妻 巴
行家は鷹揚に頷いた。
暗い降雪の中を一行は進んだ。
彼方に灯が見え隠れしていた。
「おお我が家じゃ。」
閉ざされた木戸を押し開くと、
冷たい外気と一緒に真っ白な粉雪が吹き込んで来
る。
「お帰りなさいませ。」
穴蔵の様な室内は
ほかほかと冷え切った五体を温めた。
「客人じゃ。」
年増の女房が承知とばかりに手際良く、
突然の客を快く迎え入れてくれた。
「田舎も田舎故、何の持て成しも出来ん。」
「いやいや、そのお心。」
「火が何よりのご馳走じゃ。」
「はっはっは。」
思わぬ出会いで
一行は吹雪の木曽路に
一命を救われたのかも
知れなかった。
「時に主殿、ご厄介かけるに、
未だ失礼にもご姓名を伺っておらぬが。」
「何の、田舎者故、名乗り出る程の者でも御座らん」
「…」
「しかし、先程皆様のお話を失礼乍漏れ聞けば、
お客さまのお名は行家様とお聞
き居たしましたが。」
「はっはっは。世の中に行家など掃いて捨てる程おるものでござる」
何やら面白半分に興味津々の男は
「貴方様のお話なさる行家殿とは」
主は目をきりっと客に向け
「平氏の横暴極める世の中でござる。
帝辺に仕え奉りてお守り為べきお方こそ、
源氏の統領ともお慕いされたる…」
「頼朝公なるか。」
主は意地悪く話しを折られ顔を真っ赤に染め乍、
「何を隠そう、義仲公なり。わがご主君にでござる。」
「いや、済まん。許されよ。
一宿の御恩を受け乍、私こそ義仲殿の伯父行家。」
「…。」
「先ずご尊名を賜りたい」
「失礼居たした。某、義仲公隠し弓矢番。坂東三郎」
「坂東太郎に非ずや」
「はっはっは」
「はっはっは、よう云われ申す。」
「して、さほどの理由を申さば、
ご存知平氏どもの懲罰の令旨の出た今では有る
がきゃつ等の威勢も甚だ侮り難い。
六波羅共め地の果てまで追い詰めて来よる。」
「用心用心。」
「まことじゃ」
暫く沈黙の後
「お待たせです」
「忝ないことじゃ。」
「猟師の肴じゃ。」
「何のお気持ちだけで胸が一杯。」
「さて隠し弓矢番。坂東三郎殿とは、
そうそうご身分を明かして宜しいので有ろ
うか。」
「他ならぬ義仲様の伯父行家様。」
坂東某の一途さに田舎侍の頑なで、
脆さをいじらく思う行家だった。
「時に行家様は如何成るご用で。」
「はっはっは。わしも一角の武士故。さあ、
こうですとは申せぬが。」
「ははっ。某、差し出がましい事を…。」
「まあ、しかし、良いのじゃ。」
「…。」
「貴殿の心酔したる義仲殿に伯父、
甥のえにしを越えて伝えたき密命を帯びてのう。」
「しっかし、これは正しく奇縁と申せましょうか。
南無八幡のお引き合わせ。」
「はっはっは。」
「面白い事を」
坂東某居住まいを正し、
「行家様、ご都合如何でござりましょうや、
宜しくば明日なりとも主、義仲様へ、
お執り成しなりと…」
「うむ。それは万事好都合と云うもの。」
酒肴に話しには花が咲くと云うもの。
八幡大菩薩の導きか、
先程迄の雪中行進は全く夢のような成り行きに、
上機嫌の行家だった。
都を離れて幾歳月
ばさばさっと
屋根に積もった雪が
春恋しい乙女の心を
驚かすように
音を立てて
滑り落ちて来た。
「毎日私は、何を考えて居るのだろう。」
そっと独りで呟く自分自身に驚く巴だった。
目をつむれば小癪な若者の底抜けに明るい顔が浮かぶ。
両手で振り払っても
幻想が消えるものでも無かった。
「巴様。」
「何事か。」
「あすこに…」
侍女菊乃が指差す先を見ると
真っ白い雪中に福寿草の華が愛らしい蕾を膨らませ
て居た。
「ほほっ。いじらしいものじゃ。」
巷は決して穏やかなものでは無かった。
強大な覇権を誇示する平家では有るが、
その都ですらも決して日々安心な暮らし
を享受出来るものでは無かった。
増して地方と言えば、
平家の治世を不満とする
武士、豪族、夜盗の好き放題、
百鬼夜行さながらだったかも知れない。
祇園精舎の鐘の音
諸業無常の響きあり
驕れる者は
久からずと
平家物語に謳われるように変転窮まり無いのが
世の常でしょうか
増して一人の女性の運命はおろか
乱世の中一端の武将でも
