階段に残る声
階段に残る声
第一部 先生は覚えている
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一
階段は階段
三浦理恵は、春になると階段を見る。
校舎の中央にある、踊り場つきの階段。
手すりの冷たさ。
壁の角に残った古い傷。
上履きの底が、段差を叩く軽い音。
それらは、ただの学校の一部だった。
けれど三浦には、時々、そこに別の声が残っているように思える。
六年前。
佐藤家事件。
父、長女、長男が死亡し、母親だけが生き残ったあの事件は、しばらくの間、テレビや新聞で繰り返し報じられた。
三浦が担任していたのは、長男の和馬だった。
和馬は、夏の初めから欠席が増えた。
父親からは、夏風邪だと聞いていた。
無理をさせたくない。
母親の具合もよくない。
家で様子を見ている。
その言葉を、三浦は信じた。
信じたというより、信じてしまった。
事件のあと、警察と弁護士と裁判所の中で、三浦は何度も同じことを聞かれた。
和馬の様子に変化はなかったか。
家庭に異常はなかったか。
姉の遥について、何か覚えていないか。
遥は、しっかりした子だった。
三浦は、そう答えた。
弟のことをよく見ていた。
落ち着いていて、大人びていた。
学校でも評判は悪くなかった。
その言葉が、裁判所の硬い空気の中で、自分の口から出た時、三浦は初めて怖くなった。
しっかりした子。
それは、何も見ていなかった大人にとって、都合のいい言葉だったのではないか。
事件後、遥の自由帳が証拠の一部として示された。
その中の一文を、三浦は今でも覚えている。
階段は階段。
落ちる人がいるだけ。
短い文だった。
子供の字だった。
けれど、その短さが、三浦の中に残った。
怒りも、悲しみも、後悔もない。
ただ、物の説明のように書かれていた。
階段は階段。
落ちる人がいるだけ。
それから三浦は、階段を見るようになった。
見たからといって、何かがわかるわけではない。
見ていたからといって、誰かを救えるわけでもない。
それでも、見ないことが怖くなった。
春休み明けの職員会議で、新しい名簿が配られた。
三年二組。
担任欄に、三浦理恵。
児童名簿の中に、一つの名前があった。
西野凛。
その横に、学年主任の藤崎が鉛筆で小さな印をつけていた。
「三浦先生」
藤崎が声を落とした。
「西野さんについて、少し共有しておきます」
「はい」
「弟さんが一年生にいます。西野悠斗くんです」
三浦は別紙の一年生名簿を見た。
一年一組。
西野悠斗。
「悠斗くんの入学時の生活調査票に、自宅の階段で転んだことがあり、階段を怖がることがあると書かれていました」
階段。
三浦は、その言葉だけを少し強く聞いた。
藤崎は続けた。
「大きな怪我ではなかったようですが、移動の時に立ち止まることがあるかもしれないそうです。一年の木村先生には共有済みです」
「家庭の方は?」
「今のところ、学校として強く介入する段階ではありません。ただ、お母さんは少し疲れている印象があります。お父さんは仕事が忙しいようです」
藤崎は資料をめくった。
「西野凛さんは、落ち着いた子です。成績も問題ありません。弟さんのこともよく見ているそうです」
弟をよく見ている。
三浦の指が、紙の端で止まった。
藤崎はそれに気づいたのか、気づかないふりをしたのか、すぐに次の児童の話へ移った。
会議が終わり、三浦は教室へ向かった。
廊下の窓から、校庭の桜が見えた。
もうほとんど散っている。
花びらが、階段の下の排水溝に集まっていた。
三浦は中央階段の前で足を止めた。
新学期の朝の校舎は、まだ子供の声が少ない。
三浦は手すりに触れた。
冷たかった。
階段は階段。
そう思おうとして、思えなかった。
三浦は息を吐き、三年二組の教室へ入った。
⸻
二
三年二組
始業式の日、三年二組の子供たちは、少し緊張した顔で教室に入ってきた。
新しい席。
新しい担任。
新しい教科書の匂い。
子供たちは落ち着かない。
三浦は教卓の前に立ち、一人ずつ名前を呼んだ。
「森下拓也くん」
「はい」
後ろの方の席で、よく通る返事がした。
拓也は座っている時も、足先だけが落ち着いていなかった。
隣の子に何かを言って笑わせている。
「杉崎真央さん」
「はい」
真央は背筋を伸ばして返事をした。
声が明るい。
三浦と目が合うと、にこっと笑った。
「小田切蓮くん」
「はい」
蓮は静かに返事をした。
表情はあまり変わらない。
けれど、目はよく動いていた。
「高瀬美月さん」
「はい」
美月は本を机の端にまっすぐ置いていた。
返事は小さかったが、聞き取りやすかった。
最後の方で、その名前を呼んだ。
「西野凛さん」
「はい」
凛は前から三列目、窓側の席に座っていた。
声は普通だった。
大きすぎず、小さすぎず。
緊張しているようにも、していないようにも見えない。
黒い髪。
白い襟。
机の上に揃えられた筆箱と連絡帳。
三浦は一瞬だけ凛を見た。
特別なところはない。
そう思おうとした。
全員の名前を呼び終えると、教室に少しだけざわめきが戻った。
自己紹介の時間にした。
好きな食べ物。
好きな遊び。
今年がんばりたいこと。
拓也は立ち上がるなり言った。
「好きなことはサッカーです。あと、ドッジボールで森下に当てられたら終わりだと思ってください」
自分で自分の名字を言って、周りを笑わせた。
真央は言った。
「好きなものはシール集めです。友達をたくさん作りたいです」
蓮は短く言った。
「本を読むのが好きです。よろしくお願いします」
美月は言った。
「図書室に行くのが好きです。今年も図書委員をやりたいです」
それから凛の番になった。
凛は立ち上がった。
「西野凛です。好きな教科は国語です。よろしくお願いします」
それだけだった。
拓也が小さく言った。
「短っ」
周りの数人が少し笑った。
凛は座った。
笑った子たちの方を見なかった。
三浦は注意しようか迷った。
けれど、その瞬間にはもう次の子が立ち上がっていた。
授業が終わる頃、真央が凛に声をかけていた。
「凛ちゃんって、弟くん一年生?」
凛はランドセルを閉めながら頷いた。
「うん」
「かわいい?」
凛は少し考えた。
「普通」
真央は笑った。
「普通って何?」
凛は答えなかった。
その横を、美月が通りかかった。
「西野さん」
凛が顔を上げる。
「図書委員、やる?」
凛は少しだけ間を置いた。
「まだ決めてない」
「そっか。やるなら一緒に出そう」
美月はそれだけ言って、自分の席に戻った。
踏み込まない誘い方だった。
三浦は、そのやり取りを見ていた。
見ていたことに気づいて、目を逸らした。
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三
先生の目
新学期の最初の一週間は、慌ただしい。
係を決め、教科書に名前を書かせ、忘れ物の確認をし、給食当番を決める。
子供たちは少しずつ教室の中の場所を見つけていく。
拓也はすぐに何人かの男子と固まった。
真央は女子の間を器用に行き来した。
蓮は一人でいる時間が多いが、誰かに話しかけられれば返す。
美月は休み時間になると、本を持って図書室へ向かった。
凛は、誰かと強くくっつくわけではなかった。
けれど、一人で浮いているわけでもない。
真央に話しかけられれば答える。
美月に誘われれば図書室へ行く。
給食当番も普通にこなす。
普通。
三浦は何度も、自分にそう言い聞かせた。
凛は普通の三年生だ。
ある日の昼休み。
三浦が連絡帳を書いていると、教室の後ろで拓也の声がした。
「西野ってさ、怒ったことあんの?」
凛は給食袋をたたんでいた。
「ある」
「え、いつ?」
「覚えてない」
拓也は笑った。
「覚えてないってことは、ないんじゃん」
周りの男子が笑う。
真央も少し笑ったが、すぐ凛の顔を見て言った。
「でも凛ちゃん、怒らなそうだよね」
凛は給食袋をランドセルに入れた。
「怒る時は怒る」
「へえ」
拓也は椅子を後ろに傾けた。
「怒ってみてよ」
凛は何も言わなかった。
美月が教室の入り口から声をかけた。
「凛ちゃん、図書室」
凛は立ち上がった。
「うん」
拓也が言った。
「逃げた」
三浦はそこで顔を上げた。
「森下くん」
拓也はすぐに椅子を戻した。
「はい」
「椅子、危ないよ」
「すみません」
三浦はそれ以上言わなかった。
凛と美月は教室を出ていった。
真央が三浦の方を見ていた。
目が合うと、真央は小さく笑った。
「先生」
「なに?」
「先生って、凛ちゃんのこと、よく見てますよね」
教室の音が、一瞬遠くなった気がした。
三浦はペンを置いた。
「そう見える?」
「はい」
真央は悪気のない顔で言った。
「なんか、気にしてるのかなって」
教師が特定の児童を見ることはある。
体調が悪そうな子。
友達関係に困っている子。
家庭に不安がある子。
それ自体は悪いことではない。
けれど、子供たちは大人が思っているよりも、よく見ている。
誰が見られているか。
誰が気にされているか。
誰が特別なのか。
三浦は言った。
「先生は、みんなのことを見てるよ」
真央は少し首を傾げた。
「でも、凛ちゃんは多め」
その言い方が軽かったので、周りの子たちは気にしていないようだった。
けれど三浦には、それが小さな針のように残った。
その日の放課後、三浦は記録ノートを開いた。
最初のページに、こう書いた。
今日、見たこと。
その下に、続けようとして手が止まった。
西野凛を見すぎているかもしれない。
そう書きかけて、線を引いた。
代わりに書いた。
子供たちは、教師の視線を見ている。
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四
図書委員
係決めの日、美月は予定通り図書委員に手を挙げた。
凛も少し遅れて手を挙げた。
三浦は二人の名前を黒板に書いた。
高瀬美月。
西野凛。
図書委員の仕事は、休み時間の貸出補助と、本棚の整理だった。
最初の当番日、三浦は廊下から図書室を覗いた。
美月はカウンターで貸出票を揃えていた。
凛は返却された本を棚に戻していた。
二人はほとんど話していなかった。
けれど、気まずそうでもない。
美月が言った。
「それ、三段目」
凛が本の背表紙を見て、三段目に戻す。
「こっちは?」
「奥。歴史のところ」
「わかった」
それだけ。
友達というより、同じ作業をしている二人だった。
三浦は少し安心した。
教室に戻ろうとした時、背後から声がした。
「三浦先生」
振り返ると、美月が立っていた。
「図書室、見に来たんですか」
「うん。初日だから」
美月は三浦を見上げた。
「凛ちゃんのことですか」
三浦は言葉に詰まった。
「二人の様子を見に来たんだよ」
「そうですか」
美月はそれ以上追及しなかった。
けれど、少しだけ間を置いて言った。
「先生がそうやって見ると、みんなも見ると思います」
廊下の向こうで、低学年の子供たちが走っている。
別の教師が注意する声が響いた。
三浦は美月を見た。
「どういう意味?」
美月はまばたきをした。
「そのままです」
「先生が見ると、みんなも見る?」
「はい」
美月は静かな声で言った。
「凛ちゃん、見られるの嫌そうだから」
三浦は少し息を吐いた。
「そうだね。気をつける」
美月は頷いた。
「お願いします」
それだけ言って、図書室へ戻っていった。
三浦は廊下に立ったまま、美月の背中を見送った。
鋭い子だと思った。
凛のそばに、ああいう子がいるなら。
三浦はそう思った。
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五
悠斗
一年生の教室は、三年生の教室よりもずっと賑やかだった。
廊下に掲示された絵には、大きな太陽や、赤いランドセルや、家族の顔が描かれている。
その中に、西野悠斗の絵があった。
題は「ぼくのいえ」。
家の中に、階段が描かれていた。
一階と二階をつなぐ、まっすぐな階段。
三浦はそれを見て、少しだけ足を止めた。
階段の下に、小さな男の子がいる。
上の方に、長い髪の女の子がいる。
