リンドウの犬の夢と犬たち
犬です。
わたし、犬になりました。
ベッドの上で一匹。
しかも子犬です。
もともとわたしが子供だからでしょうか。
しっぽも短いのです。
鮮やかなオレンジ色の毛並み。
足は思ったより細くて、大人になってもあまり大きくはならなさそうです。
ちょっと残念。
起き上がってあたりを見ると、どこまでもベッドが広がっています。
この身体には世界は大きすぎるのかもしれません。
あと、お腹がすきました。
お水も飲みたい。
これはピンチです。
ベッドの上を端まで歩いて下を覗くと、結構な高さがあります。
降りられるでしょうか。
思い切ってジャンプしようかどうしようかと迷っていると、いきなりシーツがずり落ちてバランスを崩しました。
そのまま床まで滑り降ります。
ビックリしました。
でも、身体は痛くなかったです。
よかった。
あらためて立ち上がって耳を澄ますと、お屋敷の中はとても静かです。
窓から差し込む日差しを見るに、たぶんお昼を過ぎた頃だと思います。
普通ならもう少し人の気配がするはずなんですが。
とにかく、ご飯をもらわなくては。
誰か来て。
ひと声、鳴いてみようかな。
吠えたら誰か来てくれるかな。
ヒャン。
思ったのと違う感じの声が出ました。
もっとかっこいい鳴き声を期待してたのですが。
子犬だからしかたないんでしょうか。
ヒャン、ヒャン。
うーん、これではだめです。
わたしは少し開いていたドアの隙間を抜けて、外に出ました。
しんとした廊下を進み、階段をがんばって降ります。
途中、踊り場でひと休み。
屋敷の大きさは、やはり子犬の身体にはきびしい。
がんばったらさらにお腹がすいてきました。
お肉がたべたい。
この欲望、さすが肉食動物です。
お水も飲みたい。
ミルクでもいいです。
そんな衝動に突き動かされて、なんとか一階のホールまで降りきりましたが、やはり誰もいません。
どうしてでしょう。
みんな出かけてるのかな。
短い足で歩き回りましたが、誰にも出会いません。
調理場に行ってみようか。
あそこなら人がいるかもしれないし、なにより食べ物があるかもしれません。
ホールから外に出ようとしたけど、扉が閉まっています。
重くて厚い扉は、さすがにこの身体では開けられそうにありません。
でも、ためしに押してみます。
ガリガリ。
爪が音を立てるだけで、ピクリともしません。
別の出口を探しましょう。
まずは裏口です。
思いきって走ってみます。
タシタシタシという足音で、ちょっと楽しくなります。
しばらく進むと裏口が見えてきました。
でも、こちらも閉じられています。
前足で押してみましたが、やはりガリガリという音を立てただけでした。
あ、ちょっと爪で傷が付いてしまいました。
反省。
あとであやまらないと。
でも、周りには誰もいません。
ふと見ると、窓が少し開いていました。
ここから出られるかもしれません。
ジャンプ。
ヒャン。
届きませんでした。
何か台になるものを探しましょう。
近くに椅子がありますが、椅子の上まで登るのに別の台が必要です。
クンクンと床の匂いを嗅ぎながらうろついていると、壁に何か黒い物が突っ込まれているのに気付きました。
どうやら古いぼろ布のようです。
ためしに噛みついて引っ張ってみると、ずるずると抜けていきます。
もしかしてと思って、さらに引いていきます。
すると、壁に小さな穴が現れました。
ちょっと狭いけど、ここから外に出られるかもしれません。
首を突っ込むと、頭は通ります。
子犬の身体でよかった。
そのまま這うように進むと、無事屋敷の外に出ました。
ちょっと冷たい、新鮮な空気。
草と土の匂い。
わたしは館の横にある調理場に向かいます。
幸いこちらは扉が開いていました。
でも、中には誰もいません。
食べ物をさがしましたが、干し肉ひとつありませんでした。
ここならたいてい何かあるんですが。
こんなことはじめてです。
困りました。
ちょっと悩んで、犬舎の方に行くことにします。
食べ物はないかもですが、水は飲めるようになっているのです。
お願いして、すこしだけ分けてもらいましょう。
わたしは犬舎に向かって走りました。
タシタシタシ。
地面を蹴る感触が心地いい。
犬さん達がいつも走りたがってる理由がわかる気がしました。
