10 バーボン
軽めに作ったとはいえ、真理亜がマティーニを飲み終えるには時間がかかった。
二人とも口数が多いほうではない。
田所はもう一杯お代わりをし、真理亜がグラスを開けるまで静かに待った。
前回と同じように帰る真理亜をタクシーに乗せると、Angel Eyesに戻った田所はカウンターに座った。
「何か飲むか?」と譲二が聞く。
「そうだな・・・」
田所が迷うと、譲二は「これがあるのだが・・」と見かけないバーボンをカウンターに置いた。
「ほお、めずらしいな」
確か、年間に260本あまりしか生産しないバーボンの原酒だ。
譲二は小さなグラスを2つカウンターに出して、開封したばかりのバーボンを注いだ。
口に含むとさすがの二人も少しばかり顔の表情が緩む。
「なかなかだな」
「ああ」
それだけだが、男二人には充分な感想だろう。
田所がブラントンのバーボンを気に入ったことが譲二にはわかった。
「最近よく来るなぁ」
田所は何も言わない。
「しかも金曜日だ」
「何が言いたい?」
「真理亜ちゃんが来るのはいつも早い時間なのになぁ」
田所はため息をつきながら、「週末の仕事帰りに来てもいいだろう。会社からそれほど遠くないんだし」と答えた。
「今までは年に1回か2回だったじゃないか」
真理亜と終業時間が違うのだからここで遭遇する可能性は少ない。
構わないでくれないかという言葉を田所は飲み込んで、
「それはそうと、今日の仁科、ちょっと感じが違ったぞ?」と譲二に問うように言った。
「気のせいかな?」と呟く。
「確かにそれは俺も思ったなぁ」と譲二も言った。
しばらく無言でバーボンを口に含み、それぞれ考え事をしていたが、
「お前が変えたのかと思ったけど?」と田所は譲二に言ってみた。
「ん?ジョーダンだろ」と譲二は事もなげに返した。
もう一口バーボンを喉に流し込んでから、譲二が話し始めた。
「あの子は、昔同じ会社に居た倫子ちゃんが連れてきたんだ。
今から2年ちかく前かな。いや、2年にはなってないな」
「澤口 倫子か?」
「あぁ、姉御肌だったかなら、倫子ちゃんは。
私が退職した後この子をお願いねと言って連れてきたのが始まりだ」
経理部の澤口倫子は、威勢がよくて面倒見のいい経理部のお局さまだったことを田口は覚えていた。
彼女なら真理亜をここに引っ張ってきたことはわかる。
「女が一人で飲める店が必要だから、あんた頼んだわよ!と言われたんだよ」
譲二は倫子の口調を真似て言った。
それが結構似ていたので、田所は笑いを隠すためにグラスを口に運んだ。
「それから月に2~3回、ここに来てる。
あの子、一度も同僚とか友達とか連れてきたことないんだ。
もちろん男連れだったこともない」
譲二は目を細めてそう言った。
「あの器量だから、カウンターに一人で座ってるといろいろある。
俺はいたいけな兎を狼どもから守る番犬って役だよ」
「ご苦労なこった」
「あの子さ、初めて来た頃は傷ついた子兎のようだった。
自分で傷を舐めながら治してた。
今はもう傷跡もないくらいだが、今でも男を避けてる。
そんなところだ」
田所は何も言わずバーボンを飲んだ。
空になったグラスに琥珀色の液体を注ぐ。
「新しい男かな、やっぱり」
譲二も真理亜のわずかな変化を見逃してなかったらしい。
それはそれで傷が癒えたということだからいいんじゃないか?と田所は思った。
扉が開いてまたひとり新しいお客が入ってきた。
田所の隣にどさっと腰を下ろしたのは、斉藤賢吾だった。
「先輩、隣よろしいですか?」
「お前な、もう座ってるじゃないか」と譲二が賢吾を睨む。
「座ってから思い出したんですよ、断ったほうがいいと」
「ビールでいいよな」
「はい、まずはビールお願いします」
譲二の淹れた生ビールを喉を鳴らしていっきに半分ほど飲んで、
「金曜日のこの時間に会社を出るのは久しぶりです」と言った。
「今年の新人はたいへんですよ~。もう泣きそうです」と今度は田所のほうに身体を向けて言った。
それから生ビールを飲み干すまでぶちぶちと愚痴を言っていたが、
田所に「まぁ、飲め」と同じバーボンを勧められてようやく気分が切り替わったようだ。
「今日、仁科は?もう帰りました?」と譲二に聞いた。
「あぁ、いつものようにさっと飲んで帰った」
「そうですか」
「真理亜ちゃんに惚れてるのか?」
「ん~~、惚れたのかな」
賢吾はそう言って笑った後、「惚れたというより、気になるって感じですね」と言いなおした。
「同じことじゃないか」と呆れて譲二が言うと、「いや、ちょっと違うんです」と言って言葉を捜しているようだった。
賢吾の口が滑らかになるように譲二は賢吾のグラスにバーボンを注ぎ足す。
賢吾はそれで口を湿らせてから、「仁科って入社した時からちょっと変わった女の子で・・・」
話を続けるようにと譲二は賢吾に頷いてみせた。
「仕事は判断力もあるし、時間が経つと打ち解けもするし、可愛い同期なんですけど、
名前を呼ぶときに必ず誰々さんというようにさん付けなんですよ。
男子の俺らにそうだというのは、何事にも丁寧な彼女だからわかるんですけど、
女子にもさん付けなんです」
「ふむ。お嬢さんなのか?」
「いや、知らないですけどね。それが気になりだしたらどうしても気になって。
で、ですね。年下の子にもさん付けなんですよ」
「やっぱりお嬢さんなんじゃないか」
「それはどうかわかりませんが、とにかく俺にはそれが気になるんですっ」
拗ねたように賢吾はまたグラスに手を伸ばした。
田所は黙って聞いているだけだ。
しばらくしてから譲二が賢吾に言った。
「それけじゃないだろ?ほら、言ってみろ」
「俺が気になるのはそれだけなんですが・・・ここからは聞いた話なんでオフレコです」
そういってから話を続けた。
賢吾の顔は度数の高いウイスキーのせいかすでに赤くなっている。
「いつ頃だったか、とにかく何年か前です。
入社して3~4年経ってからだったですよ。
女子たちがちょっと噂してたんですよね。
仁科が頻繁にキスマークつけてるって・・・」
「ほぉ・・・」
「それからしばらくしたら、身体に痣が絶えないってひそひそ言われてました」
田所はグラスを持つ指に力が入ったのが自分でわかった。
そのまま口に運び、強い液体を流し込む。
「今もなのか?」
譲二が聞いた。
「いえ、今はもう何も言われてません。2年くらい前かなぁ・・・それって。
更衣室で見たという女子がいて、噂として聞こえたんですよ」
譲二の話と時間のつじつまが合う。
真理亜が男にどういうことをされていたのか、譲二と田所には容易に想像ができた。
しばらく3人とも無言で飲んでいたが、譲二が「隣の店、どうだった?ノアに気に入られたんだって?」と賢吾をからかいはじめた。
田所はグラスを空けると、「じゃ、またな」と店を出た。
先ほどタクシーを拾った場所に来て、真理亜がタクシーに乗り込む姿を思い出した。
田所がドアを掴んでいる間に、真理亜は座席に座る。
ドアが閉まって真理亜が運転手に行き先を告げる時、彼女の白い首が見えた。
田所は酔い冷ましに歩いて帰ることにした。