凛だろうか。
三浦が見ていると、一年一組の担任、木村が声をかけてきた。
「三浦先生」
「すみません、掲示見てました」
「西野くんのですか」
木村は絵を見て言った。
「悠斗くん、少し階段を怖がるんです」
「生活調査票の件、聞いてます」
「はい。入学前に家の階段で転んだことがあるそうで。本人はもう大丈夫って言うんですけど、移動の時に止まることがあります」
木村は少し声を落とした。
「あと、お姉ちゃんのことをよく言います」
「凛さん?」
「はい。忘れ物をすると、『凛ちゃんに聞けばわかる』って。宿題も、『凛ちゃんが見た』とか」
三浦は頷いた。
「頼っているんですね」
「そうですね。ただ、少し頼りすぎかなと思う時もあります」
木村は苦笑した。
「一年生ですからね。お姉ちゃんがいると、そうなる子も多いですけど」
その時、教室の中から悠斗が出てきた。
小柄な男の子だった。
三浦を見ると、一瞬立ち止まった。
木村が言った。
「悠斗くん、こちら三年二組の三浦先生。凛さんの先生だよ」
悠斗は小さく頭を下げた。
「こんにちは」
「こんにちは」
三浦が微笑むと、悠斗は木村の後ろに少し隠れた。
「凛ちゃん、いますか」
「今は教室かな」
「今日、帰り一緒です」
木村が言った。
「今日は下校班だよ。凛さんを待たなくても大丈夫」
悠斗は少し不安そうな顔をした。
「でも、凛ちゃんが」
そこで言葉が止まった。
三浦は続きを待ったが、悠斗は言わなかった。
木村が優しく言った。
「大丈夫。先生もいるから」
悠斗は頷いた。
けれど、その顔は大丈夫そうには見えなかった。
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六
見ているだけ
その日の帰り、三浦は昇降口で凛と悠斗を見かけた。
悠斗は上履き袋を片手に持ち、もう片方の手でランドセルの肩紐を握っていた。
凛は少し離れて立っている。
「凛ちゃん、これ」
悠斗が上履き袋を差し出した。
凛は受け取らなかった。
「自分で持って」
「重い」
「重くない」
「凛ちゃん持って」
「持たない」
悠斗は唇を尖らせた。
「じゃあ落とす」
凛は悠斗を見た。
睨んだわけではない。
ただ、顔を向けただけだった。
それだけで悠斗は、上履き袋を持ち直した。
「落とさない」
凛は言った。
「うん」
三浦は少し離れた場所から見ていた。
凛は悠斗に優しくないのだろうか。
そう思いかけて、すぐに自分を止めた。
上履き袋を持たないことは、優しくないことではない。
むしろ、持たせることが必要な時もある。
それでも、悠斗が凛の顔色を見たように見えたことが、三浦には引っかかった。
昇降口を出る直前、悠斗が急に駆け出そうとした。
凛が言った。
「走らない」
「なんで」
「転ぶから」
「転ばない」
「この前、転んだ」
悠斗は黙った。
凛は続けた。
「見てても、転ぶ時は転ぶ」
三浦は、その言葉を聞いた。
凛は淡々としていた。
責めているわけでも、脅しているわけでもない。
ただ、事実を言っているようだった。
悠斗は階段の方を見て、少しだけ足を遅くした。
凛はそれを確認するように見ていた。
止めるのではなく、見ている。
三浦はその姿に、理由のない不安を覚えた。
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七
心配してるだけ
真央は、凛に優しかった。
少なくとも、表面上はそう見えた。
「凛ちゃん、消しゴム落ちたよ」
「ありがとう」
「弟くん、一年生だよね。今日見たよ。かわいいね」
「うん」
「階段、大丈夫なの?」
凛の手が止まった。
「何が」
「だって、前に転んだんでしょ?」
凛は真央を見た。
真央は心配そうな顔をしていた。
「誰に聞いたの」
「え? みんな知ってるよ」
凛は何も言わなかった。
真央は慌てたように言った。
「ごめん。嫌だった?」
凛は首を振った。
「別に」
「私、心配してるだけだから」
その言葉は、真央の口癖のようだった。
昼休み、真央は別の女子にも同じように言っていた。
「凛ちゃんの家、ちょっと大変なのかなって。私、心配してるだけだよ」
その言葉は、やわらかい布に包まれているようだった。
けれど、布の中には針がある。
三浦はその場にいたが、すぐには止められなかった。
「杉崎さん」
声をかけると、真央は振り返った。
「はい」
「人の家のことや、きょうだいのことは、本人が話したくない時もあるよ」
「はい。すみません」
真央は素直に頭を下げた。
「でも、凛ちゃんが困ってたら助けたいなって思って」
悪い子ではない。
三浦はそう思った。
しかし、悪い子ではないことと、人を傷つけないことは同じではない。
その日の帰りの会で、三浦は全体に話した。
「友達の家のことや、きょうだいのことを、本人が話したくない時に無理に聞くのはやめましょう」
子供たちは「はい」と答えた。
凛は前を向いていた。
拓也は少しつまらなそうに鉛筆を回していた。
美月は机の上で指を組んでいた。
真央は凛の方をちらっと見た。
そして、小さな声で言った。
「やっぱり、凛ちゃんのことだ」
三浦には聞こえた。
凛にも、たぶん聞こえた。
⸻
八
家での役割
国語の時間に、三浦は「家での役割」という題で短い作文を書かせた。
家でしている手伝い。
任されていること。
自分が気をつけていること。
子供たちは思い思いに書き始めた。
拓也はすぐに手を挙げた。
「先生、ゴミ出しって役割ですか」
「役割です」
「でもたまにしかやってません」
「たまにでも、書いていいよ」
拓也は大きな字で書き始めた。
真央は妹の髪を乾かすことを書いていた。
蓮は、家の鍵を閉めたか確認することを書いていた。
美月は、夕食の前にテーブルを拭くことを書いていた。
凛は、しばらく鉛筆を持ったまま止まっていた。
三浦は教室を回りながら、凛の机の横を通った。
ノートには、まだ題名しか書かれていなかった。
家での役割
凛は窓の外を見ていた。
「書きにくい?」
三浦が小さく聞くと、凛は首を振った。
「書けます」
「そう」
三浦はその場を離れた。
しばらくして、凛は書き始めた。
授業の終わりにノートを集める。
放課後、三浦は職員室でそれを読んだ。
凛の作文は、短かった。
私は、悠斗の連絡帳を見ることがあります。
忘れ物があると、あとで困るからです。
悠斗は走ると転びます。
転ぶと泣きます。
泣くとお母さんが困ります。
だから、走らないように言います。
でも、聞かない時もあります。
見ていても、転ぶ時は転びます。
その時は、その時です。
三浦は最後の一文を、もう一度読んだ。
その時は、その時です。
子供の作文だった。
弟の世話を書いただけの、短い作文。
それなのに三浦の中で、別の文字が重なった。
階段は階段。
落ちる人がいるだけ。
違う。
三浦はすぐに思った。
凛は遥ではない。
この文も、遥の文ではない。
けれど、似ていると思ってしまった。
似ていると思ったのは、凛のせいなのか。
それとも、三浦のせいなのか。
職員室の窓の外で、下校中の子供たちの声がした。
三浦は凛のノートを閉じた。
閉じても、最後の一文は消えなかった。
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九
参観日
五月の授業参観の日、西野沙織は少し遅れて教室に来た。
紺色のカーディガン。
疲れた顔。
けれど、髪はきちんとまとめられている。
授業は算数だった。
三浦は教室を回りながら、時々後ろの保護者の様子を見た。
沙織は、凛ではなく三浦の方をよく見ていた。
凛が問題を解く。
手を挙げる。
指名される。
答える。
そのたびに、沙織は少しほっとしたような顔をした。
授業後、沙織が三浦に挨拶へ来た。
「いつもお世話になっています」
「こちらこそ」
沙織は何度も頭を下げた。
「凛、ちゃんとやっていますか」
「はい。落ち着いています」
「そうですか。よかった」
沙織はほっとしたように笑った。
「この子、手がかからないので」
三浦は少しだけ引っかかった。
この子。
沙織は凛を見た。
「悠斗のことも、よく見てくれていて」
凛は教室の前で、黒板消しを手にしていた。
沙織の声が聞こえている距離だった。
「助かっています」
沙織はそう言った。
凛は黒板を消し続けた。
何も言わなかった。
その日の放課後、美月が三浦の机の横に来た。
「先生」
「どうしたの?」
「凛ちゃんのお母さん、泣きそうでしたね」
三浦は驚いた。
「見てたの?」
「見えました」
美月は静かに言った。
「凛ちゃん、見てませんでした」
「そうかな」
「はい」
美月は少し間を置いた。
「見ないようにしてるみたいでした」
三浦は返事ができなかった。
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十
踊り場
図工の時間に、子供たちに「学校の中で好きな場所」を描かせた。
校庭。
図書室。
保健室。
体育館。
下駄箱。
美月は図書室を描いた。
本棚の線が細かく、几帳面だった。
真央は教室を描いた。
友達の顔がたくさんあった。
拓也は校庭を描いた。
サッカーゴールが大きく描かれていた。
蓮は階段を描いた。
三浦は少し意外に思った。
「小田切くん、階段が好きなの?」
蓮は首を振った。
「好きというか、よく見えるので」
「何が?」
「みんな」
蓮の絵には、階段の上から見た廊下が描かれていた。
小さな人影がいくつもある。
「階段にいると、人がどっちに行くかわかります」
三浦は頷いた。
「面白いね」
蓮は鉛筆を置いた。
「でも、たまにわかりません」
「何が?」
「止まってる人が、上に行きたいのか下に行きたいのか」
三浦は返事に迷った。
その時、教室の反対側で拓也が言った。
「先生、西野も階段描いてる」
三浦は振り返った。
凛の画用紙には、階段そのものではなく、踊り場が描かれていた。
上へ続く階段と、下へ続く階段。
その真ん中の、何もない場所。
「凛さん」
三浦は声をかけた。
「これは学校の階段?」
凛は頷いた。
「うん」
「好きな場所?」
凛は少し考えた。
「止まれるから」
「止まれる?」
「上にも下にも行かなくていいので」
教室の音が、一瞬遠くなった。
三浦は凛の絵を見た。
踊り場の隅には、小さな窓が描かれている。
窓の外には、何も描かれていない。
凛は続けた。
「あと、下の声が聞こえます」
「声?」
「はい」
「誰の?」
凛は鉛筆を持ち直した。
「いろいろ」
その言い方は、怖がっているようにも、ただ説明しているようにも聞こえた。
美月が近くで聞いていた。
「好きな場所じゃなくてもいいんですか」
「今回は好きな場所って言ったけど、描きたい場所でもいいよ」
三浦がそう言うと、凛はまた鉛筆を動かした。
画用紙の隅に、人影のようなものを一つ描き足す。
それが誰なのか、三浦にはわからなかった。
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十一
先生が見るから
図工のあと、廊下で美月が三浦に声をかけた。
「先生」
「うん?」
「凛ちゃんの絵、変でしたか」
三浦は少し驚いた。
「どうして?」
「先生、止まってたので」
三浦は苦笑した。
「そんなにわかりやすかった?」
「はい」
美月は頷いた。
「先生が止まると、みんなも見ます」
三浦は黙った。
美月は続けた。
「拓也くんも、真央ちゃんも」
「そうだね」
「凛ちゃん、見られるの嫌そうです」
「高瀬さんには、そう見える?」
「はい」
美月は手に持っていた画用紙を胸の前で揃えた。
「先生が凛ちゃんを見てるから、凛ちゃんが変な子みたいになるんだと思います」
静かな声だった。
責めるというより、ただ事実を置くような言い方だった。
三浦は言葉に詰まった。
それは、三浦自身が恐れていたことでもあった。
自分が見ることで、凛を特別にしている。
自分が過去を重ねることで、凛を別の誰かにしている。
「気をつける」
三浦は言った。
美月は頷いた。
「お願いします」
