3.ライバル出現
「おはよう!」
セリが元気のいい挨拶をしながら教室に入ると、一瞬室内はシンと静まり返った。
少しして「お、おはよう」「おはよう、セリーヌ」と遠慮がちな挨拶が返ってきたが、彼らはすぐに声を潜めてお互いの会話に戻っていった。
セリは少し肩を竦めると、もはや定番となった窓際の前の席に向かった。
教室は半円のすり鉢状になっており、大きな階段に机が付いたような作りになっている。
教授を見下ろすような部屋の作りに初めは驚いたが、手元がよく見えるのが利点だろう。学院内にこのような教室は大小様々あるが、大体の作りはこれと同じだ。セリはその中でも明るくてよく見える窓際の前から三番目の席にいつも座っていた。
せっかく専門分野が学べる場だというのに、前の席は人気が無く、大抵は後ろから埋まっていく。だからセリのお気に入りの席も、他の生徒に取られるという事は無かった。もっとも、セリが好んで座る席は、また別の意味で人が寄らないのだが……。
「おはよう、セリ」
「セリちゃん、おっはよー」
「おはようございます。セリ」
現れたのは勿論、アレクシスとエリオットである。ちなみに教室内の静けさは先程の比ではない。学院が始まって一ヶ月以上……他の生徒はまだ彼らの存在に慣れていないようである。だが、それも仕方のない事なのかもしれない。
「おはようございます。アレクにエリ。そして……クリス」
そう、なぜかクリストフ殿下もセリ達と同じグループに加わってきたのだ。
おかしなもので、生徒全員が同じような目標を持っていたとしても数人ずつ小さなコミュニティを作るらしい。大勢と均等に付き合うのよりも数人と親しく付き合う方が楽なのか……セリはこのような大きなコミュニティに属するのは始めてだったので、よく分からなかった。配達屋でセリがアンナと仲が良かったのもそういう事なのだろうか……同い年というのも大きかったのかもしれないな……そう考えていたのだが、なぜかやたらとクリストフ殿下に話し掛けられるようになったのだ。
殿下も、双子のアレクと親しいセリが気になったのだろうか。そしてそれを皆が遠巻きに見ていた。
殿下という立場ではあるし、学院もそれなりに気は使っているが学友同士に主従関係は無い。むしろ、今後の国を担う若者達の集まりである。殿下もそのつもりで人づてにではなく、個々を知り国の力を磐石な物にしたいとの考えがあるもかもしれない。つまり、学院内では無礼講。変に畏まったりせず、友人関係を築いてもいいのだ。が、そうは言っても長年雲の上の人だった人物だ。そうも簡単に親しくなど出来ないのだろう。それはセリも同じはずだった。
チラリとクリストフに視線をやると、彼は穏やかに微笑んで見せた。
すんなりと受け入れてしまった理由は、やはりこの見た目だろうな、と思う。アレクシスにそっくりなのだ。
「どうした? 私の顔になにかついているかい?」
「いいえ……」
クリストフと話していると、より一層周りからの視線を感じる。とくに一角からジリジリと焦げそうな視線を投げかけてくるのは……アナベル・バシュレ。背中に波打つ豊かな赤毛と勝気に釣りあがる茶色の瞳。それが鋭くこちらに向いているのが分かる。その横でヒソヒソと話しているのはサロメ・ラシュレーとロクサーヌ・ビゼーだ。
サロメはラングドンの有力貴族ラシュレー侯爵の娘、ロクサーヌは北のディヴィングのビゼー侯爵の娘。共に数年前に成人を迎え、クリストフのお妃候補になっていると聞いたが……なぜか恋敵同士で群れている。バシュレ公の領地があるラングドンのサロメならまだしも、北のディヴィングのロクサーヌまでがなぜ……とも思うが、どこかのコミュニティに属していないと不安もあるのだろう。見ていると、学院内とはいえ平民の生徒とは馴れる気はないようだ。
ともなるとこのクラスの他の生徒はやりにくくて仕方がないのではないかと思うが、そこは学院も慣れたものだ。ちゃんと全体の面倒を見てくれそうな年長者をクラスに配置してくれている。このクラスはそれがサジというのも面白い偶然だが……。
二十六歳のサジはとても面倒見が良く、平民も貴族も関係なくまとめてくれる。今も平民のグループと楽しく雑談している。サジがまさか学院入学を目指して門番の仕事をしているとは知らず、セリはとても驚いたのだ。
セリの視線に気がついてサジが近づいて来た。サジはクラスのまとめ役というのもあってか、門番だった頃貴族と接した経験もあった為か、殿下が相手でも比較的構えない。
「なんだ? セリちゃん、何でニヤニヤ笑ってる?」
「ニヤニヤだなんて失礼な。サジがまさか学院入学の為に働いてたなんてなぁーって思ってたのよ」
「あぁ、うち、商売やってっからな」
照れくさそうに鼻の頭を掻く仕草に、セリは好感を持った。
