鹿のポテンシャル
鹿に追われていた。
それでも森の中を進む。
本気を出せば追い払えるし、やろうと思えばいくらでも逃げられるけど、魔力を使うことは猫の王様に止められているから、実際の所はむずかしい。
だから下生えを踏み越えながら、木々の枝をくぐり抜け、森の中を走った。
「クルッ」
マフラー状態になったイナリが、何かに気付いて鳴く。
鹿の気配。
思ったより早い。
「ムイッ」
予想とは違う方向から、鹿の頭が突っ込んでくる。
とっさに身体を捻って躱しながら距離を取る。
でも、そのために足を止めることになった。
「うーん、なかなかやるじゃない」
「クルッ」
わたしとイナリのお褒めの言葉に、鹿は急にそわそわとし始める。
「よしよし、じゃあご褒美ね」
「ムイッ」
わたしが鹿せんべいを差し出すと、ロクサイはうれしそうに食べ始めた。
「ちょっと……あんたたち……走るの速すぎ……」
ゼイゼイと肩で息をしながらミカヅキが現れる。
「屋敷の中で研究ばかりしてるから、運動不足になってるんじゃないですか?」
「クルッ」
ミカヅキはしんどそうに視線だけで抗議してきたけど、わたしの意見にはイナリも同意してくれてる。
臼ですりつぶすみたいに顎をむりむりと動かしながら、ロクサイがミカヅキの傍にやってくる。
「あんた……ごはんが絡むとやる気出すよね」
「ムイッ」
数日ぶりにたそがれの魔女の館を訪れたわたしたちは、ロクサイの修業に付き合っていた。
今やっていたのは森の中での追いかけっこだ。
いきなり全ての力を取り戻すのは難しいので、まずは身体能力から、ということらしい。
あとはミカヅキとの意思疎通とかも課題であるらしい。
「こうしてみると、いままでとそれほど違わないように見えますけど」
「まあ、完全に普通の鹿に戻ったってわけじゃないみたいだね」
「ムイッ」
ロクサイが相槌を打つみたいに鳴く。
「言葉はわかってるのかな」
「おおよそはね」
行動も普通の動物とは違って、知性を感じさせるところがある。
「じゃあ、あとは魔力ですか?」
「そうだね。使い魔の契約をするにしても、もう少し魔力が必要かな」
わたしが見た感じ、光の輪は小さくなってはいるものの、普通の鹿よりは大きいと思う。
「ムイッ」
頭の上辺りを見ていると、ロクサイがこちらに寄ってきた。
わたしの視線に違和感を覚えたのかも知れない。
「よしよし、がんばる子には元気の素をあげようね」
「ムイッ」
鹿せんべいをさらにひとかけら差し出すと、うれしそうに食べ始める。
「ロクサイにごはんをあげすぎないでよね。太ったら困るし」
「ムイッ」
これくらい平気、みたいな感じにロクサイが鳴く。
まあ食べた分だけ、動けばいいだろう。
わたしとミカヅキは近くの倒木に腰を下ろした。
「よーし、じゃあいつものやついくよー!」
「キュッ」
何をするのか理解したイナリが、わたしの肩から地面に飛び降りる。
小さく割った鹿せんべいを放り投げると、イナリが素速く走って、器用に口先でキャッチする。
「クルッ」
「ロクサイもがんばって!」
「ムイッ」
再び、今度はちょっと高めに放り投げる。
イナリの姿を見て学んだのか、次の鹿せんべいはロクサイが見事にキャッチした。
「ミカヅキさんもやります?」
「……やる」
わたしから鹿せんべいを受け取ると、ミカヅキが欠片を指先で弾くみたいに投げた。
「キュッ」
「ムイッ」
イナリとロクサイが同時に動いて、今度もロクサイがゲットする。
これは背が高い方が有利かも知れない。
「よーし、次行くよーっ!」
わたしが鹿せんべいを割って欠片を投げると、ロクサイとイナリが同時にダッシュした。
「ムイッ」
素速く落下地点にロクサイが陣取る。
これは身体の大きさでも有利かもしれない。
「キュッ」
鹿せんべいをロクサイがキャッチする直前、イナリがロクサイの背中に飛び乗った。
そのまま頭の上まで駆け上がり、欠片に向かってジャンプする。