そう言って、教室へ戻っていった。
三浦は廊下に立ったまま、美月の背中を見送った。
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十二
遥という名前
六月に入ると、真央の「心配」は少し形を変えた。
凛に直接聞くよりも、周りに話すことが増えた。
「凛ちゃん、最近ちょっと元気ないよね」
「そう?」
「弟くんのこと、大変なのかなって」
「また?」
「またっていうか、前からじゃない?」
真央は小声で話す。
けれど、その小声は教室の中でよく広がった。
小声で話されることほど、子供たちは聞きたがる。
拓也がそれを拾う。
「西野んち、何かあんの?」
真央はすぐに言う。
「知らないよ。私、心配してるだけだし」
「心配してるだけって、何回言うんだよ」
拓也が笑う。
真央は少し怒ったような顔をする。
「だって本当に心配なんだもん」
凛は聞こえていないような顔をしていた。
美月は本を開いていた。
蓮は、真央と拓也を交互に見ていた。
三浦は注意するタイミングを探した。
しかし、明確な悪口になる前に、話題はいつも別のものへ移る。
給食。
体育。
宿題。
雨。
噂は、形を持たないまま残る。
ある日の昼休み、三浦は教室の後ろで真央たちが話しているのを聞いた。
「ねえ、佐藤遥って知ってる?」
真央の声だった。
三浦は、連絡帳に書いていた手を止めた。
拓也が言った。
「誰それ」
「昔の事件の子」
「怖いやつ?」
「たぶん」
「たぶんって何だよ」
真央は声を落とした。
「三浦先生、関係あったんだって」
三浦は顔を上げた。
真央は、三浦の視線に気づくと口を閉じた。
拓也も振り返った。
「先生、有名人なんですか?」
教室の数人がこちらを見た。
三浦は立ち上がった。
「何の話?」
真央は目を泳がせた。
「何でもないです」
「何でもない話ではないよね」
真央は唇を結んだ。
拓也が軽い調子で言った。
「昔の事件の話です」
三浦は拓也を見た。
「そういう話を、教室で面白がってするのはやめなさい」
「面白がってないし」
拓也は小さく言った。
真央は慌てて言った。
「私、そういうつもりじゃなくて」
「じゃあ、どういうつもり?」
三浦の声が少し硬くなった。
真央は黙った。
凛は、自分の席で筆箱を閉めていた。
何も聞こえていないような顔だった。
けれど、手の動きが少しだけ遅かった。
その時、美月が静かに言った。
「真央ちゃん、やめなよ」
それだけだった。
真央は一瞬だけ、美月を見た。
「……そうだね。ごめん」
美月はそれ以上何も言わなかった。
三浦は教室全体に向けて言った。
「人の過去の事件や家族のことを、教室で話題にするのはやめましょう」
誰も返事をしなかった。
凛は前を向いていた。
真央は机の上の消しゴムを触っていた。
拓也はつまらなそうに椅子を揺らしかけて、三浦に見られてやめた。
蓮は全員を見ていた。
美月は本を読んでいた。
三浦は思った。
過去が、教室に入ってきた。
佐藤遥。
その名前が、子供たちの口に乗った。
そして、凛はまだ何も言わなかった。
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十三
言わない方がいいこと
放課後、三浦は真央を少し残した。
真央は椅子に座り、膝の上で手を握っていた。
「杉崎さん」
「はい」
「昼休みの話、どこで聞いたの?」
真央は困った顔をした。
「ネットです」
「自分で調べたの?」
「ちょっとだけ」
「どうして調べようと思ったの?」
真央は黙った。
三浦は待った。
真央はやがて、小さく言った。
「先生が、凛ちゃんのこと気にしてるから」
三浦は息を止めた。
「それで?」
「前に、先生の名前を聞いたことがあって」
「誰から?」
真央は目を伏せた。
「覚えてないです」
その答えは、嘘に近かった。
けれど三浦は、それ以上強く聞けなかった。
真央は言った。
「私、心配してただけです」
また、その言葉だった。
「何を心配していたの?」
三浦が聞くと、真央は少し困ったように笑った。
「わからないです」
「わからない?」
「でも、何かあるのかなって」
何か。
その曖昧なものが、人を一番傷つけることを、真央はまだ知らない。
いや、知っていても、自分がそれをしているとは思っていないのかもしれない。
三浦は言った。
「わからないことを、わからないまま広げるのは危ないよ」
真央は頷いた。
「はい」
素直だった。
その素直さが、三浦には少し怖かった。
真央が帰ったあと、三浦は教室に残った。
黒板には、まだ日直の字が残っている。
明日の予定。
漢字テスト。
体育あり。
普通の教室。
しかし、普通の教室にも、噂は残る。
チョークの粉のように、見えないところに積もっていく。
⸻
十四
一学期の終わり
一学期の終わりが近づくにつれ、教室の空気は少し軽くなった。
夏休みの話。
プールの話。
旅行の話。
しかし、凛の周りだけは、薄い膜が張っているようだった。
真央は相変わらず凛に話しかけた。
「凛ちゃん、夏休みどこか行く?」
「わからない」
「弟くんと?」
「たぶん」
「大変だね」
凛は答えなかった。
拓也は時々からかった。
「西野、夏休みも弟の宿題やんの?」
「やらない」
「本当かよ」
蓮はそれを見ていた。
美月は、必要な時だけ凛に声をかけた。
「図書委員、今日最後」
「うん」
「返却本、多いよ」
「わかった」
三浦は、その距離感に少し安心していた。
美月は凛に踏み込みすぎない。
真央のように心配を押しつけない。
拓也のようにからかわない。
蓮のようにただ見ているだけでもない。
普通に接している。
そう思っていた。
終業式の前日、三浦は国語のノートを返す準備をしていた。
凛のノートを開くと、以前の作文が目に入った。
見ていても、転ぶ時は転びます。
その時は、その時です。
三浦はその一文を見て、手を止めた。
次のページには、図工の感想が書かれていた。
私は踊り場を描きました。
踊り場は、階段の途中にあります。
上にも下にも行けます。
でも、行かないこともできます。
下の声は聞こえます。
上の足音も聞こえます。
でも、踊り場にいる人の声は、あまり聞こえません。
そこにいると、少し静かです。
三浦は読み終えて、しばらくノートを閉じられなかった。
佐藤遥の言葉が、また重なる。
階段は階段。
落ちる人がいるだけ。
似ている。
そう思った瞬間、三浦は自分の目を疑った。
似ているのは、凛なのか。
それとも、自分がそう見ているだけなのか。
終業式の日、三浦は通知表を一人ずつ渡した。
拓也は受け取るなり、中身を見ようとして隣の子に止められた。
真央は「ありがとうございました」と丁寧に頭を下げた。
蓮は小さく頷いた。
美月は両手で受け取った。
「二学期も図書委員、やる?」
三浦が聞くと、美月は言った。
「凛ちゃんがやるなら」
「仲がいいんだね」
美月は少し考えた。
「普通です」
また、その言葉だった。
最後に凛が来た。
三浦は通知表を渡した。
「一学期、よく頑張りました」
凛は受け取った。
「ありがとうございます」
「夏休み、無理しすぎないようにね」
言ってから、三浦は少し後悔した。
無理しすぎないように。
それは教師がよく使う言葉だ。
けれど、凛にとってはどう聞こえるのだろう。
凛は三浦を見た。
「先生」
「うん?」
「先生は、何を覚えてるんですか」
三浦は動けなくなった。
「どういう意味?」
凛は通知表をランドセルに入れた。
「たまに、違うところを見てるので」
教室の中のざわめきが遠くなった。
凛は続けなかった。
三浦も、すぐには答えられなかった。
少しして、三浦は言った。
「昔のことを、少し」
「そうですか」
凛はそれだけ言った。
責めるでもなく、興味を持つでもなく。
ただ、聞いただけのようだった。
凛が教室を出ていく。
廊下では、真央が誰かと夏休みの話をしている。
拓也が階段の方へ走り、三浦に注意されている。
蓮がその様子を見ている。
美月が図書室の鍵を返しに職員室へ向かっている。
子供たちは、それぞれの方向へ動いていく。
三浦は教室に一人残った。
黒板には、白いチョークで書いた文字が残っている。
楽しい夏休みを。
三浦は黒板消しを手に取った。
消しながら、凛の言葉を思い出した。
先生は、何を覚えてるんですか。
三浦は覚えている。
佐藤家事件のこと。
遥の自由帳。
和馬の欠席。
証言台の冷たさ。
自分が見落としたもの。
けれど、今見ているものが、本当に今の子供たちなのか。
それとも、過去の影なのか。
三浦にはまだわからなかった。
ただ一つ、確かなことがあった。
教室の中で、誰かが誰かを見ている。
教師が子供を見る。
子供が教師を見る。
子供が子供を見る。
その視線は、時々、声よりも先に広がっていく。
三浦は黒板を消し終えた。
廊下の向こうで、階段を下りる足音がした。
一人分。
二人分。
何人分もの足音。
そのどれが誰のものか、三浦にはわからなかった。
けれど、音だけが残っていた。
階段に。
いつまでも。
第二部
見ている子たち
⸻
十五
夏休み明け
九月の教室は、少しだけ色が変わっていた。
日焼けした子。
髪を切った子。
新しい筆箱を持ってきた子。
休み中の出来事を、話したくて仕方ない子。
拓也は朝から声が大きかった。
「海行った」
「どこ?」
「千葉」
「焼けてないじゃん」
「日焼け止め塗ったから」
「女子かよ」
「うるせえ」
真央は友達とお土産の話をしていた。
蓮は机の中を整理している。
美月は本を読んでいた。
凛は、夏休みの課題を机の上に揃えていた。
三浦は提出物を集めていく。
絵日記。
自由研究。
読書感想文。
計算ドリル。
凛の自由研究は、薄いファイルに入っていた。
表紙には、丁寧な字で書かれている。
家で毎日やったこと
三浦は、その題名で手を止めた。
「西野さん、これ自由研究?」
凛は頷いた。
「はい」
「家でやったことを記録したの?」
「はい」
「毎日?」
「できる日は」
三浦はファイルを開かなかった。
提出物の山に重ねる。
凛は席に戻った。
真央が近づいてきた。
「凛ちゃん、それ何?」
「自由研究」
「見ていい?」
「あとで」
「家で毎日やったことって、何したの?」
凛は答えなかった。
真央は少し口を尖らせた。
「秘密?」
「提出するから」
「見せてくれてもいいじゃん」
その時、美月が本を閉じた。
「真央ちゃん、先生が見るものだから」
真央は振り返った。
「わかってるよ」
「じゃあ、あとで」
美月はそれだけ言って、また本を開いた。
凛は何も言わなかった。
三浦は、自由研究の表紙をもう一度見た。
家で毎日やったこと
家でやること。
子供が毎日やること。
そこに何が書かれているのか、まだわからなかった。
⸻
十六
家事表
放課後、三浦は凛の自由研究を読んだ。
中身は、日記ではなかった。
表のように、日付と、やったことが並んでいる。
八月一日
麦茶を作った。
悠斗の音読を聞いた。
洗濯物をたたんだ。
お母さんが寝ていたので、悠斗にパンを出した。
八月二日
悠斗の宿題を見た。
連絡帳の中身を確認した。
ゴミの日を確認した。
お風呂を洗った。
三浦はページをめくった。
淡々としていた。
「楽しかった」も「大変だった」も、ほとんどない。
ただ、やったことだけが書かれている。
八月六日の欄で、三浦は手を止めた。
悠斗が音読をいやがりました。
三回言いました。
やりませんでした。
お母さんが泣きそうだったので、私が読みました。
悠斗はあとから読みました。
八月二十四日。
何もしない時間がありました。
何をすればいいかわかりませんでした。
台所に行きました。
最後の感想。
家でやることは、見つければあります。
見つけなければ、ない時もあります。
でも、ない時の方が、落ち着きません。
三浦はファイルを閉じた。
翌日、自由研究は教室の後ろに並べた。
子供たちは休み時間にそれぞれ見に行く。
拓也は工作を見ていた。
「これすげえ」
真央は凛のファイルを手に取った。
「凛ちゃんち、大変そう」
