ひそやかな変化
ミカヅキは自分の部屋のベッドの上にロクサイを寝かせると、ぐったりしている鹿の体を水で濡らした布きれで丁寧に拭った。
眼を閉じてゆっくりと呼吸する様子を見るに、たぶん眠ってしまったのだろう。
部屋の隅にあった椅子を引き寄せて、ミカヅキはロクサイの横に座った。
わたしはなんて声を掛ければいいのか迷っていて、結局ずっと無言だった。
あの地下室の巨大な本の世界で、ロクサイは大きな傷を負った。
本を読むのを止めて、我に返ってみればロクサイの傷は消えていて、でも角は失われたままだ。
部屋のどこにも脱落した鹿の角はなかった。
いや、実は欠片が少しだけ存在している。
わたしが握っていた、血に濡れたペン代わりの角が。
気付けば、自分の左腕の傷もきれいさっぱりなくなっていた。
でもたぶん。
全て元通りになったわけじゃないってことだ。
「ミカヅキさんも休んだ方がいいですよ」
「うん……」
ロクサイの方を見たまま、小さな声でミカヅキが答えた。
それでも椅子から動く気はなさそうだ。
とりあえず今、わたしが出来ることはないように思える。
「またあとで来ますから」
そう言って部屋を出ると、廊下にはハンゲツとアカツキが心配げな顔で壁に背を預けていた。
「様子はどうだ?」
アカツキが神妙な口調で訊いてきた。
「とりあえず今は寝ています。様子見ですね」
「そっか。まあ、ひどいことにはなってないみたいでよかった」
「あの……」
ハンゲツが控えめな声で話に入ってきた。
「ちょっと、気になることがありまして」
「なんですか?」
わたしが訊くと、少し迷っている顔をした。
「確信があるわけじゃないんですけど、ちょっと変な感じがして……」
「変って、なんだよ?」
アカツキが怪訝そうにハンゲツに視線をやる。
「気配が、消えてる気がするんです。その、先生の」
「それって、いつからですか?」
ハンゲツは地面の方を見ながらちょっと考える素振りを見せた。
「気付いたのはついさっきです。地下から上がってきてからですね」
「たしかにちょっと、変な感じはするな」
アカツキが顎に手を当てながら言う。
「わたしには良くわかりませんけど」
魔力の気配ならこちらの方が敏感だと思うから、これはそういうものじゃないみたいだ。
ずっとここに住んでるからこそ感じる何かなのかもしれない。
「悩んでてもしょうがない。行ってみよう」
アカツキはあっさりそう言うと、スタスタと歩き始めた。
あわててわたしとハンゲツがあとをついて行く。
屋敷のロビーを通って二階に上がり、廊下を進むと石造りの階段に出る。
塔のせまい階段を登ると、たそがれの魔女の部屋にたどり着いた。
迷う間もつくらず、アカツキが拳で木の扉をどんどんと叩く。
「アカツキです! 入ってもいいでしょうか!」
大声でそう言ってから、しばらく待った。
「返事、ありませんね」
「入ってみよう」
おもむろにアカツキが扉を開けた。
「え、ちょっと、いいんですか!」
「だめだったら、そもそも入れないだろ」
そう言って暗い部屋の中にずんずん入っていく。
わたしとハンゲツもその後を追った。
一応燭台に火がともっていて、弱い明かりで部屋の様子がうっすらと見える。
いつも通りの部屋。
部屋の奥に大きな椅子がある。
そこには誰もいない。
「留守ですかね」
「こんなこと、初めてです」
ハンゲツがぽつりと言った。
「そうだな。少なくともおれがここに来てから、先生が部屋を出たことはないはずだ。むしろ、部屋を出られないというか……」
アカツキの言葉を聞きながら、わたしは魔力を指先から打ち出して、光の玉をいくつか作る。
それを天井に向けて送ると、一気に部屋が明るくなった。
本棚に囲まれた円形の部屋。
部屋の中央には燭台が置かれたテーブル。
奥の大きな椅子には誰もいない、と思ったけど。
座面の上に、何かローブみたいなものが置かれている。
半ばずり落ちそうなそれを手に取る。
「おい、それって……」
「先生の服……ですか?」
そう言われてみれば、たしかに見たことのある色合いだ。
妙な予感に導かれて、椅子の近くの床を探すと、鳥籠がひとつ落ちていた。
「これって……」
わたしは鳥籠を拾い上げる。
中には、一匹の鸚鵡がうずくまっていた。
体からは力が抜けていて、軽く鳥籠を振っても全く動かない。
どうやら死んでいるようだった。
「どうなってんだ、これ……」
アカツキがやっと不安そうな表情を見せた。
「もしかしたら、さっきの出来事と関係あるのかも」
「ええと、何の話ですか?」
わたしと暁のやり取りを見て、ハンゲツがおずおずと訊いてきた。
とりあえず説明と話し合いの時間が必要だろう。