5.アンナ
「おはよう! セリ! 今日も寒いわね」
明るい声が聞こえてセリが笑顔で振り返った。目の前にはそばかすが散った頬を赤くしたアンナが立っている。
「おはよう!」
セリが配達屋に復帰してから数週間。セリは学院での勉強の後に自宅での行儀見習いをし、休日は朝早くから配達員と忙しい日々を送っていた。
配達屋に復帰する事を伝えたマリアは大喜びで沢山の手紙を任せた。配達先で会う人々も嬉しそうにセリに話し掛けてくれる。勿論、レオナールに指摘された場所も配達途中に確認した。路地の奥にあった建物が道を塞ぐように横にせり出している。すぐ先が別の路地と繋がっていたのに……貴重な通り道が一本無くなってしまった。
他にもいくつか変わった点がある。
「お貴族様の道楽かしら? 暢気なもんね」
「シッ。聞こえるわよ」
棘のある言葉が耳に入りそちらに目をやると、配達屋の同僚が二人サッと目を逸らしたところだった。
道の変化を知らずにいた事よりも驚いたのが同僚達の変化だった。挨拶をしても以前のような気楽な挨拶は返ってこない。代わりに、チラチラと自分を見る視線や声を潜めた話し声が聞こえてくるようになった。
「大丈夫? あの……セリ、気にしない方がいいわ。やっかみだから」
知らず知らずに溜息を落としていたセリに、アンナが声をかけた。
「そうよ。セリの事を大金持ちの貴族の生き別れの娘だと思ってるの」
「はぁ……」
あながち間違ってはいないが、それでやっかむとは何なのかセリには分からない。セリの環境は変わったけれど、セリ自身は変わっていないのだ。
「……あの人達は好きで働いているんじゃないから……」
(つまり、もう金銭的にも働く必要が無いのに戻ってきたから不満なのか……)
「あたしは辞めたくて辞めたわけじゃないけど……なんだかうまくいかないものね」
もしかしたら、彼女達はセリを見下していたのかもしれない。就労年齢になってすぐに働き出したセリは見るからに貧相な体つきをしており、売れ残りのパンを持ち歩いてお昼にしていた。彼女達はそんなセリを哀れみつつ、そこまで貧しくはない自分の生活に少しばかりの優越感を持っていたのではないだろうか……アンナはそう考えていたが、セリには言わないでおいた。
アンナも通った道だ。中流階級出身でそれなりに裕福な家庭に育ったアンナをここ(ことり)で温かく迎えてくれた人間は少ない。あからさまな事はしないが、父の事業がうまく行かず下級層地域で働かざるを得なかった事をこんな風に陰口を叩かれていた事を思い出した。
アンナも決して今の自分の状況に満足しているわけではない。だが、自分を温かく迎えてくれ、あれこれ親切に教えてくれたセリを羨ましいと思いはすれど、妬む気にはなれなかった。
「行きましょ。今日も張り切っていっぱい配達しなきゃ」
「アンナは最近頑張ってるね。もうすぐうちの一番の稼ぎ頭になるよ。セリもおちおちしてらんないね。勿論、あんた達もだよ! 喋ってる暇があるなら配達に行きな!」
マリアがやって来て入り口でグズグズしている配達員を蹴散らした。
「ありがと、マリア」
「あんたのためじゃないよ。ホラホラ、遅くなってうちの評判落とさないどくれ!」
「はいはーい」
外の空気がひんやりと頬を撫でた。空には雲が重く垂れ込めているが、風は乾いている。雪が降っても水分の少ない粉雪だろう。周りの配達員が天候を気にしてフードのついた重いマントを手にしたのを横目に街へと飛び出そうとした。
「セリ!」
「あ、アンナ。アンナもこっち?」
「ううん。あのね、お昼の休憩、広場で一緒にしない? 配達のコツをまた教えて欲しいの」
セリが頷くと、アンナも重いマントを羽織って反対方向に駆け出した。『ことり』に戻ったのは、マリアや店が気になったのも大きいが、アンナが居れば大丈夫かもしれない……セリはなんだか嬉しくなった。
* * *
「ごめんね。セリ、待った?」
「あっ。アンナ! お疲れ様。あれっ鞄軽そうね。配達終わったの?」
息を切らせて駆けてきたアンナの鞄はぺたんこだ。
「うん。少しでもセリから色々教わりたくて。セリももう終わってるでしょう?」
「うん。今日の配達分はこれだけらしいし、じゃあご飯食べたらゆっくり街を回る?」
アンナは並んで噴水の縁に座ると、手にした揚げパンにかぶりついた。どうやらセリの元に来る前に買っていたらしい。
「セリは何を……あら? パンだけ?」
「そうだよ。どうして?」
「うーん……。だってセリのお家、専属の料理人さんも居るんでしょう? もっと豪華なお昼を持って来てるのかと……」
そう訊ねられてセリは困ったように眉尻を下げた。セリが手にしているパンは、以前のような硬いバゲットでは無いが、胡桃がはいった丸い小さなパンだった。
