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ホワイト・クリスマス

作者: TAKA-F


白く、


一粒のそれは小さく、弱く、頬の上ですぐ溶けてしまうほどかよわいのに、


街をふんわり包み込む君たちは、どうしてこうも美しいのだろう。


     *


 十二月二十四日、早朝。

スケートリンクのように滑りやすくなった歩道を、紺のキャリーケースを引きながら歩く僕がいた。深夜に降ったみぞれが、朝方にかけ路面を凍らせていた。赤茶色のダウンコートにリーヴァイスのジーパン、白のマフラー。傍から見たら防寒対策万全に見えるこの服装でも、今年の横浜は刺すように寒い。蒸気をあげる機車のように白い息を吐きながら、僕は信号が点滅する交差点を急いで渡った。


 駅まで信号はあと何個あっただろう?


転ばないようにと下へと向けていた視線を上にやる。ピントがぶれるその先に、ぽつりぽつりと赤い灯火が確認できる。とりあえず見える限りでは三つほどだろうか。今度はなるべく歩いて渡りたいものだ。家から最寄り駅まで遠いというのは、こういうとき憂鬱である。先日駅前に新しく建ったマンションが、僕には羨ましかった。まあ、都心で駅前だし、家賃からして現実に住めたものではないのだが。

 

 歩きながら少し周りに目をやる。街に人影はほとんどない。きっと人々はまだ夢のなかだろう。わざわざクリスマスイヴに早起きする人のほうが珍しいというものだ。人が少ないせいか、いつもより大通りがより広く感じられる。そんななかキャリーケースを引いてせっせと歩く僕は、ちょっと寂しい人間のようだけど、イルミネーションの装飾された街路樹やガス灯たちの作り出す、プラネタリウムのように美しい光景を今独占していると思うと、なんともいえない、心地よい優越感を覚えるのであった。

 空は青く澄みわたっている。


     *


「ただいま。」


玄関のドアを開けると同時に、あたたかい空気とまろやかないい匂いが僕を包み込む。コトコトと鍋が一足先に僕に「おかえり」を言った。


「あ、おかえり。早かったね。」


君は、鍋に向けていた顔を僕のほうへやって、笑顔をつくった。


「今日はクリームシチューかい?」

「うん、外寒かっただろうし。クリームシチュー好きでしょ?」

「ああ、大好物だよ。」


鍋に顔を戻した君の肩にポン、と手をおいて、僕は居間へ向かった。どこにでもある狭いワンルームが、僕の天国だった。上着を脱いでハンガーにかける。クローゼットへそれをしまった後ネクタイを外した僕は、ふう、と一息ついた。僕たちは、べつに同棲しているわけではない。毎週月曜日と金曜日に、君が僕の家に合鍵で上がりこんで夕飯を作ってくれているのだ。だから必要な家事は僕がやるし、なによりそのことに僕自身なんの抵抗もなかった。むしろ将来の夫婦像というのはこうあるべきだ、とさえ思う。


「ちょっと待っててね、すぐできるから。」


つけていたピンクのエプロンで両手を拭きながら、君がやってくる。かわいい猫の絵が印象的なこのエプロンは、二ヶ月前の君の誕生日に僕があげたエプロンだ。付き合って半年以上経つが、夏あたりに合鍵を渡してからずっと、僕の家に来て夕飯を作ってくれる君への、ほんのお礼のつもりだった。再び笑顔をつくる君。暖房していても寒いのだろうか、君の鼻は赤い。


「あ、そうそう!」


ふと僕は、思い出したように鞄から包みを取り出した。もちろん、本当に思い出したわけではなく、さっと出すのが恥ずかしかっただけなのだが、きっと君はお見通しなんだろうな。


「え、なにこれ?」

「さあ、開けてごらん。」


僕から包みを受け取った君は、緑と赤の包み紙に手をかける。期待に瞳を輝かせる君は、ほんとうにかわいい。


「・・・・・・あっ!」


中身を見て声をあげる君。そう、出会った頃から君が欲しがっていた、アンクラークの腕時計。君は口に出さなかったけど、僕にはわかっていたよ。


「あ、ありがとう・・・、ほんとにありがとう!」


そう言うと君は、すぐに時計を腕につけて、僕にキスをくれた。僕は笑顔を返す。ふたりの間にそれ以上のことばも、コミュニケーションも必要ない。しばらく自分の腕につけた時計をうっとりと見つめた後、キッチンへ戻る君。それを見届けたのちテレビのリモコンを手に取る僕。この平凡で最高な幸せさえあれば、あとはなんにも要らない。


