第57話 おかえり
8月8日。
東京警察病院 院内
操神たちの奪還作戦から、三日後のこと。
いつも通りのスーツ姿で警察病院を訪れていた皇律は、とある病室を目指してリノリウムの床を歩いていた。やがて目的の病室の前に到着すると、患者の名前の書かれたネームプレートを一瞥してから入室する。
その先にいたのは、病衣姿の伊織十和であった。
「あ……来てくれたんですね、班長!」
「ああ、遅くなってすまない」
口ではそう言いつつも、皇は心なしか相好を崩していた。作戦後の伊織の容態こそ万全とは言い難かったが、そのことで沈んだ雰囲気になるのは本人の望むところではない。
慣れない笑顔を浮かべながら、皇は伊織のいるベッドに歩み寄った。
「どうだ、具合は」
「体調の方は特に問題ないです。昨日受けた検査も異常なしでしたし。まだちょっと頭がぼーっとしますけど……」
「そうか。それは何よりだ。……しかし、お前たちは何をしている?」
半目になった皇は、伊織の近くにいた乾遥と沢田泡音に目を向ける。彼女らは右腕を失った伊織の生活を補助するかのように、忙しなく動き回っていた。
「いおりん先輩、水飲む? あ、ゼリーの方がいい? 欲しいものあったらなんでもあーしが売店で買ってくるから、いつでも言ってね!」
「ええ、ありがとう。でも今はここにいてくれるだけで十分よ」
「俺がリンゴ剥いてやろうか!? 最近やっとカニのハサミっぽく切れるようになったんだぜ!!」
「あー、泡音は何もしないで。お願いだから。あとそれ多分カニのハサミじゃなくてうさぎさんよ……」
「そうなのか!?」
沢田が戻ってきたことで、伊織の心労はまた重なりつつある。しかし彼女にとって、操神や沢田を助けるために尽力したことは決して後悔にはなっていなかった。最愛の仲間と再会し、束の間の平和を享受できているこの瞬間こそが、彼女にとって最大級の幸福なのだ。
皇も加わり、第二班のメンバーたちは久々の談笑に興じる。
病室の外では霜月も様子を窺いに立ち寄っていたが、既に見舞いを済ませていたこともあり、敢えてその輪に入ることはしなかった。彼がそのまま立ち去ろうとする中、その背を澄んだ声が呼び止める。
「入らないんですか? シモさん」
霜月が振り返る。
そこにいたのは、公安の監視係を引き連れた百鬼全一郎であった。元チームメイトである彼の登場に動揺しつつも、霜月はゴーグルを弄りながらクールに言い放つ。
「俺は今回、お前たちほど貢献できたわけでもないからな。あの場に加わるだけの資格はない。……それに一応、見舞いの品は渡してある」
「はは……不器用ですよね、あなたも」
「お前こそ、入らなくていいのか?」
霜月につられるように、百鬼も病室に視線を移す。
しかし彼は眩しいものでも見るかのように目を細め、曖昧に微笑んでみせた。
「俺は……まだ、あの場所には戻れません」
それは、彼なりのけじめだった。
〈ANTIDOTE〉と〈JAIL〉。捜査官と囚人。
今回の作戦こそ同行できたものの、彼はまだ暴走の危険を孕んでいることには変わりはない。皆に認めてもらえる「完璧」な自分でいられるまで、あの場所には戻らない。彼はそう心に決めていた。
「それじゃあ、俺はこの辺で失礼します。十和たちの顔も見れたことですし」
そう言って百鬼は、霜月の横を通り過ぎていく。
すると霜月は振り返らず、彼を呼び止めるように言った。
「百鬼。今回の作戦、お前がいて助かった。感謝する」
それから飲み込みかけた言葉を、霜月は口にする。
「急がなくていい。だが必ず、戻ってこい」
「はい。絶対に戻ってきます」
晴れた笑顔で、百鬼は言った。
今はまだ、百鬼にとっても仲間のもとへ戻れるような時期ではない。だがそこには確かに、彼の戻るべき場所がある。彼を待つ仲間がいる。
それだけで、今の百鬼は満たされていた。
◇◇◇
吹きつけた夏風が頬を撫でていく。
俺は傷口の痛みを思い出しながら、それでも病院の屋上で風にあてられていた。少し離れた場所では、水無月さんが片手に出したアポロチョコを頬張っている。なんだか久々に見る光景だった。
「ひとまず、退院おめでとう。操神君」
なんてことのない口調で、水無月さんは言った。
それと一緒に差し出されたアポロチョコを、俺もいただいて口に運ぶ。甘いものを食べるのは久々だった。
アジトからの脱出で俺も怪我を負っていたが、検査入院を経て今日やっと退院の許可が出たのだ。それ自体は普通に、純粋に嬉しかった。ゴーガツが始まる前の今の「日常」にようやく戻ることができるのだから。
「検査の方も異常なかったそうだね。さすが操神君だ」
「いや、それはまあ……俺はただ、監禁生活でまともに食えてなかっただけなので」
