第54話 掌の上
どれぐらいの時間、抱き合っていたかわからない…。
自分の気持ちを、彼に伝えられるだけでいいと思っていたのに、
彼は昔も今も変わらず私を想ってくれている。
“お互いを分かり合うって、こういうことなんだ”
不安だった心が、晴れ渡るように明るくなる。
彼の温もりを感じながら、私はそんな事を考えていた…。
どちらともなく、抱き合っていた腕を離す。
“思いあまって、彼に抱きついてたけど…なんかすごく恥ずかしい気が……”
少し冷静になった頭で考えると、
普段の自分なら絶対にしないような行動だった。
腕は離しても、彼と近くで向き合ったままだ…。
「美緒は華奢だから、強く抱きしめたら折れそうだ。」
「へっ?」
抱擁の感想を言われても…困る……。
「でも、もっと君に近づきたくて…我慢できずに、
力を入れてしまった。」
憂いを含んだその表情は、私をまた落ち着かなくさせる。
美形がそんな顔をしないでほしい…。
何か他に意識を向けようとしていたら、ある事を思い出した。
「そう言えば、さっきのカフェで恭哉さんが、
私に話したいことがあると言ってましたけど、何だったんですか?」
このどことなく盛り上がった甘い雰囲気が、
壊れるようなことだったらどうしようか…。
「あぁ…。もういいんだ。」
「いいって言われても…気になりますが…。」
私に話したいことってどんな内容だったのか。
気になる、知りたい。
彼は珍しく私から目をそらした。
言いにくいことなのだろうか?
「結婚をなかったことにしようとか言っておきながら、
やっぱり諦められなくて…。
君には黙ったまま、婚約はしたままにしておこうと考えてたんだ。」
「え…?」
「婚約を解消してしまったら、君を他の男に取られるかもしれないだろう?
だから、解消することができなかった。
君には一度白紙に戻ったと思わせて、僕は改めて君にアプローチをしようとしていた。
せっかく探し出せたのに、このまま引き下がることができなかったんだ。
でも、それは君を騙していることだと思って…。
それで、もう一度君に会って、僕との結婚を考え直してほしいと頼もうと思った。」
そこまで、考えていたとは…。
結局、私が彼に対して素直な気持ちをぶつけられなかったから、
私たちの想いはすれ違ったのだろう。
ずいぶんと遠回りしてしまった…。
「君との結婚が取り消されようとしていた時でさえ、
どうすれば一番いいのかって計算してた…。
どこまでも、経営者の考えしかできない自分が情けない。」
彼は自分のことをそう言うが、私はそんな風には思わなかった。
「そこまで、私を想ってくれていたんですよね…?
それを聞いて私は本当に嬉しいです。」
こんなに素敵な彼から想ってもらえるなんて、私は幸せ者だ。
彼は逸らしていた目を私に向けて優しく微笑む。
「なんで君は、そんなに僕が喜ぶことばかり言うんだろうな…。
完全に僕は君の手中にあるな。掌の上で転がされてるんだ。」
そんなことを言われても…。
まるで私は彼をたぶらかす、小悪魔のようだと思われているようだ。
恋愛に超鈍感なこの私が、そこまで高度なスキルを持っているはずがない…。
「でも、僕は君にならいくら振り回されてもかまわない。」
「…なぜですか。」
「君が好きだから。」
私の首に腕を回すようにして、顔を覗きこんできた。
上目遣いに私を見る。
「ねぇ…美緒。僕をこんなにも夢中にさせたんだ。
当然、覚悟はできてるよね…?」
「かっ覚悟とは…!?」
彼は口角をあげ、ニヤリと笑う。
「僕のことしか考えられないように…、
これから嫌というほど君を愛してあげる…。」
…できない。
覚悟なんてできない!
その前に心臓が爆発してしまう…。
絶対、私の方が彼の掌の上で、
コロコロといいように転がされている。
どうやら、私はとんでもない人を好きになってしまったらしい……。