くわしいおばあさんと、やってきた猫
黒猫がフッと視線を逸らした。
「お嬢さん直々にこのような所においでくださるなんて、今日は特別な日でございますねえ」
カウンターから出てきたおばあさんの胸にしっかりと抱えられた黒猫は、一見甘える風に頭を擦りつけている。
でも、その動きがわざとらしかった。
「本日は猫についてお話をうかがおうと思ってこちらに来たのです」
「ははあ、猫でございますか」
そう言っておばあさんは自分の胸元を見る。
黒猫の動きが心なしかかたくなったような気がした。
「とてもかわいらしい猫ですね」
「この子は最近この村にやってきた猫でございまして。元はどこに住んでいたのかは存じませぬが、飼い主も親兄弟もいないようなので、こちらでたまに餌を与えておるのです」
ゆっくりと頭を撫でられて首をすくめた黒猫が、ちらりとこちらの方を見た。
わたしは軽く背伸びしながら顔を近づけて、眼に魔力を込めながら軽く睨む。
小さな黒猫は魔物だった。
上手く抑えられているが、よく頭の上を見れば不気味な色の光の輪から濁った紫っぽい光が漏れ出している。
しかも、その大きさを見るに、なかなかの力を持っていそうだ。
バウルにはちょっと劣る程度だろうか。
「抱っこしても良いですか?」
そう訊くと、おばあさんの胸元の猫が、ビクリと身体を震わせた。
「勿論ですとも」
両脇を抱えられぶらりと胴体を垂れ下げた黒猫が、ぬうっとこちらに差し出される。
わたしは四本の足が動かないように手のひらで押さえ込みながら、胸元に抱えた。
黒猫は緊張からかピクリともしない。
「それで猫についてとは、どのようなご用件でございますか」
こちらを微笑ましげに眺めながら、おばあさんが訊く。
「最近このあたりで灰色の猫を見ませんでしたか? うちのお屋敷によく来ている猫なのですが」
「はあ、灰色の猫であれば、ここのところよく見かけますねえ」
ほんとにこのおばあさん、猫に詳しかったのか。
野良に餌を与えたりするのが趣味なんだろうか。
「この村のどの辺にいるか知りませんか?」
「そうですなあ。申し訳ございませぬが、どこと言われましてもちと難しゅうございますな。偶然このあたりを歩いているのを見かけるくらいでして」
だとすると、この辺で待っていれば通りかかったりするだろうか。
それはかなり気の長い話という気もする。
「なるほど。貴重なお話ありがとうございます。参考になりました」
「たいしたおおもてなしもできず申し訳ございませぬ」
おばあさんが、丁寧に頭を下げる。
わたしはさりげなく胸に黒猫を抱えたまま、会釈を返しながら薬師の家を出た。
「さて、この魔物どうしてくれようか」
「キュッ」
肩の上のイナリがわたしの言葉に合わせ鋭く鳴く。
途端に暴れ出した黒猫を、魔力を使って押さえ込んだ。
「ニ、ニャー」
「あんた、どうせしゃべれるんでしょ?」
しばしの沈黙。
そして、腕の中の小さな黒猫がスッと身体の力を抜いた。
「精霊がミュオスを害することは出来ない」
子供の、女の子の声だった。
それが猫の口から聞こえてきた。
まるで既に決まった出来事を説明するかのような口調だ。
「あんたも例の手形とかいうのを持ってるってこと?」
「手形は約定によって定められし者のしるし」
普通だったら魔物は精霊にとって駆逐する対象だけど、これには例外がある。
大昔に魔物の王と精霊たちの間で交わされた約束によって、特別な手形を持つ者には行動の自由が許されているらしい。
この間までマゴット家の屋敷にいたカザリとか、黒犬の魔物のバウルなんかがそうだ。
その分、こちらの害になることもしないらしいけど、初めて会ったときのバウルみたいな例もあるから気は抜けない。
「それであんたみたいな魔物がこんな所でなにをしてるの」
「ミュオスはこの地方を担当する」
どうやらミュオスというのがこの黒猫の魔物の名前であるらしい。
「この辺にはカザリとかバウルがいるじゃない」
「カザリはこの地を発った。バウルはもう役に立たない魔物」
役に立たない、か。
「それであんたが代わりに来たってわけ? でも、こんな辺鄙なところに来たって意味ないでしょ」
「強い魔力を監視するのがミュオスの役割」
前にバウルもそんなこと言ってたな。
「でもさ、なんで猫のふりしてるわけ?」
「猫たちのもたらす情報はあなどれない。猫の仲間には猫がなるもの」
だから自分も猫として生活してるってことかな。
「まあこの辺うろつくのはいいけど、マゴット家の敷居はまたがせないからね。わかった?」
「約定が保証するのは行動の自由」
そう言って、ぷいっと横を向く。
こちらの話を取り合いそうもない態度だ。
「うちの屋敷はもう別の猫のなわばりだから、割り込んだら問題になるんじゃない?」
「ミュオスは慎重な魔物。なわばりについては交渉する」
猫となわばりを譲ってもらう交渉をするってこと?
もしかして喧嘩とか?
それはよくない。
「うちの屋敷の猫に怪我でもさせたら許さないからね」
黒猫の顔を覗き込んで、じっと目を見る。
「ミャオスは約定によって……」
「あの猫はわたしの身内だから」
相手の言葉を遮ってそう言うと、胸元の黒猫がすっと目を細めた。
「それを傷つけられて、黙っているほどわたしは穏やかじゃないよ」