周りの女子が頷いた。
「毎日これやってるの?」
「弟の宿題も?」
「すごいけど、しんどそう」
凛はファイルを閉じた。
「提出するから」
それだけ言って、席を立った。
美月は、ファイルの表紙だけを見ていた。
家で毎日やったこと
真央が言った。
「美月ちゃんも、そう思わない? 大変そうだよね」
美月は少しだけ首を傾げた。
「大変そう、だけじゃないと思う」
「どういうこと?」
「ううん」
美月は視線を外した。
「何でもない」
真央は不満そうに眉を寄せた。
「美月ちゃんって、たまにそういう言い方するよね」
「そう?」
美月はそれ以上言わなかった。
その日の帰り、悠斗が一年生の廊下から走ってきた。
「凛ちゃん」
凛は足を止めた。
「走らない」
「ごめん」
「連絡帳は?」
「ある」
「音読カードは?」
「あ」
凛は少しだけ息を吐いた。
「教室?」
「うん」
「取ってきて」
「一緒に来て」
「自分で行く」
悠斗は渋々戻っていった。
三浦は廊下の端で見ていた。
凛は悠斗の後ろ姿を追っていた。
追っているだけだった。
⸻
十七
みんな知ってる
凛の自由研究の話は、数日で教室に広がった。
「凛ちゃん、毎日弟のことしてるんだって」
「お母さん寝てるって書いてあった」
「寝てるって病気?」
「わかんない」
「お父さんは?」
「知らない」
三浦が近づくと、声は止まる。
けれど、完全には消えない。
真央は、その中心にいることが多かった。
本人に悪意はない。
むしろ、表情はいつも心配そうだった。
「凛ちゃん、大丈夫?」
「何が」
「家のこと」
「大丈夫」
「本当に?」
「うん」
「無理してない?」
凛は真央を見た。
「真央ちゃんには関係ない」
真央の顔が固まった。
「そんな言い方しなくてもいいじゃん」
凛は答えなかった。
真央は近くの女子に言った。
「私、心配してるだけなのに」
三浦はすぐに注意した。
「杉崎さん」
「はい」
「心配でも、本人が話したくないことを何度も聞くのは違います」
「でも」
「でも、ではありません」
真央は唇を噛んだ。
「はい」
その日の昼休み、真央は小さな声で言った。
「先生、また凛ちゃんのこと」
三浦には聞こえた。
けれど、三浦はすぐには振り向けなかった。
また。
その言葉は正しかった。
⸻
十八
父親の電話
九月の半ば、凛が宿題を忘れた。
珍しいことだった。
三浦が声をかけると、凛はすぐに言った。
「すみません。家にあります」
「明日出せる?」
「はい」
それで終わるはずだった。
けれど、その日の夕方、学校に電話が入った。
西野健介。
凛の父親だった。
「娘が宿題を忘れたと聞きまして」
声は落ち着いていた。
「明日提出で大丈夫ですと伝えています」
三浦が言うと、健介はすぐに言った。
「すみません。凛は普段ちゃんとやっていますので」
「はい。学校でも落ち着いています」
「家のことも、弟のことも、よくやってくれていて」
三浦は受話器を持つ手に力が入った。
「そうですか」
「凛がいると、助かるんです」
助かる。
また、その言葉だった。
健介は続けた。
「妻も少し疲れやすいところがありまして。凛には頼ってしまうこともあるんですが」
「凛さんはまだ三年生です」
三浦は静かに言った。
電話の向こうで、健介が一瞬黙った。
「はい。わかっています」
その返事は早かった。
けれど、本当にわかっているかは、受話器越しにはわからない。
電話を切ったあと、三浦は記録ノートに書いた。
父より電話。
「凛がいると助かる」
家庭内で弟の世話を担っている可能性。
書いたあと、三浦はペンを止めた。
可能性。
その言葉は便利だった。
わかっていないことを、わかったことのように紙に置ける。
⸻
十九
佐藤遥
給食の時間、拓也がまたその名前を出した。
「佐藤なんとかってさ」
三浦はすぐに顔を上げた。
真央が慌てて言った。
「拓也くん、やめなよ」
「何だっけ。遥?」
凛は箸を止めなかった。
教室の何人かが三浦を見た。
三浦は静かに言った。
「森下くん。給食後、少し話します」
拓也は口を閉じた。
「はい」
その日の昼休み、蓮が三浦のところへ来た。
「先生」
「どうしたの?」
「言わない方がいいって言うと、みんなもっと知りたくなると思います」
三浦は蓮を見た。
蓮は続けた。
「僕も、ちょっと知りたくなりました」
「調べた?」
「調べません」
「どうして?」
「知っても使い道がないので」
三浦は返事に迷った。
蓮は少し考えてから言った。
「でも、使い道があると思う人は、調べると思います」
三浦は胸の奥が重くなった。
「使い道?」
「誰かに言うとか」
蓮はそれだけ言って、教室に戻った。
三浦は廊下に立ったまま、しばらく動けなかった。
知っても使い道がない。
その言葉が、耳に残った。
⸻
二十
風呂の日
十月のある朝、木村が三浦に声をかけた。
「少し共有しておきたいことがあって」
「悠斗くんですか」
木村は頷いた。
「連絡帳に、お風呂のことが書いてありました」
木村はコピーを見せた。
昨夜、入浴中にふざけて水を飲んでしまい、少し咳き込みました。
今朝は元気ですが、様子を見てください。
「今朝の様子は?」
「元気です。ただ、少し眠そうでした」
「本人には聞きましたか」
「軽く」
木村は迷うように言った。
「お風呂で何してたのって聞いたんです。そしたら、『静かにする練習』って」
三浦は顔を上げた。
「静かにする練習?」
「でも、すぐに『冗談』って言いました」
「そうですか」
「気になったので共有だけ」
「ありがとうございます」
その日の放課後、三浦は一年生の廊下で悠斗を見かけた。
悠斗は凛の袖を掴んでいた。
「今日、帰ったらお風呂入らない」
凛は言った。
「お母さんに言って」
「凛ちゃんも言って」
「自分で言って」
「やだ」
「じゃあ入る」
悠斗は泣きそうな顔になった。
「凛ちゃん、言って」
凛はしばらく悠斗を見ていた。
「帰ったら言う」
「ほんと?」
「うん」
悠斗は少し安心したようだった。
凛は三浦に気づくと、軽く頭を下げた。
三浦は声をかけられなかった。
お風呂。
水。
静かにする練習。
それらはまだ、形になっていなかった。
⸻
二十一
お風呂の絵
数日後、一年一組の廊下に新しい絵が貼られた。
題は「おうちであったこと」。
三浦は通りかかって、足を止めた。
悠斗の絵は、お風呂だった。
浴槽の中に、小さな男の子。
浴槽の外に、髪の長い人が立っている。
顔は描かれていなかった。
三浦はその絵の前で足を止めた。
黒い髪は、肩の下まで伸びていた。
手は、体の横に下りている。
浴槽のふちには触れていない。
木村が廊下に出てきた。
「三浦先生」
「この絵、誰か聞きましたか?」
木村は少し表情を曇らせた。
「聞きました」
「何と?」
木村は少し迷った。
「はっきり答えませんでした」
「はっきり?」
「最初は黙っていて、そのあと『見てた人』って」
見てた人。
三浦はもう一度絵を見た。
「誰が見ていたのか聞いたんですけど、悠斗くんは首を振って」
「言いたくなさそうでしたか」
「というより、言っていいのかわからないみたいでした」
浴槽の外に立つ、髪の長い人。
その人は何もしていない。
少なくとも、絵の中では。
三浦は教室に戻った。
その日の休み時間、真央が凛に話しかけていた。
「悠斗くん、お風呂の絵描いてたね」
凛は本を机に置いた。
「そう」
「見た?」
「見てない」
「お風呂で水飲んだって本当?」
「誰に聞いたの」
「一年生の子が言ってた」
「ふうん」
「大丈夫だったの?」
「知らない」
「知らないの?」
「知らない」
真央は少し声を落とした。
「凛ちゃんって、たまに冷たいよね」
凛は答えた。
「そう」
「でも、悠斗くんのこと見てたんじゃないの?」
凛は真央を見た。
「誰がそう言ったの」
真央は詰まった。
「誰がって」
凛は本を机に置いた。
「見てたら、何?」
真央は黙った。
教室の中の何人かが、二人を見た。
拓也も顔を上げていた。
その時、美月が廊下から戻ってきた。
「凛ちゃん、図書室の鍵」
声は大きくなかった。
けれど、その場を切るには十分だった。
凛は立ち上がった。
「うん」
真央が言った。
「逃げた」
凛は止まらなかった。
美月も、何も言わなかった。
⸻
二十二
目撃者
放課後、蓮が三浦のところへ来た。
「先生」
「どうしたの?」
「森下くん、凛さんにわざとやってる時があります」
「わざと?」
「からかっています」
「どんなふうに?」
蓮は少し考えた。
「だんまり、とか。見てるだけ、とか」
三浦は眉を寄せた。
「先生も気をつけて見ます」
蓮は頷いた。
それから、少し迷って続けた。
「でも、凛さんも見てます」
「凛さんが?」
「はい」
「何を?」
「何かされる前に、もう見てます」
三浦は蓮の言葉を待った。
「凛さんは、あまり驚きません」
「それが気になる?」
蓮は頷いた。
「でも、僕も全部は見てません」
「うん」
「見てないところもあります」
蓮はそれだけ言った。
三浦は記録ノートに書いた。
蓮より。
拓也が凛をからかう。
凛は事前に反応しているように見える。
蓮「全部は見ていない」。
全部は見ていない。
それを言える子は、少ない。
⸻
二十三
しっかりしてる
保護者面談の日、沙織は時間ぴったりに来た。
少し疲れた顔をしていた。
「いつもお世話になっています」
「こちらこそ」
三浦は凛の学校での様子を話した。
授業態度。
提出物。
友人関係。
弟への関わり。
沙織は何度も頷いた。
「凛は本当にしっかりしていて」
三浦はその言葉に身構えた。
沙織は続けた。
「悠斗が泣いても、私が泣いても、凛は泣かないんです」
「お母さんが泣くことがあるんですか」
沙織は少し慌てた。
「あ、いえ。大したことではなくて。疲れてしまって、つい」
「そうですか」
「たまに、私の方が怖くなるんです」
三浦は沙織を見た。
沙織は小さく笑った。
「あの子は何を見ているんだろうって」
三浦はすぐには返事ができなかった。
「お風呂の件ですが」
三浦が切り出すと、沙織は表情を固くした。
「あれは悠斗がふざけていて」
「連絡帳に書いてくださった件ですね」
「はい。水を飲んで、少し咳き込んで。大げさなことではないんです」
「今は元気ですか」
「はい」
沙織は早口になった。
「悠斗はよくふざけるので。凛が注意してくれるんですが、なかなか聞かなくて」
「凛さんが注意を?」
「はい。助かっています」
また、助かっています。
三浦はその言葉を記録しなかった。
記録しなくても、残る言葉だった。
⸻
二十四
佐藤遥に似てる
拓也は、凛へのからかいをやめなかった。
注意すると謝る。
次の日には、別の言い方をする。
「西野、また無表情」
「そう」
「ロボット?」
「違う」
「じゃあ何」
凛は答えない。
拓也は笑った。
「佐藤なんとかに似てるんじゃね」
真央が小さく息を呑んだ。
三浦はすぐに立ち上がった。
「森下くん」
拓也は顔をしかめた。
「はい」
その前に、美月が言った。
「拓也くん、やめなよ」
「美月には言ってないし」
「つまらないから」
拓也は少し黙った。
「何が」
「それ」
美月はそれ以上言わなかった。
三浦は拓也を残した。
放課後の教室で、拓也は不満そうに椅子に座っていた。
「俺だけですか」
「佐藤遥さんの名前を出して、西野さんをからかいましたね」
「からかったっていうか」
「どういうつもりでしたか」
拓也は黙った。
「西野さんが嫌がると思わなかった?」
拓也は机の端を指でこすった。
「西野、嫌そうじゃなかったです」
「嫌そうじゃないと、何を言ってもいいの?」
「そうじゃないけど」
「けど?」
拓也は顔を上げた。
「何言っても、同じ顔だし」
三浦はしばらく拓也を見た。
同じ顔。
その言葉は、凛のせいではない。
でも、子供たちはそれを理由にしていた。
⸻
二十五
図書室の席
図書室の中で、美月が本をめくっていた。
凛は返却された本を棚に戻している。
真央は入口に立ったまま、中に入らなかった。
「美月ちゃんって、凛ちゃんの味方ですよね」
三浦は答えなかった。
