5 Bar 桜羽
ほろ酔いを醒ましたくはなくて、真理亜はワンピースからスエットに着替えると化粧だけ落としてそのままベッドに入った。
なんだか中途半端な夜になったなぁと思いながら目を閉じる。
次に気がつけば朝を迎えていた。
久しぶりに熟睡したせいか目覚めもよく、頭のなかがすっきりとしている。
最近は感情もお酒の量もコントロールできるようになったかな、上出来!上出来!と自分を褒めながらベッドを抜け出した。
さっと洗顔をし化粧水とクリームで保湿してからキッチンに向う。
キッチンといっても所詮1LDKのアパートだ。
実家とは違って調理道具も少なくたいしたものは作れない。
引越してくる時からそれは覚悟していたので、ここでは簡単な料理しか作っていない。
ペットボトルからグラスに水を注いでピルを飲む。
ケトルにやはりベットボトルの水を入れて、後で飲む紅茶の準備をしておいた。
ベットシーツと枕カバーをはずし洗濯機に放りこむと、真理亜は自分の髪の匂いを嗅いだ。
やっぱりちょっと匂う。
昨夜はバーに行ってそのままお風呂に入らずに寝たのだ。
自分が吸わなくても煙草の匂いは免れない。
ため息がでそうになったが、それを飲み込んで掃除にとりかかった。
朝風呂に入ったついでに風呂場も掃除した。
全部終わってもまだ午前10時になったばかりだった。
髪を乾かしながらテレビをつけてみた。
各地で行われている花見の中継が流れている。
すっかり髪が乾いたところで、紅茶を淹れてPCを立ち上げると母からメールが届いていた。
真理亜は母と約束していたことをすっかり忘れていた。
どうせそんなことだろうと思ったのか、母から今日の約束の確認メールだ。
携帯電話をバッグから出すと着信もあったようだ。
真理亜と母が通っているフラワーアレンジ教室の先生の個展に、母と一緒にいくことになっているのだ。
電話をかけてみると届けるものがあるから真理亜のアパートに来るという。
車でならここから個展会場までは10分ほどなので、2時少し前に行くと上機嫌で母は電話を切った。
2年ほど前、弟が結婚して実家を建て替えることになったので、それを期に真理亜は一人暮らしを始めた。
行き来しようと思えば比較的簡単にできる距離だが、少し離れているだけで親からの干渉度が全然違う。
真理亜はこの距離が気に入っていた。
母は2時少し前に到着した。
お米とペットボトルの水の箱を降ろして、お茶もいらないからと早々に真理亜を助手席に乗せて車を走らせる。
「どう?ちゃんとやってる?」
「もちろんよ」
弟夫婦との同居話を聞いているとすぐに会場に到着した。
TVや雑誌で売れっ子の先生なので、母は古くからの生徒であることが自慢らしい。
久しぶりに華やかな場所に降り立って、真理亜は少し気おくれするのを感じた。
若い生徒さん達に挨拶されるなかを、主役の先生のところまで進んで挨拶をしていると、
やはり教室仲間の成瀬夫人が母を捜してやってきた。
「ほら、真理亜もこっちにいらっしゃい」
母に腕をひっぱられて会場の隅に移動すると、母は成瀬婦人と何か小声で話しはじめた。
ふと顔を上げて成瀬婦人の付き添いを見ると、真理亜は、ちっと舌打ちしたい気分になった。
今日の成瀬婦人は息子を伴っていた。
母と成瀬婦人がお茶をしている間、成瀬の御曹司に会場をご案内しなさいと言われて、今日の目的はこれかと納得した。
成瀬夫人は息子に、真理亜ちゃんを食事に誘うなら電話よこしてと言い置いて、会場に二人取り残された。
よりによってこんな不良息子とお見合いもどきのようなことをしないといけないのだと
真理亜は母を恨んだが、母はもう喫茶室のほうに行ってしまった。
自力でなんとかするしかない。
「おい」と声をかけられて成瀬を見ると、不機嫌そうな顔がそこにあった。
「相変わらずどんくさそうだな、お前」
「成瀬さんはご立派になられて・・・見違えるようですよ?」
成瀬は言葉に詰まったようだった。
「早々に退散してどこか遊びに行こうぜ?」
「私は来たばかりなので、展示を見ていかないと・・・。
成瀬さんは出られても結構ですよ。おばさまには適当に言っておきますから」
そう言うと成瀬は面白くなさそうな顔をして、
「仕方ないなぁ。しばらく見るフリでもしておくか。
お前、適当に見てろ。後ろについて行くから」
相変わらず高飛車な男である。
成瀬と初めてあったのは、フラワーアレンジの教室にに母に連れていかれたときだったと思う。
あれは確か、小学生のころだ。
成瀬は一目見るなり、貧乏人の子は俺は相手にしないからなという態度をとった。
大人の前では猫かぶりで礼儀正しいのに、大人が居なくなると上から目線で話す生意気な子供だった。
何年か経って何の因果か学年と学部こそ違ったが、この男と大学が同じだった。
見かけることはなかったが、成瀬の噂は聞いている。
連日バカ騒ぎしているうえに、強引に誘ってレイプまがいのこともしているらしいという、なんとも嫌な噂だ。
それなのに成瀬のブランドやお金に釣られてか近寄る女がたくさん居た。
そのうち留学したはずだが、それもあまりにも遊びすぎて手に負えなくなったのでていの良い海外追放だと聞いた。
それっきり成瀬のことは聞かなくなっていた。
真理亜はデジカメを取り出し展示されている作品を次々と撮って、その中で一番印象深いアレンジのところに戻った。
目線を変えてじっくり観察し、カメラを持ち直して設定を調整しながら何枚か撮る。
「もうそろそろいいだろ」
後ろからそういう声がしたので、成瀬がついて来ていたに驚いて振り返った。
「お前、俺を忘れていたのか?」
「そういうわけじゃ・・・」
「そういう顔してるぞ、呆れたヤツだな。さ、ここ出ようや」
真理亜は少し考えてから成瀬に言った。
「今日は誰かとでかけることは予定にないですよ。
他にすることがあるので、ここで失礼します」
成瀬は片手を自分の顎に当てて真理亜を見下ろした。
「おまえな、さっきのお袋の言ったこと聞いただろ?