「クルッ」
見事に鹿せんべいをゲットしたイナリが、ちょっと胸を張るように誇らしげに鳴いた。
「ムイッ」
一方、踏み台にされたロクサイはちょっと憮然とした表情だった。
「なかなか白熱してきたね」
「あんたたち、もしかしていつもこんなことしてんの?」
ミカヅキが呆れたようなちょっと感心したような微妙な目でこちらを見てくる。
「最近わたしとイナリの間で流行ってる遊びですから」
「クルッ」
それからしばらく、イナリとロクサイの一進一退の攻防が繰り広げられた。
身体の大きさを生かしたロクサイと、素速い動きのイナリの戦いは、なかなか決着がつかない。
もしかしたら、イナリの方が少し手加減しているかも知れない。
本気になるともっと動きすごいからね。
「よーし、じゃあ次は大きめの行くよ!」
わたしは袋からとりだした欠片をフリスビーみたいに投げる。
「ムイッ」
「クルッ」
二匹同時に走り始めて、今度はロクサイが高くジャンプして器用に鹿せんべいを咥え取った。
「おお、すごい技が出たね!」
「クルッ」
ムリムリとかじり始めたロクサイの足下で、イナリが次の鹿せんべいを要求する。
「あ、ごめん。今ので最後だった」
「キュッ」
わたしの言葉にショックを受けるイナリ。
「でももう沢山食べたでしょ?」
「ルッ」
イナリがちょっと力なく、小さな声で鳴いた。
「ムイッ」
するとロクサイが頭を下げて、口にくわえた鹿せんべいの欠片をイナリに差し出した。
「クルッ」
イナリがお礼にひと声鳴いて、鹿せんべいをかじり始める。
うーん、ロクサイ、いいやつだね。
「よかったね、イナリ」
「クルッ」
元気に鳴いたイナリが、軽い足取りでロクサイの背中によじ登る。
ちょっと驚いたのか、ロクサイが頭を捻って背中の方を見た。
イナリはそのまま頭の上まで駆け上がった。
これって、もしかして。
「キュッ」
イナリが鳴くと、ロクサイの光の輪が激しく廻り始める。
一瞬、魔力の波がここまで伝わってきた。
「ちょっと! 今の何!?」
異常を感じて、ミカヅキがわたしの肩に手を掛けた。
「いきなりロクサイの魔力が強くなったじゃない!」
「いやー、わたしにもなんだかよく……」
とりあえず適当にごまかしてみる。
「クルッ」
イナリがひと仕事終えた顔で、元気良く鳴いた。
「もしかして、あんたの使い魔が何かしたの?」
「イナリは使い魔じゃなくて、友達なんですけど」
ロクサイも自分の魔力に異変を感じたらしく、しきりに左右を見ている。
それにあわせて、頭の上にいたイナリの尻尾も左右にぷるぷる揺れた。
「あんた、前からそんなこと言って……。いや、もしかして本当、なの?」
「だからそう言ってるじゃないですか」
別に細かいことを説明しなかっただけで。
「もしかして、この細長栗鼠……」
どうやら、ミカヅキが気付いたらしい。
まあ隠してもしょうがないか。
「イナリは精霊ですよ」
「もっと早く言いなさいよ! そういうことは!」
でも家族にも言ってないしね。
師匠が精霊だって事を最初伏せてたから、その流れで言わなかったところもある。
「人間の子供に精霊の師匠がいて、友達とか言ってる使い魔みたいなやつも精霊で……。そんなのってある? いくらなんでもめちゃくちゃじゃない」
ミカヅキが遠い目をしてぶつぶつ言い始める。
「ってことは、これって精霊の力か……」
「別に力を与えるとか、そいういうすごいことしたわけじゃなくて、ロクサイが最初から持ってる力を引き出しただけみたいですけど」
わたしがそう言うと、ミカヅキが憮然とした表情でこちらを睨んだ。
「こういうこと出来るんなら、教えてくれてもいいじゃない」
「イナリはあくまで友達ですから、何が出来るのかとかわたしもよくわからないんですよ。無理に言うこときかせるみたいなのもしたくないですし……」
ミカヅキは目をつむり、眉間を指先で押さえると、深く深く溜息をついた。