2.おせっかいな助言
考え込むセリを、青年は辛抱強く待っている、
その時、青年が手にしている本がセリの目に飛び込んできた。結果、勝ったのは警戒心ではなく好奇心だった。
「あの……それって、《世界堂》の地図?」
つい先程まで迷う素振りを見せていたのに、今はもう目を輝かせている。そんなセリのくるくるとよく変わる表情を観察しながら、セリの出方を待っていた青年は驚いたように目を丸くした。
「そうだよ。知っているのかい? 最新版なんだけど、どうもこの辺りは道が複雑で分からなくなってしまったんだ」
「見せてもらってもいいですか?」
「いいよ。どうぞ」
「ありがとう!」
セリは満面の笑みを浮かべて本に飛びついた。丘の頂上近くになる上流階級地区の一角には、一際目立つ大通りがある。
王族のパレードも行われるその大通りは、両側に王族御用達の高級店が立ち並ぶ。その中に、《世界堂》はある。
《世界堂》は、その名の通り世界中の地図を扱う老舗の地図屋だ。独自の情報で作成される《世界堂》の地図は、素晴らしく緻密でどんなに小さな通りも逃さずに書き込まれていると言う。そう噂には聞いていたが、セリは時折ある上流階級地区への配達の折、大きくて立派な店舗と、店から濃紺の装丁の地図本を抱えて出てくる紳士淑女を遠くから眺めるのが精一杯だった。
高鳴る胸を深呼吸で落ち着かせ、セリは青年が栞を挟んだページを慎重にそっと開き……そして固まった。
「何……これ…………」
「何って……君が開いているのは丁度この辺りの地図だよ。でもほら、細い路地が入り組んでいるだろう? 今僕が居るのがどの部分なのかも分からなくなってしまってね。ここはどこだろう?」
「ありません」
「うん?」
「ありませんよ。書かれていないんです。これ、ほんとに最新版ですか?」
「間違いないよ! 急いで作らせ……ええと、出来立てほやほやの本を購入したんだから!」
「エリオット、どういう事だ?」
急に背後から低く静かな声が聞こえ、セリは地図を持ったまま飛び上がった。
「あー……アレクシス。これはそのー……間違いなく最新版なんですけれどもね? ねぇ、君。ほんとにこの地図に無い道があるのですか?」
音も無く現れたもう一人の青年も、エリオットと呼ばれた金髪の青年に負けない程の美貌の持ち主であった。
ただ、長身で黒髪、切れ長の瞳の所為か、エリオットよりも落ち着いた印象だ。その切れ長の瞼から覗く神秘的な紫の瞳は、まっすぐセリを見下ろしている。
『黒髪に紫の瞳の綺麗な男――』
セリは近くの路地で遭遇した男達の言葉を思い出した。
エリオットよりも背が高く、セリよりも頭一つ半程も背の高いアレクシスを、セリは正面から見返した。
「本当よ。この地図に書かれていない道があるわ。書かれているけど、今ではもう行き止まりになっている道だってある。でも、私も今仕事中なの。あの……書き込んでも良ければ、目的の場所までも道を書くわ」
それでいいでしょ? そう続けたセリを、アレクシスは瞬きひとつせずにじっと見詰め、そして頷いた。
「……いいでしょう。私達が捜しているのは、クロード・セドラン男爵の邸宅だ。分かりますか?」
「勿論よ。ここからそう遠くはないけれど、とても分かりにくい場所よ。ちょっと待ってて」
そう言うと、セリは丸く纏めた髪にかんざしのように押し込んでいた愛用のペンを抜き取った。髪にはまだ綺麗に磨かれた棒も突き刺さっており、丸みを保っている。
器用なものだな――アレクシスがそう思いながらセリの手元を見ていると、セリは迷う事なく本に直接路地を何本か書き足した。
「高価なペンを使っていますね」
夢中になって線と文字を書き込んでいると、思いのほか近くからアレクシスの低音が響いた。見上げると、すぐ近くに美しい紫の瞳がある。一瞬心臓が飛び跳ねたが、アレクシスの瞳はセリの手元を見詰めていた。
(あたしが持てるような代物では無いって言いたいの?)
