前編
関西国際空港に一人の女がいた。
彼女は恋人が長い出張から帰るのを出迎えに来たのだが、その顔に喜びはない。
一刻も早くここから立ち去りたい。そんな表情だった。
恋人の乗った飛行機が滑走路を進み、その速度を落としていく。
そこに至ってなお、彼女に明るさが浮かぶことはなかった。
飛行機と空港が接続され、ゲートから人がわらわらと出てきた。彼女が恋人の姿を見つけるより早く、恋人の方が先に彼女を見つけた。
「おーい!ここやここや!」
大きく手を振りながら彼が呼ぶと、彼女はびくっと身を震わせ、慌てて彼の許に駆け寄った。
「久しぶりやな!俺がおらん間、浮気なんかせえへんかったか?」
「そんなんしてへんよ。いいから早よ行こ。」
豪快に冗談を飛ばす彼とは対照的に、彼女は辺りをキョロキョロとしながら焦るように言った。
「何や何や久しぶりの再会やのに。もうちょっと愛想良くしてや。」
彼が不満そうに言うと、彼女は訝しむような表情を浮かべた。
「え…、もしかして、一昨日送ったうちのメール読んでないの?」
「メール?一昨日…、いや、そんなん来てないで?」
「そんな……。分かった。とにかく黙ってはよ帰ろ。」
「……?お、おお、せやな。」
彼女の様子に不穏なものを感じた彼は、素直に従うことにした。
とはいえ、どことなく悪くなった空気のまま帰るのも、彼にとっては辛いことだ。
その時彼が冗談を言って場を和ませようとしたのも、ある意味では当然のことだった。
「あー…、まあアレやな。俺らの住まいに帰るんやから、スマイルスマイル!なんちゃって。」
瞬間。
彼女の顔が青ざめる。
けたたましくサイレンが鳴り、真っ赤なパトランプが回転する。
どこから現れたのか、軍服を着た人間達が彼を取り囲んだ。
皆その手に銃を握っている。
周りにいた人間は、ある者は目を逸らし、ある者は憐みの表情で彼を見ていた。
状況が呑み込めない彼は、恋人の名前を叫んだ。
しかし彼女は、空港の出口に向かって逃げ去っていた。
それが、彼が見た彼女の最後の姿だった。
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矢田零士は関西のある街を歩いていた。
東京から訪れた彼がイメージしていたその街は、活気にあふれ、人々は冗談を言い合い、笑いで満たされているはずだった。
だが実際はそれとは正反対だった。
人々は声を潜め、探るような目線でお互いを見ている。
時折聞こえてくる会話は、無駄を一切省いた事務的なものだった。
「(まあ、関西人がみんな冗談とかダジャレを言っているわけでもないか。)」
矢田は一人で納得しようとしたが、それでも街は異様だった。
誰か一人ぐらいはそんな人間がいてもいいはずだが、全くもって皆無なのだ。
その異様な雰囲気に寒気を覚えた矢田は、さっさと用事を済ませて東京に帰ることにした。
矢田零士は、正義感の強い男である。
昔プレイしたゲームの影響で、警察になるのが夢だった。
それは西部劇を舞台にしたゲームで、主人公は銀行強盗や殺し屋をその手に持った銃で華麗に倒すものだった。
その姿に惚れ込んだ矢田は、いつしか自分もこうなりたいと思うようになっていた。
しかし、ちょっとした書類の手違いという運の悪さで、その夢は叶わなかった。
次の警察官募集までの繋ぎのつもりで入った警備会社が、彼にとっての天職となった。
セキュリティ商品の企画課に配属された彼は、次々と画期的な製品を提案した。
結果的に誰かを守ることに繋がっていることにやりがいを感じた彼は、いつしか警察への憧れを捨てていた。
矢田は今日、同じセキュリティでも、情報セキュリティに関する製品のプレゼンに行くところだった。
しかし、土地勘のない彼には、目的の場所が分からない。
横断歩道で信号を待っている間に、初老の男性に尋ねた。
「あの、すみません。この住所ってどこですか?」
「ん?ああ、これならすぐそこや。この道をバーッと行って、そこでガーッと曲がったら目の前や。」
「はぁ、ありがとうございます。」
分かるような分からないような道案内を受けた矢田は、とにかくその方向へ歩くことにした。
「兄ちゃん、関東の人か?」
礼を言って背中を向けようとした矢田に、初老の男性が小さな声で言った。
「ええ、そうですが。やっぱりこちらでは東京の人間は珍しいですか?」
「いや…、そういうわけやない。そうか、東京の人か。気を付けや。」
「……?」
矢田は何に気を付けるのか尋ねようとしたが、男性は小さく首を振ると足早に去っていった。
一人残された矢田は、言い知れぬ不安を覚えながら、教えてもらった道へと向かった。
バーッと行って―――正確には二区画進んで―――、そこでガーッと曲がったら―――正確には左に曲がったところに―――目的の場所はあった。
この街の不気味な雰囲気を恐れていた矢田の歩みが、自然と早くなる。
そんな彼の前に、風に吹かれて一枚の紙が飛んできた。
何か文字が書かれているようだが、小さな文字だったので読めない。
彼は半ば無意識に拾い、そこに書かれていた文字を口に出して読んでいた。
「『フォントがフォントうに(本当に)小さくて読めない』……?」
その瞬間、矢田が文章の意味を理解するより早く、街が赤く染まる。
「逃げろ!!」
先ほどの初老の男性が遠くで叫んだ。
矢田は考えるより先に走り出していた。
走りながら後ろを振り返ると、軍服を着て銃を持った男が数人追いかけてきていた。
土地勘のない彼が追い付かれるのは、時間の問題だった。
「こっちや!早く!」
狭い路地から声が聞こえる。
見ると、いつの間に先回りしたのか、初老の男性がそこにいた。
他に選択肢はない。矢田は彼に従った。
ついて行った先は、一見するとただの壁だった。
矢田の頭に一瞬『騙された』という言葉が去来したが、すぐに考えを改めた。
男性が壁を不思議なリズムで叩くと、そこはドアになった。
「ここや。はよ入り。」
足音が近づいてくる。
矢田と男性は、転がり込むようにしてドアに入った。
軍服の男たちが追い付いた頃には、そこにはただの壁があるのみだった。