第4話 スタート
長い白髪。黒いスーツ。淡麗な横顔。
その女性を初めて見た時は、学校という場に合わないという違和を宿した。
そんな初対面から、こうして再度邂逅するまでかかった時間は実に20分。
たったの20分で、思い出せないほど思い出したくないような経験をした。
「怪我はないかい?少年」
黒い傘を開き、乾の攻撃を防御したその女性は、俺の方を一切見ずそう声をかけてくる。
恐怖、喫驚、安堵。
胸に蔓延る三つ巴の感情が、父親譲りの合理的な判断を鈍らせる。
これが、傘を持った女性が来る前であったら死んでいただろう。だけど、今はこうして助けが来たから死んでない。
どうやら、幸せは歩けないけど全力ダッシュはできるらしい。
俺は、数秒かけてその言葉を脳で処理して、なんとか活路が葱を背負ってやってきたことを理解する。
「──大丈夫、です」
「そうか、なら逃げて。そこに隠れている少年も、さぁ早く」
「でも」
「大丈夫、危険なのはわかってる」
そこに隠れている少年──というのは、皮黒稜貴のことだろう。俺がジャグリングをしている間、姿が見えないと思ったが、姿を探せるほど余裕は無かったのだが、どうやら隠れていたらしかった。
「後で話を聞く、行って」
「あの、違くて」
「──少年、どうした?」
「殺さ……ないでください。はるポンを。クラスメイトをたくさん殺したけど、きっとそれはなにかの間違いで、俺の大切なクラスメイトなんです。だから、殺さないでください」
「──勿論。我々の仕事は【中毒者】の保護。殺人鬼じゃあないさ」
俺は、なんとか動くようになった足を、動くなっただけで恐怖と安堵からか上手く制御できずにヨロヨロになった足を、動かして教室の外に出ようと試みる。
どうやら、もう既に皮黒稜貴はそそくさと外に出ていたらしく、先生達に囲まれていた。この状況じゃ、事情聴取は必須だろう。
「遊翼、大丈夫だったか!?」
俺が、子鹿のように震える足で教室を出たところに、駆けつけてくれたのは滝山と松井であった。
誰か職員室にでもいた先生を呼んで戻ってきたのだろうか。俺は、口の端についた胃液を、這うようにして出てきたがために付いたクラスメイトの血が付いた手で拭いながら、荒々しく、だが生きていると実感させてくる心臓の鼓動を感じながら、浅い呼吸をする。すると──
「うお、さっきのエビチリ小僧。再会が随分と早いな。怪我はないか?」
「はい、大丈夫です……」
教室の惨劇を見て尚、表情一つ変えずに俺に心配したような声をかけてくれるのは、こちらもつい20分程前にカフェテリアで出会った赤髪の男性だった。
「あ、あの……それよりあの女性の人は大丈夫なんですか?」
「班長殿のことか?大丈夫も、何ももう終わったよ」
「──え」
俺が振り向くと同時、教室からその黒スーツと長い白髪を全く汚すこと無く出てきたのは、乾遥をお姫様抱っこした、20分前に「辛木君」と呼ばれていた赤髪の男性から「班長殿」と呼ばれていた女性の姿だった。
クラスメイトの命を軽々しく奪い、俺のことをさんざ苦しめた乾遥が、ものの数十秒目を離した隙にやられていた。
そんな白髪の女性が、俺の方に気が付くと
「意識を失っているだけで殺してはいない。安心してくれ」
と、俺に対してそう伝えてくれた。
──この後、俺はクラブ棟にあるシャワーで体についた血や胃液を洗い流した後に、保健室に行って養護教諭から怪我がないか見てもらった。
体こそ、教室を埋め尽くすほどの大量の血で濡れ汚れていたが、幸い怪我らしい怪我はしていないようで傷一つ無かった。
そして、その後に俺は学年主任や担任、校長先生や教頭先生に加え、先程の白髪の「班長殿」と、赤髪の「辛木君」に囲まれて、教室で何があったのかの説明をすることになった。
俺は、思い出して吐きそうになったけれども、皆の死を無駄にしないためにも状況を事細かく説明した。
口の中は酸っぱかった。
皮黒稜貴との話を合わせて、その言い分が間違っていないと判断した大人達は、気が滅入ったような顔で緊急会議を開き、保護者側への説明をする準備をしているようだった。
こんな凄惨な事件の実体が表沙汰になったら、学校の評判もガタ落ちだろうから、専門家も交えて色々と言い訳を考えるのだろう。まぁ、他の生徒が見ていただろうからその情報を止めるのは難しそうだけど。七十五日どころか、七十五年後まで残りそうな風聞となるだろう。
他の生徒は帰らされたらしく、騒がしい教師陣だけが学校の中を右往左往の東奔西走する中で、俺と皮黒稜貴の2人は、赤髪の「辛木君」と共に一つの教室にいた。
「──警視庁公安部公安第五課「対中毒者特措委員会」通称:〈ANTIDOTE〉所属の辛木烈火。この事件で大きなトラウマを植え付けられたであろう2人に、今回の件について少し話す。よろしいか?」
