旅に疲れて
治承四年、以仁王、平家を討て、の令旨が発せられた。
すわ。国中地の果てまで「今立て。」の密命が走った。
「よいさ、よいさ。走れ、走れ。」
僧形の伝令が、
落ち武者姿の男共が、
あちらこちらの街道を
走りに走った。
「ハア、ハア、ハア。」
あからさまに表街道を走れば、諸国の要所要所で待受ける平家の厳しい役人の目
が逃さない。
きっと死ぬ程の詮議を受け、いや多くの場合討ち捨てられるのは目に見えて居る
。
「ハア、ハア、ハア。」
「何者だ。」
突然、藪の中から
大声で呼び付けられた。
汗と埃でぼろぼろの男は
身を凍らせた。
「うわっはっは。」
「……。」
「この愚か者め。」
「……。」
「わしの声を忘れたか。」「…お前。」
「そうじゃ。戸杉の三郎じゃ。」
「この野郎。」
「驚いたか。」
「ん〜〜馬鹿め。」
「達者だったか。」
「う〜〜っ。」
旅姿の男は
一瞬気が緩んだのか
涙目に成ってしまった。
「従いて来い。」
山深い木曾路は
三百年もの杉木立が何処迄も鬱蒼と生い茂って居た。
治承元年。
木曾に雪深い春が訪れた。
諏訪地方は大雪に見舞われた。諏訪神社の下社神官の寓居に、一人少年が居た。
歳の割に筋骨逞しく聡明な目に淋しげな陰が映って居た。
先程からしきりに書物に読み耽って居る。
暫くすると入口の引き戸に人の気配がする。
「若、間もなく夕餉でござる。」
一人部屋に篭る若者が、気掛かりらしく、余計な事とは知りながら。
「爺。」
「何か。」
「人は何の為に生きて居るのであろうか。」
老爺は言葉を詰まらせ
「な、何の出し抜けに。」「……。」
「何か思い詰められて居られるようで。」
「ははっ。詰まらぬ話しよ。」
「ま、話して下され。」
「では聞くが、わしの父上は何で死んだのじゃろう。」老人は急に姿勢を改める
と。
「義朝公がお隠れなさり、御父君、義賢様が憎き義平奴に討ち取られ…。」
「判って居る。その様な事は。お前達に幾度尋ねたか。」
「…。」
「我ら武士の子と生まれたれば、戦で死すは日常茶飯。しかし、同じく源氏の子
と生まれ、何故相殺め合わねば成らぬのであろうか。」
老爺の顔に、嗚呼そこまで成長されたか。と云う感慨でわなわなと震えを垣間見
てとれた。
「若爺も早四十七。若と同じく武士の家に生まれ、今では山里の社に仕える一神
官に過ぎませぬが、我が敷島は、天地開闢以来大君の治しめす国。天神地きに心
を一つそれが倭の民草の生きさまと爺は心得まする。」「…。」
「しかるに我が世の春とばかりに、平家の専横ぶりは元々武人とも思えぬ逸脱ぶ
り。これを諌めるのが我々源氏の役目。」「…。」
「常に如何に有ろうとも、大御心に添い奉るのが帝辺の武人。強いて申せば大御
心と共に国を治しめすのが若のお役目と爺は信じ居るものにござりまする。」
「はっはっは。」
「…。」
「そんな大それた事を此わし、青二才に出来様筈も無い。」
すると老爺は澄んだ目を向けると、
「しいっ。」
「…。」
「此話しは時代に選ばれし若者の志の在り方一つでござる。」
「わしはこの通り、親も兄弟とも別れ、何の力も無い男ぞ。」
「いいえ。貴方様には使命がござる。そして力量が、ご祖先から受け継いだ大切
な役目がござる今はご自重くだされ。」
「耐え難きを耐える。それが真の男でござる。」
「…。」
「いあ〜っ。」
「どうどうどう。」
白い砂煙りを上げて、斑の馬が駆ける。馬上高く操るのは十七歳程の若者。
背から一本の矢を引き抜くと、愛馬を走らせ乍、的を射始めた。
「いあ〜っ。」