     *


 雲が覆いかぶさってきた。

十分ほど前まで快晴だったのに。天気というものは、時に人生より浮き沈みが激しい。ふと思い出していた大切な思い出を汚された気がして、僕は頭上の雲たちを睨んだ。ここから見ると、ちょうどランドマークタワーの向こうを雲が通過しているように見える。そういえば、あのタワーにもいろいろお世話になった。

 大学に進学して横浜へ単身引っ越してきたとき、初めて目にしたこのタワーの高さに圧倒された。地元にこんなに高いビルは、無論ない。大学を卒業するまで、僕は幾度となく展望台に足を運んだ。北は東京、東は房総半島、そして西に富士山まで望めるその絶景は、僕に「飽きる」ということばを忘れさせた。まるで自分のもののように、友達に自慢してまわったこともあった。東京には東京のシンボルと賞される東京タワーがあるが、僕のなかではこのランドマークタワーが日本一だった。

 しかし大学を卒業し、今働いている会社に就職してからというもの、僕があのタワーに足を向けることは次第に少なくなっていった。忙しさが、僕の目線を足元へ向かわせた。一日一日が大変な毎日を過ごすうちに、もしかしたら僕はなにかを忘れてしまったのかもしれない。


 ガラガラガラ・・・・・・


キャスターがコンクリートを引っ掻く音が僕を追いかける。なんとなく後ろを振り返ると、朝日を浴びてシャーベット状になった歩道に、僕の無数の足あととキャリーケースの軌跡が延々と続いていた。夕方には溶けてしまうであろうそれを、なぜか僕は鼻で笑った。


 最後の長い横断歩道を余裕をもって渡り終え、僕は赤レンガがトレードマークの駅ビルへたどり着いた。じわり、と頬に暖気がしみこむ。寒さからダウンのポケットにねじこんでいた右手を引っ張り出し、その手でキャリーケースから財布を取り出し改札にあてる。


 ピンポーン!


・・・エラー。なんだよ。僕は渋々隣の改札へ向かう。最近ちゃんとSuicaをあてられないことが多いのは気のせいか。先週、通勤ラッシュの渋谷で同じようにつっかかり、周りから冷ややかな視線をいっぱいに浴びたのを思い出した。あのときは改札が本当に混んでいて、隣に入れてもらうのも大変だったっけ。

 川崎方面のプラットホームへ上るエスカレーターに向かう途中、左側にある駅中の喫茶店に目をやった。クリスマスイヴの早朝ということもあってか、ガラガラだ。入口の脇に貼ってある「MENU」には、僕が好んで頼むブレンドコーヒーの写真。口いっぱいに珈琲の香ばしさがよみがえり、思わず一杯飲んでいこうかとも考えたが、横浜発の特急までそれほど余裕がないのでやめた。エスカレーターを上り、根岸線のホームに出る。

 再び吸い込んだ外の空気は、ひんやりと冷たい。


     *


「おいしい?」

「・・・うん、とても。」

「・・・・・・、ほんとに?」

「ああ、ほんとだよ。」

「・・・・・・よかった。」


僕は、リアクションが下手なのだろうか。素直においしいと思うのだが、どうも顔にそれが正直に出ていないのかもしれない。そう思わせるような不安げな顔が、僕の目の前にあった。