その運命たるや朝露の様にはかないものだった事でしょう。
己の人生の感慨を
一つの和歌に
込めようとしたのも
無理からぬものなのであろう。
古びた神社
末社の神職の住まいが
彼の仮住まいで有った。
「若、見えました。」
「うむ。」
こじんまりした屋敷は
隣に何やら家来共の居住する
粗末な長家らしき小屋が隣接して居た。
昨夜家来の坂東某から小者が使いに来て居た。
昨夜来の雪も止み、
小春のような陽気だった。
手狭ながら日当たりの良い居室の上座が空けて有った
。
長い旅路に身も心も疲れ果て、
久々に客人として持て成しを受けた行家の目から
光るものが流れた。
甥としての優しい心遣いがうれしかった。
「伯父上。」
「はっはっは。」
「…。」
「可笑しかろうが、この行家、
乱世を渡り歩き、人の心を忘れかけて居ったよう
じゃ。」
「義仲殿の真心に酔うたようじゃ」
「はっはっは。伯父上、初にお目に掛かり申す。」
「既にお聞き及びでござろう。
高倉の君より平家打倒の令旨が津々浦々に届けられしが、
肝心の宮殿下がお労しくも永の旅路へと逝ってしまわれた。」
「その事に関して大変痛ましく存じ
胸が絞め付けられる想いでございまする。」
「御意。」
「旗揚げも真近なれど時未だ来らず…」
「うむ。宜しかろう。」
「某、志は」
治承四年五月宇治の戦いは源氏にとって厳しい試練だった。
木曾の義仲にとって
も、耐え難い冬の時代であった。
その頃清盛は何を思ってか都を福原に遷す事を考えて居た。
為政者たる者、何事によらず、
大御心にお伺いを立てるのが心情の筈。
一武将の本分を忘却したのが衰運の兆しであろうか。
福原の別荘に多勢の者を集
め祝宴の酣、
もはや沈まんとする夕陽を差し招いたそうである。
驕る平家久しからず。
もうこの頃日本全土を手中にしたかに見えた
武将集団の命運も陰り始めていた。
大軍勢を頼りとしていた平家も冨士川では、
臥薪嘗胆。僅かの源氏軍を前に、
水辺の鳥の羽音に驚き総崩れの失態を演じる事と成った。
平家を憎む全国の荒武者、
僧兵はここぞと旗揚げを為した。
源氏宗家はと言えば、
流人として伊豆に蟄居を甘んじていた頼朝。
頼朝が高倉宮の使い行家の令旨を受けたのは治承四年四月。
鎌倉に居を構えじっと世上を見据え、
しかし、そう簡単に輿を揚げる男では無かった。
平清盛はこの時期古都と福原の間で遷都を繰り返し躊躇、
朝廷も民衆も衰弱させ
肝心の平家軍団も軟弱に成って行った。
すでに京の都は荒れ果て、見る者に絶望悲嘆を味わせました。
天の配材か
その頃、
伊豆そして鎌倉には
源氏の宗家
義朝の子頼朝が居た。
そして範頼、義経、
甥の義仲。
今まで野に臥していた荒武
者源氏の末裔共の血が騒いで居るらしい。
「皆の者遂に時は来た。天命は下されたのだ。」
「うおお〜っ。」
「過日、高倉の宮殿下より平氏の不忠に対して
征伐の令旨が下された。」
「うおお〜っ。」
津々浦々の源氏の末流から不平分子が蜂起し出した。
治承四年、平家に徹底抗戦の構えの興福寺並び
東大寺に清盛は焼き打ちを命じました。
大和の国の治安、安寧を願って建立された大仏も
一時の暴挙で脆くも崩れ落ちる事と成りました。
翌年養和元年、
清盛入道は権勢を欲しいままに成り乍、
思わぬ所で病床に臥す事と成
りました。
いよいよ源行家が
時代の本流に登場します。
本編の義仲同様、
中々その実像の見えない人物ですが、
この人の人生もまた、
正しく波乱の人生と言えましょう。
東海の源氏ゆかりの武将を募ると
墨俣に於いて平家軍と一戦を交えました。
やや陰りを見せ始めたとは云っても流石に平家。
まだまだ行家一人に負い目を見せる程では有りませんでした。
それでも清盛を欠いた平家には、
行家を深追いする精神的な余力は無かったようでした。
その事が平家に禍根を残した事は間違い無いかも知れません。
ほうほうの態で逃げおうせた行家も
頼朝、義経程の技量では無くとも
実にその不退転の志は敬服に
値するものでは有りませんでしょうか。
源氏の武将達には坂東武者の
根強さが有ったのでしょう。
これは義朝公始め一族の非運な時代を