ばしっと音を立てて、二枚の的が宙に舞う。
「見事。」
数名の家来達が喝采を送った。
その時、もう一頭の若駒が走り寄って来た。
「や、誰じゃ。」
「又、木曾御岳のお天馬じゃ。」
「いや〜。」
男装束を身にまとい、
美しく華麗に馬を駆けさす乙女が居た。
「何とまあ男勝りとは此事よ。はっはっは。」
男達の注目も、
嘲笑も意に介さない。
「いえっ。」
ばしっと一枚、二枚目は残念にも外れてしまった。
「気負い過ぎじゃ。」
見て居た先程の若者が、可笑し気に笑った。
馬上凛々しい乙女は、
無言で人々の前を引き返して行った。
きりりと結んだ朱い唇に、口惜しい思いが見て取れた。
「はっはっは。」
初老の家来が惚け顔で
「殿。良うござったなあ、二枚と一枚じゃ、勝負は有ったもの。」
「ふんっ。」
若者は顔を赤らめて、
そっぽを向いたとか。
金刺の寓居に旅僧が訪れた。
季節は三月半ば、木曾路にも遅い春がやって来たと見えて、山々の雪解け水の音
が眠気を誘った。
細い山道が延々と続くなか揚々訪ね歩いて来た。
「おうおう、道春殿。」
「いや、無沙汰でした。」「いや、こちらこそ。」
「で、若は如何で。」
「三郎。若をお呼びして参れ。」
「はっ。」
小者が引き下がって行った。
「若も恙無くござる。」
「それは上々。」
「して、都は。」
「そうそう。面白い話しがござってのう。」
「ほれ、鞍馬山の御曹子。「おうおう、牛若殿か。」金刺老も懐かしそうに目を
細めた。
「道春か。」
「あ、若。先程辿り着きました。」
「何の噂じゃ。」
「はい。若殿のお従兄弟の…。」
若者は少々眉を険しくすると、
「頼朝殿か。」
「いいえ、鞍馬の…。」
「ああ、稚児共の話しか。」
「ところが流石、源氏総大将嫡流でごさいます…。」すると金刺老が道春に目配せをした。
「ははっ。流石は若と血筋がお近い。頼朝様も伏龍の如し。若殿も何れ劣らぬ…
。ほれ、牛若殿は未だ幼い…。」
追従も効かない年頃故。「ふん。そうか。で如何致した。」
「はっ、それが牛若様は、とうとうお山を抜け出されましたそうで。」
突然若者の目が怪しく光った。
「ふっ。抜け駆けか。」
「はっ。」
「奴め。稚児の分際と思いきや、中々やりおる。」
一族の中でも似たような境遇の牛若丸に敵愾心を持つのは若者として当然の事だ
った。
不思議な巡り会わせで源氏の末裔源氏の主流である遺児達の境遇では有った。
平家としては将来の不安要因として極力抑えねばならなかった。
頼朝、典頼、義仲、義経。きら星の如き源氏の子達。境遇は皆同じ籠の鳥。親の
顔さえ知らぬ哀れなもので有った。
「えいっ」
「えいっ」
「えいっ」
「気合い。」
「うお〜っ。」
「えいっ」
木曾の谷間に
寒気を引き裂くような掛け声がこだまする。
「それ〜迄〜。」
「よしっ。」
「それでは十人抜き。」
「…。」
「若、これは源氏総軍を引きいて最後迄大将が生き残る大切な修業。」
「判っておる。」
「大将が生き残る為。源氏のさむい共が何十、いや、数千の生命を落とす。甚だ
恐ろしい事でござる。家来も命懸けなら御大将も死に物狂いでござる。」
「判ってござる。」
「では。」
「御大将と思わず気を入れて打ち込め。」
片隅でそれを聞いて居た武術の師範役の古老が、
「かっはっはっはっは。」枯れた声で可笑しそうにわらった。
「殿お覚悟。そりゃ〜っ。」
「むっ。待て。」
「待ては有りませぬぞ。」「ほれ。殿を負かせ〜。」「な、何と卑怯な。」
「若、戦陣に卑怯はござらん。」
「はっはっは。」
またもや失笑を招いてしまう。
「生きるか死すか。」