「・・・・・・・・・、なんだよ。」

「・・・べつに。」


・・・・・・・・・・・・、なんだよ。

半年も一緒にいて、いまさら顔つきとか態度のことですねられるなんてナンセンスじゃないか。僕はすこし苛立った。


「なんか外で嫌なことでもあったのか?」


君はあきらかにムッとした。ことばにし難いがあえて表現するなら、なんとなく気まずい雰囲気な時にそれを突然、全部自分のせいにされてなる、あのザラついた感じだ。


「なによその言い方。」


そういって君はそっぽを向く。これじゃせっかく作ってくれたシチューが台無しだ。しかし僕は引き下がらなかった。壁のほうを向いている君の眼が、とてもかよわく見えたからだ。ひび割れたガラスのように色々な感情を反射して、それは潤んでいた。君はきっと、なにかを言えないでいる。そんな僕の直感が胸騒ぎを誘った。僕は語気を荒げた。


「その言い方って・・・。なあ、なんかあったんじゃないのか?」


平静を装うことができなかった。まるで部屋の空気がなくなったみたいに、呼吸が苦しくなっていく。


「だって・・・・・・・」


君は、苦しんでいた。喉元まできているナニカを言おうとする君と、防ごうとする君が交錯して、艶やかな唇をゆがませていた。こんなに苦しそうな君を、僕は見たことがなかった。どうしていいかわからなくなって、ぬるくなったシチューをスプーンで口に運ぶ。胸騒ぎは、動揺に変わっていた。熱くなってモヤモヤしていたものが冷めていく代わりに、新たなざわつきが心を覆う。止まってしまった時間がしばらく続いた後、君は、その潤んだ眼を僕に向けた。


「・・・・・・あのね、ほんとはね――――」


     *


 赤い電車は、やはり速い。制限速度が何キロだかは詳しくないが、隣を走るJRと比べるとあきらかに速い。そして事故が少ないのも特徴だ。僕の乗る根岸線なんか、年中人身事故だなんだって言い訳して遅れるのに、この電車はそんな事故めったに起きないし、遅れない。不思議な世の中である。こういってはあれだが、やはり元国営と私鉄との差を感じずにはいられない。

 それはさておき、僕は両膝で挟んだキャリーケースが車両の揺れで逃げないように、しっかりと力を入れなおした。横浜で乗り換えてからまだ十分ほどだが、早くも電車は京浜工業地帯を横目に川崎駅を発車しようとしていた。どうやら雲行きはそれほど悪くないらしく、隙間からは陽がさしはじめていた。雲間を貫く幾つもの光の筆先が、空のキャンパスに美しい絵を描いていく様は、まるでセザンヌの作品を見ているようで感動的だった。

 

 川崎駅を出た電車は、住宅街の中を抜けていく。茅ヶ崎や小田原の方へ行っても思うのだが、こうして電車で駆け抜けていく間に目に入る数百・数千の家それぞれに、僕とおなじくらいの厚みの人生を持った人たちが生きていると思うと、驚きを通り越してぞっとする。人類は群れてこそ真価を発揮する生き物だとはよくいうが、実際目にするそれはなんとも恐ろしいものである。インターネットのチャットや掲示板などの普及により、人間同士の距離は縮まったというのが世間一般の見方だが、僕は素直にうなずけない。僕たちがネット上で捉える「人間」は、実際に会わないかぎりそれ自体が「文字」だったり「動画」だったりで、現実の人間より僕たち自身にとって都合よく、軽薄に存在していると思う。時代が進むにつれ、隣人同士の家を隔てる壁は木から鉄筋・コンクリートへと変わった。それと同様に他人との関係が疎遠になっていったからこそ、今というときに僕たちが「人間たち」を感じられるのはこんな瞬間しかないのではないか。瞬く間に現れては消えていく家々をながめながら、僕はそう思わずにはいられないのだった。窓を流れるこの光景を、君はどんな気持ちで見つめていたのだろう。車掌のアナウンスが聞こえる。


「本日はご乗車ありがとうございます。次は、蒲田。蒲田にとまります・・・」


京浜急行は、やはり速い。


     *


 君が出て行ってから、どれくらい時間がたったかわからない。月光と街のネオンで青くなった部屋で、僕はベッドに仰向けになっていた。タバコの一本でも吸いたい気分だが、あいにく僕はタバコを吸ったことがなかった。仕方なくベランダへ向かい、窓をいっぱいにあけ、空気を入れ替える。待ち構えていたかのように部屋に入りこむ冷気が、白いカーテンと僕の髪をなでながら、君のぬくもりを何処かへ連れ去っていく。外気を思いっきり吸い込んで、僕の頭は冷静さを取り戻しつつあった。

