2 Bar Angel Eyes
20分と少々で真理亜は自宅に到着した。
何の変哲も無い1LDKのアパート。
都心だというのにその界隈だけ開発に取り残されたように地味な場所だ。
家賃が安いせいか2年前に実家を出て引越してきてから、ご近所の顔ぶれもあまり変わってない。
駅までの間には小さいが商店街もあり、大手スーパーもコンビにもある。
一駅移動すれば有名デパートもある便利な場所だった。
ヨガの後すぐに歩いてきたので汗ばむほどである。
真理亜は迷わずにシャワーを浴びた。
長い髪をざっと乾かしてからようやく一息ついて、エネルギーバーを手にした。
ビタミンやカルシウムがたっぷり入ったエネルギーバーをゆっくり咀嚼しながらミ
ネラルウォーターを飲み、空腹を一時しのぐ。
あとで熱いピザを食べよう。
真理亜はそう思いながら、タイマーを30分にセットし、床に座った。
背筋を伸ばして基本の姿勢をとる。
ゆっくりと目を閉じて呼吸だけに集中した。
その頃、 Angel Eyesではオーナーの譲二が珍しくシェイカーを振っていた。
賢吾がカウンターに座ってすぐに、目の前に置かれたグラスに透明のカクテルが注がれた。
サブバーテンダーがすかさず奥のボックス席にグラスを運んで行った。
奥の席では美男美女がよりそって静かに話していた。
絵になる二人だと一瞬目を留めたが、賢吾はゆっくりと顔を正面に戻してこのバーのオーナーに話しかけた。
「珍しいですね、譲二さんがカクテルだなんて」
「俺だってたまには作るよ?」
「僕にも何か作ってくださいよ」
「お前はビールで充分じゃないのか?」
「ん~、確かに一杯目はビールが欲しいですけどね」
「だろ?ビールのあとはバーボンでも飲んでろ」
「はいはい、僕なんて譲二さんのマティーニ飲むには10年早いですよね」
「そういうことだ」
「まったく・・・。僕もすっかり大人なんですけどね」
そうブツブツ文句を言いながらも美味しそうにビールを飲む賢吾を見て、
譲二が、「ほう大人にね。一通りの経験は済ませたのか?」と軽口を言う。
飲んでたビールをブっと吹き出して、「なんてことを言うんですか、この僕をつかまえて」
「修羅場もくぐらないと一人前じゃないぞ?」そう言って譲二はにやりと笑った。
賢吾は思わず先週のことを思い出してしまった。
秘書課の女の子を食事に誘った夜、レストランから出たところで総務部のミキちゃんから平手打ちをお見舞いされたのだ。
秘書課の女の子は「ご馳走様でした」とだけ言って帰ってしまうし、
ミキちゃんは、「最低っ!二股なんて最低だわ!!」と叫んだのだ。
賢吾にしてみれば、ミキちゃんとは付き合ってるという意識がなく、
平手打ちされてようやくミキちゃんが賢吾の彼女だと思ってることに気がついたくらいだ。
(あれって、一応修羅場だよね?)
そう考えながら譲二のほうを見ると、彼は奥のテーブルを見ていた。
「あっちが修羅場だな・・・」
譲二がそう言い終わらないうちに、先ほどマティーニを運んで行ったテーブルの女性が勢いよく立ち上がった。
女性は男性を見下ろして睨んでいたが、やがて賢吾の座っているカウンターを素通りして足早に店を出て行った。
顔がピンク色に上気して目が釣りあがってる。涙が出ていなかったのは気が強いからだろう。
美人が怒ると妖艶だなと賢吾は思った。
目線をそのまま奥のテーブルに戻すと、取り残された男性のほうは表情を変えずに
グラスに残ったマティーニを飲み干してからゆっくりと立ち上がり、
カウンターに近づくと譲二の前に座って「同じものを」と言った。
譲二は何も言わずにシェイカーを振ると、前回と同じ形のグラスに透明の液体を注ぐ。
男性はグラスをしばらく見つめてから、マティーニに口をつけた。
身長があるので細身に見えたが、近くで見ると程よく筋肉がついているのがわかる。
端正な横顔からはあまり表情が伺えず、賢吾は少しばかり長く観察していた。
どこかで見たような気がする。
「あっ、田所さん・・・?」
考えるより前に声が出てしまった。
男性と譲二がゆっくりと賢吾のほうに顔を向けた。
「お声かけてしまって申し訳ないです。もしかしたら田所さんじゃないですか?」
男性は頷いて、また一口マティーニを飲んだ。
賢吾のことはあまり気にしていないようだった。
「今頃気がついたのか」譲二は呆れたように賢吾の顔をみて言った。
「だって、眼鏡をかけていないので印象が違いましたので。私は営業部の・・・」
と、言いかけたところで譲二が口を挟んだ。
「彼は君のことを知ってるよ。ここで何度か見かけてるし」
「そうなんですか?」
「あぁ、ここでは眼鏡かけないから気がつかなかったのだよ、君は。なぁ?佑一」
