまでした」
食事を終えて、手早く皿洗いを済ませると私はリビングから撤収し、部屋に戻った。何の飾り気もない没個性な部屋にあるのは本棚と勉強机とベッドに備え付けのクローゼットぐらいだ。
私は壁のスイッチに手を伸ばした。ぱち、と無機質な音がして部屋が明るくなる。静かな部屋で私はがさがさと鞄を漁り、教材と筆箱を引っ張り出すと椅子を引いた。いつものように復習予習をこなす。部屋に響くのはシャーペンが走る音だけだ。そして、それもしばらくすると止む。時計を見ると十時半を過ぎていた。どうりで体が強ばるはずだ。私は体を伸ばし、天井を仰いだ。
この天井も見慣れている。朝起きて、まず目に映るのはこの白い天井だ。朝もこの家にいるのは私一人で、適当に昼食のお弁当を作りながら朝食の支度をし、学校へ行く。学校では普通に授業を受けて、終わり次第、帰宅する。唯一の寄り道があのベンチだった。その後は誰もいない家に帰り、食事をして、勉強をして、お風呂に入って寝る。それを繰り返す。人から言わせればつまらない、味気ない日常かもしれない。寂しいやつだ、可哀想だと言われるかもしれない。しかし、私はこの毎日に不満がなかった。
両親は忙しいだけで不仲ではないし、私のことを気にかけてくれている。父は単身赴任で今は四国なので長らく会っていないがたまに電話をくれるし、母も忙しい中、今日のように時間を作っては食事の支度をしてくれる。学校では非社交的な性格のため、友人こそいないが同級生から疎まれたり、嫌われたりということもないので苦になることはないし、あのベンチで過ごす時間は数少ない私の楽しみの一つだ。
それでも強いて不満をあげるなら寂しさだろうか。私も人並みに寂しいと思うことはある。しかし、家に一人でいることとその寂しさは一体化していた。そういうものなのだ、と私はその感情も現実と一緒に受け入れていた。
「……月野さんも」
思わず、思い付いた言葉が口を突いて出る。その声はいつもより長く宙を漂っていた気がした。
もしかしたら、これが彼の狂気なのかもしれない。そこに数えきれない死や痛みが会っても見えることはそういうものなのだと受け止める。私は次元は違えど、彼の狂気の受け止め方に触れているのかもしれない。そんな風に考えるのはおこがましいかもしれないが、そう思うとなんとなく寂しさが薄らいだ。
私は立ち上がり、部屋を出た。いつも通りならお風呂を沸かして、汗を流して早く寝ているところだが今日は少し違うことをしてみようと思う。私はリビングからベランダに出た。
微かな夜風が肌を撫でる。遠くで車のクラクションが聞こえた。見渡せば、どこもかしこも遠くまで明かりが点っている。夜だというのに町は明るかった。お陰で星は見えない。まるで、星の光が皆落ちてきているようだ。しかし、星の光を失った夜空で一人、月は皓々と輝いていた。
(そういえば……)
前に志倉さんと話したことを思い出す。月野さんを月に例えるならどんな月か。志倉さんはそう聞いた。あの時の私の答えはなんだっただろうか。
(一人で見上げたらほっとする、傍に居てくれるような月……)
私はじっとわずかに欠けた月を見上げた。月は静かに明るい町と私を照らしている。その姿に私は彼の面影を見ていた。
涼子ちゃんのターン!
……最近月野さんの出番が減ってるなぁ。