森の王の御所
森の王が住まう御所は、大きな湖の中に浮かぶ美しい小島だった。
雪も降らず、暖かで、風さえ吹かず、湖面は鏡のようになめらかに広がっている。
「迎えを呼びますので、少々お待ちください」
わたしが島の方に目を凝らしていると、白い狒々がそう言って、懐から柄のついたベルを取り出した。
ゆっくりとベルを振ると、カランカランという音が湖面に鳴り響き、静まり返っていた湖が突然波打ち始める。
そして、盛り上がった水面から大きな動物が顔を出した。
「王の間にお客人を通したいのです」
白い狒々がそういうと、水の中の大きな動物は島の方に泳ぎ去っていった。
その姿を見て、どうやらカワウソのような動物らしいということに気がついた。
ただ、大きさはカバくらいある。
森の王が住むという湖の静かな空気にちょっと気後れして、黙って成り行きを見ていると、カワウソが小舟を押して戻ってきた。
人が使うのと同じような、簡素な作りの木の船だった。
湖に桟橋はなかったけど、カワウソは特に問題もなく湖のほとりまで船を寄せてきた。
わたし達と白い狒々が小舟に乗ると、カワウソの渡し守りが小舟を鼻先で押してくれた。
船は滑るように進み、あっという間に向こう岸までたどり着いてしまった。
「運んでくれてありがとうね」
「クルッ」
わたしとイナリがお礼を言うと、大きなカワウソは恥ずかしそうに湖の中へ潜ってしまった。
水面に手を振ってカワウソを見送ってから後ろを振り向くと、小島の奥には森があり、木々に阻まれてその中はよく見えない。
どうやらこの森に王様が住んでいるらしい。
「では参りましょうか」
白い狒々に先導されて森の中を進む。
鳥の声も虫の声も聞こえない静寂の中で、落ち葉を踏む音が大きく響く。
でも、生き物の気配がしないというよりも、皆が気を遣って声を潜めているといった空気だ。
しばらくすると森が開けて、広い空間が現れた。
その中心には枝ぶりの立派なとても大きな木が生えている。
幹の幅は二十メートルはあるだろうか。
威厳のある佇まいで、前世だったら御神木とかになっていそうな巨樹だ。
前世でも木が神様になるくらいだから、ここで森の王様になることもあるのかもしれない。
「お客様をお連れいたしました」
白い狒々が丁寧に礼をしてそう言うと、巨樹の枝がわさわさと揺れた。
「よろしい。そこの二人、こちらに来なさい」
低い弦楽器のような女性の声が響いてくる。
わたしはちょっと緊張しながら木の根元まで進んだ。
森の動物たちにどんな作法があるのかわからなかったので、マゴット家で教えられた領主一家の礼をとる。
「カナエ・マゴットと申します」
「クルッ」
わたしに続いてイナリも挨拶したようだった。
「ふむ、その顔をもっとよく見せておくれ」
森の王の言葉にちょっと考えてしまった。
顔を見せるってどうやって?
わたしが木の間近まで足を運ぶと、頭上から声が聞こえた。
「そちらではない。なぜ木に顔を近づける」
顔を上げて声の方を見ると、豊かに茂った枝葉の中で大きな動物がこちらを覗き込んでいた。
その頭上には金色に輝く光の輪が浮かんでいる。
なんとなくの雰囲気とファンタジー的なテンプレで、森の巨樹が王様なのかと思ってたけど、どうやらこちらが本当の森の王らしい。
「ふむ、仕方ないの」
そういって、大きな四足獣がわたしの眼の前に飛び降りてきた。
まったく音を立てずに、しなやかな動きで着地したおかげで、巨体が迫っても怖い感じはしない。
最初はライオンかと思ったけど、それは長毛種の巨大な猫だった。
鬣のようなふわふわした毛が全身を覆っていて、大きな尻尾もふんわりと膨らんでいる。
「ふむ、この者たちが森の異変に関係していると?」
「そのとおりでございます、我が主」
慇懃な感じの問いに、白い狒々が礼をしたまま答える。
森の王はライオンサイズの大きな顔をこちらに寄せて、くんくんと匂いを嗅いできた。
「これほどの格の高い精霊にまみえるのも久しいことよ。それとこの娘、なにやら奇妙な匂いがするな……」
「クルッ」
「ど、どうも……」
奇妙な匂いっていわれると、なんだか微妙な気持ちになるけど、たぶん体臭とかそういうことではないんだろう。
「よろしい。ついてきなさい」
