シカの角とにんげんの魔法
「キキ! キキキキコココココココ!」
突然、雛の魔物が甲高い声で鳴いた。
こちらに向かってくるかと思って身構えたけど、魔物は巨大な体をブルブルと震わせるだけだ。
「なんだ?」
「気をつけて! 何かしかけてくるかもしれない!」
ミカヅキが厳しい顔で声を上げる。
「何かって、なんだよ?」
「そんなのわかるわけないでしょ!」
それでも、わたしにも何かが起ころうとしていることはわかる。
「コカコココカカケー!」
雛の魔物が、天井の方を向いて吠える。
「もしかして、大きくなってる?」
最初は背伸びをしたように思えたけど、あらためて見ると、ずんぐりむっくりだった雛の体が縦に伸びている。
そして、震える皮膚一面に、鳥肌みたいなつぶつぶが広がると、そこから白い羽がぶぬぶぬと、植物が芽を出すみたいに生え始めた。
「こいつ、成長してるのか!?」
アカツキが大きな魔剣を構え直した。
皆なにか、このままだと良くないことが起こると感じたようだ。
「攻撃してこないんだったら、今がチャンスじゃない?」
そう言って、ミカヅキがロクサイの角を高く掲げた。
その口の動きから、なにか呪文を唱えていることがわかる。
魔力がほとばしり、角の先端から強い光が発した。
「ミカヅキさん、役割は変えない方が……」
わたしの言葉が終わらぬ間に、ロクサイの角の先からきらめく氷の刃が無数に生み出され、滑るように撃ち出されていく。
その動きと同時に、アカツキも雛の魔物に向かって走っていた。
同時に攻撃して打撃力をまとめる気なんだろう。
「しかたない!」
わたしも頭の上の光の輪を廻し、短剣に魔力を注きながら走り出す。
雛の魔物はまだ動かない。
氷の刃が立て続けに突き刺さると、一拍おいてアカツキが炎の剣で斬りかかった。
「コカココカカケケー!」
少し出遅れたわたしは、相手に的を絞らせないように、アカツキとは逆側に回り込んだ。
「なんだ、こいつ!」
アカツキの声が聞こえて、わたしも気付いた。
雛の魔物の姿が完全に変わっていた。
体中、斑模様みたいに羽が生え、手足が伸びて、もうずんぐりむっくりな印象はない。
翼だった部分は棒みたいに太くなり、かなり人型に近づいていた。
「ケケケケケケケケケケケケケケ!」
嫌な予感がして、反射的に短剣を揮った。
魔力の光が伸びて、魔物の足元を切り裂く。
「カカカカカ!」
異様な速度で魔物が回転した。
同時に体を不規則に覆う羽が押し出されるように抜けて、辺り一面に打ち出される。
「キュッ!」
イナリの警戒の声を聞くまでもなく、素速く魔物から飛び退いたけど、羽が数本、わたしの左腕に突き刺さった。
「グッ!」
奥歯をかみしめ、痛みに耐える。
魔力を纏わせているから多少は頑丈になってるはずだけど、そんなことは関係なく身体に突き刺さってきていた。
短剣を持つ手で羽を引き抜くと、予想以上にたくさん血が流れ始める。
「これ、下手に抜かない方がいいかも」
「キュッ!」
まったく予備動作なしで、魔物がミカヅキに向かって突進した。
魔法を攻撃に使ってしまったからか、氷の壁が間に合わず、巨体に跳ね飛ばされるのが見えた。
「ミカヅキさん!」
「オラァッ!」
間髪入れずに、アカツキの魔剣から炎が吹き上がる。
その衝撃に羽が飛び散っる。
よく見れば、魔物はまったく攻撃を避けていなかった。
「羽が盾になってるのか」
さっきわたしが斬りかかったところも、全く傷ついていなかった。
魔物は今度はアカツキに向かって突進する。
この動きは二度目なので、ぎりぎり飛び退くような動きでアカツキが避けた。
「大丈夫ですか!」
わたしがあわてて駆け寄ると、うつ伏せになっていたミカヅキが苦しそうに顔だけを上げる。
「ごめん、ちょっと……動けそうにない……」
手に持っていたロクサイの角はバラバラに折れて、今は辺りに散らばっている。
これで身を守ることで、なんとか命が助かったのかもしれない。
でも、ミカヅキはもう戦えそうになかった。
「ウワッ!」
叫び声に振り返ると、アカツキが魔物になぎ倒されていた。
弾き飛ばされた炎の魔剣が、床に転がって硬質な音を立てる。
「グッ、ロクサイ……!」
ミカヅキの絞り出すような声で、魔物がロクサイに近づいていることに気付いた。
このままだとロクサイが踏み潰されてしまう。
でも、今から飛び出しても間に合わない。
焦りで時間が引き延ばされるような感覚。
ゆっくりと魔物が歩を進める。
なにか、出来ることがあるはず。
それはほぼ無意識だった。
素速い動きで、足下に手を伸ばす。
地面に転がるロクサイの角の欠片を手に取った。
魔物の足がロクサイの上に振り上げられる。
指くらいの長さの角の欠片に、左腕から流れる血を擦りつける。
そして。
大きな足が、ロクサイを踏み潰す。
「いやッ!」
ミカヅキの悲痛な声が響く。
わたしは視線を白い羊皮紙に向けた。
ロクサイの角をペン代わりにして、目の前の文字を塗りつぶす。
扉と同じサイズの大きな本。
そこに記された文字たち。
黒いインクで書かれた言葉を、赤い血で塗りつぶす。
そして、横に血で文字を書き足す。
大きな足が、ロクサイをまたぎ越える。
幸運にも、魔物はロクサイに気付かず、踏み潰すこともなく通り過ぎた。
「いやッ!」
不安に駆られたミカヅキの声が響く。
「大丈夫。ロクサイは無事です」
そこでふと気付いた。
なるほど。
これが人間の魔法なのかも。