「お言葉ですけど、これは母さんの形見なの。正真正銘、あたしのなんだから」
「いや、そういう意味ではなく……少し見せてもらっても?」
セリが返事をする暇も無く、小さな手からペンがするりと抜き取られる。
改めてペンを見たアレクシスはペンの見事な作りに驚いた。確かに庶民が持つには高価な作りで、定期的にインクが補充されているようだし、手入れも行き届いていた。何より全体に細かな彫刻が施され、貴族でもなかなか持てない代物だった。残念ながらその細工の殆どは、使い込んだ所為だろうか……原型が分からない程にまで磨り減っていた。
「見事な細工ですね。よく手入れもされている。見せてくれてありがとう。これからも大切に使うといい」
「…………どうも」
セリはアレクシスからペンを受け取ると、また髪の中に挿し込んだ。
「なぜ髪に挿しているんだい?」
「便利だから」
愚問だと言わんばかりに目を丸くして即答するセリの榛色の瞳が日の光に照らされて金色に輝き、アレクシスはそれを見て目を細めた。
「珍しい色をしている」
「え?」
「ねぇ、この辺りはさっきも歩いた気がするんだけど……こんな路地あった?」
エリオットは二人の会話に入ろうともせず、セリが書き足して完成させた地図を不思議そうに眺めている。
「すごく細い路地よ。しかも果物屋の看板で大通りからは半分隠れているから見逃してしまいがちなの。この辺りは中流階級も多く住む場所だけど、それでもお貴族様が奥まった場所に邸宅を構えるなんて珍しいから覚えてるもの、間違いないわ」
セリは自信満々にそう言うと、日差しの方向に目をやり、思った以上に長居してしまった事に気が付いた。
珍しい高級な地図本に気をとられていて、今日の残りの配達の存在を忘れていた。
「本当はお代を頂きたいところだけど、配達したわけじゃないし、今日はいいわ。その代わり配達のご用命は《配達屋ことり》をご贔屓に! その時はセリ・エストレを指名してね!」
セリは仕事で使っている布製の大きなショルダーバッグからごそごそと紙切れを出してエリオットに差し出した。そこには《ことり》の地図と店のシンボルとして看板に描かれている鳥の絵が描かれていた。
「商売上手だね。セリ・エストレか……覚えておくよ。ありがとう! セリちゃん」
「それじゃあ……」
立ち去りかけて、セリはのろのろと振り返った。セリにはどうしても先程の怪しげな二人組みの男の言葉が気になっていた。
「お代、渡そうか?」
「ううん、違うの。……とっておきの情報をあげるわ。《世界堂》の地図を見せてくれたお礼よ。さっき言った通り、この辺りにはその地図にも無い小さな路地が沢山あるの。で、それとは別に抜け道もあるのよ」
「抜け道?」
アレクシスとエリオットはセリの口から飛び出した怪しい言葉に眉を顰めた。二人には、セリが何を言いたいのかが分からないのだ。
「そうよ。ここから麓の下層階級地区にかけては空き家も沢山あるの。通り抜けて裏通りに出られる空き家にはドアノッカーに青い布をつけてあるわ。中に隠れ部屋や隠れ地下室がある空き家には赤い布があるの」
「……それをなぜ私達に?」
冷たさを感じる切れ長の目を更に細めてアレクシスは静かに問いかけた。その目は自分を怪しんでいるようにセリには思えた。
「あたししか知らない情報なんだから、誰にも言っちゃ駄目よ!? それじゃあ、あたし仕事中だから!」
セリはそれだけ言うと、横の路地に飛び込んだ。
「ねぇ! 君! セリちゃん!」
慌ててエリオットが路地に入るが、既にそこにはセリの姿は無い。
「いない……。どういう事だろう?」
呟きを落としたエリオットの目に、路地に面したドアがほんの少し開いているのが目に入った。
風にキィキィと耳障りな音を立てる古い木製のドアには、色褪せた青い布が結ばれていた。