「その意気でござる。」
一族総出の稽古である。やんやの大賑わいの中、遠目でじっと若者を見つめる人
影が有った。
その名を巴と云った。
鉛色の空を小雪がしんしんと降って居た。
遠くで山犬か狼かどちらとも判らぬ獣の遠吠えが続く。
すると風上の方から
「こふっ、こふっ」
と咳込むような声が
聞こえて来た。
「親父だよ。」
「つ…」
「動くな。」
野太い枯れた声が制した。木曾谷の厳しい冬の掟に
従はねば、
人であろうと、
獣であろうと、
明るい日の目を見る事は
出来ないのである。
殺すか殺されるかなのである。
「おっ。」
「どうした。」
爺が囁く。
「手負いらしい親父め。」「気をつけろ。」
「行けっ。」
その合図で
狩猟犬は飛び出した。
キャンキャンと吠え立て乍手負いの熊を追い込んだ。「それっ。」
殺気だった一団は一斉に動き出す。
「一番は俺だ。」
流石、弓矢の名手だ。一の矢は空を切って熊の肩に刺さった。
「ギャウン」
獣は朱い血飛沫を撒き乍狂奔した。
猛烈な勢いで突進して来る。
「若。」
「よし。」
三人張りの剛弓に矢をつがえると、
息を溜めて、
きりきりと絞った。
「びびゅん」
放たれた矢は凍り着いた空気を引き裂きながら、
あっという間に暴れ熊の眉間を貫いた。
「ぐぉ〜っ」
静寂の後、
「やった。」
「うっほ〜い。」
獣は断末魔の末、枯木の様にどうっと倒れた。
「…。」
「よし。」
暗い洞窟に男達が
暖を求めて集まった。
入口は低く狭いが
入り込んで行くと
次第に天井が高く成って来る。
「随分深い穴だ。」
「天然の穴でござる。」
「まあ、お座り下され。」「誰か薪を燃やせ。」
「へいっ。」
気の利いた小者が火を焼べ始めた。
「ごほっ、ごほっ。」
「う〜目に滲みる。」
「干し飯が有るであろう。」
「へいっ。」
「ところで若。」
「何じゃ。
「ま、お話しはこれ位にして。ひもじいもんですな。」
「…。」
「しかし、本当の戦は敵を殺し、屍を喰らう性根が必要ですぞ。さなくばこちら
が喰われる。」
「…。」
「はっはっは。本当に屍を喰いやしませぬが。はっはっは。」
その時、洞の中に風が吹き込んで、一瞬暗闇となった。
「我等、武士に生まれ落ちれば一生修羅の世界。そう、この洞穴同様何処までも
闇の中ぞ。只救いは親子の情。父子の絆だけは来世迄変わらぬもの。」
「…。」
「若。み佛を心に。心の中に祭られよ。」
老爺は若者の手の中にそっと数珠を握らせた。
「いやぁ〜っ。」
馬が駆ける。
広大な平原を。
山々は真っ白な雪を被り、紫の煙りを靡かせ、
大地を駆け抜ける若者を
静かに見下ろして居た。
走る
走る
猛烈な勢いで駆ける馬上には若者が居た。
広い湖の岸辺は未だ未だ寒さで身も凍り付くようだった。
二里は駆けたで有ろうか。若者の行手に見えるのは
岸辺の真っ白な鳥の群れる様だった。
その中にじっと佇み
無心に餌を撒く乙女。
「どうどうっ。」
白い浪の華が舞い散る様に無数の鳥たちが
乱れ飛びながら
散って行く。
「殿。」
「また会ったな。」
「お咎めを…」
「何の事だ。」
「私の出過ぎた事を…」
「はっはっは。」
「…」
「面白い。」
「面白うございますか。」「ああ…」
「あの…。」
「何だ。」
淡々とした会話の中に
何かしらは可笑しさを感じ二人は久しぶりに笑ったような気がした。
「あの…」
「また会おう。」
乙女には若者が眩しく感じられた。
若者が再び馬上の人に成ると、彼方の方から数頭の馬が駆けて来た。
「殿。」
無数の白鳥の群れが、
舞い散る吹雪の様に散って行った。
