1.夢が導いた出会い
以前なろうで連載していた物を改稿し、投稿し直します。
またセリとアレクシス、エリオットをよろしくお願いします。
「――――、……よ」
どこからか声が聞こえる。
眠くてぼんやりする頭をふるふると振って声のする方に顔を動かせば、すぐ近くにふわふわした金色に輝く物が目に入った。
触れたくて、手を伸ばす。
それは自分の手であるはずなのに、とても小さくて焼きたてのパンのようにふっくらしている。指も短くて手の甲には小さなえくぼが出来ていた。
金色のふわふわに触れたくて指を動かすが、うまく掴む事が出来ない。すると、真っ白な綺麗な手が優しく小さな手を包み込み、そうしてそっとその手を導いた。
生き物かと思ったそれは、青いガラスの瞳が印象的な人形だった。とても美しい服を着た男の子の人形。
それをようやく胸に抱えると、ぎゅうっと力いっぱい抱き締めた。すると自然とふぅっと大きな溜息が漏れる。満足の溜息だ。するととうとう眠気に勝てず、微笑を浮かべたまま眠りに落ちた。
遠のく意識の中で、優しく語り掛ける柔らかな声がかすかに聞こえた。
けれども、その言葉は耳に届く前に波のように漂い消えていった。
* * *
大陸の中でも一番の大国と言われるグランフェルト王国。その中央の小高い丘を中心に形成された王都ロウズヴィルにも、少し早い冬がやってきた。
石畳に薄く雪化粧を施した初雪は、王都のはずれにある下層階級地区の不揃いな石畳を更に滑りやすくした。
冬支度が間に合わなかった住民は薄い上着の前を掻き合わせ、覚束無い足取りで歩いている。そんな人々の間を縫うようにして一人の小柄な少女が一気に坂道を駆け上がって来た。
「お早う、セリ。今日も元気だね」
突然掛けられた声に、セリは急ブレーキをかけて声の主を捜した。コツを得ているセリの足には、不安定な濡れた路面も敵ではない。
「お早う! リタさんはまだ家に居るかしら?」
「多分な。だがもうそろそろ食堂を開けに行くだろうよ。配達なら急ぎな」
「ありがとう!」
笑顔でお礼を言うと、セリは再び軽やかに駆け出した。息は少しも乱れていない。ただ、頭の高い位置に無造作に丸く纏められた髪からほつれた一筋が、セリの足取りに合わせて軽やかに揺れていた。
駆けて来た道よりも更に細い路地に入ったセリは、路地に誰も居ない事を確認すると速度を上げた。
この地区で一番大きな食堂を営むリタは、朝の仕入れを終えると下ごしらえを料理人に任せて一度自宅に戻る。だがまもなくまた店に向かうはずだった。
(急がなきゃ!)
朝一番に《配達屋ことり》に持ち込まれたリタ宛の封書に、差出人は急ぎの便りだと言って通常の倍額を払って行ったのだ。割り増し金は全て女主人の懐に入るだろう。セリには穴開き銅貨の一枚だって入らないに違いない。それでも歩合制のこの仕事では、迅速かつ正確に届ける事が後の指名に繋がるのだ。
(この細い路地を抜けたら右折! その先はリタさんの家の裏手のはず)
頭の中で記憶している細かな地図を頼りに、セリは一気に路地を通り抜け、そのままの勢いで右に曲がった。
曲がった先の路地も普段は人気の無い細い路地だったが、今日に限ってそこには黒っぽい服装の男が二人居り、セリは驚いて少し速度を落とした。
驚いたのは男達も一緒だったようで、背の低いずんぐりとした体型の男はペッと地面にツバを吐くと「びっくりさせんじゃねぇ。幽霊かと思ったじゃねぇか」と悪態をついた。
(こんな日の高い時間帯に幽霊なんて出るはずないじゃない。失礼ね)
ムッとしたが、見るからに柄の悪い男達の悪態は無視する事にして、セリは先を急いだ。男達も自分達の目的を思い出したようで、セリの方に向かって来る。
「あっちかもしれねぇ。行くぞ」
「へぇ、兄貴。それにしても黒髪に紫の目を持つ綺麗な男なんざ、この辺じゃ目立って見つけやすそうですがねぇ」
「いや、帽子なんかで隠しているかもしれん。何しろあの方に似過ぎて――」
その時、セリの後方から馬車が通る音が聞こえた。
この辺りは駅馬車の通り道でも無い為、馬車が通る事自体とても珍しい事だ。このでこぼこの石畳では苦労しているのだろう。車輪の音は騒がしく、セリの居る細い路地にまで響いた。
「馬車だ! あれかもしれねぇ! 行くぞ!」
男達は一気に走り出した。セリは慌てて壁にへばりつき、男達をやり過ごした。
「何よ、あれ。この辺にだって綺麗な顔立ちの男の人位……いないわね。あっ、いけない!配達!!」