真央は続けた。
「私も心配してるのに」
図書室の中で、美月が顔を上げた。
真央の声が聞こえたのかもしれない。
けれど、美月は何も言わなかった。
凛は本を棚に戻した。
美月は凛の隣に座り直した。
椅子一つ分の距離。
近すぎず、離れすぎない。
そこにいても、不自然ではない距離だった。
真央は三浦に言った。
「私、嫌われてるんですかね」
「誰に?」
「凛ちゃんに」
「どうしてそう思うの?」
「何聞いても、答えてくれないから」
「答えたくないこともあると思います」
真央は唇を尖らせた。
「美月ちゃんには普通なのに」
「そう見える?」
「はい」
真央は図書室の中を見た。
「美月ちゃんは、何も聞かないからかな」
三浦は何も言わなかった。
図書室の中で、美月はページをめくった。
凛は棚の番号を見ていた。
二人の間には、椅子一つ分の空きがあった。
⸻
二十六
水の音
雨の日だった。
一年生の水道で、悠斗が袖を濡らした。
木村が対応していたところに、三浦も通りかかった。
「どうしました?」
「水道で遊んでいたわけではないみたいなんですが、袖がびしょびしょで」
悠斗は俯いていた。
「凛ちゃん呼ばないで」
小さく言った。
木村が聞き返す。
「何?」
「凛ちゃんに言わないで」
三浦は悠斗の顔を見た。
「濡れただけなら、怒られないよ」
悠斗は首を振った。
「言わないで」
その時、階段の踊り場から声がした。
「悠斗?」
凛だった。
凛は踊り場に立っていた。
三浦は言った。
「水道で袖が濡れただけ」
凛は悠斗を見た。
「そうですか」
「心配?」
三浦が聞くと、凛は少しだけ考えた。
「呼ばれたら行きます」
「呼ばれなければ?」
「行きません」
悠斗は濡れた袖を握っていた。
凛はそれ以上近づかなかった。
雨の音が、窓の外から聞こえていた。
⸻
二十七
浴室事故
翌日、悠斗は欠席した。
理由は体調不良。
木村から共有があった。
「昨夜、風呂のあとに咳き込みがひどくなったそうです」
「風呂のあと?」
「はい。お母さんの話では、前日の水道で濡れたことと、入浴中にふざけたことが重なったのかもしれないと」
三浦は眉を寄せた。
「前にも、お風呂で水を飲んだと連絡がありましたよね」
「はい」
「説明が少し変わっていますね」
木村は小さく頷いた。
「私も気になっています」
その日、凛は登校していた。
いつも通りだった。
国語の教科書を開き、ノートを書き、給食を食べる。
三浦は放課後、声をかけた。
「西野さん」
「はい」
「家で何かあった?」
凛は三浦を見た。
「先生は、何を聞きたいんですか」
三浦は言葉に詰まった。
「心配しているだけです」
言った瞬間、三浦は真央の声を思い出した。
心配してるだけ。
凛も、少しだけ目を細めた。
「そうですか」
「悠斗くんの体調が」
「病院に行きました」
「今は?」
「知りません」
「知らない?」
「学校にいるので」
それは正しい。
正しいのに、冷たく聞こえた。
休み時間、真央が凛に近づいた。
「悠斗くん、大丈夫なの?」
凛は答えなかった。
「見てたの?」
その言葉で、教室が少し止まった。
美月が言った。
「真央ちゃん、今それ聞くのやめなよ」
真央は美月を見た。
「でも」
「今じゃない」
凛は席を立った。
図書室へ行く。
拓也が小さく言った。
「やっぱ見てたんじゃね」
三浦はすぐに注意した。
けれど、言葉はもう出ていた。
⸻
二十八
聞こえないふり
悠斗は二日後に登校した。
顔色は悪くなかった。
けれど、以前より少し声が小さかった。
木村は言った。
「体調はもう大丈夫、とだけ聞いています」
「お風呂のことは?」
「聞くと黙ります」
三浦は頷いた。
放課後、一年生の廊下で悠斗に声をかけた。
「悠斗くん」
悠斗は少しびくっとした。
「体、大丈夫?」
「大丈夫」
「学校、疲れなかった?」
「大丈夫」
「お風呂、まだ怖い?」
悠斗は答えなかった。
「怖くない」
少し遅れて、そう言った。
その時、凛が廊下の角から来た。
悠斗は凛を見ると、慌てたように言った。
「凛ちゃん、先生に言った?」
凛は足を止めた。
「何を」
悠斗は口を閉じた。
「何でもない」
凛は三浦を見た。
三浦はその場で聞かなかった。
「帰り、気をつけてね」
凛は頷いた。
悠斗は凛の後ろについて歩いた。
二人の間に、言葉はなかった。
⸻
二十九
見ていたのは誰
真央が泣いたのは、その翌週だった。
休み時間の終わり、女子数人に囲まれている。
三浦が近づくと、真央は涙を拭いた。
「どうしたの?」
真央は泣きながら言った。
「凛ちゃんに、関係ないって言われました」
「何を聞いたの?」
真央は答えなかった。
近くの女子が言った。
「悠斗くんのこと」
三浦は凛を呼んだ。
凛は落ち着いていた。
「杉崎さんに何を言いましたか」
「真央ちゃんには関係ないと言いました」
「どうして?」
「関係ないからです」
真央が泣きながら言った。
「私、心配してるだけなのに」
凛は真央を見た。
「聞かれたくないこともあります」
真央は何も言えなくなった。
その時、美月が床に落ちていたハンカチを拾った。
真央のものだった。
「落ちてる」
美月は真央に渡した。
真央は受け取った。
「ありがとう」
美月は凛の方を見なかった。
三浦はその日の記録に書いた。
真央、噂と心配の境界が曖昧。
凛、家庭の話題に強く反応。
悠斗の入浴事故以降、教室内の視線が増えている。
書いたあと、三浦はペンを止めた。
視線。
また、その言葉だった。
誰が誰を見ているのか。
誰が何を見ていないのか。
わからなくなっていた。
⸻
三十
第二部の終わり
十二月の初め、悠斗がまた欠席した。
理由は発熱。
木村からの共有では、風邪の症状とのことだった。
教室でその話が出ると、真央が小さく言った。
「また悠斗くん?」
拓也が続けた。
「西野んち、やばいんじゃね」
三浦はすぐに注意した。
「森下くん」
拓也は口を閉じた。
凛は前を向いていた。
その日の国語は、作文だった。
題は「聞こえる音」。
子供たちは、それぞれ書いた。
雨の音。
ゲームの音。
お母さんの声。
給食のワゴンの音。
隣の家の犬の声。
凛は、しばらく鉛筆を持ったままだった。
やがて書き始めた。
放課後、三浦は凛の作文を読んだ。
家では、いろいろな音が聞こえます。
お母さんの足音。
悠斗の咳。
お風呂の水の音。
聞こえても、行かない時があります。
三浦は、その一文で手を止めた。
聞こえても、行かない時があります。
行かない。
行けない。
行きたくない。
どれなのか、三浦にはわからなかった。
外では、低学年の子供たちが階段を駆け下りる音がした。
三浦は顔を上げた。
音はすぐに遠ざかった。
けれど、耳にはしばらく残っていた。
第三部
落ちた声
⸻
三十一
冬の階段
十二月に入ると、校舎の階段は冷たくなった。
子供たちは、寒い寒いと言いながら手すりに触れ、すぐに手を引っ込める。
上履きの音は、乾いていた。
三年二組の空気は、少し荒れていた。
大きな喧嘩があるわけではない。
けれど、言葉の端が尖っている。
「また?」
「やっぱり」
「見てたんじゃないの」
「怖い」
短い言葉が、凛の周りに落ちていく。
凛は変わらなかった。
授業を受ける。
給食を食べる。
図書室へ行く。
悠斗の連絡帳を見る。
笑うことは少ない。
怒ることも少ない。
真央は相変わらず、凛に話しかけた。
「凛ちゃん、今日も図書室?」
「うん」
「美月ちゃんと?」
「うん」
「仲いいね」
凛は答えない。
真央は少しだけ笑う。
「いいな」
拓也がそれを拾った。
「西野と美月って、何話してんの?」
「別に」
「別にって何」
「本のこと」
「嘘っぽ」
凛は答えない。
拓也は言った。
「やっぱ見てるだけ?」
三浦はすぐに顔を上げた。
「森下くん」
拓也は両手を上げた。
「はいはい。すみません」
謝る形だけは覚えている。
でも、やめるわけではなかった。
蓮は、それを見ていた。
美月は、必要な時だけ言う。
「拓也くん、邪魔」
「何が」
「通れない」
「今そっち行けばいいじゃん」
「邪魔」
それだけ。
凛はその間に、席を立つ。
図書室へ行く。
教室には、凛のいない凛の話だけが残る。
⸻
三十二
係決め
二学期最後の学級活動で、冬休み前の教室整理と、三学期の係決めをした。
黒板に係の名前を書く。
配り係。
黒板係。
図書係。
整頓係。
生き物係。
「図書係やる人」
美月が手を挙げた。
少し遅れて、凛も手を挙げた。
三浦は二人の名前を書こうとして、真央の手が上がったことに気づいた。
「杉崎さんも?」
「はい」
真央は笑った。
「私もやってみたいです」
拓也が言った。
「真央、本読むの?」
「読むし」
「シールの本?」
「うるさい」
三浦は黒板を見た。
図書係。
高瀬美月。
西野凛。
杉崎真央。
「三人で大丈夫?」
三浦が聞くと、美月はすぐに頷いた。
「大丈夫です」
凛も頷いた。
真央は少し明るい顔をした。
「頑張ります」
美月は、真央の方を見なかった。
ただ、図書係の欄に三人の名前が並ぶのを見ていた。
その日の昼休み、三人は図書室へ行った。
三浦は廊下から少しだけ様子を見た。
美月は返却本を確認している。
凛は棚の番号を見ている。
真央は二人の間に立って、何をすればいいか迷っているようだった。
「これ、どこ?」
真央が聞いた。
美月が本を見ずに言った。
「五番の棚」
「五番って?」
「奥」
真央は奥へ行きかけて、凛に聞いた。
「凛ちゃん、一緒に来て」
凛は返却カードを見ていた。
「一人で行ける」
「でも、場所わかんない」
「美月ちゃんが奥って言った」
真央は少し黙った。
「凛ちゃんって、そういうとこあるよね」
凛は顔を上げた。
「そういうとこって?」
「別に」
美月が言った。
「真央ちゃん、その本、五番」
真央は本を持って奥へ向かった。
放課後、真央は別の女子に言っていた。
「凛ちゃんってさ、私には冷たいよね」
女子が聞く。
「美月ちゃんには?」
真央は少し考えた。
「美月ちゃんには、普通」
「じゃあ、真央ちゃん嫌われてるんじゃない?」
冗談のような声だった。
真央も笑った。
「ひど」
⸻
三十三
古い名前
佐藤家事件の名前は、二学期の終わりに近づいても、完全には消えなかった。
真央が直接口にすることは減った。
その代わり、拓也が時々わざとらしく言う。
「さ……」
そこで止める。
真央が笑う。
「やめなって」
蓮は黙っている。
凛は聞こえていないふりをする。
美月は何も言わない。
三浦はそのたびに注意した。
「名前を出さなくても、何を言おうとしているかわかる言い方はやめましょう」
拓也は答える。
「はい」
そして次の日には、また別の形で繰り返す。
ある日の放課後、三浦は廊下で蓮に呼び止められた。
「先生」
「どうしたの?」
「森下くん、昨日、家で調べたって言ってました」
「佐藤家事件のこと?」
蓮は頷いた。
「真央さんも知ってました」
「小田切くんは?」
「僕は調べてません」
「そう」
蓮は少し間を置いた。
「でも、聞こえます」
「何が?」
「調べた人が、話してること」
三浦は蓮の顔を見た。
蓮は続けた。
「佐藤遥って人が、弟のことを見ていたって」
三浦の胸の奥が冷えた。
「誰がそう言っていたの?」
「森下くんです。真央さんが違うって言ってました。でも、真央さんもよくわかってないと思います」
「他には?」
「凛さんが似てるって」
蓮はそこで一度止まった。
「僕は、似てるかどうかわかりません」
「そう」
「でも、みんなが似てるって言うと、似てるように思えてきます」
三浦は何も言えなかった。
「教えてくれてありがとう」
蓮は頷いた。
「でも、僕も聞いてるだけです」
⸻
三十四
言われた言葉
十二月の国語で、「言われて嫌だった言葉」という短い作文を書かせた。
本当は、友達との言葉づかいを考えるための授業だった。
三浦は悩んだ。
今この題で書かせるのは、凛に負担ではないか。
だが、教室全体に必要な授業でもあった。
子供たちは鉛筆を動かした。
拓也はなかなか書かない。
真央はすぐに書き始めた。