そう言って、森の王はモデルみたいなキャットウォークで巨樹の裏側へ歩いていく。
わたしは慌てて追いかけて、そこで森の王の尻尾が一本ではなく沢山あることに気づいた。
毛がフサフサだったから、まとめて一本に見えていたけど、数えてみると尻尾は九つあった。
前世で言ったら、猫又みたいなものだろうか。
ゆらりゆらりと揺れる尻尾を見ていると、なんだか無性に触りたくなったけど、絶対怒られる気がするので我慢するしかない。
巨樹の裏側まで来ると、その根元には大きな裂け目があり、洞窟の入り口みたいになっている。
森の王を追ってその中に入ると、人間の住居に似た作りになっていた。
不思議な飴色のトーチが光を放ち、廊下を照らしている。
たぶん火だと危ないから、魔法的な何かで明かりをとっているんだろう。
突き当りには両開きのドアがあり、森の王が近づくとひとりでにゆっくりと開いた。
中は応接室のようになっていて、一段高くなった床の間のようなところに、何重にも重ねた毛布が置かれている。
床の間の正面には座り心地の良さそうなソファとローテーブルが据えてっあった。
「そこに座りなさい」
森の王はソファの方を見てそう言うと、自分は重ねた毛布の上に飛び上がって、スフィンクスみたいな格好で座った。
わたしはソファの真ん中に浅く腰をかける。
なんとなく、前世で就職活動したときの面接を思い出した。
イナリは首に巻き付くのをやめて、わたしの膝の上に飛び降りてくる。
姿勢を正してちょこんと座った様子を見るに、一応王様に対して礼を尽くしているらしい。
「いきなり本題ですまないが、まずはお前たちの出自と、どうして森にいたのかを聞かせてくれないか」
森の王はそう言って、何かを見定めるように眼を細めた。
どう言ったものかちょっと考えてから、とりあえずわたしから答えることにした。
「わたしはこの地方の領主マゴット家の娘です。森で道に迷っていたところを、この子に助けられたんです」
「なるほど。では、そちらの精霊は? この森では見かけぬ顔だが」
「クルッ」
「ほほう。それで?」
「クルッ」
「ふうむ、不思議なこともあるものよ」
「クルッ」
正直言って、何がなんだかわからない。
普段はなんとなくイナリが言ってることがわかったりするけど、細かい話になると感覚だけじゃ伝わらないようだ。
「あの、この子、イナリはなんて言ってるんでしょうか」
「話せぬ、と言っておる」
「クルッ」
「何も話さぬことを条件に、外に出ることを許されたのだそうだ」
「外って、どこの?」
「それも話せぬということだが、精霊であればおおよその見当もつく。だが、そんなものは人の子には関係のないことであるし、思い込みで勝手なことをいうのも良くなかろう」
関係ないということもなさそうだけど、その話をすると必然的に前世の話をしなければいけなくなってしまう。
森の王の光の輪を見た感じでは嫌な雰囲気はしていないし、悪いやつでもない気がするけど、とりあえず情報は出さないでおいた方が良さそうだ。
こういうものは、有利な結果が出ると思えるまで隠しておく方がお得であることが多いのだ。
「それでは次に、お前が持っているものを見せてもらおうか」
唐突に、森の王がわたしの方を見て言った。
たぶんあのメダルのことだろう。
白い狒々にも見せてしまったのだからもったいぶってもしょうがない。
わたしはコートのポケットから神様のメダルを取り出して手のひらに載せ、よく見えるように差し出した。
その瞬間、森の王のふわふわした毛がざわりと揺らめいた。
もしかしたら、毛が逆立ったのかもしれない。
でも、特に表情は変えずに、しなやかな動きでこちらに向かて歩いてきた。
しばらく色々な角度でメダルを見てから、軽く匂いを嗅いだ。
「どこでこれを手に入れた?」
わたしは一度イナリの眼を見てから、頷いて答えた。
「ええと、このメダルはイナリにもらったんです」
「クルッ」
「なるほど、ではその出自も言えぬ、ということだな」
森の王はイナリの鼻先に自分の鼻を近づけて、それから何かを諦めたように視線を外した。
「まあよい。メダルをこの森から持ち去ってくれれば文句は言わぬ」
「クルッ」
「あの、これって、そもそも何なんですか?」
わたしの問いに、森の王はちょっと考えるような仕草を見せた。