 僕らを引き裂こうとしているのは、時間ではない。夢。僕らの人生にレールを敷きつづけてきた「夢」が、今僕らを引き裂こうとしていた。君の道は、ふたつに枝分かれしていたのだ。片方は僕。もう片方は、夢。もし僕が君だったら、もしかしたら迷わず「夢」を選んでいたかもしれない。恋人なんて、見向きもしなかったかもしれない。迷わず僕を選んでくれる、と断定できるほど、人間は他人の心を鷲掴みにすることは、できない。それができるのは、人間の心のなかに巣食う悪魔のみである。そして僕は君に「夢」を選ばせた。それが正しい選択なのかはわからない。もう少し時間が経ったら、心が空洞になったみたいに何も手につかなくなってしまうかもしれない。自分の選択を、後悔するかもしれない。でも、君の告白を聞いてとっさに口から飛び出したことばは、これ以上ないほど澄んでいた。


「俺は、君が悲しむ顔が見たくない。」


行きたいなら、いってくれ。投げやりでも背伸びでもなく、それこそが、僕が君に真摯に向き合って思ったことだった。僕にできることがあれば、なんでもしよう。その想いに、一片の曇りもない。


 僕はベランダへ出た。ここからは、みなとみらいが一望できる。丘の上という立地は、駅から遠いことを差し引いても、僕にとって十分プラスだった。この時期にサンダルに部屋着で外に出るのは、寒がりの僕にとって本来自殺行為だが、今夜は非常にすがすがしかった。そして大声をあげたくなって胸を張ったちょうどその時、


 サァ・・・


静かな湖に水滴が落ちたときのように、皮膚から頬に、顔全体へと刺激が広がった。これは・・・


 サァ・・・サァ・・・


雪だ。粉雪が、横浜に降ってきた。おそらく初雪であろう。僕はその光景に目を奪われた。思わずベランダから身をのり出す。雲間からのぞく月に照らされた小さな妖精たちは、手に手をとって踊りながら、みるみるうちに夜空を、街を、人々を覆いつくしていった。いつの間にか、僕は笑っていた。理由は、ひとつではない。いろんな思考が絡み合って、僕は純粋に笑っていた。いや、もしかしたらすべてをしまっていたのかもしれない。でも、それができるほど、彼らは美しかった。



白く、


一粒のそれは小さく、弱く、頬の上ですぐ溶けてしまうほどかよわいのに、


街をふんわり包み込む君たちは、どうしてこうも美しいのだろう。



 結局、その日以来君が僕の家に来ることはなかった。君は僕の知らない場所へ、旅立った。


     *


 エスカレーターで、二階へ上る。どうやら出発の時間には余裕をもって間に合ったようだ。電光掲示板で情報を確認する。


「新千歳は・・・・・・、午後雪、か。」


着陸できないほどじゃあるまい。せっかくの早起きを台無しにされたくない僕は、そう思うことにした。視線の先にあった売店で、おにぎりと烏龍茶を購入する。実は、朝起きてから何も口にしていなかった。万が一飛行機に間に合わなかったら、と思うと、ものを食べている余裕がなかったのだ。ロビーのソファに腰掛け、むさぼるようにおにぎりを食う。横の中年のサラリーマンが怪訝そうにこちらを見ているが、気にしない。こういう時に食べるおにぎりは、格別にうまいのだ。僕は辛味の効いた明太子にかじりつきながら、至福の一時を味わった。


 羽田空港の出発ロビーは、帰省客で混んでいた。例年のラッシュ日を避け早めに日程を詰めたのだが、どうやら無意味だったようだ。このぶんだと飛行機のなかも窮屈だろう。カイロ代わりに両手を暖めていた烏龍茶のペットボトルを開け、口へ運ぶ。余裕をもって到着したのは良かったが、僕はこういった余分な時間があまり好きではなかった。なにかをしていないと、身体や気持ちがムズムズしてしかたがない。暇つぶしに新聞でも買おうかと思ったが、家族連れが通路をふさいでいるのでやめた。荷物と子供の数からけっこうな大家族のようだが、こちらとしては甚だ迷惑だ。ダウンのポケットをあさった僕は、ウォークマンを家に忘れてきたことを後悔した。


