雪走りたち
どうやらもう動いているマントおばけはいないようだった。
わたしは用心深く森の様子を探る。
ここから見える範囲では、あの不気味な光の輪は見当たらない。
「これで全部かな?」
「クルッ」
イナリがわたしの首元から雪の上に飛び降りて、軽快な動きであたりを見て回る。
動かなくなったマントおばけの匂いをひとつずつ嗅いでから、森の奥を軽く見回すとわたしの足元に駆け寄ってきた。
わたしはイナリのお腹の下に右手を入れて、胸元まで持ち上げ、猫を抱くような格好で腕の中に収める。
胴が長いので腰のあたりがちょっとはみ出す格好になってしまうけど、イナリは嬉しそうに頬をこすりつけてくる。
その動きに合わせて、頭上に浮いた黄金色の光の輪から、キラキラした砂のような粒子が溢れる。
「その様子だと大丈夫みたいだね」
「クルッ」
「助けてくれてありがとうね、イナリ」
「クルッ」
わたしは指先でイナリの耳の後ろを掻いてあげる。
手袋をしたままだったけど、イナリは気持ち良さそうに眼を細め、長いしっぽをゆらゆらと揺らす。
「君はほんとうに不思議な子だね」
「クルッ」
やっぱりこの子は、神様主催の生き返りゲームで出会った、あのフェレットなんだろう。
どうして今ここにいて、なんでわたしを助けてくれるのか、とても不思議だったけど、そのことを考えている余裕はなさそうだ。
「さてと。とりあえず、移動した方がいいのかな」
「クルクルクル」
独り言をつぶやきながら顎下を撫でてあげると、イズナは満足げに喉を鳴らした。
この状況をどうするか、落ち着いて考えてみよう。
現状は必ずしも楽観できるものではないだろう。
まず、わからないことが多すぎる。
あのマントおばけは何者なのか。
どうしてわたし達を襲ってきたのか。
他にどのくらい仲間がいるのか。
回答がわからないんだったら、より悪い状況を想定して対処を考えよう。
楽観視してまた危機に陥るくらいだったら、警戒しすぎて取り越し苦労になる方がましだ。
とりあえず、ひとつづつ考えてみる。
あのマントおばけに関しては、今まで全く見たことがないし、噂を聞いたこともない。
野生動物じゃなくて、魔物の一種なんだろう。
魔物なんて前世のわたしからすればいかにもファンタジーだけど、今生のわたしは小さい頃からお話として魔物の存在を教えられてきた。
動物なら対処の方法も想像できるけど、魔物はよくわからない。
だったら、あれは魔物だと考えておこう。
なんで襲ってきたのかはわからないけど、偶然ではなく、理由があってわたし達を襲ってきたと考えよう。
つまり、より危険な状況を想定しよう。
だとするなら、倒したからといってここに留まっているのは危険かもしれない。
まだ、他にも仲間がいるのかもしれない、と考えよう。
移動すれば安全だとも言い切れないけど、ここを離れた方が良さそうだ。
囲まれないように注意しながら、森の中を移動し続けよう。
そうだな。
雲の合間に見える月の位置でおおよその方角はわかるから、なるべく屋敷に帰る方向に進もう。
このあたりの森はけっこう高低差があって、深い谷や崖になっている所も多い。
地形の都合でどうせまっすぐ進むのは難しいんだから、自分たちに有利な位置取りになるようなルートを取って進もう。
「よし、とりあえず方針は決めたよ」
「クルッ」
「とりあえずここは離れよう」
「クルッ」
わたしはかまくらの中に戻って、忘れ物がないのを確認してから、森に向かって歩き出す。
イナリは首元の定位置でマフラー状態になっている。
本当は死体を調べた方がいいんだろうけど、あまりに不気味だったので、マントおばけから距離を取った。
わたしが死体から視線を外したところで、突然、森の中から何かが飛び出してきた。
反射的に後ずさって距離を取ると、それはゆっくりとわたし達の方に向かってきた。
白い狼だ。
それはこの世界では雪走りとも呼ばれている珍しい動物だった。
失敗した。
この辺には危険な動物はいないと思い込んでいた。
マントおばけのことを警戒しすぎていて、そこに油断があった。
わたしは腰から小刀を抜き放って、身体の前で構えた。
白狼の頭の上には青白い光の輪が浮かんでいる。
夜の闇の中なら光の輪は目立つと思ってたけど、すごい速さで走ってきたら、気づいたときには距離を詰められてしまうんだ。
慌てている思考の隅っこで、冷静なわたしが素早く反省している。
白狼がわたしの5メートルくらい前で足を止めると、森の中から同じような白狼がさらに三頭姿を現した。
まずい。
白狼は群れを作らないって話を聞いたことがあるけど、どうもそれは事実ではないらしい。
とにかく、できることを試すしかない。
わたしは意識を集中して、頭の上の光の輪を廻す。
加速する回転に合わせて白い光が漂い、小刀の刃に光が宿る。
「クルッ」
突然、イナリが大きな声で鳴いた。
すると白狼たちがビクッと身体を震わせる。
「キュッ」
さらにイナリが鋭い声を上げると、白狼たちが一歩後ずさり、不安そうに顔を見合わせた。
どうやらイズナの存在に怯えているみたいだ。
もしかしたら、この不思議な細長栗鼠は、白狼たちよりも格上の存在なのかもしれない。
「イナリはこの白狼たちのこと知ってるの?」
「クルッ」
「恐れながら、初めてお目にかかります」
突然声をかけられた。
驚いて振り返ると、白い猿が一匹、雪の上に立っていた。
猿というにはちょっと大きくて、狒々と言った方がしっくり来る感じだ。
その、白い狒々が手を胸に当ててゆっくりと礼をした。
ここに至るまでに感覚が麻痺してしまったのか、猿が喋ったくらいではもう驚けない。
「えっと、あなたは?」
わたしが声をかけると、白い狒々が器用に片眉を上げた。
「申し遅れました。わたくしはこの森の王に仕えるもの。残念ながら名前はございませんので、何とでもご自由にお呼びください」
白い狒々のまわりに白狼たちがゆっくりと集まってきた。
どうやらこの狒々と狼はお仲間ということらしい。
「キュッ」
イナリが鋭く鳴くと、狼たちはうなだれるように地面に伏せる。
「まあ、そうお怒りにならないでいただきたい。わたくしどもは主の命により、森の異変を調べに来ただけなのです」
「主? そういえばさっき森の王っていってたよね」
「いかにも、我が主はこの森を統べる王にございます」
そう言って白い狒々は軽く頭を下げたけど、そのまま視線だけをわたしの方に向けた。
「ところで、ここに散らばる魔物の亡骸について、よろしければあなたにご説明いただけないでしょうか」