第55話 政略結婚の相手
段々と、彼の顔が近付いてくる…。
“近い!近いってば…!!”
「あっ、あの…えっと…その……」
頭はパニック状態で、体は硬直したまま動かない。
このままでは呼吸が止まる…。
私は命の危機さえ感じた……。
「あまり、君をからかって嫌われても困るから、
この辺で止めておこうか。」
クスクス笑いながらそう言って、彼は私から離れた。
性質が悪すぎる…。
“たっ助かった…。やっと、普通に息が吸える…”
いつも意識せずに、
普通に呼吸ができていることのありがたみがわかった。
遊ばれている…。
やはり、彼は私より何枚も上手だ。
笑っていた顔が急に真剣な表情に変わる。
「僕は、美緒が思いやりのある、優しい子だっていうことはよく知ってる。
だけど、それ以外の君は全然知らない。」
「恭哉さん?」
「だから、これからお互いのことを知っていこう。」
私もそうだ。
彼が私のことを大切に想ってくれていて、大事にしてくれているのはわかった。
しかし、それ以外の彼はまだ何も知らない…。
「焦らずに、少しずつ…。
僕たちは、一般の恋人が出会う方法とは全く違う出会いだった。
踏まないといけない段階をすっ飛ばしてきてしまったから、
もう一度、最初に戻ってみよう…?」
「…はい。」
会ってすぐに婚約だったのだから、段階を踏んでいないのは当然だ。
しかし、私は彼を好きになった。
何も知らない彼のことをいつの間にか好きになっていた…。
政略結婚は嫌だったが、彼とならそれでもいい。
「私、今回ばかりは父に感謝します。」
「如月社長?」
「だって、父が恭哉さんを結婚相手に選んでくれなかったら、
私は他の人と結婚していたかもしれないでしょう?」
彼の前に他の相手が、結婚相手として決まりかけていたと知って、
本当にびっくりした。
今となっては、彼以外の誰かと結婚するなんて、到底考えられないことだ。
きっと、彼だから私は好きになれた。
別の誰かを好きになるなんて…考えられない。
それを思うと、父が今回の政略結婚を持ちかけてきたことに、
私は感謝するべきだろう。
「美緒。君は如月社長のことを少し誤解してないか?」
私が心の中で、滅多に思わない父への感謝の気持ちを感じていると、
聞き流せないことを言われた。
「父を誤解している?ありえないですよ。」
これまで、家族らしい付き合いはあまりしてこなかったが、
それなりに親子としての時間を過ごしてきた。
その私が、父に対して誤解するようなことはない。
「君が考えているよりも、ずっと如月社長は君のことを考えてるよ。」
「知ってます。より、会社の利益につながりそうな結婚相手を探して、
私と結婚させようとしてたって…。
でも、それは私のことを考えていたのではなくて、会社のことを考えていたんです。」
昔から、根っからの会社人である父…。
常に自分の会社を大きくしようかと、そんなことばかり考えていたのだろう。
家族の存在など、気にも留めない程に…。
「如月社長の立場からして、更に会社を発展させるためにも、
君にはどうしても政略結婚してもらわなければいけなかった。」
「そうですね…。政略結婚はそういう家に生まれてきた者の宿命ですから…。」
彼にそう聞いたから、私は仕方がないと思っていた。
「利益重視するだけなら、相手が誰であってもかまわないだろうけど、
如月社長はちゃんと君にふさわしい相手を選んでいたんだ。」
ふさわしい相手というのが、
家柄が良いとか、会社が大きい人のことなのではないだろうか?
彼を最終的に私の相手として選んだのが、その証拠だ。
「私にふさわしいのではなくて、父の会社にふさわしい人の間違いですよ。」
「そういう意味じゃない。
会社のことだけを考えるのなら、君はもっと前に婚約者が決まっていたんじゃないか?」
彼の言いたいことが、よくわからない。
私が訝しそうな顔をしていたら、「簡潔に言うと…」と切り出された。
「利益なんてのは、二の次で一番は、
君のことを幸せにしてやれる相手を探していたんだ。」
「そんな……。」
そんなの嘘だ…。
あの父が会社よりも私の幸せを考えていたなんて…。
簡単に信じられるわけない……。