24.新しい生活
だが、それ以来二人の姿を見る事は無かった。
公爵家は驚く程広く、周りには常に人が居る。最初の日こそセリの格好を見て眉を顰めていた担当のメイドも、それでもセリに尽くしてくれる。問題なのは、なぜか彼女はセリを飾り立てようと躍起になっており、セリはそれから逃げるのに必死だった。
「こんにちはっ!」
ノックもせずに入って来たセリを、セドリックは諦めたように小さな溜息をついて出迎えた。
「こんにちは。セリーヌ様。今日もお元気そうでなによりでございます」
「えへへへ……こんにちは」
セリは肩からショルダーバッグを外すと、テーブルの上にペンと紙を出した。
メイドのリリアはあまりいい顔をしないが、配達屋で使っていたショルダーバッグは使い勝手が良く、沢山物が入るのがいい。
今では配達物ではなく、こうして勉強道具を入れてビコロール商会に通うのに使っている。
王宮学院の入学試験には、読み書きの問題や一般常識問題が出る。一定の教養が無ければ入れない為、こうしてセドリックがセリの勉強を見ているのだ。
リリアとの追いかけっこの末、まんまと邸を抜け出しては時折ビコロール商会に様子を見に来ていたセリだったが、いつも人気が無く、肩を落として帰る日々が続いていた。
そんな事を繰り返した雪深いある日、ドアの前の雪かきがされており、人が居る事に驚いてノックをしたら出迎えてくれたのはセドリックだった。
「ごめんなさい……。あの、ひゅ、ヒューガルドが……」
顔を見るなり泣き出したセリを優しく迎えたセドリックは、すぐに暖かい部屋に通しただただセリが泣き止むのを辛抱強く待っていた。
「セリーヌお嬢さまは、長く公爵家から離れておいででしたから、お分かりにならないかもしれませんが……」
少し困ったように話し出したのは、ヒューガルドはアレクシスとエリオット、そしてセリを守る事が出来て良かったと思っているだろうと、彼を誇りに思っているという内容だった。
セリには、自分の命を投げ出してでも主人を守るという主従関係は理解出来ない。ヒューガルドにはヒューガルドの人生があり、家族がいた筈だ。ラングドンから帰ってきてからというもの、頭に浮かんでは苦しんできた。
アレクシスもエリオットも、決してヒューガルドの命を軽く考えてはいないだろうが、なにしろ王族と貴族だ。それこそ命を投げ打ってでも二人を助けるという人物は沢山いるだろう。勿論、守られているだけではなく、馬車での格闘を見る限り、二人とも武術の心得はあるのだろう。問題は、セリ自身だ。震え、泣いてばかりいた自分が足手まといになったのではないかという思いが消えないでいた。
「そのような事はございませんよ。セリーヌ様は……例えばアンリが窮地に立っていたらどうされますか? 放っておいてご自分だけ逃げられますか?」
「えっ! 無理だよ! 何ができるか分からないけど、絶対助けに行く!」
「それと同じでございます。ヒューガルドにとって、確かにアレクシス様とエリオット様は主人のような存在でございました。ですが、セリーヌ様の事も、彼は助けたくて身を投げ出したのですよ」
そう言われて、セリは救われた気がしたのだ。
それ以来、時間を見つけてはビコロール商会に足が向くようになってしまったセリを、セドリックはいつも暖かく迎えてくれた。その内セリの勉強を見てくれるようになったのだが、セドリックもアレクシスがおらず暇を持て余していたのかもしれない。
「では先生っ! 本日もよろしくお願いします!」
セドリックはセリの向かいの椅子に座ると、セリ愛用のペンをじっと見詰めた。
「随分彫刻が磨り減っておりますが、ミレーヌ様の物でございますね」
「えっ! セドリック、お母さん……とと、お母様の事、知ってるの?」
「セリーヌ様、本日は少し昔話を致しましょうか」
アレクシスが王宮を離れる事になった時、セドリックもアレクシスについて王宮を出た。
そのきっかけもまた、アドリエンヌがあまりにも王宮に入り浸るようになった為だ。