治承元年頃夏木曾山中の裏街道を十人程の旅人一団が居た。
彼らは逢坂の関から近江、琵琶湖を渡り越前を通り、加賀、安宅の関を無事通り
抜けて来た。
大きな成りをした山伏姿の男と、童の如き若者を含め、皆一癖も二癖も有りそう
な男共で有った。
「暑い暑いぞ。」
半分位は上半身剥き出しの半裸体で、大汗をかきながら、杉木立の細い路を
歩いていた。
肩には大荷物。
芝居の様な格好の良いものでは無かった。
山伏やら野武士やら、
人足やら、
そんな男達が
「うんうん。」
言い乍、
山から山へと
歩いて行くのは
実に奇妙な光景かも
知れなかった。
その土地その土地で
人づてに知った案内をこうては未踏の山々を
踏破して行った。
こんな奇妙な一行を率いるのは一体何者なので有ろうか。
大きな大将面の男が小さな若者に近寄って歩きながら語った。
「遠うございますな。」
「ふんっ。疲れたか。」
「い、いえ。」
「疲れたなら置いて行っても、わしは構わんが。」
「あっはっはっは。それは殺生と云うものでござる。この弁慶一の家来。何の疲
れたなどこれしき。」
暫くすると
「弁慶、少し顎が出ては居ないか。」
大男の弁慶は
苦笑いをしながら
「め、滅相もない。剛力無双で鳴らした、この武蔵坊牛若…いや失礼。殿の御前
にて何の疲れたなどを…。なあ、おい。」
隣り合わせの男に同意を求めた。
「はっはっは。」
「…。」
「面白い男だ。」
「へいっ。」
同じ頃
木曾山中を移動する
もう一つの一団が居た。
物見の男が早足で帰って来た。
「おうっ。剛介どうじゃった。」
「はっ、この三里程先を何でも山伏共が通りかかったそうで。」
「何、山伏とな。」
「何しろ安宅の関所方面から、汚い形をした坊主共で。」
「うつけ者、形は良い。奴かも知れん。」
「そうでございましょうか。」
「参るぞ。」
「あ、行かれるので。」
「当たり前だ。何としてもあ奴の顔は見ておきたい。」
「うつけ者、形は良い。奴かも知れん。」
「そうでございましょうか。」
「参るぞ。」
「あ、行かれるので。」
「当たり前だ。何としてもあ奴の顔は見ておきたい。」
若者の目はぎらりと妖しく光った。
その勢いには誰一人として逆らえなかった。
もう、そろそろ陽も西に傾き始めた。
「急げ。」
「おうっ。」
街道を山伏姿の男が
急ぎ足でやって来る。
山里の境の道祖神の前で
仲間と落ちあった。
「どうした。」
「安宅の関は抜けたが、何やら怪しげな者達が気に掛かる。」
「よし判った。殿、今宵の内に一山越しましょうぞ。」
「うむ。判った任せよう。」
一時体を休めると一行は用心深く山道を登り始めた。「奥州の地は実に遠い。」
「焦らない事にござりまする。」
「判った。」
陽は西に傾き、山々は茜色に染まった。
「む。」
「如何為された。」
その暮れ行く山並みを見つめ、何故か常ならぬ寂寥感に襲われた義経だった。
「何故なのか。」
「木曾源氏とな。」
「殿と同じ血を引かれた。そう、木曾なれば義仲様が居わす筈。」
すると若者は何かしら魂の琴線に触れた様な、
ほっと溜息をついた。
「義仲殿か。」
「…。」
「しかし、平氏の追っ手も並大抵では無い。ほどほどに火の始末をせよ。」
「はっ。」
その時向かいの山中では、慌ただしい松明の明かりが見え隠れしていた。
「殿。何やら見えませぬか。」
「何。何処じゃ。」
男は谷を隔てた遥か彼方の山間を指差した。
「こんな山中、蛍火で無し、人魂で無し、猟師の焚火やも知れん。」
「もしかして都の牛若殿かも知れませぬ。」