 淡々とここまで来たが、あっちに行った後どうするかは決めていない。帰りの航空券は一応あるものの、その便に乗るかは定かではなかった。僕はある覚悟をきめていた。他人が聞いたらあきれてしまいそうな決断を、僕は今実行している。一息ついて、ソファから立ち上がった。アナウンスが僕の乗る便への搭乗をうながしたのだ。


 あの夜で、僕たちの恋は終わった。でもそれに代わるもっと大切な気持ちを、君も今、きっと感じ取っているはずだ。


     *


 どこを歩いているのか、私はよくわからなかった。おそらくちゃんと駅への道を歩いているはずだが、気持ちの焦点があわないせいか視界までぼやけて見える。コツ、コツと響くブーツの音が、なぜかひどく虚しい旋律に聞こえた。


 部屋を出るとき、彼は私の背中に


「じゃあな。」


と声をかけてくれた。でも、私は


「うん。」


って言うのがせいいっぱいで、ろくに彼の方も見れなかった。彼を安心させたくて、もっと平気そうな、強がった態度をとろうと思ったのに、結局できなかった。私はダメな女だ。足を止め、彼のアパートのほうへ振り返る。部屋の電気はすでに消えていた。もう、終わったのだ。頬に残った乾きかけの涙の跡を手で拭った。今日までは、彼にありのままを告白できたらどんなに楽だろう、と考えていた。自分に整理をつけ、横浜から去る。新しい世界へ向かう流れに、身をゆだねることができる。良いことづくめだと思っていた。でも、違った。彼を選ぶ私と、夢を選ぶ私。ふたりの私は交錯することなく、この身体を引き裂かんばかりに争いをはじめていた。いったい何が正しいのか、自分でもよくわからない。混乱の空間に満たされた自我を背負って、私は今立っていた。


 私は・・・・・・


悔しくてうつむく。彼は私を理解してくれた。なのに、私はこうして今も迷っている。言いだしっぺなのに、何もできないでいる。引き返して、もう一回いつものように彼の胸に飛び込めば、また始まる気がして、そんな一抹の期待に、後ろ髪を引かれている。いや、きっと今日までの日々が「記憶」にしまわれてしまうのが怖いのだ、私は。だが所詮私は臆病者。どっちかに傾くこともなく、震える手を出しかねている臆病な女・・・


 サァ・・・


なんだろう。誰かが私の頬に手をあてている気がする。


 サァ・・・サァ・・・


雪だ。粉雪が、横浜に降ってきた。おそらく初雪であろう。私は手のひらを広げ、その上に落ちてきた雪が溶けていく様をしばらく見つめた。私のなかでカチカチになっていたモノも、一緒に溶けていく気がした。


 歩こう・・・


ふと、そう言われた気がした。私は歩きだした。もう彼の方は振り返らない。私は気づいたのだ。彼は私を理解してくれたと、そう認識できた私自身が、無意識に彼を理解していたことに。私を待っているのは、新しい世界。私の望んだ世界。でも私は、もうひとりぼっちじゃない。そう、もうひとりぼっちじゃない。


 結局、その日以降私が彼の家に行くことはなかった。私は、私自身の望む新しい場所へ、旅立った。


     *


 恋じゃない何かが僕を突き動かす。なんだろう。


     *


 スケートリンクのように滑りやすくなった歩道を、私は歩いている。深夜に一層強く降った雪を朝方に人々が踏んでいった結果、徐々に陽に溶かされた雪が路面を凍らせていた。林檎のように赤くなった頬と鼻は、もはや私にとって冬の風物詩となりつつある。寒いのは嫌いだけど、厚着した人々を見るのは好きだ。白い息を吐きながら、私は信号が点滅する交差点を急いで渡った。


