犬に誘われて
犬の魔物を追いかけて細い路地を進むと、小さめの広場のような場所に出た。
広場の中央には共同の水汲み場があったけど、今は板で蓋がされていて人は誰もいないようだった。
犬の姿は見えない。
この広場に繋がる道は四つ程あるので、わたしたちが来た道以外のどこかに入って行ったんだろう。
わたしは素早く三つの通路を覗き込んだけど、そのどこにも犬の姿はなかった。
「見失っちゃったみたい」
「うう、カナエちゃん、どうしよう?」
コナユキがわたしの服の裾を掴みながら不安げな顔をしていた。
無理矢理付き合わせてしまって申し訳ない。
わたしはゆっくりとコナユキの頭を撫でた。
「仕方ないね。戻ろうか」
「キュッ」
イナリが突然警戒の声を上げた。
気がつくと、この広場に繋がる四つの道のすべてから、犬の魔物が入り込もうとしてきていた。
「まずいよ、囲まれてる!」
「コナユキは水汲み場の方にいて。合図したら、元来た道から逃げて」
「う、うん、わかった」
コナユキが小走りに離れていく。
わたしはマゴット家に伝わる、素手による組み討ちの構えをとった。
剣を持っているときは利き手を前に出して半身に構えるんだけど、武器がないときは逆の手を鏡写しみたいに前に出して構える。
ボクシングみたいに拳を握るんじゃなくて、指先だけ軽く握って手首を反らし、手の平の付け根辺りで殴るっていうスタイルだ。
これは相手を素速く掴んで押さえつけたり、地面に転がしたりするための技術だった。
ただ、相手が複数いる場合は、悠長に組み伏せるような動きはしていられない。
この場合、基本的に前に出した手、わたしの場合は左手で、細かくジャブみたいな掌打を繰り返す事になる。
修業が進むと、そういう場合は左右をスイッチして入れ替えるらしいんだけど、そこまではまだ教わっていなかった。
「キュッ」
イナリが犬の魔物の動きを感じてひと声鳴く。
わたしは頭の上にある光の輪を強く廻した。
魔力の光が身体を流れていく感覚がある。
手足に意識を集めると、そこがぼんやりと光を放ち始めた。
黒い犬たちはこちらを警戒するようにゆっくりと距離を詰めてきている。
どれも大型犬くらいのサイズで、背丈で言えばわたしとそんなに変わらない。
「イナリ、行くよ」
「クルッ」
わたしは強化した身体能力を使って思いっきりダッシュする。
向かう方向は、わたしたちが入ってきた道とは逆側にいる魔物の方だ。
現状としては、周囲の入り口をすべて塞がれた格好だけど、逆に言えばまだこちらからは距離がある。
完全に囲まれる前に先制できれば、その場では一対一で戦える。
「ガウワウバウ!」
犬の魔物が吠えながら突進してくる。
「フッ!」
噛みつこうとして飛びかかってきた犬の顎下に潜り込むように、速度を上げて素速く一歩踏み込み、左の掌打を放つ。
「ギャウン」
魔力で強化された一撃に跳ね飛ばされて、犬の身体が壁にぶつかって地面に落ちる。
その瞬間に、魔物の光の輪がはじけるようにして消えた。
倒した魔物はそのままにして、わたしは素速く残りの魔物の方に向かう。
三体の魔物の内二体を引きつける為に、あえて挟まれるような位置に飛び込んだ。
案の定、その二体はタイミングを合わせてわたしに飛びかかってくる。
「コナユキ! 行って!」
「う、うん!」
わたしの合図でコナユキが元来た道の方に走っていく。
魔物を引きつけているから、今はそちらの入り口は空いている状態だ。
「ガウゴフゴウ!」
魔物の突進をギリギリまで引きつけてから躱すと、その離れ際に左手の掌打を素速く叩き込む。
「ガフッ」
これは相手の体勢を崩して状況をコントロールするための攻撃だから、思い切り打たなくてもいい。
複数の相手と戦う場合、全力では打たないのがマゴット家に伝わる武術の教えだ。
全力で打つと隙が大きくなるから、ここぞというところでしか力一杯の掌打は使わない。
「フッ!」
二体の魔物の片方がよろけている間に、素速くサイドに回り込んで、もう片方だけを相手出来るような位置を取る。
「ゴフゴウゴブ!」
飛びかかって来ようとする魔物の、その動き出しの直前、半拍前のタイミングで一歩踏み込み、掌打を二発。
相手の出鼻をくじいたところで、今度は右手で、八割の力の掌打を放つ。
その三連打で、目の前の魔物は叫び声も上げずに、光の輪を飛び散らせながら倒れた。
「あと二体!」
わたしは目の前の魔物から素速く離れると、背後のもう一体の位置を確認する。
そいつはちょうど広場の中央辺りまで駆けてきている所だった。
挟まれないように、とにかく動き回る必要がある。
「キュッ」
わたしが残りの二体を相手に、有利なポジションを取ろうとしていたところで、イナリが声を上げる。
「カ、カナエちゃん……」
「コナユキ!」
通路から逃れたはずのコナユキが、後ずさりながら広場に入ってくるのが見えた。
その先には新たにもう一体、犬の魔物がいるのが見えた。
しかも、その魔物は今までのやつよりも魔力が強いらしく、光の輪から紫色の不気味な光を強く放っていた。
これはまずい。
わたしが慌てた隙に、二体の魔物が同時に襲いかかってくる。
反射的な動きで素速く身体の位置を入れ替えて、一体に向かって掌打を放つ。
身体をぐらつかせた魔物から素速く離れようとしたところで、もう一体が飛びかかってきた。
その一体を右手で突き放すように掌打を打つ。
いけない。
このままだとジリ貧だ。
そう思った瞬間、犬の魔物が真っ二つに切り裂かれた。
「大丈夫か!」
地面に転がった魔物の向こうには、長剣を振り下ろしたチドリさんが立っていた。
街中だからなのか流石に鎧は着けてなかったけど、騎士のマントを着て腰には長剣の鞘を下げている。
「グルグフッ」
魔物の注意がチドリさんの方にそれた瞬間、わたしはそいつに向かって素速く踏み込んで、前蹴りを放つ。
今まで蹴りは出さなかったから、完全に不意を突いた動きだった。
体重の乗った蹴りに弾き飛ばされて、魔物が地面に転がり落ちたときには、もう光の輪は消えていた。
「あと一体いるな!」
「気をつけてください! あの魔物は他よりも強いです!」
わたしとチドリさんが新たにやってきた魔物の方を向くと、不利を感じたのか、そいつは素速く身を翻して走り去っていった。
「助かった……かな?」
しばらく様子を見ていたけど、もう魔物は現れないようだ。
「カナエちゃん!」
コナユキがわたしの胸に飛び込んでくる。
身体がまだ震えていたので、抱きしめて頭を撫でていると、チドリさんが長剣を鞘に収めてこちらに歩いてきた。
「あの、チドリさん。助けていただいて、ありがとうございます!」
わたしがお礼を言うと、チドリさんは軽く手をあげる。
「いや、礼はいらない。騎士として助けるのは当然だ」
「それでも、助かりました」
「まあ、偶然通りかかって良かったな」
チドリさんは水汲み場の縁に腰を下ろすと、こちらの方をじっと見詰めて言った。
「それで、あれは一体何だったんだ?」




