第5話 彼らについて
車窓。朱色の夕景。
流れゆく、東京の街並み。
「……」
俺は黙まりこくったまま、後部座席にて脱力して窓の外を眺めていた。俺の前の運転席では、紳士的な風貌の老人——水無月さんは確か「乗富さん」と呼んでいた——がハンドルを握っており、首都高にて静かに車を走らせている。
彼の横の助手席にいる水無月さんは、何やらお菓子のようなものをしきりに口に運んでいた。
「退屈させてすまないね、少年。景色を眺めるのも飽きてきただろう?」
「……あ、いえ。俺は別に」
ルームミラー越しに水無月さんは俺を見た。
確かに退屈ではあったが、俺は別に不満だったわけじゃない——そんな言い訳まがいなことを考えている間に、水無月さんは俺に小箱のようなものを差し出してくる。
「ただのアポロチョコだけど、君もどうだい?」
「はい、どうも……?」
勧められた手前断るわけにもいかず、二三粒手のひらにチョコをもらった。大人な見た目に反して、水無月さんは意外と甘いものが好きなのだろうか。
(というか、なんでアポロチョコなんだ……?)
一粒目をゆっくり咀嚼しながら、ぼんやりと考えた。言われてみれば形だけは水無月さんのもつ傘に似てなくもないが、アポロチョコのモチーフは確かアポロ11号なはず——
「——ハッ、お前も甘党か? エビチリ小僧」
思索に耽る俺を呼び戻したのは、隣で寝ていたはずの辛木さんだった。というかなんだそのあだ名。
「辛党仲間だと思ったのによぉ……」
「いや、俺は別にどっちでもないというか」
「諦めなよ辛木君。君ほどの辛いもの中毒はそうそういないんだから」
「ケッ、世知辛い世の中だぜ」
久留井市から車で移動すること二時間弱、二人はずっとこんな調子だ。見たところ辛木さんの方が歳上に思えるが、立場上は水無月さんの方が上なのだろう。たしかにどことなく、水無月さんの方が警察官っぽい感じがする。
いや、それ以前に二人とも【中毒者】なのだろう。
「……さて。茶番はこの辺にするとして」
「人との会話を勝手に茶番にするな、おい」
「見えてきたよ、操神君。あれが私たちの仕事場だ」
水無月さんの視線の先に、それは徐々に姿を現した。
やはりというべきか、ドラマ等で見るのとでは迫力が違う。
(あれが、警視庁……)
ここは東京都千代田区、霞ヶ関。
窓の外に見えるのが、警視庁本部庁舎。
どうして、ただの高校生であるはずの俺がこんなところにいるのか。それはもちろん、俺が例の【中毒者】であるという疑いをかけられているからに他ならないのだが——
まあこの際だ、ここまでの経緯を振り返ろう。
時系列は、二時間ほど前にまで遡る——。
◇
「俺が【中毒者】って、本当なんですか?」
学校の応接間にて水無月さんから語られた話を、俺は受け止めきれずにいた。しかし半分——その話に納得してしまっている自分がいたのも事実だった。
「ああ、本当だよ。乾遥がタピオカの【中毒者】だとすれば……操神君、君は——」
「ジャグリングの【中毒者】……ですね」
「話が早くて助かるよ」
両手を組んだ水無月さんは、薄い微笑を浮かべた。
俺が何かの【中毒者】なのだとすれば、それはどう考えてもジャグリングに他ならないだろう。むしろ他のものであった方が不自然なまである。
しかし、だ。
「でも、俺が本当に【中毒者】だとして、辛木さんの言ったことが当てはまるのだとしたら……俺は何かの特殊能力に目覚めてるってことになりますよね?」
「特殊能力……ああ、〈AUS〉のことだね」
「アウス?」
「“Apparent Unknown Symptoms”……【中毒者】たちに発現する、顕在化した症状および特殊能力のことを指す専門用語さ。私や辛木君にも〈AUS〉は発現している。もちろん、君にもね」
「はぁ……え?」
危うく聞き流すところだったが、今さらっと重要なことを言われた気がする。ここまでの話をまとめるなら、俺にも既にその特殊能力が宿っているということになるが……
「辛木君、例のものを」
「へいへい」
水無月さんの指示に従って、辛木さんはジッパー付きの袋のようなものを取り出した。ややあって袋から顔を出したのは、白い粉の着いた黒板消しだ。
となるとまさか、あれは……
「これは、君のいた教室に残っていた黒板消しだ。おそらくは君の“ジャグリング”にも使われたものと思う」
