10.豹変
旅の行程は順調そのものだった。
手配されていた宿屋は高級で、セリには一部屋与えられたおかげで翌日に疲れを残す事なく軽い足取りで旅を続ける事が出来た。ダリルカムに近づくにつれ更に緑は深まり、段々道は細く険しくなっていったが、運良く冬眠準備の熊に遭遇する事も、金品目当ての盗賊に襲われる事も無く全てが順調だった。
御者のヒューガルドは実直な男であまり羽目を外す事はなかったが、全員の体調や天候を良く見て行動する頼れる男だったし、用心棒のゾイドは明るく話し上手でエリオットと共に旅のムードメーカーになっていた。
いよいよダリルカムに入るという日の午後、更に側道に逸れて少し揺れが激しくなった馬車の中でセリは疑問を口にした。
「あの……村に入るには、馬車ではなく馬に乗り換える必要があると思うんだけど……どこかでその予定はあるんですか?」
セリの言葉に、二人はそろって「え?」と声を上げた。
元よりダリルカムに向かう事は話してある。具体的な場所はセリも実際行ってみない限り何とも言えず濁してはいるが、村の名は出したはずだった。
数日かかる日程、身体に負担がかからないようにと道が広い間だけ、馬車移動なのだと思っていたのだが――。
「そうなの? おかしいな。村までの道は最近広く整備されたから馬車で大丈夫だとゾイドに言われたんだけど……」
「そんなはず、ないです。あたしは先月も村まで行ったけど、変わっていなかったもの」
「では……」
アレクシスが声を発したその時、馬の嘶きと共に男の叫び声が上がった。
「!!」
すぐにエリオットが荷物に手を伸ばしたが、続いて急に止まった馬車に体勢が崩れ激しく肩を打ちつけた。
「……っ!」
「きゃあ!?」
セリは荷物を抱えたまま座席から滑り落ちそうになったところを、向かいのアレクシスにとっさに抱きかかえられ、座席下にあった二人の荷物は大きな音を立てて倒れドアにぶつかった。
「――何かあったのか?」
エリオットがドアを開けようとすると、その前にドアが乱暴に開け放たれる。
目の前には、背の高いヒューガルドが立ちはだかり、その後ろにはゾイドが居た。
「ゾ、ゾイド……」
これまで見せていた人の良い笑顔はどこへいったのか、ゾイドは唇を歪ませ残忍な笑顔を見せている。
「ゾイドだぁ? あぁー、そんなヤツも居たかなぁ。今は森の中で冷たくなってるだろうよ!」
「そ、そんな……」
少しの間ではあったが、共に過ごした時間はセリにとっても大切なものとなっていた。
セリよりも国内外様々な場所を訪れていたゾイド。そんな彼が面白おかしく話す旅の話は何よりもセリの顔を輝かせ、セリは彼に沢山話をせがんだ。帰りにも沢山旅の話をしてくれると約束してくれたのに……ゾイドという名前ですら無かった彼は、最初から帰りどころか目的地に送り届ける気すら無かったのだ――。
「お前達……何のつもりだ!? 誰に頼まれた!!」
後ろから回されたアレクシスの腕に力が入るのを感じたセリは、とっさに開けられた窓から外を確認した。
(悲しんだりしない! 絶対、絶対帰るんだから!)
どんどん溢れてくる涙で視界は歪むが、それでもセリは必死に考えた。
(村の入り口はもう少し先だわ……もう少し先なら、窓から逃げ出しても道が狭くて馬車では追って来れないのに……)
しかも馬車が止められた場所は崖の上で、下からは強風が吹き上げている。
(今逃げ出しても外は崖……それも計画?)