美月は短く書いた。
蓮は消しゴムを何度も使っていた。
凛は、しばらく白紙のままだった。
三浦は教室を回った。
凛の前では立ち止まらなかった。
授業の最後、ノートを集める。
放課後、職員室で読む。
真央の作文。
私は「心配しすぎ」と言われるのがいやです。
心配するのは悪いことじゃないと思います。
でも、しつこいと言われると、悲しくなります。
私は仲良くしたいだけです。
拓也の作文。
「うるさい」と言われるのがいやです。
うるさくしてるつもりはないからです。
でも、たまにしてるかもしれません。
蓮の作文。
「見てただけ」と言われるのがいやです。
見ていても、何をすればいいかわからない時があります。
でも、見ていたなら何か言った方がいい時もあります。
その違いが難しいです。
凛のノートを開いた。
言われて嫌だった言葉は、特にありません。
嫌な言葉はあります。
でも、言われた時に嫌だと思うより、あとで思い出す方が嫌です。
その時は何も言わなくても、あとで残る時があります。
言った人は忘れていると思います。
でも、聞いた人が忘れなければ、言葉は残ります。
三浦は最後の行を読んだ。
言葉は残ります。
凛の筆圧は、最後まで同じだった。
⸻
三十五
ナレーション練習
十二月の終わり、三年二組は音楽発表会の練習をしていた。
本番では、歌の前に短いクラス紹介を入れる。
司会をするのは、日直と発表係の数人だった。
音楽担当の小林は、廊下に小さな三脚を立てていた。
その上に、学校用のタブレットが置かれている。
「紹介の声も確認したいから、先に録ってみます」
小林が言った。
「音楽室じゃないの?」
真央が聞いた。
「中はリコーダーの準備で音が入るし、少し響くから。紹介の声だけ、廊下で聞いてみます」
小林はタブレットの向きを直した。
「すぐ終わります。順番を待つ人は壁側に寄って」
「録るの?」
拓也が覗き込む。
「声だけです。ふざけない」
「はいはい」
「森下くん、はいは一回」
「はい」
音楽室前の廊下は、少し広くなっている。
掲示板には、音楽発表会のお知らせが貼られていた。
その下に、三脚の足が細く広がっている。
発表係の児童が原稿を読む。
「これから三年二組の発表を始めます」
声が小さい。
小林が言った。
「もう少し前を向いて」
もう一度。
「これから三年二組の発表を始めます」
今度は少し大きい。
「いいね。じゃあ、あとで聞いて確認します」
小林はタブレットを手に取り、録音を止めた。
「次の練習でも使います。先生が持ってくるので、勝手に触らないこと」
子供たちは「はい」と答えた。
タブレットは、小林の手で片づけられた。
そのあと、子供たちは音楽室に入った。
歌とリコーダー。
声はまだ揃わない。
誰かが早い。
誰かが遅い。
誰かが大きい。
凛は口を小さく動かしていた。
美月は譜面を見ている。
真央は少し張り切って歌っている。
拓也は途中で隣の男子と笑いそうになり、三浦に見られて真面目な顔に戻した。
蓮は、周りの声を聞きながら歌っていた。
授業が終わると、小林が言った。
「次は、最初から最後まで通します。移動も本番と同じようにやります」
子供たちは「はい」と答えた。
「廊下に出る時、走らないこと」
三浦も後ろから言った。
「階段もです」
拓也が小さく笑った。
「わかってます」
凛はリコーダーケースをランドセルにしまった。
美月は原稿用紙を揃えていた。
真央は発表係の声を真似して、小さく笑っていた。
蓮は、三脚のあった場所を避けるように歩いた。
⸻
三十六
通し練習
数日後、通し練習の日になった。
朝から拓也は落ち着きがなかった。
「今日、最初からやるんでしょ」
「そう」
真央が答える。
「間違えたら目立つよ」
「俺、間違えないし」
「この前間違えてたじゃん」
「わざとだし」
拓也は笑った。
凛は連絡帳を書いていた。
美月は本を読んでいた。
蓮は拓也の足元を見ていた。
三浦は朝の会で言った。
「今日は音楽室へ移動します。階段では絶対に走らないこと。ふざけないこと」
子供たちは「はい」と答えた。
拓也も答えた。
「はい」
三時間目。
三年二組は音楽室へ向かった。
音楽室前の廊下には、前回と同じ三脚が出ていた。
小林が学校用のタブレットをケースから出し、三脚に固定している。
「今日も紹介の声、先に録ります」
「また廊下?」
拓也が言った。
「中は音が混ざるからです。森下くん、タブレットに近づかない」
小林に注意され、拓也は笑って離れた。
発表係の子が、原稿を持って廊下に立つ。
発表係が原稿を読む。
「これから三年二組の発表を始めます」
小林が画面を確認する。
「少し小さいね。もう一回」
もう一度読む。
「これから三年二組の発表を始めます」
「うん。今のは聞こえた」
小林はタブレットを三脚から外し、音楽室前の棚に置いた。
「あとで確認するから、このままにしておきます。触らないでください」
子供たちは「はい」と答えた。
そのまま音楽室に入る。
紹介。
歌。
リコーダー。
歌。
何度かやり直しがあった。
小林が手を叩いた。
「はい、今日はここまで。教室に戻ります」
給食前の時間だった。
子供たちは少し騒がしくなる。
三浦は声をかけた。
「走らない」
「リコーダーを振らない」
「階段は右側」
音楽室を出る時、発表係の一人が原稿を落とした。
三浦はそれを拾わせた。
「ファイルに入れて」
その間に、列の前の方は階段へ向かっていた。
三浦は少し遅れて後ろについた。
中央階段に差しかかった時、上から四年生が下りてきた。
「右側を歩いて」
三浦が声をかける。
子供たちが壁側に寄る。
踊り場の方で、拓也の声がした。
「西野、まただんまり?」
三浦は顔を上げた。
踊り場には、拓也、凛、美月、蓮がいた。
真央は数段下にいる。
数人の子がその周りで立ち止まりかけていた。
凛は壁側に立っていた。
拓也は手すりの近くにいた。
「森下くん、離れなさい」
三浦が言った。
拓也は笑った。
「触ってるだけです」
「離れなさい」
三浦は階段を下り始めた。
その間に、誰かが何かを言った。
拓也の声。
真央の声。
別の子の笑い声。
美月の短い声。
重なって、はっきりしなかった。
ただ、ひとつだけ、三浦にも聞こえた。
凛の声だった。
「……落ちればいいのに」
踊り場が止まった。
拓也が言った。
「は?」
次の瞬間、拓也の体が崩れた。
手すりにかけていた手が外れる。
足がずれる。
誰かが叫ぶ。
凛の腕が、一瞬だけ上がった。
その先は、人の体と手すりと上履きが重なって見えた。
三浦には、何が触れたのかわからなかった。
拓也の体が階段の下へ落ちた。
硬い音がした。
一度。
二度。
そして、叫び声が広がった。
⸻
三十七
落ちたあと
拓也は階段の下で倒れていた。
額から血が出ていた。
腕を押さえている。
目は開いていた。
「森下くん!」
三浦は駆け寄った。
「動かないで」
拓也は泣き出した。
「痛い、痛い、痛い」
その声で、周りの子供たちも泣き始めた。
真央は階段の途中で固まっていた。
蓮は手すりを掴んでいた。
美月は踊り場に立っていた。
凛は、拓也の少し上の段にいた。
手は下りていた。
「先生!」
別の子が叫んだ。
三浦は近くの教師に救急対応を頼んだ。
保健室。
管理職。
救急車。
保護者連絡。
子供たちを離す。
三浦は声を張った。
「みんな、教室に戻ります。近くの先生の指示に従って」
泣いている子を別の教師が連れていく。
真央は動かなかった。
「杉崎さん」
三浦が呼ぶと、真央はようやくこちらを見た。
顔が真っ白だった。
「凛ちゃんが」
真央は言いかけて、口を押さえた。
「教室へ」
三浦は言った。
真央は頷いた。
蓮は自分で歩いた。
美月は凛に言った。
「行こう」
凛は階段の下を見ていた。
「西野さん」
三浦が呼ぶと、凛は顔を上げた。
「教室へ」
凛は頷いた。
救急車のサイレンが近づいてきた。
階段には、拓也の上履きが一つ残っていた。
⸻
三十八
真央の話
拓也は病院へ搬送された。
命に別状はない。
額の裂傷と、腕の骨折。
その連絡が学校に入った時、職員室には安堵と沈黙が同時に広がった。
その日の午後、関係した子供たちから話を聞くことになった。
三浦だけではなく、藤崎と管理職も同席した。
まず、真央。
真央は泣いていた。
「見ていましたか」
藤崎が静かに聞いた。
真央は頷いた。
「途中から」
「何がありましたか」
「拓也くんが、凛ちゃんに言ってて」
「何を?」
「見てるだけ、とか、そういう」
「誰がそう言いましたか」
真央は黙った。
「覚えている範囲でいいよ」
「拓也くんが言ってました」
「他には?」
「わかりません。みんな、何か言ってたから」
「凛さんは何か言いましたか」
真央は泣きそうな顔になった。
「言いました」
「何と?」
「落ちればいいのにって」
「それは聞こえましたか」
「聞こえました」
「そのあと、森下くんはどうなりましたか」
「落ちました」
「凛さんが押したところは見ましたか」
真央は首を振った。
「見てません」
「見ていない?」
「見てないです。でも……」
「でも?」
「凛ちゃん、怒ってたと思います」
三浦は記録した。
真央
途中から見ていた。
「落ちればいいのに」を聞いた。
押したところは見ていない。
凛は怒っていたと思う。
真央は最後に言った。
「私、止めればよかったですか」
藤崎はすぐには答えなかった。
「今は、話してくれてありがとう」
真央は泣いた。
⸻
三十九
蓮の話
蓮は泣いていなかった。
けれど、顔色は悪かった。
「小田切くんは、どこにいましたか」
藤崎が聞いた。
「踊り場の少し下です」
「何がわかりましたか」
「拓也くんが手すりの近くにいました」
「凛さんは?」
「近くにいました」
「二人は触れる距離でしたか」
蓮は少し考えた。
「たぶん」
「たぶん?」
「近かったです。でも、ちゃんとはわかりません」
「凛さんの言葉は聞こえましたか」
「はい」
「何と?」
「落ちればいいのに、って」
「そのあと?」
「拓也くんが動きました」
「動いた?」
「落ちる前に、体がずれたみたいに思いました」
「誰かが押しましたか」
蓮は黙った。
「見えましたか」
「見えません」
「凛さんの手は?」
「動いたと思います」
「押したように?」
「わかりません」
「では、確かに言えることは?」
蓮は下を向いた。
「拓也くんが落ちたことです」
「思ったことは?」
「凛さんが、怖いと思いました」
三浦は記録した。
蓮
拓也は手すりの近く。
凛は近くにいた。
凛「落ちればいいのに」。
拓也の体がずれたように思った。
凛の手が動いたと思う。
押したかはわからない。
凛が怖いと思った。
蓮は最後に言った。
「怖かったのは、僕かもしれません」
三浦のペンが止まった。
蓮は続けなかった。
⸻
四十
美月の話
美月は静かだった。
椅子に座り、両手を膝の上に置いている。
藤崎が聞いた。
「高瀬さん、階段で何があったか話せますか」
美月は頷いた。
「拓也くんが、凛ちゃんに話しかけていました」
「どんなことを?」
「だんまり、とか」
「高瀬さんは何か言いましたか」
「言いました」
「何と?」
美月は少し考えた。
「やめなよ、みたいなことです」
「みたいなこと?」
「はい」
「はっきり覚えていませんか」
「言葉は、少し混ざっていました」
「混ざっていた?」
「みんなが話していたので」
藤崎は少しだけ間を置いた。
「あなた自身の言葉は?」
美月は答えた。
「止めるつもりでした」
「止めるつもり?」
「はい」
「森下くんを?」
「はい」
「凛さんを?」
美月は少し黙った。
「その場を」
藤崎は美月を見た。
「その場を止めたかった?」
「はい」
美月はそう言った。
声は揺れなかった。
「凛さんの言葉は聞きましたか」
「はい」
「何と?」
「落ちればいいのに」
「そのあと、確かに言えることを話してください」
美月は少し黙った。
「拓也くんが落ちました」
「凛さんが押したところは見ましたか」
「見ていません」
「凛さんの手は?」
「見えました」
