中編
異界の探索者・関係者は〈マグ〉〈異界潜〉と呼ばれるが、入り込む行為自体も〈異界潜〉と呼称され、読みは「いかいもぐり」「いかいせん」の両方が用いられる。もしくは異界行、あるいは単に「潜る」と言う。
異界潜の際、安全性を高めたり効率的に探索するため、もしくはいたずらに行われる〈異界干渉〉のやり方はいろいろある。オーソドックスなのは干渉器 や界域計算機といった機器を使用することだ。前者は携帯端末であり、後者は据え置きの家電であるが、いずれも各異界潜たちが自己のセンスでカスタマイズすることが可能になっている。時に異界産の得体の知れないパーツによって雑多に異形化されるネストは、それ自体が異界とも形容される禍々しい代物だ。異界を分析しシミュレーションする機器が、まさに異界を内包する入れ子であり、不確定要素を孵卵する巣となる。
異界潜の中には探索を効率化するため、あるいは武器として人の意志、その集合的なうねりを利用する者もいる。本当だと信じること、本当じゃないと疑うこと、あるいはそうするふりをすること、いずれも異界への干渉としては有効だ。ネットアイドルとして多くのファンを喚起する。発信者として誤情報を意図的に流し、人々を扇動する。異界へ働き掛けるための〈呪術〉を用いると公言する儀式者。異界で発見されたという〈聖遺物〉を崇める信徒。怪しげな投薬によって見えざるものを意図的に見る幻視者――拡大するネットワーク、乱立する建造物、社会という無秩序な干渉、そのすべてが異界を生んだ。決定的だったのは、人々の大多数が退屈していたという点だ。それを埋めようとして生まれた場所で、彼らはまだ退屈し続けている。
干渉作戦の前夜、久々に平坂オーナーへ挨拶しようと以前の職場だったコンビニに赴いたところ、凪はその店が異界化しつつあるのを認め、引き返した。やはり無数のコードによって巨大な機器に接続されている。その機器というのが、どうやら何かの培養を行う水槽のような代物で、緑色の溶液の中には大型車ほどの見たことのない獣が浮かんでいる。角のある犬のような形をしていて、水槽は五基ほど確認できた。それは店の前の歩道を埋め尽くしていて、隣のコインパーキングに止めてある車数台も異界の機器に取り込まれつつあった。
電気屋の店先みたいに並んだブラウン管テレビに、ニュースの映像が映っている。「大人の異界潜」と題された特集だ。若者を中心にブームとなっている異界潜が広い年齢層にも広がりつつある、という説明がされ、銅門区最大の異界の入り口でインタビューが行われている。今出てきたと思しき、スーツを血塗れにし手にはバールを携えたサラリーマンが早口でまくし立てる。「いやあ、運動にもなるし、やっぱり人げ……じゃない、人型〈エラー〉を殴るのは楽しいね! 同じようにうちの上司もぶん殴れたら最高なんだけど……おっと、今のはカットね(笑)」
その生中継を横目に、二級の部隊が歩いていく。ごてごてとコードの飛び出た機械類を纏い、顔はゴーグルやガスマスクのような機材で覆われ見えやしない。〈ヤカン〉や〈ラッパ〉を誇示するように掲げている。あれらは異界内でなければ威力を発揮しないが、それでも外ではケースに入れなければならないと定められてはいるはずだ。とはいえ努力義務なので誰も守っていない。凪は三級からの昇格は今のところ考えていなかった。実地経験が足りていないし、試験に通るほどの実力もない。
異界潜のランクは、「遊び」「バイト」「プロ」「やばすぎ」と大雑把に四段階に分かれている。大多数はブームに乗って異界でたむろするために、一夜漬けで免許を取得した若者たちだ。彼らは少しでも危険のあるエラーが発生する場所へは入れない。時折それを無視して入り込んで、悲惨な末路、あるいは滑稽な末路を迎える者がメディアで取り上げられ、反異界派のコメンテーターがしかつめらしく見解を述べ、親から子への説教の材料となる。
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当日、やはりヨミは四十分ほど遅刻した。朝から既に〈すずらん〉の店内は、煙幕じみた煙草の煙でもうもうとしており、薄暗さも相まって深刻な視界不良が発生していた。幽霊のように出現したヨミを見て凪は「ここで朝飯食べる? それとも地下街で食べる? 僕はどっちでもいいんだけど」と尋ねる。
ヨミはメニューのプリンを指差した。ここでまず前菜を済ませ、地下街でまた何か食べたいらしいと伝わって来た。異界との同調率がある程度あれば、彼女が伝えたいことはおぼろげに分かるようになる。同様に彼女が見る幻覚・幻聴も共有され、それはあたかも、海賊放送局のようであった。異界干渉作戦や他のイベントでは、それを共有されて驚愕する参加者が出るのが恒例となっている。同じように海賊放送局化した異界潜は他にもいるが、ヨミのように堂々と発信する人はあまりいない。彼女の自信は青空のように透き通った色をしている。
ヨミがプリンを二口で食べ終えた後、二人は鎧谷地下街――この界隈の異界潜の最大の溜まり場にして活動拠点――に足を踏み入れた。フライヤーがべたべたと貼られた階段を降りながら、高校生の頃初めてここへ入り込む際は、緊張で足が震えたものだと凪は懐かしく回想する。同じようにびくびくしながら、学生と思しき少年少女が踊り場で何かを囁き合っている。ヨミが隣を通った瞬間、彼らは悲鳴を上げた。どうやら何かを共有してしまったようだ。彼らを特にフォローするでもなく、二人は下へ降りていく。