そのまんまの部屋と猫の記憶
わたしは大部屋を出ると、一階奥の今は使われていない部屋に入った。
そこは結構大きめの寝室で、広い窓からは気持ちの良い陽光が差し込み、その向こうには屋敷の庭園が見える。
使っていないといっても、とても丁寧に掃除されている。
ベッドも家具も昔のままで、今でも誰かがここで寝起きしているかのよう。
父様のいいつけでこうなっているのだ。
部屋を片付けるのが、ほんとうに嫌だったんだろう。
ここは亡くなった母様の部屋だった。
元々は二階にあった部屋から下に移ったのは、大好きな庭園を眺めたいからだと聞いた。
改装は結構たいへんだったらしいけど、普段はあまりなにも言わない母様のたっての願いを叶えるために、父様がはりきったらしい。
まだ小さかったわたしも、よくこの部屋に来ていた記憶がある。
身体の弱い母様はいつもベッドに横になっていた。
リンドウはまだ生まれてなくて、アヤメお姉ちゃんも騎士じゃなくて。
父様やお姉ちゃんの膝の上に座って、母様に頭を撫でてもらったのを覚えている。
そこに猫がいた。
灰色のしなやかな身体と長い尻尾を持った猫だ。
どうして忘れてたんだろう。
窓の隙間から、カーテンを揺らして部屋に入ってきて、母様のベッドの上に乗った。
丸くなった猫を細い手がゆっくりと撫でていた。
そうだ。
あの頃はもっと頻繁に屋敷にいて、皆がさわっても嫌がったりしなかった。
同い年の友達なんだから、仲良くしなくては駄目よ。
母様がそう言って微笑んだ。
わたしはその猫が小さかった頃をしらない。
物心ついた頃にはもう大人の猫だった。
でも、どうやら同じ年の生まれだったらしい。
そんなことも忘れていたのだ。
「父様が猫を避ける理由はわかった」
「クルッ」
イナリが肩の上から身体を伸ばして、わたしの顔を覗き込むように鳴いた。
「大丈夫。なんでもないよ」
そう言って、小さな耳の裏側あたりを指先で撫でる。
イナリは片目を瞑って、わたしの頬に頭を擦りつけてきた。
あたたかい。
この子がいてくれて良かった。
「ここはね、母様の部屋なの。もうずっと前に亡くなってしまったけど」
「クルッ」
やわらかいベッドの腰を下ろすと、腰がぐうっと沈み込む。
シーツに手を滑らせると、その心地よい手触りで、洗い立てであることがわかった。
「思い出したんだ。昔ここには、あの灰色の猫がよく遊びに来てた。母様が猫好きで、猫も母様を慕ってた。その頃はわたしも猫とは仲が良かったと思う」
肩の上から飛び降りたイナリが、クンクン匂いを嗅ぎながらベッドの上を歩く。
さすがにもうあの猫の匂いは消えていると思うけど。
でもこの部屋には、まだ母様の匂いが残っていた。
「母様が亡くなってからしばらくの間、毎日この部屋に入り込んでたんだ。父様は顔を見せなかったけど、よくアヤメお姉ちゃんがわたしを探しに来たんだよね」
そしてたまに、ふたりでこの部屋で過ごすこともあった。
何も言わずにずっと庭園を眺めていた記憶がある。
「そうしたらあるとき、あの猫が窓からするって入ってきたんだ。そのままベッドに飛び乗って、クッションの辺りをうろうろしてた。もしかしたら、母様を探してたのかもしれない」
もうだれもいないのに。
そう思ってしまったのがいけなかった。
「そしたら、なんだか腹が立ってきて、母様はいないから帰りなよって言って。それでも出て行かないから手で押したりして」
子供がじゃれてきてる、くらいにしか思わなかったのかもしれない。
そのまま大きなあくびをして、放っておいたらここで寝てしまいそうだった。
「いつまでも帰らないから、わたし、あの水差しを持ってきて、中身を猫に掛けたの。そしたらすごく驚いて、弾けるような速さで外に飛び出していった」
何で忘れてたんだろう。
いや、無意識に記憶を抑え込んでいたのかもしれない。
「だから、あの猫がわたしとか、子供たちを避けてるんだとしたら、それはわたしのせいなの」
いつのまにかイナリがすぐ傍までやってきて、こちらを見上げていた。
「だからわたし、謝らないと」
イナリは勢いよくジャンプして、わたしの肩の上まで駆け登ると、クルッと元気良く鳴いた。