16.寂しさを振り切って
二人から快適な寝台を奪い取ったというのに全く眠れず、早々に諦めたセリは明け方近くに寝台から下りてドアに向かった。
ドア近くに作った藁の即席寝台は育ちの良い二人には厳しいだろうと思ったが、二人とも背中を丸めてぐっすり寝入っているようだった。
セリはしばらく二人の寝顔を見詰めていたが、物音を立てないようそっとドアを開け外套を取りに階下に向かった。
セリの気配が遠のくのを感じると、アレクシスは目を開けて起き上がった。そっと寝台に近づくと、馬車の中でずっとセリが抱えて放さなかったバッグに手を伸ばす。中からは塩湖で使った薄い板と、様々な大きさの巾着が入っていた。
自分が縫ったものもあるのか、粗末な布の巾着はいびつな形をしており、中が空の物もある。恐らく干し肉がバゲットを入れていた物だろう。
その中からアレクシスは中身が入っている巾着を次々開けてみた。
一つには銅貨が入っている。銀貨や金貨は一枚も無い。一番価値の低い穴開き銅貨が数枚と、穴無し銅貨が十数枚――それでもセリが一生懸命働いて貯めてきたものだろう。
もう一つには、火打ち石と火打ち金、そして木綿の布に包まれて手作りの松脂蝋燭が数本、更にすすで汚れた小さな缶があった。巾着の中身からして、缶の中には火口が入っているのだろう。
(緊急時の火の用意まで……)
ありとあらゆる状況に備え準備されらそれらは、バッグをずしりと重くしていた。
配達員という仕事は、時には狙われる時もあるだろう。だがセリの荷物の中に武器のような物は無い。地理に長けたセリの事だ。それを武器にし、上手く逃げるのだろうか。
今日のように――そして、初めて会った時に教えてくれた抜け道のように。
セリのバッグの重さが、そのままずしりとアレクシスの心に重く圧し掛かる。
自分達は、何も持っていない。それがどういう事か、改めて考えるとゾッとする。
アレクシスは、生まれて初めて自分を恥ずかしいとさえ思った。
その時、ドアの向こうで階段が軋む音が聞こえ、アレクシスはセリのバッグを元通りにすると藁の寝台に戻り、セリが出て行った時と同じように横になり目を閉じた。
「うぅーん。やっかり慣れない場所で眠ると身体が痛いね。肩が凝っちゃったよー」
一番ぐっすり眠っていたエリオットが大げさに肩を回すと、セリは吹き出しそうになるのを堪え、焼きたてのパンに齧り付いた。
この宿には今まで何度も泊まっているのだが、初めてまともな朝食を頬張っている。これもやはり銀貨の力だろう。薄っぺらいがハムまである朝食は何年振りだろう……セリが感動を噛み締めながら食べている横で、二人は早々に食事を終えて紅茶を飲んでいる。安物の茶葉で淹れた紅茶はほんのり色づいているだけで味気ないが、二人は文句も言わずに優雅にカップを口元に運んでいた。その様子を見ていると、縁が欠けたカップでさえ高級品に見えるのだから不思議だ。
(これから何が起こるかも知らずに優雅だわね……)
なぜそこに考えが及ばないのか、セリには不思議で仕方が無いが、お坊ちゃまというのはこういうものなのかもしれない。そろそろ現実に引き戻す事が必要なようだ。
「あのぅ……食事を終えたら早速出ようと思うんだけど、実は問題があるのよね……」
「問題?」
二人の声が重なる。
「そう……二人は王都の門で外套の刺繍を見せて通ったでしょう? エリの外套……塩湖に置き去りなのよね……」
「あっ!!」
途端にエリオットが目に見えて慌てだした。
「そ、そうだよ! どうしよう!? 僕、王都に戻れないじゃないか!」
「そうね……今回は仕方ないけど、これからはビコロール商会で証明書を作った方がいいわ。こう言っちゃ何だけど、バカ正直に自分の身分を見せて王都を出るのは密偵としてどうかと思うわ。アレクの刺繍はまさか……」
「私のはセドリックの一族の紋章を借りている」
「そっか。じゃあ、帰りもそれでいいわね」
女将に頼んで一般的な男性服を手に入れ二人に無理矢理着せていた。その格好に高価な外套は本来不釣合いなのだが、色も黒で形もシンプルだし汚れを落としたとはいえ、昨日の騒動でかなりよれてしまっていたので悪目立ちはしないだろうと判断した。
「問題はエリよね……。でも仕方ないわ。おじさんのマントには当然刺繍なんて無いもの。後で迎えに来るから、ラングドンで待っててね」
「えっ!?」
「ふむ……まぁ、仕方が無いだろうな。証明書が無くては帰れないし、便宜を図ってもらうにしてもどう説明する? 目立つのは避けたい。エリオット、そうしてくれ」
「え。あの、あの……しかしですね……」