「うーん……実は作るって聞かなかったんだけどね。あたしもドイルおじさんのパンが恋しくなっちゃって……あたしが配達屋に行く日は、お昼お休みしててって言ったの」
「えー。勿体無い」
「エヴラールの豪華な料理にまだ慣れなくて……それに! ドイルおじさんのパン、本当に美味しいのよ?」
「はいはい」
セリは本当に美味しそうにパンを食べている。残り物のパンじゃないだけマシか、とアンナは自分の食事に戻った。
「アンナ、聞きたい事って何?」
セリの言葉に、アンナが自分の鞄からノートを出すとページをめくった。そこには通りの名前と路地の目印が書いてある。
「この前、路地の入り口に目印を見つけるといいって教えてくれたでしょう? 私それでだいぶ早く配達が出来るようになったのよ。不思議と目印を覚えると、奥でどの路地と交わるのかも分かるのね」
「そうよ! 凄い! もう覚えたのね、アンナ」
セリが素直にそう褒めると、アンナは照れくさそうにはにかんだ。
「でも、まだまだだわ。セリがまた配達をするようになってからは本当にセリって凄いんだって思う。実は、配達が滞る事があったのよ。マリアさんが上手にさばいてくれて、急ぎのを先に配達してたから、なんとかやりくりできてるけど……」
「えっ? そうなの?」
そんな事、マリアは一言も言わなかった……マリアの心遣いだろうが、セリはなんだか寂しい気がした。同時にいきなり配達屋を辞める事になり、店を混乱させたのは自分だという思いもあった。
「そうなの。だから私、セリに配達のコツをもっと教えてもらおうと思って」
その言葉にセリは少し首を傾げて考えた。
「そっか……うん、分かったわ。とっておきの秘密よ。でも、この街はよく変わるからこの事は誰にも教えないで欲しいの」
「ありがとう! 絶対誰にも言わないわ! 約束する!」
二人はそう約束を交わすと、元気よく立ち上がった。
「青い布と赤い布?」
「そう。あたしがつけた印なの。ドアノッカーに空き家の目印の布を結んだのよ。青い布は建物の反対側の路地に抜ける近道なの。赤い布は隠し部屋なんかがある建物なんだけど……配達の時は大抵、取りぬけできる青い布を目印にして別の路地へと素早く抜けてたのよ」
「ええっ、私全然布の存在に気付かなかったわ。どこにあるの?」
アンナはキョロキョロと辺りを見渡すが、布が結ばれているドアなど見当たらない。
セリが配達屋を離れていた間の変化とは、布の存在もあった。青い布も赤い布も極端に減っているのだ。下級層地域に住人が増えたのだろうか? 確かに人の出入りの激しい街ではあるが、こんなに急に住人が増える等、セリは不思議でならなかった。
「うーん……確かに最近減ってるのよね。急にこの辺りの住人が増えたのかしら……あ!」
ブツブツと呟くセリの目に、色褪せてはいるが確かに青い布が見えた。
「ほら、これよ。青い布」
布は細く切った物で、あまり目立たないようにドアノッカーの端にきゅっと結ばれている。あまり目立ってしまっては他の住人の関心を惹いてしまうためだ。
「あっ。本当」
「入ってみよう」
戸惑うアンナがセリの後ろから建物の中に入ると、中は薄暗く、建物の中だというのに空気が冷たい。室内の暗さに目が慣れ、辺りを見ると部屋の奥に数段の階段があり、入り口に較べると一回り小さなドアがあった。
「あっ! セリ、ドアがあったわ。通り抜け出来るのね?」
「そうよ。開けて、どの路地に出るのか確認してみて」
セリに促されてアンナがドアを開けると、そこは見知った路地だった。
「なるほど……ここに出るのね。確かに布のドアを上手に使うと時間短縮になるわ! セリ、ありがとう!」
「どういたしまして。街から目印の布が減っているのが気になるけれど……それでも一日に配達できる手紙の量はだいぶ変わるわよ」
セリの言葉に、アンナは嬉しそうに頷いた。
次の日からアンナの配達量が多くなり、セリが学院で配達屋を休む日でも未配達の手紙が残る事は少なくなった。セリに教えてもらった路地の入り口の目印、そして青い布はとても便利なものだった。幼い弟は、自分が通っていたような学校に通うお金が無い。アンナは学校で読み書きを教えてもらった為に父の事業失敗の後でもこうして仕事を見つける事が出来たのだが、弟にはそれすら難しいのだ。それを両親も気にしている。アンナは可愛い弟の為に、学校に通う資金を集めたかったのだ。
この日も寒い中フードを目深に被り張り切って路地を走るアンナの目に、真新しい青い布が目に入った。よく目立つ大きな布は窓の格子に結ばれ、冬の冷たい風にはためいている。
アンナは躊躇わずにそのドアを開けた。
その日の夜遅く、珍しく慌てたマリアがシュヴァリエ家を訪ねて来た。驚いたセリがマリアに何事か尋ねると、マリアはセリの手を大きな手で包み込んだ。セリはこの時マリアの手が少し震えている事に気が付いた。
「アンナが消えちまった――」