今日は俺はお前を誘わないといけないんだよ。
でも、どこに誘うかは俺の自由だ。
車で来てるので、ちょっとドライブでもいって楽しく時間つぶしてこよう?」
(冗談じゃない。成瀬の車でどこに連れていかれるんだか・・・。
敵のテリトリーには行かない、絶対に行かない)
「私、ほんとうに用事があるんです」
「じゃ、その用事のところまで乗せていくよ?」
「実は、ここの近くなんです。長く会ってない友達を訪ねることになっているので」
「ほう、それもいいじゃないか。一緒に行くよ」
「ほんとうにいいんですか?」
「あぁ、行ってやるよ」
真理亜は持っていたバッグを更にきつく掴んだ。
個展の会場を出るとその正面が桜で有名な大きな公園だった。
今日、明日が満開とあって多くの人が行き交っている。
その入り口を通り過ぎて数軒隣に真理亜の行きたい店があった。
数段のステップを上り『桜羽』と書かれたプレートの扉の前で立ち止まって後ろを見た。
成瀬はついて来ていた。
準備中という札を無視して扉を押すと、鍵はかかってなく室内の暗さとは対照的に暖かい空気が流れてきた。
店のスタッフがすかさず気がついて、「まだ準備ができてないんですよ」と断りながら近づいてくる。
「佐々木店長さん、いらっしゃいますか?」
「はい、どちらさまですか?」
「仁科と申します」
そういうやり取りをしていると、店の奥から背が高くひょろりとした青年が現れた。
「わおっ・・・真 理 亜 ?」
真理亜が肯定の意味でにこっと笑うと、「マジ?真理亜だ~~~!」と尻尾を振る犬のように真理亜に駆け寄った。
真理亜は慌てて手の平を佐々木に向けて顔の前に突き出した。
「ストップ、ストップ」
「真理亜、ぎゅう~ってさせてよ?」
「何言ってるんですか、そんなこと一度もしたことないじゃないですか?」
「ちぇ・・・どさくさに紛れて一回くらいハグさせてくれても・・・」
「店長の威厳台無しよ?」
「あ、うん。それはいいんだ」
「それよりも、忙しい日だってわかってるのにごめんね。何か飲ませてもらっていい?」
夜しか営業しないのだが、年に数日この桜の時期だけは、隣の公園に花見に来る常連さんのために夕方から店を開けていた。
今日は必ず早い時間から居ると思って顔を見に来たのだ。
「テラスはまだ寒いからここでいい?」
と案内されたのは、大きな窓から公園の桜が見えるように作られたカウンター席だった。
佐々木はカウンターの中に入って、注文を聞いた。
成瀬は隣でいらいらしている様子だ。
「こちらは大学で同期の佐々木店長。こちらは3年先輩の成瀬さん」と入り口で簡単に紹介したが、佐々木が「よろしく」と言うと成瀬は鷹揚に頷いただけだ。
「成瀬さんはお車なのでアルコール無しで、私にも何か適当でいいから」
真理亜がそういうとジンジャエールを細くて長いグラスに入れて二人の前に置き、
佐々木はカウンター内で作業を始めた。
しばらく黙って窓の外の桜を見ていたが、成瀬が「もういいだろ」と真理亜を促した。
「成瀬さんこそ、もういいでしょ」
「どういう意味だ?」
「何があったか知りませんが、今日はお母様の言うとおり私に会った、
私を誘って出掛けた、一緒にお茶を飲んだ。これでいいじゃないですか」
「お袋が何故今頃お前と合わせたのか知ってるのか?」
「なんとなくはわかります」
「何だ、言ってみろ」
「私が庶民ですから、辛抱強いと思ったのではないですか?」
成瀬はしばらく口を噤んでから、「そうかもしれんな」とぽつりと呟いた。
「お前はまだここに居るんだろ?」
「はい」
「じゃ、これでこいつの分も・・・」と言って、カウンターに1万円を無造作に置くと成瀬はジンジャエールに口をつけないまま店を出て行った。
「ナンですか?あれ」
成瀬が出て行った扉が完全に閉まってから、佐々木はそう呟いた。
「おい、塩撒いておけ」そうスタッフに言うと、ほんとうに塩壷をカウンターに置いた。