森の異変
マントおばけについて説明してほしいという白い狒々の言葉は、わたしにとってはちょっと意外な話だった。
なんとなく、マントおばけが現れたこと自体が原因となって、彼らがここにやって来たんだと思ってたんだけど、どうやらそうでもないらしい。
では、白い狒々が言う「異変」というのは何を指すんだろうか。
「そこに倒れてる魔物は、わたし達がここで休憩しているところに突然現れて襲いかかってきたんだよね」
「クルッ」
わたしの言葉にイナリがそうそうって感じで相槌を打つ。
狒々は顎に手を当てて、ちょっと思案気な表情をする。
「なるほど。異変を嗅ぎつけて魔物が現れたというお話に関しては、わたくしの想定の範囲内なのですが、それがどうしてこんな哀れな姿になっているのか、それがいまいち飲み込めないのです」
「それは、まあ、逃げ切れそうになくて、しかたなく倒したと言うか…‥」
「ほう。この魔物を倒した、と」
そう言って、白い狒々がわたしの方に、じろりと観察するような視線を向ける。
「そうとう厄介な魔物なのですが、貴方のような幼い少女がよく倒せたものですね」
「それはまあ、この子も助けてくれたんで、なんとか」
「クルッ」
イナリがそんなことないよって感じで鳴く。
「なるほど、貴方様のご助力もあって、ということですか」
「クルッ」
「それで、できれば教えてほしいんだけど、さっき言ってた異変って何のことなの?」
白い狒々はイナリに向けた視線をわたしに戻すと、大仰にうなずいてから話し始めた。
「今夜、宵の口の頃に我が王に呼び出されましてな。何やら森に強い歪みが生じているとのことでして。わたくしはその調査を命じられたのです」
「歪みって?」
「さて、何か大きな魔力を持った存在が現れたか、時を経て強い呪いが形をなしたのか、世界を渡るマレビトと呼ばれる神が珍しくも訪れたか、様々な事態が想定されますな」
世界を渡る、という表現でドキッとした。
それはわたしが前世の記憶を取り戻したことと関係あるんだろうか。
いや、それよりもイナリがわたしの前に現れたことの方が、今の話には当てはまるようにも思える。
「それって、もしかして、この子が関係してるのかな」
わたしはそう言ってイナリの頭を撫でる。
「そうですな。そちらの御方はとても力の強い精霊様でいらっしゃいますが、異変というほどではないかと」
「クルッ」
精霊様ってことは、やっぱりイナリは特別な生き物なんだろう。
たしか動物が長く生きると精霊になるって、そんなお話を今生のもっと幼い頃に聞いた覚えがあった。
当のイナリは自分のことにはあまり関心なさそうにしていたけど、ふと思いついたかのように頭をぬぅっと伸ばすと、わたしのコートのポケットに顔を突っ込み、何かを咥えて肩の上によじ登ってきた。
「おお、それは…‥」
白い狒々が上半身をこちらに乗り出して、イナリが咥えているものを凝視する。
それはあの、神様のメダルだった。
夜の闇の中、月の光を浴びて、それは濡れたような輝きを浮かべていた。
「間違いございませんな。森がその畏れにより、嵐のごとく乱されております」
白い狒々は重々しくそう言うと、こわごわと一歩前に出て、慎重にメダルを観察した。
そして、ちょっと腰が引けた感じで元いた場所まで下がった。
「結構です。よろしければそちらを収めていただけますでしょうか。外気にさらしていては森が怯えますし、魔物が寄ってくるやもしれません」
「クルッ」
イナリはコートのポケットに頭を差し込んでメダルを仕舞うと、定位置の肩の上でいつものように首に巻き付いた。
これが魔物を呼び寄せるんだったら、何か対処をしなくちゃいけないけど、今のままだと情報が少なすぎる。
イナリがくれたってことは、何かの役に立つのかもしれないし、できれば捨てたくはない。
「あの、このメダルって何なの? 知ってるなら教えてほしいんだけど」
わたしの言葉にちょっと考える感じで頭をかしげると、白い狒々は胸に手を当てて、丁寧な礼のポーズを取った。
「それでは一度、我が主の元までお越しいただけませでしょうか。わたくしめの知識では上手く説明できそうにもございませんし、主からの森の異変を調べるという命にも叶いますので、こちらとしても助かるのです」
「それって、危なかったりしない?」
「クルッ」
「おお、もちろん賓客として丁重にお迎えさせていただきます。高貴なる御方とそのお連れ様であれば、我が主も快く迎えてくださることでしょう」
「じゃあ、それが終わったら森の外の、マゴット家のお屋敷の方まで道案内してくれる?」
「クルッ」
「かしこまりました。必ず森の外までお連れするとお約束させていただきます」
良かった。
これでさっきまで悩まされていた問題がまとめて解決する。
森の王様とかいう人が敵対的でない限りは、安全に家まで帰れそうだ。
その上、欲しかった情報まで手に入る。
わたしは白い狒々の頭の上を見た。
そこには緑色の光の輪が浮かんでいて、穏やかな光彩を放っている。
これだったら信頼できそうだと、なんとなく思った。
「じゃあ、その森の王様のところまで、わたし達をつれていって!」
「かしこまりました。そちらの高貴なる御方も、それでよろしいですね?」
「クルッ」
白い狒々は満足そうに頷くと、こちらですと言って森の方に向かって歩き始めた。
それにあわせて、神妙に伏せていた白狼たちも立ち上がり、ぞろぞろと後について行く。
わたしは軽くイナリの顎下を撫でてから、それを追って歩き始めた。
木々の間に入ってみれば、どうやら獣道になっているらしく存外歩きやすい。
白狼はわたし達を囲むような配置で歩調を合わせて進んでいる。
もしかしたら、魔物たちから守ってくれているのかもしれない。
わたしのことが気になるのか、白狼達は時折フンフンと鼻を鳴らしながら近づいてきて、その度にイナリにキュッと鳴かれて追い返されている。
怒られた白狼は頭と尻尾を下げて、気まずそうに元の位置に戻っていく。
なんだか可哀そうになったので、近づいて軽く頭を撫でてあげると、嬉しそうにゆらりゆらりと尻尾を振ってくれた。
時折休憩を入れながら、そうやって進んでいるうちに、いつの間にか地面からは雪が消え、空気もずいぶんと暖かくなっていた。
まるでここだけ冬じゃないみたいな、なんだか不思議な感じがする。
「そろそろ我が主が住まう御所に到着いたします」
白い狒々がわたしの方を振り向いてそう言った。
もうすっかり雪の気配も消え。どことなく木々の生え方も整然として見える。
森の動物たちも息を潜めるような、しんとした静寂があたりに満ちあふれていた。
「さあ、こちらです」
白い狒々の言葉になんだか急に緊張してきたので、立ち止まって深呼吸する。
「クルッ」
わたしの肩の上で、イナリが行こうよって感じで元気よく鳴いた。