「「──はい」」
警視庁公安部云々と、一度で言われても覚えられないような所属をツラツラと口にした辛木さん。
どうやら、辛木さんは警視庁所属の警察官だったようだ。警察官は髪を染めて仕事をしてもいいのだろうか──などという、くだらない好奇心より生まれた疑問はすぐに廃棄して、俺は今回乾遥が引き起こした事件の話を聞くために、皮黒稜貴と一緒に返事をする。
「──と、まずだな。一般人は知らない前提知識を話す必要がある。まぁ、もう既に色々と魚の小骨みたいに突っかかってるところはあると思うがなもがな」
詠嘆に無理矢理追加される願望。望まれなくても、今日の午後からの出来事の全てのおいて、俺は疑問を宿しているから安心して欲しい。安心できない状況だけども。
「まず、乾遥は【中毒者】と呼ばれる特別な人間になっていた。漢字で中毒者と書いて読み方はホリッカー」
「──」
中毒者、聴いたことがない転ばであった。
だけど、「一般人は知らない前提知識」と辛木さんは前置きしていたから、知らないのも当然だろうか。
「【中毒者】ってのは、1つの概念に対し最も熱中した人間のことであり、【中毒者】となった人は、特別な能力を手にする。今回の乾遥のパターンで行くと、タピオカの【中毒者】になったわけだ」
別に馬鹿ではないから、俺は今回の事件の引き金は理解できた。
乾遥の【中毒者】の持つ特別な能力とやらで、今回の虐殺は行われた──ということだろう。
だけど、俺は疑問に思う。乾遥は、人を殺すような戦闘狂だとは思わないし、サイコパスだとも思わない。
タピオカが大好きな、健全なJKだろう。
「──今回起こったのはきっと、暴走だ。好きなものがあると、周囲のことが見えずに没頭しちまうことがあるだろ?中毒症状みたいなのが出たりするだろ?今回のは、それだ。本来であれば、俺達〈ANTIDOTE〉が、暴走──こっちの用語じゃ、毒暴走って呼んでるんだが、それが起こる前にこっちで保護するはずだったんだけど、今回は仕事が遅れた。それで、あんだけの事件が起こった。普通に俺達は減給だろうよ」
そう口にすると、辛木さんは深いため息を付いた。
「この話──というか、【中毒者】の事自体、世間一般にはそんなに知れ渡ってないことだからあんまり話すんじゃないぞ」
「はい」
「──」
「皮黒。あんまり話すんじゃないぞ」
「わ、わかりました」
俺も皮黒稜貴も、返事をする。
──と、その時。
「失礼するよ」
ノックと一緒に、そんな声が聞こえてくる。俺達の返事を待つまでも無く、中に入ってきたのは俺を助けてくれた白髪の「班長殿」と呼ばれていた女性だった。
「皮黒君、先生が呼んでいる。職員室まで行ってくれ」
「──わ、わかりました」
そう口にして、皮黒稜貴は速歩きでこの教室を出ていく。
「先程は怖い思いをさせてすまなかった、私は警視庁公安部公安第五課「対中毒者特措委員会」の水無月怜だ」
水無月さんは、俺に対して深々と頭を下げる。班長殿と呼ばれていたし、辛木さんよりも水無月さんの方が偉いのだということは容易に想像がつく。
「少年には感謝を伝えたい。もちろん、多くの犠牲が出てしまっていたが、少年が足止めをしてくれていなかった、きっと被害はもっと広がっていただろう。怖かっただろうに、勇気を振り絞って立ち上がってくれて本当にありがとう。そして、我々の対応が遅いばかりに、怖い思いをさせてしまって本当に申し訳ない」
「あ、頭を上げてください」
頭を深々と下げて、そう感謝と謝罪を口にする水無月さんの姿を見て、俺はあまりに困ってしまう。
「──少年は優しいのだな」
水無月さんは、頭を上げて俺を評価してくれる。
「どうしてです?」
「そんなの、あれだけクラスメイトを殺した乾遥さんにさえ、殺さないで──と、命を思ってやれる。そんなの、優しい人にしかできない」
「買い被りすぎですよ」
俺はただ、これ以上死体が増えてほしくなかっただけだ。殺されたクラスメイトだって、乾遥が悪意ではなく毒暴走と呼ばれている暴走だとすれば、仇を討つことも望まないだろう。
「それとだ、少年。君に伝えたいことがある」
「──なんです?」
「多分君も、【中毒者】だ」
「──え、えぇぇぇぇぇぇぇぇ!?!?!?」
水無月さんの言葉に、俺は思わず驚いてしまう。
驚いてしまうが、俺は自分が何の【中毒者】か理解できた。
そう、俺はジャグリングの【中毒者】だ。
──ここから。
そう、ここから始まった。
俺の、ジャグリングをこの世で一番愛している人としての、ジャグリングの【中毒者】としての人生は、ここから始まったのだった。
がなもがな、本当は両方自己願望ですが、今回「がな」ではなく「かな」の詠嘆、他者願望と言うことで...