 歩道にもスプリンクラーがあったらいいのに・・・


転ばないようにと下へと向けていた視線を上にやる。ピントがぶれるその先に、ぽつりぽつりと赤い灯火が確認できる。今度はなるべく歩いて渡りたいものだ。運動音痴というのは、こういうとき憂鬱である。手袋しているのも忘れて手のひらをこすりながら、私は歩く。そういえば、こちらに引っ越してきた日の朝も、あっちの路面は今日のように凍っていて滑りやすかった。そして気づいた、ここで冬をすごすのは今年が初めてだ、と。

 

 歩きながら少し周りに目をやる。車通りの少ない道路を、子供達が雪を投げながら走り回っている。それを横目に雪かきに専念するおじさん。今日はクリスマスイヴだ。きっと子供達はサンタさんのことを考えてうきうきしているのだろう。この街は人口こそ横浜より少ないが、活気に満ちた素晴らしい街だ、と私はつくづく思う。クリスマスに賑わう通りには、イルミネーションの装飾された街路樹たち。きっとあの人なら、プラネタリウムのように美しい、って言ったりするんだろう。

 空にはまだ雲がのしかかっている。


     *


 札幌駅北口広場は、粉雪でにぎわっていた。掲示板の天気予報によると、当分は降ったり止んだりが続くらしい。


 しかし、・・・・・・寒い。


寒がりの僕じゃなくても、多分そう思うだろう。横浜からここまで暖房を浴び続けてきたのだから、なおさらだ。


 さて、・・・着いたには着いたが。


これからどうするか。ホテルのチェックインまではまだ時間があるから、荷物を置くこともできない。半ばいてもたってもいられず横浜を飛び出した僕は、実はここに来て何をするかちゃんと決めていなかった。君に自分の気持ちを伝えに来たのか、ただ君のいる街を見に来たのか、それすらもよくわからない。ただ胸にひとつの覚悟を抱えて、ここまでやって来たのだ。とにかく寒さをしのごうと、発見したドトール・コーヒーへ逃げ込む。席はパラパラと空いていた。


「あの、ブレンドコーヒーのSを・・・・・・」


 サァ・・・


ふと誰かに呼ばれた気がしてふり返る。ちょうど僕と入れ違いに女性客が店を出るところだった。


・・・・・・・・・・・・


その髪、


その背中、


その面影。


・・・・・・僕の胸が、ぎゅぅ、と締めつけられた。あの日の後ろ姿が急激に視界にフィードバックする。そしてそれは、今自分が目の当たりにしているものと、まごうことなく一致した。


その瞬間に、僕は悟った。自分が何故ここに来たのか。何故、いまさら君を追いかけてきたのか。


これは恋じゃない。あの日の続きじゃ、ない。


「あ・・・」


思わず君のほうに身体をよじる僕。君の背中が自動ドアの向こうにかすみそうになる。


手をのばし、


足をのばし、


再び全身に感じる、刺すような冷気をはねのけて、


僕は、ぼくは、ボクハ・・・




キミガヒツヨウナンダ





     *


 あの日、僕らは一年ぶりに再会した。君がたどりついた結論に気づくのに、僕は一年余計にかかってしまった。君の「旅立ち」は、僕への「愛」だった。君は、自分がしっかり夢をかなえることが、それを理解し、応援してくれた僕に対する「愛」だと思った。君は僕を、愛してくれていた。でも僕は、君がそうして頑張ることによって、僕を忘れてしまうことに恐怖した。なにもわかっていなくて、君を追いかけた。僕にも君が必要だった。そして確信した。僕の「君への愛」は、君を応援すること。君のそばにいて、君が困ったときは一緒に解決策を練って、君が笑ったら僕も笑って、君が泣いたらその悲しみを分かちあう、そうやって君を応援することが、僕から君への「愛」だと。僕は、君に愛されているだけでは満足できなかった。


 今、僕らは愛しあっている。あの日から数年が経った今日も、窓の外では楽しそうに雪たちが踊っている。そして僕は、彼らを眺めるたびにこう思うのだ。


 白く、


一粒のそれは小さく、弱く、頬の上ですぐ溶けてしまうほどかよわいのに、


街をふんわり包み込む君たちは、どうしてこうも美しいのだろう。




ご購読ありがとうございました。つたない文章でございますが、読者の皆様が「なんとなくあったかく」なっていただければ僕の本望でございます。

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