「どう動きましたか」
「わかりません」
「押したように見えましたか」
「わかりません」
藤崎は少し間を置いた。
「高瀬さんは、凛さんが森下くんを落とそうとしたと思いますか」
美月は答えなかった。
「思ったことでもいいです」
「わかりません」
「どうして?」
美月は言った。
「凛ちゃんが、落ちればいいのにって言ったからです」
三浦はペンを動かした。
「でも、押したところは見ていません」
美月は続けた。
それ以上は言わなかった。
三浦は記録した。
美月
拓也が凛に話しかけていた。
自分は止めるつもりだった。
凛「落ちればいいのに」。
凛の手は見えた。
押したかは不明。
凛の意図はわからない。
美月は最後まで泣かなかった。
⸻
四十一
凛の話
最後に、凛の話を聞いた。
凛は椅子に座っていた。
姿勢は崩れない。
目は赤くない。
藤崎が聞いた。
「西野さん、森下くんに何か言いましたか」
凛は頷いた。
「言いました」
「何と?」
「落ちればいいのに、と言いました」
部屋が静かになった。
「本当にそう思いましたか」
凛はすぐには答えなかった。
「その時は、思いました」
「森下くんを押しましたか」
「押していません」
「手を出しましたか」
凛は黙った。
「覚えていますか」
「わかりません」
「わからない?」
「落ちたのは覚えています」
「自分の手は?」
「覚えていません」
「押していないことは覚えている?」
凛は藤崎を見た。
「押していないからです」
「でも、手を出したかは覚えていない?」
「はい」
「森下くんが落ちた時、どう思いましたか」
凛は答えなかった。
長い沈黙のあと、言った。
「音がしました」
「音?」
「はい」
「怖かった?」
「わかりません」
「心配した?」
「病院に行ったので」
「そうじゃなくて」
凛は黙った。
それから、三浦を見た。
「先生は、私が泣いた方がいいと思っていますか」
三浦は答えられなかった。
凛は続けた。
「泣いていないと、悪いんですか」
藤崎が言った。
「泣くかどうかの話ではありません」
「はい」
「今は、起きたことを確認しています」
凛は頷いた。
「言ったことは、私が言いました」
「うん」
「押してはいません」
それだけだった。
三浦は記録した。
凛
「落ちればいいのに」と言ったことを認める。
その時はそう思った。
押していない。
自分の手の動きは覚えていない。
落ちた時、音がした。
泣いていないことを気にしている。
凛は退室する前に、もう一度言った。
「私が言ったことは、言いました」
⸻
四十二
空いた席
事故の翌日、教室には拓也の席だけが空いていた。
机の上には、配布物を入れる透明なクリアファイルが置かれている。
子供たちは、その席を見ないようにしていた。
三浦は朝の会で話した。
「森下くんは、しばらくお休みします。命に関わる怪我ではありませんが、治療が必要です」
子供たちは黙って聞いた。
「階段では絶対にふざけないこと。手すりに乗らないこと。人を押さないこと」
ここまでは言えた。
その先で、三浦は少し止まった。
「確かめたことと、そう思ったことを混ぜて話さないこと」
凛は前を向いていた。
真央は下を向いていた。
蓮は黒板を見ていた。
美月は机の上に手を置いていた。
休み時間、真央の周りに女子が集まった。
「凛ちゃん、押したの?」
「わかんない」
真央は小さな声で言った。
「でも、落ちればいいって言ったんでしょ?」
「言ったみたい」
「怖」
「でも、押したかはわかんないよ」
真央はそう言った。
蓮は自分の席で、本を開いていた。
でも、ページはめくられなかった。
美月は図書室へ行かなかった。
凛も行かなかった。
凛は席に座っていた。
背筋を伸ばしている。
前を向いている。
昼休み、凛は三浦のところへ来た。
「先生」
「どうしたの?」
「図書室に行ってもいいですか」
「もちろん」
凛は頷いた。
「一人で行きます」
三浦は少しだけ迷った。
「高瀬さんは?」
「知りません」
「そう」
凛は教室を出ていった。
その背中を、真央が追っていた。
蓮も顔を向けた。
美月は本を開いていた。
⸻
四十三
病院の拓也
三浦は放課後、病院へ行った。
拓也はベッドの上で、腕を固定されていた。
額には白いガーゼが貼られている。
母親が横にいた。
拓也は三浦を見ると、少し気まずそうな顔をした。
「先生」
「痛む?」
「まあまあ」
「怖かったね」
拓也は答えなかった。
母親が言った。
「学校で何があったんですか」
三浦は、学校として把握していることを説明した。
階段での転落。
手すり付近にいたこと。
複数の児童が近くにいたこと。
詳細は確認中であること。
母親の顔は硬かった。
「誰かに押されたんですか」
「現時点では、確認中です」
「息子は、女の子に何か言われたと言っています」
拓也が顔を背けた。
「拓也くん」
三浦は穏やかに聞いた。
「階段で何があったか、話せる?」
拓也は天井を見た。
「覚えてない」
「落ちたところは?」
「覚えてない」
「その前は?」
拓也は黙った。
母親が言った。
「無理に聞かないでください」
三浦は頭を下げた。
「すみません」
しばらくして、拓也が小さく言った。
「西野が言った」
「何を?」
「落ちればいいって」
母親の顔色が変わった。
三浦は静かに聞いた。
「それは覚えているんだね」
拓也は頷いた。
「押されたかどうかは?」
拓也は黙った。
長い沈黙だった。
「わかんない」
「わからない?」
「落ちた時、近くにいた」
「西野さんが?」
「うん」
「手は見えた?」
拓也は顔をしかめた。
「わかんない」
母親が言った。
「わからないって、どういうこと?」
拓也は少し苛立ったように言った。
「わかんないもんは、わかんない」
三浦はそれ以上聞かなかった。
帰り際、拓也は言った。
「あいつ、怖かった」
三浦は立ち止まった。
「あいつ?」
「西野」
拓也は唇を尖らせた。
「落ちればいいって言った時、ほんとにそう思ってたと思う」
病室の白い壁が、妙に明るかった。
⸻
四十四
保護者説明
事故から三日後、学校は関係保護者への説明を行った。
詳細な証言は出せない。
個人名も出せない。
階段での安全指導を徹底すること。
児童同士の言葉のやり取りについて確認していること。
憶測で話を広げないこと。
校長はそう説明した。
だが、保護者たちの間には、すでに名前が広がっていた。
西野さん。
凛ちゃん。
佐藤家事件。
三浦先生。
誰がどこで言ったのか、もうわからない。
真央の母親が、面談を希望した。
「うちの子が巻き込まれているようで心配です」
三浦は話を聞いた。
真央の母親は、娘が泣いて帰ってきたことを話した。
「凛ちゃんに強く言われたと」
「はい」
「それに、昔の事件の話も出ているみたいで」
三浦は頭を下げた。
「教室内でそうした話題が出たことは把握しています。指導しています」
「三浦先生が関係していた事件なんですか」
「以前、担任していた児童が関係していた事件です」
「それが今のクラスに影響しているんですか」
三浦はすぐには答えられなかった。
「影響が出ないよう、対応しています」
真央の母親は、納得したようには見えなかった。
その日、職員室で藤崎が言った。
「三浦先生、一人で抱えすぎないでください」
「はい」
「佐藤家事件のこともあります。先生自身が反応しすぎている可能性も、ゼロではありません」
三浦は頷いた。
「わかっています」
藤崎は少しだけ声を和らげた。
「凛さんを犯人にしないことです」
三浦は顔を上げた。
藤崎は続けた。
「同時に、凛さんの言葉をなかったことにもしない」
三浦は頷いた。
「はい」
⸻
四十五
真央の涙
真央は、事故のあと少し大人しくなった。
凛に直接近づくことは減った。
その代わり、真央の周りではまだ話が続いた。
「拓也くん、退院いつ?」
「わかんない」
「凛ちゃん、学校来てるのすごくない?」
「普通来れないよね」
「でも押したって決まったわけじゃないんでしょ」
「落ちればいいって言ったんだよ」
「それはやばい」
真央は、その中心にいる時もあれば、少し離れている時もあった。
三浦が近づくと、話は止まる。
ある日の放課後、真央が三浦に言った。
「先生」
「どうしたの?」
「私、悪いんですか」
三浦は真央を見た。
真央の目には涙が浮かんでいた。
「どうしてそう思うの?」
「みんな、私が広めたみたいに言うから」
「佐藤家事件のこと?」
真央は頷いた。
「でも、私だけじゃないです」
「うん」
「みんな聞きたがったし、拓也くんも言ったし」
「うん」
「私、心配してただけなのに」
三浦はその言葉を何度も聞いてきた。
「心配する気持ちがあったことは、嘘じゃないと思う」
真央は顔を上げた。
「でも、広がった言葉で誰かが傷ついたなら、そこは考えないといけない」
「私だけですか」
「杉崎さんだけじゃない」
真央は少し安心したような顔をした。
三浦は続けた。
「でも、杉崎さんも、です」
真央の顔がまた歪んだ。
「私、凛ちゃんと仲良くしたかっただけです」
「うん」
「でも、凛ちゃんが何も言わないから」
「うん」
「何考えてるかわかんないから」
真央は泣いた。
「だから、知りたくなっただけです」
三浦は黙っていた。
「杉崎さん」
三浦は言った。
「知りたいと思っても、聞いてはいけないことがあります」
真央は頷いた。
涙を拭いた。
「はい」
その返事は素直だった。
⸻
四十六
図書室
図書室に行くと、美月が一人で本を読んでいた。
凛はいなかった。
「高瀬さん」
三浦が声をかけると、美月は顔を上げた。
「はい」
「西野さんは?」
「教室です」
「一緒じゃないんだね」
「はい」
三浦は向かいの椅子に座った。
「事故のこと、つらくない?」
美月は少し考えた。
「拓也くんが怪我をしたのは、嫌です」
「うん」
「でも、私がつらいと言うことではないと思います」
三浦は言葉に詰まった。
「そう」
美月は手元の本に視線を戻した。
児童向けの本だった。
表紙には、『こどもとルール』と書かれている。
「そういう本、読むんだね」
「図書室にあったので」
「難しくない?」
「少し」
「どうして読もうと思ったの?」
美月は本を閉じた。
「拓也くんが落ちたからです」
「事故のことを考えていたの?」
「はい」
三浦は少し身構えた。
「何を?」
美月は短く答えた。
「誰が悪いことになるのかなと思って」
三浦はすぐには答えられなかった。
美月は本の表紙を指で押さえた。
「みんな、簡単にしたがるのに」
予鈴が鳴った。
美月は本を閉じた。
「先生、五時間目、始まります」
⸻
四十七
確かめたことと思ったこと
冬休み前、最後の国語の時間。
三浦は黒板に題を書いた。
確かめたことと思ったこと
子供たちはざわついた。
「難しい」
「何書けばいいの」
「確かめたことって?」
三浦は説明した。
「例えば、廊下で友達が走っていた。これは確かめたことです。友達が怒っていると思った。これは思ったことです」
蓮が顔を上げた。
「違うんですか」
「違うことがあります」
三浦は言った。
「確かめたことと、そう思ったことを、分けて考える練習です」
子供たちは書き始めた。
拓也の席は空いている。
真央は何度も消していた。
蓮はゆっくり書いた。
美月はすぐに書き始めた。
凛は、しばらく鉛筆を持ったままだった。
放課後、三浦は作文を読んだ。
真央。
私は凛ちゃんが怒っていると思いました。
でも、凛ちゃんが怒っていると言ったわけではありません。
私がそう思いました。
確かめたことは、凛ちゃんが私を見たことです。
思ったことは、怖いと思ったことです。
蓮。
森下くんが落ちた時、僕は凛さんの手を見たと思います。
でも、何をした手かはわかりません。
僕は凛さんの顔が怖いと思いました。
でも、怖かったのは僕かもしれません。
美月。
確かめたことは、拓也くんが手すりの近くにいたことです。
凛ちゃんが近くにいたことです。
思ったことは、間に合わないと思ったことです。
凛。
確かめたことは、拓也くんが落ちたことです。