「であれば一目きゃ奴を見て見たい。」
「しかし、平家の追っ手やも知れぬ。」
春になり
百花繚乱の良い季節が訪れる。
都でも賢き辺りは
浮かない顔の人々が
集まっては
思案に暮れる日々を送っていた。
口では申さず、
目で物を云い。
耳で聞いても
知らぬ存ぜぬ。
「嗚呼、何故世の中は、かく有り続けるので有ろうか。」
思案の有りったけを
全て吐露すれば、
それは全く爽快な事だったろう。
「どう為された。」
「はあ、主の事です。平家の横暴ぶりにお怒りでございました。」
「それはそれは。相手が悪い。」
「口を覆うて堪える程に心の病に罹られて…」
「それはご不憫に」
すると隣の翁が
「これ、声が大きい。」
「…」
「もし、あ奴らに聞かれたらわしとて危ういわい。」「すまぬ、すまぬ。」
上は殿上人から、下は雑人迄、皆身を縮めて恐れを為した。
何でも菅原の某々が仲間を集め、内々で平家打倒を企てたとか、有らぬ噂で夜討
ちに会ったとか。
平氏の血気に逸る若侍達が押し寄せては、無実の者でも成敗したとか。噂は尾鰭
が付いて都中を駆け巡った。
そんな無慈悲な、物騒な話しが語られぬ日は無かった。
日毎に宵の空を飾る月も朱い血の色に染まって見えたと云う。
「平家を何とかせよ。」
民衆はもとより殿上の人々も、
口に出来ぬ憤りを平家に向けていたが、どう仕様
も無いのが現実であった。そう云った不平不満、
怨嗟の声が、やがて平家ついと
うへの掛け声に成ったので有ろう。
古都の賑わいも宵の内。
深夜になると都大路も人っ子一人歩いては居なかった。
治承四年四月九日。
今なら五月、
果たして天気は穏やかだったのであろか
平家討つべしの令旨は出た。
源為義の末子十郎義盛、
名を改め行家は密命を受けて紀伊熊野の新宮を出たのは
宵の頃であろうか。
暗い夜空に丸い月が行家と供の二人を明るく照らして居た。
彼らはその月明かりを避けて、
木陰を縫う様にして歩いて行った。
しかしその動きはすでに
熊野別当から六波羅へと知らせは届いて居た。
「これ、手筈は良いの。」
福原の入道は烈火の如く怒った。
「目指すは三条通りの大門じゃ。」
「行けっ、侮るな。」
「うお〜うお〜。」
討手は源兼綱、源光長。
当時の武士は源平混成だったらしい。
清盛の号令は頼政
へと漏れ伝わった。
「宮が危ない。お守り致せ」
「宮様、急ぎ三井寺へ…」
「あい判った。」
高倉の宮は平家の大軍勢を前に三井寺を頼りとして、
御所を、そっと抜け出された。
夜の暗闇を輿に揺られて、
宮もさぞかし心細い思いで有られたでしょう。
「待て待て待て。」
突然闇の向こうに沢山の松明が現れた。
「南無さん。」
「平氏じゃ。」
その時、宮の近侍が威喝した。
「控えおろう。」
「…」
「何者か。」
すると闇の中にきらきら
光る目が、
「高倉の宮殿下でございましたか。」
「我等は三井寺の大衆。
皆高倉の宮殿下の膝下でござる。」
それを耳にされた宮のお顔に光が射した。
「おうっ。皆の者、殿下をお守りしようぞ。」
明るいざわめきが群衆の後ろの方へ広がって行った。
「急げ、何やらやって来るぞ。」
一行は松明の灯を僅かのみとし、
一方は三井寺へ、
松明を持った小者数組を四方へ散らした。
「ご心配には及びませぬ。」
「判っておる。」
未明の寺は無言で珍客を迎えた。
三井寺は何事も無かった様に、
いつもの勤行が始まっていた。
朝も白んで来た頃、
高倉の宮は三井寺の奥の院へと迎えられ、
高僧達の挨拶を受けられた。
「先ずは堅苦しい挨拶よりも、
おう、朝餉の支度が調っております。」