生き抜いて来た侍達に育まれた強烈な至誠
心と信仰心の賜物なのでは無いでしょうか。
これは義朝公始め
一族の非運な時代を生き抜いて来た侍達に育まれた
強烈な至誠心と
信仰心の賜物なのでは無いでしょうか。
寿永二年四月頃木曽路の山々に
軍馬の蹄が掻き鳴らす音が響き渡って居ました。
道々街道筋では、
何時に無い出来事で百姓達が、
それは大驚きで有ったそうな。
「木曾の若殿さんがいよいよ動き出しよった。」
「義仲様がいよいよ…」
黒山の人だかりだった。
「うぉ〜ぉ〜」
法ら貝が唸った。
少勢では有ったが
流石に源氏武者の
意気込みが感じられた。
「助。何やら嬉しそうじゃな。」
「はいっ。」
「良い事でも有ったか。」
「殿と一緒でござります。」
「何と。」
「それだけでございます。」
「はっはっは。面白い奴じゃ。」
助と呼ばるる青年にとって義仲の存在は、
ただ希望であり喜びで有った。
「助。」
「はいっ。」
「お前の望みは何じゃ。」
すると青年は恥ずかしそうに顔を赤らめると。
「殿にお仕えする事にござります。」
「はっはっは」
義仲は笑い乍も
深刻な顔をすると、
「助にも母は居るで有ろう。」
「居りまする。」
「わしに仕え、やがて命を落とすやも知れぬぞ。」
「構いませぬ。」
「構わぬとか。」
助は主より思わぬ問いを聞き戸惑う様子だった。
「母は有難いものじゃ。」「…」
「お前の母にとってわしなど疫病神かも知れぬ。」
「勿体ない事で。」
「ま、許せ。」
戦乱の世を渡り歩き
母親の腕の温もりを知らない者にとって
「はは」と云う存在は
高貴な触れてはいけない宝物だった。
「間もなく夕餉の為の休息にござりまする。」
「…。」
夕餉を終えた義仲は
「下がって居れ。」
一人小部屋に篭った。
小さな灯明を前に、
いつ手に入れたのか、
小さな厨子を引き出し、
扉を開くと
おもむろに
経をずし始めた。
真っ暗な闇夜
「出会え」
「癖者」
「何、同じ源氏一門…」
「お前は…」
「謀ったな。」
「むむっ。無念…。」
聞こえる
「母者。」
「お前は、もののふの子」「母者」
「母者…」
若者は
深い闇の中に居た。
遠い遠い荒野。
未明の
底冷えの大地に
多くの
人々の呻き声が聞こえた。
「倅よ。」
彼方から光芒が射して来た。
「我が子よ。」
愛する父の声がした。
懐かしい母の声だった。
地平にみ佛の光輪の如き
光が射し
若者は目を覚ました。
「…。」
「夢か。」
果たして
父は何を自分に
語りたかったのであろうか
母の想いは何処ぞ。
泣きながら眠り居ったらしい。
義仲は思わず涙を拭いた。
「殿。お目覚めでござりまするか。」
「うむ。」
「行くぞ。」
朝餉を終えた一行は
戦機を求め歩き始めた。
「ケー」
突然潅木から
鷹が飛び立ち
人々を驚かした。
「はっはっは。」
「鷹如きに驚いては平家のへっぴり侍と同じじゃ。」
義仲の腹心が喚き散らした。
平家の富士川の失態は諸国の武将共に知れ渡って居た。
その日の宵、しんがりの兵の溜まりから
若い小柄の兵士が供を連れてやって来た。
「殿。」
「誰じゃ。」
小柄の兵士は俯いたまま
無言だった。
義仲が気づくと
当直の者が居ない。
「…。」
「何者じゃ。」
「ふ…」
「狐狸の類いか…」
「ほっほっ。」
「はっはっは。」
「…。」
「巴じゃな。」
「巴丸にござりまする。」「うつけ者め。」
「天下一の大うつけでござりまする。」
「ふん。」
若者は床を見つめ
天を仰いでは
呻吟した。
「何故来た。」
「退屈です。」
「…。」
「若の居ない木曾の山は退屈で退屈で。」
「ふ。仕様無い奴。」
「ふふ…。」
「大きな声で笑うな。」
「兵が動き出せば何処も戦場じゃ。」
「…。」
「何処まで来るつもりじゃ。」
「あの世とやら迄。」
「よし、判った。お前を敵の手などには決して渡さん。」
「その時は…」
「わしの手で冥土へ渡してやる。」
「嬉しゅうござりまする。」
「愚かしい事じゃ。」
「…」
「辛いぞ。」
「元より覚悟の上。」
「夜叉か阿修羅か。たいした女房殿じゃ。」
「お褒め戴き嬉しゅうござります。」
「のほせるな」
「ははっ」