猫と和解せよ
短い夏が終わろうとしている。
重い扉を押して玄関ホールを出ると、明るい陽差しの下にも涼しい風が吹いていた。
実りの季節まではさほど遠くもなく、そこから先は長い冬だ。
マゴット領は寒さも雪もあまり厳しくならないのがありがたい。
わたしは館の隣に建つ調理場へ向かった。
半分開いた扉から調理場の中を覗くと、使用人たちが床を掃除しているのが見えた。
しゃがんで床を観察すると、足が何本もせわしなく動き回っていて、ここではのんびり出来そうもないなと思えた。
「やっぱりいないか……」
自然とつぶやきが漏れる。
探しているのは猫だった。
マゴット家の屋敷には猫も住み着いていて、たまに調理場の近くで姿を見かける。
飼ってるわけじゃないけど、ネズミを捕ってもらう代わりにご飯をあげているということだった。
うちには犬舎があってたくさん犬がいるせいか、普段はあまり館に寄りつかない。
たまに敷地の外で姿を見かけることもあり、なんでも近くの村までなわばりにしているという話も聞いたことがあった。
そもそも、あまり人懐っこくない猫なのだ。
近づくとたいてい逃げるし、眠くて動きたくなさそうな時に何度か撫でたこともあるけど、迷惑そうに眼を細めるだけだった。
特に子供を嫌っている節がある。
大人であれば、アヤメお姉ちゃんが手で餌をやっているのを何度か見たし、使用人のところには自分から寄っていく。
一方、わたしもリンドウもその猫とはあまり触れあったことがなかったし、ご飯をあげる機会もなかった。
もしかしたら、何らかの理由で警戒されているのかも知れない。
「でも、今なら仲良くなれるはずなんだよね」
どこか別の場所に居ないだろうか。
日当たりの良さそうな場所を探して屋敷を回り込み、庭園に出た。
犬舎とは逆の方向だから、こちらの方が多少は見こみがあるだろう。
「どうだろう、猫いるかな?」
「クルッ」
肩の上でイナリが背筋を伸ばし、あたりをキョロキョロと見回す。
わたしよりも感覚が鋭いから、見つけたらすぐに教えてくれそうだ。
猫の姿を探して、花壇の角を何度も覗き込むように曲がる。
「今日は来てないのかな」
風は涼しいけど陽差しは暖かいから、昼寝には良い時間帯なんじゃないかと思ったんだけど。
太陽の方に手の平を伸ばすと、左手首に巻かれたお守りがキラリと光った。
これは猫の王様の髭で出来ていて、持っていると猫とか猫の精霊なんかと仲良くなれるらしい。
その効果を確かめるために猫を探していたんだけど、どうにも見つからない。
あの愛想のない猫も塩対応をやめて神対応してくれるかもしれないのに。
それと、意思の疎通はどれくらい可能なのかも確認しておきたかった。
精霊なら直接話が出来るけど、猫は言葉を話せないからね。
助けを借りたくなったとしても、お願いの内容を伝えられなかったら意味がいない。
そのためには、前もって調べておいた方がいいだろう。
必要な時が来るのはたぶん突然だから。
土壇場になってあわてても遅いのだ。
あと、単純に猫と仲良くしたいというのもある。
わたしの精霊としての保護者は猫の王様で、猫は仲間なのだし。
「キュッ」
イナリが肩の上でひと声鳴いた。
その視線を追うと、館の二階部分の屋根の端に、グレーの毛皮が見える。
「おお! イナリ、お手柄だね」
「クルッ」
建物から離れたこの位置からだとギリギリ屋根の上が見えるけど、もう少し近づけば角度的に見えなくなってしまうだろう。
探し回ったあげく、ちょっと館から離れたのが幸いしたみたいだ。
「どうしよう。近くに行って話しかけたいけど、下からじゃ何も見えないし」
「クルッ」
イナリが立候補するみたいに立ち上がった。
あそこまで登って呼んできてくれるってことらしい。
「うーん。ありがたいけど、今回は自分でやりたいかな」
「クルッ」
納得してくれたのか、イナリがスッと腰を落とす。
その顎下を指先で撫でながら、屋敷の方に歩き始める。
どうしよう。
下から声を掛けるって手もあるけど、端から見るとひとりで叫んでる変な人だし、誰かに話の内容を聞かれるのも避けたい。
だとしたら、なんとかして屋根に登るか。
うちの屋敷は中央部分が四階まであって、その脇に二階建ての区画がくっついているような構造だ。
三階の窓から抜け出すことが出来れば、二階部分の屋根に降りられるかもしれない。
やったことはないけど。
二階部分の屋根に面した窓を思い浮かべる。
子供の身体なら通れるか。
いや、ちょっと微妙かもしれない。
他に方法はないかな。
はしごがあれば上がれそうだけど、勝手に持ち出すのは難しい。
あとは、そうだな、頑張れば駆け上がれるかもしれない。
魔力で身体能力を強化、というか、身体操作すれば行けそう。
ここ最近の王様との修業で、そういうことはかなり上手くなった。
でも、他人に見られた時に言い訳がきかないから却下だ。
色々考えた末、裏口から屋敷に入り、とりあえず階段を三階まで登る。
廊下の突き当たりに目的の窓があった。
「思ったよりも難しそう」
「クルッ」
窓の位置自体が結構高くて、わたしの背では手をいっぱいまで伸ばしても届かないだろう。
「イナリ。誰か来そうになったら教えてね」
「クルッ」
ひと声鳴いて、イナリが地面に飛び降りる。
わたしは頭の上の光の輪を静かに、でも素速く廻し、魔力で身体をコントロール。
軽くジャンプすると、余裕で窓枠まで届く。
そのまま身体を引き上げ、出窓部分に足を掛けた。
ほとんど音は立てていない。
猫みたいなしなやかな動きをイメージしてみた。
窓にはめ込まれた分厚くてでこぼこしたガラスを通して、下の方を覗く。
気泡が混ざった波打つガラスの向こうはちょっと歪んでいたけど、ギリギリなんとか寝転がった猫が見えた。
「あれ、この窓って……」
窓を開けようとしたところで、どこにも取っ手がないことに気付く。
もしかして、開けられるように出来てない?