宮は目を潤ませて、
「大変忝なく思うぞ。」
「いいえ、寺の朝餉故何のおもてなしも参らせず。」
「なに、痛み入るぞ。」
「有難き幸せに存じます。」
「我等は常に思いは一つ。」
「同じく入道といえども六波羅の俄入道とは訳が違う。」
「御意。」
「むっはっはっは。」
宮の朝餉も久々に笑い声が絶え無かった。
「イェイッ。」
「ヤッ。」
「チェーイッ。」
古木の生い茂る木曽山中で
必死に木剣を打ち込む声が聞こえて来た。
陽は未だ昇らず、
未明の暗がりの中に月明かりを頼りに一人の若者がいた。
引き締まった真っ白い体から湯気を立て
何を考えて居るのか。
東の空が白んで来る。
その頃細い坂道を一人の女が登って来た。
「イェイッ。」
枯木を敵に見立て
打ち込むその音は、
並の剣術の稽古ではなかった、
一本の木片が弾かれて、
有らぬ方へ飛んで行った。
「ん。おう来てたか。」
「…」
「済まん。」
「いいえ。」
女はそっと握り飯と
竹の水筒を差し出した。
「はっはっは。」
「どう居たしました。」
「はっはっは。」
「何が可笑しいのですか。」
「いつかのお前と、こうも違う。」
女はぷいと顔を背けた。
数ヶ月前の事らしい。
観衆の前での技競べを女は思い出した。
そして突然耳元を朱く染めた。
「はっはっは」
若者の笑い声が林の中に
からからと響いた。
「女傑とは良く云ったもの。」
「まあ。」
それを聞いて女は
真っ赤に成って怒った。
「怒るで無い。尊称だ。」
「まあ。知りませぬ。」
女は握り飯と若者を置いて足早に帰ってしまった。
「はっはっは。」
やがて若者は身仕度を済ませると、上機嫌で帰ったとか。
「殿、また朝稽古でござりまするか。」
「ああ。」
「稽古は良うござりますがお供を付けなされ。」
「はっはっは。心配すな。」
「殿にもしもの事が有りますれば
私は並み居る源氏の朋がらに何と…。」
「…。」
初老の忠誠心を
やゆするのも大人気無い、
とそんな分別を、
もう弁える年頃であろうか。
高倉の宮は三井寺の
手厚い守護となり
源頼政親子が馳せ参じました。
「叡山へ申す。高倉の宮の元へ馳せ参じたまえ。」
「興福寺へ申す。高倉の殿下を我等と共にお救い申そう。」
三井寺から数名の使いが駆け付けたが、
中々志を分かつ事は出来なかった。
「我等はここに及んで、
如何に平氏を討つべきか。」
先手必勝、先ず機先を制覇すべし。
三井寺の軍勢は怒涛の如く押し寄せると思いきや、
夜討ちのつもりが気勢を削がれ、
機動力を生かせぬまま夜は白々と明けてしまった。
「無念じゃ。三井寺は我等の頼りに成らず!」
三井寺の血気に逸った若い僧達と頼政膝下の混成部隊は、
僅か千名程で一路古都の奈良へ向かった。
「よし休息じゃ。」
ところが、ここに折あしく六波羅の軍勢が押し寄せて来た。
宇治川に沿う一帯は
平家の六波羅軍と源氏の猛者やら僧兵が入り乱れ、
正しく修羅の巷と化した。
平家の剛弓が放つ矢が、雨の様に降って来た。
平家の六波羅軍と源氏の猛者やら僧兵が入り乱れ、
正しく修羅の巷と化した。
平家の剛弓が放つ矢が、
雨の様に降って来た。
源氏、三井寺勢の強者達がばたばたと
打ち倒されていった。
とうとう混成部隊は、
一命を賭けて宮を奈良へとお逃がしする事だけは果たし得た。
頼政親子もこれが最後と良く戦い抜きました。
「平家に非ずば人に非ず」
と云われた時代も此頃より足元が危うく成り始めたの
で有ろうか。
時代は治承四年五月の事だった。
福原遷都の支度で平家も混乱していた頃、
諸国では平家追い落としの波が、