そこに珍しく、別の人物が近づいて来た。
「セリーヌ・シュヴァイン。話がある」
見上げると、そこにはクラスメイトのレオナール・ボランが立っていた。
目が細く唇が薄い彼はいつもきっちりとグレーの髪を撫でつけ、富裕層のグループに属している。
神経質なのだろうか、はらりと落ちた一筋の髪を指でさっと直すと、もう一度セリに向かって「セリーヌ・シュヴァイン。話がある」と言った。
それにセリは「はいはい」と素直に立ち上がる程、彼を知らない。首を傾げていると、レオナールは焦れたように声が大きくなった。
「セリーヌ・シュヴァイン。聞いているのか!」
「聞いているけど、何の用か検討が付かないんだもの。今までロクに話した事ないのに、突然なあに? クリストフ殿下や、アレクシス殿下とお知り合いになりたいなら、直接話し掛ければいいのに」
セリもさすがに人前では愛称で呼ぶのは避けている。
するとレオナールは少し顔を赤らめた。
「ち、違う! 私は……殿下とは学院に入学する前からお目にかかっている! 失礼な事を言うな!」
「そうなの?」
セリの問いに、アレクシスが肩を竦めた。
「私はともかく、クリストフは知っているのではないかな」
「ああ。この国一番の地図屋、『世界堂』の跡取り息子だ。そういえば、今年から入学だったか」
その言葉に誰よりも驚いたのはセリだった。
「えっ! レオナールって『世界堂』の跡継ぎなの!?」
「知らなかったのか。どこまでも失敬だな君は。ボラン家といえば、『世界堂』と広く知られている事だぞ」
不健康そうな薄い胸を反らせ自慢げに言う。セリにとって『世界堂』は、確かに憧れの店だ。だからといってその『世界堂』のレオナールが一体何の用だと言うのか、セリには心当たりが無かった。
「そうなの……知らなかったわ。私の憧れの店よ! 私じゃ買えなくて、遠くから店を見るのが精一杯だったの。――でも、そのレオナールが私に一体何の話があるの?」
「君は、『世界堂』に大変な恥をかかせた」
「は?」
何の事かさっぱり分からず、セリは呆けた返事をするだけだった。
その様子をアレクシスとエリオットは面白そうに見ている。
「私が? そんな事していないわ」
「いいや。したね。君はこの間の休日、とある紳士の道案内をしただろう」
それには心当たりがある。あの後帰ったらグレゴワールが居り、伯父の訪問をすっかり忘れていたセリは許す代わりにドレスを沢山作ろうと言われ、後からやって来た仕立て屋に散々な目に合わされたのだ。忘れるわけがない。
「たまたま道で声を掛けられたのよ。招待状の住所だけじゃ分からないんだって言われて。それがどうかした?」
「彼は、『世界堂』の常連のお客様だったんだ! 勿論、あの日も訪問先の地図を『世界堂』が用意した! だが、店の用意した地図では辿り着けず、シュヴァリエ家のお嬢さんが案内してくれた、と後から地図を持って来て説明してくださったんだ」
レオナールは後手に持っていた『世界堂』の地図を差し出すと、セリの目の前に突き出した。
該当のページには、セリの手で書き足された線がいくつも入っている。
「こんなに沢山、『世界堂』が知らない道があるはずないじゃないか! 君はたまたまその場所を知っていたんだろう。こんな風に適当に線を書き足して『世界堂』の評判を落とすような事をするなんて! 彼は『新しい地図を買ったつもりだったんだが、古かったのかい?』とまで仰って……。父は大変な恥をかいたんだぞ!」
「おかしな事言わないでちょうだい。私の書いた線は全部本物よ。そんな風に言うならレオナール、あなたが実際にそれを持って行って調べてみたらいいじゃないの」
ただでさえアレクシスやクリストフ、エリオットと一緒に居る事が多いセリは、入学から変に目立っていた。その為、他ではなるべく大人しく真面目に勉学に励もうと思っていたのだが、配達屋をしながら収集してきた情報が嘘のように言われるのは我慢がならない。
「あの人はとても喜んでくれたわ。帰り道迷いそうだって言うから、正しい線を書いたのよ。それで『世界堂』まで辿り着けたんなら、間違ってないって証拠じゃないの!」
その声は教室中に響き渡り、全員がしんと静まり返った。サロメ達もヒソヒソ話を止めてセリとレオナールのやり取りを見ている。
その様子にレオナールは更に顔を赤くし、悔しげに唇を噛み締めた。
「聞けば、地図屋を開きたいって言うじゃないか。いいか、私は絶対君には負けないからな! いつか『世界堂』に恥をかかせた事を後悔させてやる!」
大人しく真面目に勉強したいだけだったのに――アレクシス達の出現で否応なしに人々の目に触れるようになってしまった学院生活に、今度は地図屋のライバルが現れた。