「誰に? それは言えねぇなあ。だってよ、聞いてどうする? おめぇ達はここで死ぬんだからよぉ!」
「殺す? 僕達を? なぁ、目的は金か? なら言い値を払おうじゃないか。 銀貨か? それとも金貨か?」
「金? 全く。世間知らずのお坊っちゃんだ」
話しながら、そっと鞄に手を伸ばしていたエリオットの腕を狙って、ゾイドが短剣を振り下ろす。エリオットがとっさに手を引いた為に短刀は鞄に突き刺さり、高価な革の鞄は無残にも切り裂かれてしまった。
「……その中にはさほど入っていないぞ? このまま消えてくれたら、帰った後にその鞄に入っている金貨の数倍も出そう。一生遊んで暮らせるぞ?」
すると、ゾイドを名乗っていた男はニヤリと笑った。
「それが世間知らずだってぇんだ。そこまで欲深くしちゃ捕まっちまう。一時的に金が入っても、目撃者がピンピンしてんのは危険だからな。何を言っても遅ぇよ。ま、冥土の土産に名前位は教えてやる。俺はな、ジャンだ!」
その言葉を合図に、ヒューガルドとジャンが二人同時に動いた。
ジャンのナイフの動きに気を取られていたエリオットがヒューガルドに圧し掛かられる。が、すぐに異変に気付いた。
「――ットさ、ま……しわけ、ざいませ……」
ヒューガルドの額は、晩秋だというのに珠の汗を浮かべている。顔は苦しげに歪められ、何度か搾り出した言葉と共に唇の端からは一筋の血が流れ落ちた。
「!! ヒューガルド!!」
とっさに背中に回した手がぬるりと滑る。エリオットの手はあっという間に真っ赤に染まり、ヒューガルドが背中からおびただしい量の血を流している事を知った。
「きゃあ!」
ヒューガルドの後ろから別の男が現れた。ヒューガルドを盾にして隠れていたのだと気が付いた時にはもう遅く、短刀とロープを持って勢い良く馬車に乗り込んできた赤髪の男はゾイドに向かって指示を出した。
「黒髪は生きたまま捕えろとさ。女は――邪魔だな」
アレクシスはセリを抱えたままジャンの短刀を避けていたが、馬車の中は狭い。すぐに隅に追い詰められた。
「あいつ等の動きを抑えている間にドアから逃げろ。この辺りも、道は詳しいだろう?」
後ろから押し付けられた唇が耳元で低く囁く。
セリが思わず振り返り見上げると、至近距離にアレクシスの紫の瞳があった。瞳は怒りに燃えている。
「すまない。君をこんな形で巻き込むつもりはなかった」
「あたしは……あたしは、配達するものは手放さないんです! そう言ったじゃないですか!」
セリは負けじとアレクシスを睨み返した。窓から注ぐ午後の光はセリの瞳を金色に見せた。アレクシスは眩しそうに目を細めると、すばやく身体を反転させてセリを背に庇った。
アレクシスの背中越しに覗くと、ヒューガルドの下から抜け出したエリオットがジャンと激しくもみ合っている。
「クソッ!」
赤髪の男が焦れたように、持っていたロープをエリオットの腕に巻きつけたその時、エリオットの拳をまともにくらったジャンが激しく壁にぶつかった。
ヒヒーン!
強い衝撃に馬車が大きく揺れ、それに驚いた馬が走り出した。
「うわっ!」
急に走り出した為、馬車は大きく横に揺れ、エリオットとジャンは体勢を崩して床に転がった。その衝撃にジャンは短剣を取り落とし、それはクルクルと周りながら座席の足にぶつかった。
全員の視線が注がれる――。セリは時が止まった気がした。
一番早く動いたのはアレクシスだった。すばやく動かした足で短刀を跳ね上げると、そのまま飛び出しジャンの上に馬乗りになる。すぐに抑えに動いた赤髪の男だったが、その手はアレクシスに届く前に空を切った。
「させ、るか……!」
いつの間にかゆらりと立ち上がっていたヒューガルドがそのまま赤髪の男に体当たりした。押さえつけられながらも男は振り上げた短刀をざくり、ざくりと何度もヒューガルドの大きな背中に突き刺す。抜かれる度に血が吹き出し、壁にまで飛び散っても、床に溜まった血で覚束無い足がズルリと滑っても、それでもヒューガルドは赤髪の男を放さなかった。
「このっ! 死に損ないがぁっ!!」
セリは声を上げる事も出来ず、隅で小さくなり震えていた。怖くて仕方が無い。だが、目を逸らす事が出来ない。
抵抗するジャンを身体全体で押さえつけたアレクシスは一瞬、背後のセリに視線を投げかけた。
「目を閉じてろ!」
跳ね上げた短刀はアレクシスの手に収まっていた。そしてそのまま躊躇なく腕を思い切り振り下ろす。その先にはこめかみを強く押さえつけられ露になった首があった。
その後に起こる事が分かり、セリはぎゅっと目を閉じ、両手で顔を覆った。
「ふぐぅっ!!」
男のくぐもった声が聞こえる。
セリは恐る恐る目を開け、指の隙間からそっと覗いた。
ジャンの姿は既に無い。床には血がついており、その血は開け放たれたままだったドアまで、まるで大きな刷毛で線を引いたかのようにまっすぐ、赤い道を作っていた。