「そうだね。本当に、君が無事でよかった」
水無月さんにはそう言われつつも、俺は今回の作戦結果をふと思い出していた。
俺と沢田を助け出すために、第一班と第二班のメンバー、そしてザムザたち〈JAIL〉のみんなが作戦に参加したと水無月さんに聞かされた。それに加えて——この作戦で伊織さんが片腕を失い、乗富さんが殺されたことも。
俺にそのことを包み隠さなかったのは、多分彼女なりの優しさだと思う。現に俺も今、その犠牲にきちんと向き合わせてくれたことに感謝している。優しさからくる嘘なんてものは、多分本当の優しさじゃない。
「水無月さん」
自分の命の重みを再認識しつつ、彼女の名を呟いた。
ゴーガツでの出会いや訓練、毒裁社での監禁生活を経て——今、直属の上司である彼女には訊きたいことが山ほどある。自分一人では答えを出せない問いが山ほどある。
「ここ数日、考えてたことなんですけど……俺たち【中毒者】にとって、正しい世界の在り方ってなんなんでしょう? 今の世界は、公安のやり方は、本当に誰の視点から見ても正しいわけじゃないんでしょうか?」
「……鬼灯酒樂に、何か言われたのかい?」
図星を突かれた俺は、黙って首肯した。
俺の抱えている経緯を見抜いたというよりは、彼女本人も経験があるというような口ぶりだった。ひと呼吸おいてから、水無月さんは話し始める。
「そうだね。その問いは、本来【中毒者】である私たちがこの世界に問い続けるべきものなのかもしれない。実を言うと私も今、その問いに答えを見つけられていないせいで、毒裁社のことを一概に否定できずにいる」
「水無月さんも、そうなんですね……」
「ああ。私だって、君が思ってるほどできた大人じゃないからね」
そう言って水無月さんは風に揺れる白い髪を押さえながら、無言で空を見上げた。八月初旬の空は高く、雲一つない清々しいほどの快晴だった。
「というか、なんか意外だなぁ。君がそんな質問をしてくるなんて」
水無月さんは微笑みながら頬杖をつき、欄干においた手をぷらぷらとさせる。意図を掴み損ねた俺は、首を傾げつつ訊ねた。
「そうですか?」
「そうだよ。だって——君がもう一度ここに戻ってきたこと自体が、その問いに対する今の答えみたいなものだろう?」
彼女のその言葉に、はっとさせられた。
確かに俺は鬼灯の問いに苦しめられながらも、なんだかんだ自分の意思でここへ戻ってくることを選んだ。そうすることが正しいと、心の底から信じ続けていたからだ。
なら今は、とりあえずそれでいいじゃないか。
「——おっ、ここにいたか!」
ほんの少し心が軽くなったところで、背後から俺に声がかかった。
振り返るとそこにいたのは、タバスコの瓶を掲げた辛木さんだった。その後ろには錦ちゃんと夜宵の姿もある。久々に第一班のメンバーが全員揃ったようだ。
「退院、おめでと。ゆうすけ」
「ふっふっふ、貴殿の帰還を祝福するぞ……我が盟友よ!!」
「ああ……ありがとう、みんな」
皆からの祝福に照れ臭くなりながらも、俺は言葉を返した。すると辛木さんが珍しく清々しい笑みを浮かべながら、俺の肩を強く叩く。
「ほんと一時はどうなることかと思ったが……まあとりあえず、よく戻った。やっぱすげぇよ、お前は!」
「はは、そうですかね……」
思わず謙遜気味になってしまう俺だったが、直後「そうだよ」と水無月さんが付け加える。そして彼女は最後に、第一班の班長として俺に言葉をかけた。
「改めて、おかえり。操神君」
思い出されるのは、激動の二週間。
俺はまだ公安に来て日も浅いが、それでも戻るべきと信じた場所に帰ることができた。俺の長い長いゴーガツが、ひと夏の冒険が、今こうして幕を閉じたのだ。
「はい、ただいま」
この台詞を言えただけでも、俺は多分幸せなんだ。
「さーて、んじゃあ操神の復帰祝いに激辛中華でも食いに行くかー!!」
「辛木君、私たち激辛料理はちょっと……」
「こういうときは普通焼肉ですよ!」
「すしでもいいと思う」
「私はビュッフェがいいかなー。もちろん辛木君の奢りでね」
「はぁ!? あー、もうわかったよ!! んで、操神はなに食いてぇんだ?」
辛木さんに訊ねられ、返答に迷う。
上手い具合の提案を探しながら、俺はふと思った。
今のように、みんなが自分の好みを発信できる世界。自分の「好き」を、「中毒」を【中毒者】であろうがなかろうが気兼ねなく表現できる世界。そういうものが、鬼灯の目指した「あるべき世界の形」なのではないだろうか——と。
「俺は……」
俺はジャグリングが好きだ。
それから今の仲間も、この環境も、この世界も。
それらを全部ひっくるめて、俺は愛していたい。
この先も、ずっと。