田所はマティーニグラスをカウンターに置くと、賢吾を見ながら、
「営業部の斉藤賢吾君だろ?営業部のホープだからな」と言った。
譲二が「佑一と俺は同級なんだ。俗に言う幼馴染というやつだ」と付け足した。
「賢吾は俺達の後輩だよ。ちなみにコイツは経済学部だ」と今度は田所に説明している。
人事部の田所がW大出身だと賢吾は驚いていた。
どちらかというとW大はバンカラな校風で、田所のような洗練された人は逆に目だってしまう。
それを見透かしたように「いつも俺が言うように、世の中、ちゃんと目を開けてみたほうがいいぞ?」と賢吾をからかった。
「それにしても、さっきの美人さんを追いかけなくていいんですか?」
賢吾はからかう譲二には答えずに、田所にそう話しかけた。
田所は口の端を上げてニヤリを笑い、「いいんだ」と一言だけ賢吾に返した。
そんな田所を見て譲二が「またか・・・」とため息をついている。
「あんな美人、逃がすのはもったいないですよ」と賢吾が言うと、
「あちらからのオファーに条件を付けたら、それを承諾しなかったんだ、彼女は」と田所が面倒そうに答えた。
「はぁ、でも・・・」と賢吾が言いかけると、再び譲二が遮った。
「賢吾、そのくらにしておけ。先輩に失礼だろ」
「どんな条件なのか興味でてきたんですよ」と賢吾が少し拗ねた口調で譲二に言い返している。
「そうだな・・・・。条件をつけないと受け入れられないくらいの存在ってことだな」と田所が言う。
「あ、それって、彼女の価値が低いってことですか?」
「まぁ、俺にとってはってことだけど」
佑一はため息をひとつ吐いてまたマティーニに手を伸ばした。
「ところで、今日はめずらしいな、こんな早い時間に」と譲二が話題をかえるために賢吾に聞いた。
「僕だってたまには約束の無い金曜日もありますって」
「ほう、女が居ない週末はめずらしいな」
「まぁね。なんか面倒になってしまって・・・」
「枯れるの早いぞ?少年よ!」
「一年に一日くらい女っ気無し過ごしても悪くないでしょ」
ムキになってきた賢吾を見て譲二と田所が笑っているところに、店の扉が開いて新しいお客が入ってきた。
真理亜は30分の瞑想が終わると、出掛ける準備をした。
ドライヤーを手に取って髪を完全に乾かし、会社に行く時はひっつめてる髪型はやめて、
おろしたままにした。
ツヤがでるまでブラッシングし、軽くオイルを擦り込む。
ボディークリームは保湿力があり、香りの少ないものを選んだ。
少し迷って、柔らかな香水を指先に少量ふり、その指で胸の谷間と太腿を押して香りを移す。
最後に耳の後ろにもその指先を5秒ほど押し付けて香りを移した。
それからワンピースを着てボレロを羽織った。
自分の匂いを強くしてカクテルやワインの香りを損ないたくはなかった。
そうかと言って例え匂わなくても女らしい香りを身にまとっていたかった。
いつもは会社帰りに立ち寄ることが多いが、今日は一度家に帰って瞑想で充電を済ませた真理亜が
Angel Eyesの重そうな扉を押したのは午後9時なろうという時だった。
カウンターで3人のイケメンが談笑していた。
うわっ・・・今日は目の保養日だなと思いながらカウンターに近づくと、
「あれ?仁科?」とイケメンの一番若い男性が真理亜を見て言った。
「あ、斉藤さん」
真理亜が次の言葉を言う前に、譲二が「こちらにどうぞ」と賢吾の隣にコースターを置いた。
真理亜の動作が一瞬止まったが、それを誰にも気づかれないように譲二に会釈をして素直にコースターの前に座った。
「今日は遅い時間にめずらしいね」と譲二が真理亜に返事を促すようにシェイカーを準備している。
「普段は食事をしてそのまま来てるんだけど、今日はヨガのあと一度家に帰ったから」
「あれ?食事は?」
「まだなの。熱々のピザが食べたいと思って、ここまで我慢しちゃった」
譲二が笑いながらサブバーテンダーに頷くと、サブバーテンダーがキッチンに注文を伝えに行った。
「いつも来てるんだ?」と賢吾が不思議そうな顔をして聞く。
「そうね、このお店なら一人で大丈夫だから」
「僕もたまに来るけど、今まで会わなかったなぁ」
「時間が違うからだよ」と、真理亜に出来上がったカクテルグラスを置きながら譲二が賢吾に言った。
真理亜はカクテルグラスを嬉しそうに見ている。
「あれ?彼女には譲二さんのカクテル?僕はビールなのに・・・」
「もちろん。真理亜ちゃんは上得意さんだからね」と譲二が笑いながら賢吾に言った。
そんな二人の会話に反応するわけでもなく、真理亜はただ美味しそうに一口目を飲んでいた。
そんな真理亜を賢吾越しに田所が不思議なものを見るように観察していた。
もっともそんな田所に気がついたのは譲二だけで、賢吾も真理亜も全然気がついてはいない。