そして、たくさんの犬さんの匂いが近づいてきます。
いました。
この屋敷に人は居ないけど、犬さん達はいるようです。
犬舎の柵の内側で、みんな思い思いに過ごしています。
丸くなって寝ている犬さんもいれば、落ちつかなげに同じ場所を歩き回っている犬さんもいます。
ヒャン。ヒャン。
こんにちは、お水を飲ませてください。
そういう気持ちで鳴いてみます。
みなさん、一斉にこちらを見ました。
その目付きが普段とすこし違います。
考えてみれば、この姿になったわたしは、犬さん達とは初対面でした。
いつもいっしょに遊んだりしてるから、うっかりしていました。
さっきまで歩き回っていた犬さんが、こちらにツカツカとやってきます。
ワウホワウ。
ひと声吠えられました。
わたしがよそものだからでしょうか。
ヒャン、ヒャン、ヒャン。
ちがいます。
今は子犬の姿ですが、わたしはわたしですよ。
なんとかこの気持ちが伝わって欲しい。
でも、犬さん達は怪訝そうにこちらを見詰めるだけです。
なんだかとても悲しくなってきました。
わたしは犬さん達が好きなのに。
ここでは、この姿では、わたしはよそものなのです。
キュウ。
気の抜けた鳴き声を口から漏らし、犬舎から立ち去りました。
子犬になってしまったわたしは、ひとりぼっちなのでしょうか。
昨日まで、なかよしだったのに。
ふと気付くと、わたしは庭園の外れにたどり着いていました。
最近はよくここに来るので、自然と足が向いたのかもしれません。
ここで何してる。
突然、鈴のように高い、女の子の声が聞こえました。
振り向くと、間近になにか黒いものが立っています。
その暗闇の中に眼があります。
数歩後ずさると全体像が見えて、それが黒い犬さんだとわかりました。
ヒャン。ヒャン
ヨイヤミちゃん!
わたしです! わたしですよ!
がんばって鳴いてみたけど、いまいち伝わらないようです。
見ない顔。
ヨイヤミちゃんは女の子の声でそう言うと、ぬぅっと鼻先を近づけて来ました。
言葉は通じないようでしたが、なんだかちょっとほっとして、わたしも小さな鼻を前に出します。
黒い鼻がクンクンと匂いを嗅いでいます。
ヒャン。ヒャン。
わかりますか?
わたしです。
必死なわたしに向かって、ヨイヤミちゃんは黒い目を細めました。
小さくてうるさい。
う、ごめんなさい。
でも匂いでわかりませんか?
子犬の姿だから、匂いも変わってしまったのでしょうか。
この子犬、妙な気配。
感情を感じさせない声が響きます。
やっぱり、わたしだとわかってもらえないみたいです。
不安要素は排除。
ヨイヤミちゃんが大きく口を開きました。
鋭い白い牙がわたしに向かって近づいてきます。
突然のことで、身体がまったく動きません。
「あんた、なにやってんの!」
声が聞こえました。
なんだかとてもなつかしい声。
ヨイヤミちゃんが口を閉じ、声の方を向きます。
その先には、カナエ姉様が立っていました。
「うちの屋敷で勝手なことしないでよ」
「場所はバウルに関係ない」
姉様がわたしの方を覗き込んできます。
「この子、まだ小さいじゃない。なんでいじめるの」
「不安要素は排除する」
「駄目に決まってるでしょ」
大きな柔らかい手がわたしをすくい上げます。
「屋敷の者ではない。守る理由ないはず」
「この子犬は、うちの子です」
ヨイヤミちゃんはカナエ姉様としばらくにらみ合っていましたが、フイッと視線を外しました。
「いびつな子供。気をつける」
ぼそっとつぶやいて、ヨイヤミちゃんは屋敷の外に向かって去って行きました。
「助かってよかったね」
姉様がわたしを持ち上げて、視線を合わせてくれました。
ヒャン。ヒャン。
姉様ありがとう!
でも、こちらの言葉だけが通じない。
とてもさびしい。
「もしかして、あんた、リンドウ?」
姉様がわたしの頭の上辺りを見詰めて言いました。
「こんな時間に、なにやってるの」
夜でした。
ベッドの上で、わたしは目を覚ましました。
暗闇の中、動きが止まったぬるい空気を吸って、大きく息を吐きます。
ずっと重苦しかった頭がずいぶんと楽になっていました。
どうやら熱が下がっているようです。
まだすこし、ぼんやりしているけれど。
それでもちょっと、おなかがすいていることに気付きました。