そういえば開いてるところを見たことはないかも。
しばらく窓を調べてみたところ、嵌め殺しというわけでもなかったけど、全体を外せるようになっているだけで、窓を開くみたいなことはできないことがわかった。
外せばいいのかもしれないけど、さすがにこの窮屈な体勢からじゃどうしようもない。
「やっぱり、ここからは出られないか」
「クルッ」
やっぱり自分が行こうかって感じに、イナリがこちらを見て鳴いた。
「大丈夫だよ。他の方法を探そう」
静かに窓から飛び降りて、次の手を考える。
ここ以外に外に出られる場所。
ひとつ思い出したので、廊下を出て階段で四階に上がる。
建物の構造上、同じような場所に窓があるけど、簡単に開かない造りも一緒だ。
わたしは窓をスルーして、物置になっている隅の部屋に入った。
真っ暗な中、目を凝らすと部屋の様子がうっすらと浮かび上がる。
魔力を使って視力を強化すると、こういうことも可能なのだ。
そのまま奥に入っていき、目当てのはしごを見つけた。
幅の狭い木製の簡素な階段が天井まで続いている。
行き止まりにある扉を押し開けると、屋根裏部屋みたいな場所に入った。
「クルッ」
イナリがわたしの肩から飛び降りて、先の方に駆けてゆく。
それを追いかけるように進むと、殺風景な屋根裏の、奥の空間だけが部屋のように整えられていた。
椅子があり、テーブルがあり、燭台がある。
作り付けの棚があるけど、今は何も入っていない。
その棚の近くと、部屋の反対側の壁には、ひとつずつ扉がある。
近寄って、木製のかんぬきを外す。
硬くなった重い扉をなんとか開けると、狭いベランダに出た。
ここは展望台というか、見張り台になっている。
有事の際はここに兵を配置するらしい。
部屋の反対側にある扉の向こうも同じ構造で、いちおう死角が出来ないようになっているらしい。
「お、いたいた」
ベランダから下を覗くと、小さく灰色の猫が見えた。
昼寝でもしているのか動く気配はなく、尻尾だけが時折ふわりと揺れた。
わたしは素速く屋根裏部屋に戻ると、下に降りるためにロープか何かを探す。
「クルッ」
イナリが部屋の隅に置かれた木箱の上で鳴いた。
「何かあった?」
近寄って開けてみると、なんと縄ばしごがあった。
もしかしたら、ここから外に出られるように準備してあるのかもしれない。
だけど……。
「壊れてるじゃん」
「クルッ」
引っ張り出したてみたら、途中から足場が壊れていて、ただのロープになってしまっている。
「うーん、まあいいか」
ベランダに出て柵を調べたら、縄ばしごの為の留め具が設えられていた。
その留め具に端をくくりつけ、ゆっくりと縄ばしごを下ろす。
目立つことをしてるみたいだけど、位置的には誰にも見えていないはず。
いや、屋敷の外の、たとえば森の方からだったら丸見えだな。
まあしかたがない。
念のためなるべく派手な動きはしないことにしよう。
「じゃあいこうか」
「クルッ」
イナリがわたしの肩に飛び乗り、そのまま首を一周してマフラー体勢になった。
それを確認してから、なるべく音を立てないようにゆっくりと縄ばしごを下りていく。
「結構風強いね」
「クルッ」
さすがに吹き飛ばされるほどじゃないけど、思ったよりも寒い。
首回りはイナリのおかげで暖かいけど。
「おっと、ここから先は縄だけか」
仕方ないので、そのまま縄に捕まり、するすると下に降りていく。
魔力で身体強化してるからさすがに落ちたりする心配はない。
そのまま音を立てずに、ゆっくりと二階部分の屋根に降り立った。
グレーの猫は丸くなって寝たままで、まだこちらに気付いていない。
忍び足で少し離れた所まで移動。
猫の死角に入らないように、目を開けたらをすぐ見える位置を選んだ。
いきなり話しかけると驚くだろう。
どうしようかな。
とりあえず、押し殺していた気配を解いて、軽く足音を立てた。
ピクリと、猫の耳が動く。
「こんにちは」
小さな声で話しかける。
すると、体勢は変えずにスッと猫の眼だけが開いた。
「ちょっとお話したいんですけど」
半歩近づいた瞬間、バネ仕掛けみたいな勢いで猫が飛び退いた。
「あ、驚かせちゃってごめんなさい」
「クルッ」
あわてて足を止めて謝ったけど、グレーの猫は身を翻らせて屋根の端まで駆けて行き、そのままの勢いでジャンプした。
後を追いかけて下を見ると、どうやら一階の窓枠に着地したらしく、そこからさらに地面まで飛び降りて、花壇の向こうまで走り去ってしまったのだった。
三話目です。
なんとか年内に間に合いました。
どうしてこんなに時間がかかったのか、その答えは謎です。
とりあえず書き始めたけど、どうなるのかも謎です。
今回、妙に長くなってる気もするし。
短い話に体が慣れて、リズムがつかめなかったのが原因かも。
なんにせよ、来年もよろしくです!