セリも先程の男達のように慌てて走り出した。
「リタさん! まだ居ます? 《配達屋ことり》のセリです! 急ぎの封書を届けに来ました!」
声を掛けながらリタの家の玄関に回ると、明るい金髪の青年が驚いたように振り返った。
「ああ、セリ! いい所に来てくれたよ。この坊っちゃんがさ、道を聞いてきたんだけど、あたしにはどうにも地図ってぇのが読めなくてね。教えてやってくれるかい?」
リタのその言葉に居住まいを正した青年は、綺麗な青い瞳をセリに向けて微笑んだ。その手には豪華な装丁の本があり、手触りの良さそうな濃紺のビロードの背表紙にはセリが憧れて止まない店の意匠が銀糸で刺繍されていた。
自分の手元に視線が止まった少女の様子に、青年は少し首を傾げた。それは果たしてこの少女に頼っていいものかと迷っているようにも見え、リタは青年の戸惑いを払拭するかのように青年の背中を叩いた。
「大丈夫さ! セリはこの辺りじゃ有名な《配達屋ことり》の看板娘だ。どんな道でも知ってるから安心おし! さて、セリ。あたしに封書だって? もうすぐ食堂に行かなきゃならないから、先にもらっておこうかね。まったく、マリアのあの図体で店の名前が《ことり》だなんて笑わせるよ」
セリが勤める配達屋の女主人であるマリアは、小柄なセリよりも頭一つ分背が高く、体重に至ってはセリの倍以上あるだろう。笑い声が豪快で、その声に驚いて《ことり》なんて逃げちまうだろう、なんて冗談をよく言われていた。
そんな女主人の事を思い出し、セリは苦笑いを浮かべながらリタに一通の封書を見せた。
「これです。サインをください、差出人はエストレさん……やだ。名前が無いわ」
「エストレ? 失礼だが、それはどのような人物でしょう?」
「は?」
横でじっと二人のやり取りを見ていた青年が突然話に割って入ってきて、セリは眉を顰めた。
「すまない。怪しい者じゃないんだ。ちょっと人捜しをしていて、名をエストレと言う。もしかしたら……」
「悪いが、坊っちゃんが捜している人物じゃないよ。グイド・エストレ、二十六歳。あたしの娘婿さ。グイドに坊っちゃんのような上流階級の友人は居ないね。それにエストレなんて名、この国には随分多い。現にここに居るセリだって姓はエストレさ」
再び青い瞳に見詰められ、セリは居心地の悪さを感じて榛色の瞳を泳がせた。
「そ、そうよ。あたしもエストレだわ。セリ・エストレ。職場にも、もう二人居ます。とは言っても二人は夫婦だけど……」
「そうか……そうだよな。そんなに簡単に見つかるはずが無いな」
青年のその明るい瞳には影が差し、見るからにしょんぼりしてしまった。
「大変だよ! 娘が産気づいたってさ! こうしちゃいられないね。すぐに食堂に行って今日は他の子に任せるとしよう。セリ! こんなに早く届けてくれて感謝するよ。ありがとうね。それじゃ、あたしは急ぐから、坊っちゃんの案内は頼んだよ!」
リタは一気にそう話すと、慌しく家の中に入ってしまった。
「え? ちょっと! リタさん!」
セリは慌てて呼びかけたが、もはや返事は無い。
セリは諦めたように青年に向き直った。
目の前でセリを見下ろす青年は人懐っこい笑顔を見せた。
青年の柔らかそうな蜂蜜色の濃い金髪がキラキラと日の光に輝き、白い肌は傷ひとつ無い滑らかさ……その姿は、いつか見た人形のようだとセリは思った。
あれはいつだったろう……人形を手に取りたかったのに、すぐにおじさんに手を引かれ叶わなかった。
その情景は今となってはとてもおぼろげで、夢だったのかもしれないと思う時もある。
現に、セリの家にはそのような高価な人形は無い。それどころか必要最低限の家財道具しか無い生活なのだ。
遠い記憶のあの人形も高価な服を着ていたが、目の前の青年も少し早い突然の初雪だったのも関わらず、厚手の外套をしっかりと着込み、足は冬用のブーツである。メイドを何人も召抱えているのだろう。「寒い」と一言言えば、このような上質の外套やブーツが即座に差し出されるに違いない。
(そんな人が人捜し? しかもこんな下層階級地区で……)
――関わらない方がいいのかもしれない。
ただでさえこの地区はいざこざが多い。そこで育ったセリはいち早く危険を察知できる。そのセリの中で、青年に近づいてはいけないと警告音が鳴り響いた。
この日から、セリの小さな世界は壊れていく。
どちらが現実で、どちらが虚構だったのか――誰が味方で、誰が敵だったのか――何が嘘で、何が真実だったのか――。
この時のセリは、何も判らなかった。