「そう、ですね。けどそれが何か……」
俺の問いには答えず、黒板消しを手にした水無月さんはソファから立ち上がった。そのまま背後の小さな黒板に向き直ると、書かれていた文字に黒板消しをあてがう。
たったそれだけの行為だが、確かに水無月さんは示してみせた。
「……あ」
黒板消しは通常、チョークで書かれた文字のみを消す。
だが今、俺の目の前で、水無月さんの手にしたそれは——予め印字された日付や表のテンプレートの一部までもを、根こそぎ消し去った。本来なら消えることのない、それらを。
水無月さんが力を込めて無理やり消した——というのはまずあり得ない。そもそもあれらの文字は、「黒板消しで消えない」ことを前提としてプリントされたものだ。強めの摩擦程度では消えるはずもない。
「君がジャグリングに使ったこの黒板消し……普通のものと比べて、性能がはるかに良くなっているんだ。『黒板の文字を消す』という黒板消し本来の性能がね」
「それが、俺の能力……AUSと関係があると?」
「ああ、大アリさ。現場に落ちていたテニスや卓球のラケットは素人目に見ても明らかに品質が良くなっていたし、木のバットに至っては辛木君が試したところ、金属バット並みの飛距離が出た。偶然と片付ける方が無理がある」
「……乾遥のAUSの影響って可能性は?」
「それはないね。【中毒者】の発現する〈AUS〉は基本的に、当人の中毒の対象以外には作用しない。君も見たように、彼女の〈AUS〉はあの巨大なストローとカップのみで完結しているというわけだよ」
これは間違いなく君の能力だ、と水無月さんは確信をもって言い放った。俺もこれ以上、反論する余地はなさそうだ。
となるとさしずめ、「ジャグリングに使ったものの性能が強化される」というのが、【中毒者】としての俺の能力になるのだろうか……。
「納得してもらえたかな?」
「はい……まあ、一応」
色々と疑問は残るが、今は一旦すべてを呑み込んでしまった方が気が楽な気もする。俺は今、乾遥と同じ【中毒者】なる超能力者であり、暴走の可能性を秘めた危険人物なのだ。
そうなると、水無月さんたちの言いたいことは自ずとわかってきた。
「……さて。残酷な言い方になるようだけれども、君が〈AUS〉を発現済みの【中毒者】だとわかった今——私たちは仕事上、君という人間を野放しにするわけにはいかなくなってしまった」
こちらに同情するような口調で、水無月さんは言った。
皮黒を席から外し、俺にのみ話をしたのはこのためだろう。
「要するに、俺も保護されるんですね。あなたたち『ANTIDOTE』とやらに」
「そういうことになるね。でも、こちらも君を悪いようにはしないから安心してほしいな。〈毒暴走〉を起こしていない分、君の扱いは乾遥よりも穏便なものになるだろうから」
「……わかりました」
俺は自分でも驚くほどすんなりと、その話を受け容れていた。
これ以上は感情論で食い下がっても無駄だと、頭で理解していたからかもしれない。あるいは——彼女らについていくことによって変わる未来に、俺は「期待」していたのだろう。
「とりあえず、俺はあなたたちについて行きます」
この退屈が壊れるかもしれないという、淡い期待を。
水無月さんたちとの話が一段落し、俺は二人に連れられて学校を出ようとしていた。昼休みの終わりから散々事情聴取を受けた結果、今はもう15時すぎだ。
「ひとまず操神君には、私たちの本部に行って簡単なテストを受けてもらうことにした。今後の処遇が決まるのはその後だね」
職員玄関へと向かう水無月さんに、俺は無言でついていく。するとその先に、見知った人影があった。
「……操神くん?」
長い前髪の下から、彼はこちらを見つめる。
帰り際の皮黒稜貴と目が合った。普通に帰宅を許されているあたり、彼のほうは一般生徒と同じ扱いなのだろう。
「えっと……操神くんはまだ帰らないの?」
「ああ、ちょっとな……」
訝しむような視線に、俺は咄嗟に上手く誤魔化そうと考えた。しかし俺を庇うように水無月さんが前に出て、
「彼は私たちとともに行くことになった。しばしのお別れだよ」
「あなたたちと一緒にって……それは……」
「この小僧も俺たちと同じ、【中毒者】だったって話だよ」
代わりに辛木さんが、面倒くさそうな態度で答える。すると皮黒は口を半開きにして、なぜかその場に立ちすくんだ。脱力した右手から、手提げ袋が落ちる。