一緒に王都に戻れるとばかり思っていたエリオットは、顔に戸惑いの表情を浮かべた。
「……これは私達の考えの甘さにも問題がある。その責任の一端はお前にもあるんだぞ」
(そしてあなたにも少しは責任があると思うんですがね……)
エリオットはそうアレクシスに言いたいのをぐっと押さえ、何とか頷いた。
「……分かりました。でもここに居るのは危険では?」
「そうなの。実は昨夜遅くに人捜しが訊ねてきたそうよ。女将さんが結婚式の客だけだって答えてくれたけど、確かにここにもう一晩お世話になるのは危険だと思うの。だから今日は、もう一度あの作業小屋の場所を確認してダリルカム村を一緒に出た方がいいと思うわ。王都の南門まで行ったら他の旅人も沢山居るし、宿屋もあるから紛れ込めるわ。門のところに居てもらえればすぐに迎えに行けるし」
「セリちゃん、ほんとにほんとにちゃんとすぐに迎えに来てくれる!?」
エリオットの顔はどんどん情けなくなっていく。
きりりと凛々しく上がる明るい色の眉はしゅんとしたように下がりきり、目を潤ませてセリを見詰めるその眼差しはとてもではないが成人した上流階級のお坊ちゃまとは思えない。
セリは安心させるように、エリオットの肩をポンポンと優しく叩いた。
「だから門のところで待ってもらうんじゃない。翌日朝一番に迎えに行くわ。滞在先で盗難にあって、証明書を失くしたって事にして片道分の通行証をマリアに出してもらうから。勿論、別料金でよろしくね?」
「勿論、それはエリオットに請求してくれ」
「え? え?」
目を白黒させるエリオットに対し、アレクシスは言い聞かせるように応えた。
「だってそうだろう。私は無事戻れるが、君は予定よりもセリを長く拘束する事になるんだし。何より《ことり》に迷惑をかけた上、便宜を図ってもらうんだから追加料金は仕方ないと思わないか?」
「え? は、はぁ……」
「そして、それはお前の為だけにかかる料金だ。違うか?」
「いえ……」
「ならば、お前が払うのが妥当だろう?」
「なるほど」
二人のやり取りを横目に苦笑しながら荷物を確認していたセリがふと手を止めた。
巾着の結び目が変わっている――。
昨日使った時はいつもの結び方で結んだはずだ。中には“火口”が入った缶がある。うっかり中身が飛び出してしまっては炎を大きくするのに苦労するのだ。その為、セリは少し特殊な結び方をしていた。
セリはちらりとアレクシスを見た。その視線に、アレクシスはすぐに気付き外套を手に立ち上がった。
「そろそろ行こうか?」
「はい」
うまく言いくるめられて納得してしまったエリオットは、もういつもののんびりとした笑顔を見せている。
(いつもこんな調子でいいように使われているのかしら……。ま、本人はそれでも納得したんだろうからいいけど……あたしには関係ないわ。この案内が終わったらもう会わないだろうし、あたしはお金さえもらえたらいいんだから……)
自分にそう言い聞かせ、セリも立ち上がってバッグを背に担ぎ宿を出た。
作業小屋を目指していた三人はすぐに異変に気が付いた。
小屋の前だけだった見張りが増えており、小屋に一番近い道にも配置されていた。
その様子にいち早く気付いたアレクシスは道を逸れて近くの小屋の陰に隠れるよう指示した。
「僕達を捜しているんでしょうか?」
「……どうだろう」
「待って。向こうから荷馬車が来るわ」
三人が更に姿勢を低くして草むらに身を伏せると、今来た小道を小さな荷馬車がやって来た。
荷馬車の大きさの割りに繋がれているのは立派な体格の栗毛の馬で、御者が一人腰掛けているだけで荷台には何も乗っていない。
「……もしかして、今から塩を運ぶんじゃないかしら」
荷馬車は男達の前で止まると、作業小屋の方角からいかつい男達が大きな布袋を担ぎ次々と現れ、黙々と荷台に積んでいく。
その様子を三人は小屋の陰で息を潜めながらじっと見ていた。
やがて男達の中でも一際大柄な男が荷と一緒に乗り込み、荷馬車はゆっくりと動き出す。かなり大きな馬だが、それでも重そうだ。
荷馬車はギシギシと音を立てながら三人の目の前を通り過ぎて行った。
しばらくして三人の視界から荷馬車が消えると、時を同じくして見張りの男達も森の中に消えて行った。
「あれは、塩よね」
「多分な。今日が運び出しの日という事は、いつもよりは作業小屋に居る人間が多いかもしれない。これ以上小屋に近づくのは危険だと思う。荷馬車の後を追おう。セリ、この辺りで馬を借りられる場所は?」
「この先にもあるけど、戻った方が早いと思うわ。急ぎましょ」
三人は辺りを確認すると。来た道を急いで戻った。