ひたひたと広がって居た。
「平家討つべし」
八幡太郎義家の嫡流、
源氏の惣領此に有り。
長い放浪を重ね伊豆霊峰冨士の麓に
居を構えたのは、義朝の子頼朝公だった。
「客人でございます。」
「誰じゃ。」
「行家様。十郎義盛様でござりまする。」
「…通せ。」
「はっ。」
感情を一切面に現さない公だった。
やがて、しずしずと廊下を歩く足音が聞こえて来た。
「行家殿か。」
先に声をかけられて
「ご尊顔を拝し申す。行家でござる。」
氷の様な冷ややかな顔に対して、
恰も天衣無縫な行家を頼朝は少々苛立ちを覚え
た様子だった。「わざわざ都より何用で…。」
「はっはっは。ご無礼をつかまつた。」
「…。」
「それを存じない頼朝公とも思えませぬ。」
「行家殿慎み給え。」
「いや。良い。」
「はっ。」
「行家殿は同じく源氏の近しい身内。
令旨の事であろう。」
すかさず行家は居を正した。
「我等、源氏一党、帝辺に侍す者として
平氏の専横ぶりは黙するあたわず。
恐れ多くも高倉の宮より発せられし令旨、
些かにもお忘れ無きよう。」
と宮より下されたる書状を差し上げた。
「申す迄も無き事。」
些か頼朝は気分を害した様に行家を睨め付けた。
「これは要らぬ事を申し上げました。」
行家は頼朝の鋭い視線に晒され、
全身から血の気が引くのを感じた。
「かっはっはっは。」
「…。」
行家の狼狽ぶりに頼朝は急に何を感じたか、
行家に判る筈も無かった。
「行家殿、都より鄙びた東下りは如何で有ったかのう。」
行家は更に動転してしまった。
「東の国もま、また良いもので。」
「ほぉう。」
頼朝公さも感心した様に云った。
言葉とは別に頼朝の慇懃で醒めた視線に戸惑う行家であった。
頼朝公の屋敷に一泊し、
丁重な挨拶で去った行家の心に最早、
頼朝の事は無かった。
「さて、義仲はどうして居るか。」
頼朝より血の繋がりでは近い義仲への
叔父としての情愛は格別なものであったろう。
行家は甥子義仲の幻影を追い求め旅路を急ぐのであった。
しかし行家を送った高倉の宮の熱いお心も
機が熟せず宮をお守りすべく
立ち上がった頼政父子の活躍も孤立無援の有様。
宇治川での戦いは平家の圧倒的勝利に終わった。
高倉の宮は奈良へ落ちられ
興福寺の助けもとどかずにお隠れになられ、
淋しいご生涯と成りました。
冬の木曽路は厳寒という言葉そのものである。
山伏姿の男が二人の連れと共に
腰まで雪に浸かって難渋していた。
「どうもこうも成らん。」
「堪えまするなぁ。」
すると連れの男が
「行家様、人が。」
大男が全身雪まみれで、
馬橇を曳いて居た。
ところが橇が轍に嵌まって身動きが出来ないで居た。
「よしっ。」
「やるか。」
「やむを得ない。」
三人は大雪を掻き分け
掻き分け
馬橇に近づいて、
大男の加勢を始めた。
「おうっ。済まん。」
三人が渾身の力で橇を押す、
馬は狂奔するや
「がしっ。」
と鈍い音を立てて
橇は動き出した。
「おひょ〜っ」
「はっはっはっは。」
「いやぁ〜ったまげた。」
「どなたか存じ上げませんが、痛み入ります。」
「いやぁ、礼には及ばん。」
「力仕事は朝飯前。」
「おっ行家様。朝飯と聞いたら腹の虫が鳴き申したぞ。」
「良い鳴き声じゃ。」
「腹に滲み入る良いお声じゃのう。」
それを聞いて大男は、
「おう、お客人。これは気が付きませんで。」
「お客?」
「こんなに世話になって捨て置いたら罰が当たる。」
「まあまあ。」
「いや、此先半里程に田舎家がござる。」
「行家さま。」
「ご厄介成りましょうか。」