「は……なんだよ、それ……」
独り言のように、皮黒は吐き捨てる。
「操神くんが【中毒者】って……そんな、そんなの有り得ない! 何かの間違いですよ!!」
「あぁ? 何言ってんだお前——」
「操神くんが【中毒者】だって言うなら、僕だってそうですよ! 僕は普段から、グロ動画ばかり見てる生粋のサイコパスなんだ! 俺はグロの【中毒者】だッ!!」
前髪を振り乱して、皮黒は訳もなく喚き散らす。彼の暴論に辟易した様子の辛木さんは、水無月さんと顔を見合わせていた。
「……皮黒稜貴君、残念だけど君は【中毒者】じゃない。他の生徒と同じ一般人だ」
「っ、そんなはずないでしょう! もっとちゃんと調べてくださいよ! 僕は特殊な能力に目覚めた新時代の救世主で——」
「——何を勘違いしてるか知らねぇが」
痺れを切らした様子の辛木さんが前に出る。
彼の威圧に気圧されたのか、皮黒は後ずさった。
「俺たちはなぁ、お前みたいに厨二病じみた妄想の延長でこの仕事してる訳じゃねぇんだよ。好きで【中毒者】になったわけでも全然ねぇ。俺たちを茶化したいだけなら、とっとと失せろ」
皮黒はわかりやすく閉口した。
辛木さんが無言でその横を通り過ぎると、水無月さんも彼の後に続く。俺も一瞬迷ったが、大人しく彼らの後を追うべく、黙り込んだ皮黒を避けつつ昇降口へと向かう。
と、そのすれ違いざまに、
「……なんで、僕じゃなくて君なんだ」
俺はその問いに答えなかった。
そんなの、俺にだって解らない。
◇
時系列は現在に戻り、時刻は18時前。
警視庁の庁舎に足を踏み入れた俺は、水無月さんたちに言われるがまま地下へと続くエレベーターに乗っていた。ただエレベーターとは言っても、簡易的な作りの昇降機に似たものだったが。
「さて、ここが私たちの仕事場だ」
ついた先は、部屋というよりも倉庫のような空間だった。
壁もなく広々とした灰色の空間に、雑然とデスクやらパソコンやらモニターやらが並べられている。仕事場……というより、秘密基地といった言葉が似合いそうな空間だった。
「ちょっとごちゃごちゃしてて汚いけれど……まあ、楽にしててくれ。今日は長旅で疲れただろう? 宿舎と夕食の手配を済ませてくるよ。辛木君が」
「俺かよ!!」
「すみません……あ、ありがとうございます」
仕方ねーな、と文句を垂らしつつ早速動いてくれた辛木さんを横目に、俺は手頃なスツールを見つけて腰掛けようとした。
しかし、その直後。
「あれ? 班長、その人新入りー?」
思わぬ方向からかかった声に、肩が震えた。
振り返ると、金色の髪の少女が螺旋階段から降りてくるのが見えた。スーツ姿ではあったが、金髪のツーサイドアップに黒い眼帯と、警察関係者にしてはなかなかに奇抜なファッションだ。
「ああ、こちらジャグリングの【中毒者】の操神遊翼くんだよ。適性試験はまだだけど、まあ顔合わせってことで」
「ほう、ジャグリングの【中毒者】か……面白い」
水無月さんの紹介もあって俺は軽く頭を下げたが、少女は何やら不敵な笑みを浮かべ始めた。そして右眼の眼帯に手を添えると、奇妙な立ち方でこう言い放つ。
「ククク……歓迎するぞ我が同胞よ! 我が名は天喰ナイトフォール、現代最強にして唯一の“幻想魔術師”であるッ!! 儚き理想を現実とする我の幻想魔術の力、とくと見るがいい!!! あーっはっはっはっは!!!」
俺はしばらく、言葉を失った。
女子相手になんだこいつと思ったのは初めてだ。水無月さんに視線で助けを求めると、彼女は浅く溜め息をつき、
「えー、この子はうちの班所属の【中毒者】の天喰夜宵ちゃん。ちょっと頭がアレだけれど、仲良くしてやってくれ」
「いやフォローが雑! ひどいっ!!」
なんだかよく分からないが、水無月さんの部下ということは何となく察した。さっきのは……まあ、何らかの演技だったのだろう。
「ところで夜宵ちゃん、錦ちゃんは見てないかい?」
「うぇ? あー、錦なら確かその辺に……」
その「錦ちゃん」とやらを探して首を回す水無月さんだったが、見つけたのかすぐにその場で声を上げた。
「やあ錦ちゃん。お客さんだよ」
水無月さんは当然のように、それに話しかけた。
俺は思わず目を疑った。
「……んぇ?」
そこにいたのは、一匹の蛇だったからだ。