バシュレ公を疑っていた国王陛下は、息子同士が仲が良かったという事もあり、アレクシスをデュアイン公爵家に預けた。その為、セドリックもまたデュアイン家に身を置く事となった。
元は身体の弱かった先代の奥方用に作られた離れは、そのままアレクシスを匿う邸として使われた。稀に離れに出入りするメイドを訝しく思う客人もいたが、エリオットが身体が弱く、離れで療養していると説明すると誰もが納得した。
大きく、贅沢な造りの離れには専用の庭もあり、剣術の稽古が出来る程広い。それでもやはり好奇心旺盛な少年達は、離れだけでは満足出来なかった。
時折帽子を深く被らせ外に出る事はあっても、セドリックやアンリと一緒では羽目を外す事も出来ない。
そんな二人の唯一の楽しみは、シュヴァリエ家に遊びに行く事だった。
王妃に良く似た容貌のミレーヌではあったが、結婚後は平民として暮らしていた。コルセットもつけないシンプルなドレス姿で、かくれんぼも追いかけっこも一緒にしてくれる気さくなミレーヌ。
夫であるユリウスは王宮学院の教授という事もあり、様々な実験道具や専門書が部屋にあり、それらを使って色々な事を教えてくれた。
そして愛らしい笑顔で二人の視線を独占したセリーヌ。
貴族が教えてくれない事を教えてくれる二人と、覚束無い足取りで二人の後をついてくるセリーヌは、二人にとっては家族も同様の大きな存在だった。
「そのペンは、グレゴワール様がミレーヌ様の王宮学院入学のお祝いに差し上げた物だと聞いております。駆け落ちのように家を出られたミレーヌ様でございましたが、このペンだけは持って行かれたと……。王宮学院はユリウス様と出会われた場所。ミレーヌ様にとっては生まれた家も、学院の思い出も、ユリウス様との出会いも、全てが詰まったペンなのでございましょう」
セリは改めてペンを見た。
「おじさんも、いつもとても大切そうにペンの手入れをしてくれるの。長く遠い仕事に行ってても、帰ってきたらまず手入れをしてくれたのよ。そんな理由があったからなのね」
塩湖で落として錆び付いてしまい、錆びを落とした為に繊細な彫刻は磨り減ってしまった。それでもアンリはセリを責めず、丁寧に手入れをする。
「もっと丁寧に扱えば良かった……」
「それは違います。是非とも使って差し上げてくださいませ。大切にしすぎて仕舞いこんでは、ミレーヌ様が悲しみます。ずっと肌身離さずお持ちだったから磨り減ってしまったのでしょう。ですが、ミレーヌ様はきっとお喜びになると思いますよ」
「これを持って学院に通ったら、もっと喜ぶかしら?」
「ええ、勿論でございます。ご自分が学院でユリウス様に出会われたように、セリーヌ様にも学院で様々な事を経験して欲しいとお思いでございましょう」
それからセリはより一層勉強に力を入れた。ほぼ毎日ビコロール商会に通い、セドリックに勉強を見てもらっていたが、それでもアレクシスとエリオットには会えなかった。
* * *
「おじさん。これで良いかしら?」
新年を迎えたばかりのシュヴァリエ家で、セリは今学院の生徒の照明でもある金のブローチをつけていた。
生徒の年齢は就労年齢の十五歳から三十歳と広い為、制服というものは無い。代わりにメダル型をしたブローチを服の見える場所に付ける事になっている。
メダルには表に王宮学院と刻印があり、裏には学籍番号を生徒の名前が入っていた。それはそのまま王都の門で身分証明として使えるものだ。
『もう少し上が良い』
テオ……もとい、アンリの右頬にはあの時グレゴワールがつけた傷痕がまだ皮膚が引き攣れたように残っていた。
時折シュヴァリエ家を訪れるグレゴワールとの様子から見て、まだ溝は完全には埋まっていないものの、大きな誤解は解けたようだ。
付け直そうと慎重にブローチを外し、セリはメダルの裏に書かれている名前をそっと指でなぞった。
【セリーヌ・シュヴァリエ】
まだ慣れない、自分の本当の名前。
――どんな名でも、自分らしく一生懸命生きよう。メダルを撫でながら、セリはそう心に誓った。