思ったことは、落ちればいいと思ったことです。
言ったことは、私が言いました。
三浦は最後の一文を読んだ。
言ったことは、私が言いました。
凛の字は、いつもと同じだった。
⸻
四十八
終業式
二学期の終業式の日、拓也はまだ登校していなかった。
三浦は、教室で通知表を渡した。
子供たちはいつもより静かだった。
真央は両手で受け取った。
「ありがとうございました」
声が少し小さかった。
蓮は受け取ったあと、空席の拓也の机を見た。
美月は何も言わず、頭を下げた。
凛の番になった。
三浦は通知表を渡した。
「二学期、お疲れさまでした」
凛は受け取った。
「ありがとうございます」
三浦は少し迷ってから言った。
「冬休み中、何かあったら学校に連絡してね」
凛は頷いた。
「はい」
「家のことでも、学校のことでも」
凛は三浦を見た。
「何かって、何ですか」
「困ったこと」
「困ったことは、あります」
三浦は息を止めた。
「話せる?」
凛は少し考えた。
「今は、いいです」
「そう」
「先生」
「うん」
「拓也くんは、戻ってきますか」
「三学期には、少しずつ戻れると思う」
「そうですか」
「会ったら、話せそう?」
凛は答えなかった。
少しして言った。
「謝ることはあります」
「うん」
「でも、全部謝るのは違うと思います」
「全部?」
「落ちたこと全部です」
凛は通知表をランドセルにしまった。
「私が言ったことは、私のことです」
それだけ言って、凛は教室を出ていった。
教室には、子供たちのいなくなった机が並んでいた。
拓也の席だけが空いていた。
⸻
四十九
冬休み
冬休み中、三浦は何度も記録ノートを読み返した。
事故の日のページ。
凛「落ちればいいのに」。
拓也転落。
凛の手が動いたという証言あり。
押したかは不明。
本人は否定。
証言は少しずつ違っていた。
真央は、押したところを見ていない。
蓮は、手が動いたと思うと言った。
美月は、止めるつもりだったと言った。
拓也は、押されたかどうかわからないと言った。
凛は、言ったことを認め、押したことを否定した。
冬休み明け、学校に一通の連絡が入った。
拓也の保護者からだった。
三学期の初日から、短時間で登校を再開したい。
ただし、階段を使う移動には不安がある。
三浦は電話を受けた。
拓也が戻ってくる。
凛もいる。
真央もいる。
蓮もいる。
美月もいる。
三浦は記録ノートを開いた。
事故の日のページの下に、一行だけ書いた。
確かめたことと、残ったこと。
ペンを置く。
窓の外では、校庭の隅に薄く霜が残っていた。
三学期が始まる。
階段は、今日もそこにある。
第四部
見ていただけ
⸻
五十
三学期
三学期の初日、拓也は母親に付き添われて登校した。
右腕はまだ固定されている。
額の傷には小さなテープが貼られていた。
教室に入った瞬間、子供たちの声が止まった。
拓也はそれを見て、少しだけ笑った。
「何、静かじゃん」
誰もすぐには返さなかった。
真央が立ち上がった。
「拓也くん、おはよう」
「おはよ」
「大丈夫?」
「まあまあ」
拓也は自分の席に座った。
凛は前を向いていた。
美月は本を閉じた。
蓮は拓也の足元を見たあと、凛の方を見た。
三浦は教卓の前に立った。
「おはようございます」
「おはようございます」
声は揃った。
けれど、教室は元には戻っていなかった。
戻る場所が、もうなかった。
朝の会が終わると、拓也は凛の方を見た。
凛はそれに気づいていた。
二人の間に、誰も入らなかった。
三浦が声をかける前に、凛が立ち上がった。
拓也の席の前まで行く。
教室が静かになった。
凛は言った。
「落ちればいいのにと言いました」
拓也は凛を見た。
「うん」
「ごめんなさい」
拓也は黙った。
凛は続けた。
「押してはいません」
教室の空気が固まった。
拓也は目をそらした。
「わかんねえよ」
凛は頷いた。
「うん」
「俺もわかんねえ」
「うん」
それ以上、凛は言わなかった。
拓也も言わなかった。
三浦はその場を止めなかった。
謝罪としては足りないのかもしれない。
弁明としては早すぎるのかもしれない。
けれど、凛は自分の線を引いた。
言ったこと。
やっていないこと。
その二つを、同じ声で分けた。
⸻
五十一
戻らない教室
拓也が戻ってから、教室は少し変わった。
拓也は前ほど大きな声を出さなくなった。
それでも、完全に静かになったわけではない。
「左手だと書きにくい」
「給食持てねえ」
「階段、だる」
そう言って、誰かに手伝わせる。
真央はよく手伝った。
「これ持つ?」
「いい」
「でも」
「いいって」
拒まれても、真央はそばにいた。
凛は近づかなかった。
美月も近づかなかった。
蓮は、誰が何を気にしているかを追っていた。
ある日、拓也が階段の前で立ち止まった。
三浦が付き添っていた。
「ゆっくりでいいよ」
「わかってる」
拓也は手すりを掴んだ。
以前なら、手すりに体を預けてふざけていた。
今は、指先に力が入っている。
数段下に、凛がいた。
凛は振り返らなかった。
拓也は凛の背中を見ていた。
「西野」
凛が止まった。
「何」
「俺、まだ怖いんだけど」
凛は振り返った。
「うん」
「うんじゃねえよ」
拓也の声は震えていた。
「お前も怖がれよ」
階段の上で、子供たちが止まりかけた。
三浦が言った。
「森下くん、今は下りよう」
拓也は唇を噛んだ。
凛は一段下りた。
そして言った。
「普通ではないです」
拓也は何も言わなかった。
凛は下りていった。
その足音は、以前より少し遅かった。
⸻
五十二
もう一つの音
一月の半ば、音楽担当の小林が職員室で声を上げた。
「これ、まだ残ってる」
その声に、三浦が振り向いた。
小林は学校用タブレットを操作していた。
「どうしました?」
三浦が聞くと、小林は少し困った顔をした。
「音楽発表会のナレーション練習です。冬休み前に録ったものを整理していて」
三浦は頷いた。
廊下で録った、あの紹介の声。
「何かありましたか」
「停止したつもりだったんですけど、一つだけ長いファイルがあって」
小林は画面を見せた。
ファイル名は、自動で付けられた日付と時刻だけだった。
録音時間は、十分を超えている。
小林は言った。
「紹介の確認だけなら、一分もないはずなんです」
三浦の胸の奥が、冷たくなった。
「聞きましたか」
「最初だけ。紹介の声が入っていて、そのあと音楽室の音が少し遠くに入っていました。たぶん、止め忘れです」
藤崎が近くに来た。
「確認しましょう」
校長も呼ばれた。
職員室の小さな会議スペースで、タブレットが机の上に置かれた。
再生ボタンを押す。
最初に、発表係の声が聞こえた。
「これから三年二組の発表を始めます」
小林の声。
「少し小さいね。もう一回」
もう一度、発表係の声。
「これから三年二組の発表を始めます」
小林。
「うん。今のは聞こえた」
そのあと、タブレットを動かす音。
少し遠くなる子供たちの声。
音楽室の中のざわめき。
歌。
リコーダー。
椅子の音。
小林の指示。
三浦は息を詰めて聞いていた。
やがて、音楽室を出る音がした。
子供たちの足音。
誰かの笑い声。
「走らない」
自分の声だった。
三浦は唇を結んだ。
音は続いた。
リコーダーケースのぶつかる音。
原稿用紙のこすれる音。
子供たちの足音が、廊下から階段の方へ遠ざかる。
声は小さくなる。
それでも、完全には消えなかった。
タブレットは音楽室前の棚にあった。
階段は映っていない。
けれど、音だけが残っていた。
⸻
五十三
残っていた声
藤崎が音量を上げた。
雑音が大きくなる。
遠くで、拓也の声がした。
「西野、まただんまり?」
誰かが笑った。
三浦は目を閉じそうになった。
藤崎が言った。
「続けます」
音はざらついていた。
拓也の声。
「怒んねえの?」
別の声。
真央か、他の子か、判別できない。
「やめなよ」
それも誰の声かはっきりしない。
少し間がある。
そして、美月の声が入った。
思ったよりはっきりしていた。
「凛ちゃんは怒らないよ」
拓也。
「なんで」
美月。
「見てるだけだから」
三浦は顔を上げた。
藤崎も、校長も、小林も黙っていた。
音は続く。
拓也が笑う。
「見てるだけかよ」
手すりに触れるような、金属の小さな音。
「じゃあ俺が落ちても見てるだけ?」
短い沈黙。
凛の声。
「……落ちればいいのに」
拓也。
「は?」
その直後、足音が乱れた。
誰かが息を吸う音。
凛の声が、重なって入った。
「危ない」
次の瞬間、大きな音がした。
落下の音。
叫び声。
真央の悲鳴。
三浦の声。
「森下くん!」
そこで藤崎が停止した。
誰もすぐには話さなかった。
三浦の耳には、凛の声が残っていた。
落ちればいいのに。
危ない。
どちらも凛の声だった。
校長が低い声で言った。
「保存してください」
小林が頷いた。
藤崎は三浦を見た。
「これで、押したかどうかはわかりません」
三浦は頷いた。
わかりません。
その言葉は、これまでと同じだった。
けれど、ひとつだけ変わった。
凛の声は、一つではなかった。
⸻
五十四
二つの声
放課後、凛を呼んだ。
三浦と藤崎が同席した。
凛は椅子に座った。
「音声が残っていました」
藤崎が言った。
凛は顔を上げた。
「音声?」
「音楽発表会のナレーション練習で使ったタブレットです。録音が止まっていませんでした」
凛は黙った。
三浦は凛の手を見た。
指は動いていない。
藤崎が言った。
「あなたの声が入っていました」
凛は頷いた。
「落ちればいいのに、ですか」
「それも入っていました」
凛は視線を落とした。
「もう一つありました」
凛は顔を上げた。
「もう一つ?」
藤崎はゆっくり言った。
「危ない、という声です」
凛は何も言わなかった。
三浦は凛を見ていた。
凛の顔は変わらない。
けれど、目だけが少し揺れた。
「覚えていますか」
藤崎が聞いた。
凛は長く黙った。
「覚えていません」
「本当に?」
「はい」
「音声には残っています」
凛は小さく頷いた。
「そうですか」
三浦は声をかけた。
「西野さん」
凛は三浦を見た。
「落ちればいいのに、と言ったことは覚えているんだね」
「はい」
「危ない、と言ったことは覚えていない」
「はい」
「どうしてだと思う?」
凛は少しだけ眉を寄せた。
「わかりません」
沈黙が落ちた。
やがて凛は言った。
「落ちればいいと思ったのは、覚えています」
「うん」
「それは、私が思ったからです」
「うん」
「危ないと思ったのも、私ですか」
三浦は答えに迷った。
藤崎が言った。
「声は、あなたの声に聞こえました」
凛は頷いた。
「じゃあ、私です」
「そう受け止められる?」
凛はまた黙った。
「わかりません」
「わからない?」
「落ちればいいと思った私と、危ないと思った私が、同じなのかわかりません」
三浦は息を吸った。
凛は続けた。
「でも、声が私なら、私なんだと思います」
その言葉は、まだ結論ではなかった。
ただ、凛が自分の中の二つを見つけた瞬間だった。
⸻
五十四・五
言わなかったこと
音声の確認が終わったあと、三浦は凛をもう一度呼んだ。
藤崎は同席しなかった。
面談室には、三浦と凛だけだった。
「西野さん」
「はい」
「あなたは、森下くんを助けようとしましたか」
凛はすぐには答えなかった。
窓の外で、低学年の子が走る声がした。
「わかりません」
凛は言った。
「覚えていない?」
「手を出したことは、はっきり覚えていません」
「でも、危ないとは言っていた」
「はい」
「それは、音声に残っていた」
「はい」
三浦は少し待った。
凛は膝の上で手を重ねていた。
「森下くんは、あなたの手が自分の方に来た気がすると言っていました」
凛の指が少しだけ動いた。
「そうですか」
「西野さん」
「はい」
「どうして、そのことを言わなかったの?」
凛は三浦を見た。
「拓也くんが言いたくなさそうだったからです」
三浦は息を止めた。
「言いたくなさそう?」
「はい」
「いつ、そう思ったの?」
「病院に行く前から」
「階段で?」
凛は頷いた。
「拓也くんは、落ちたあと、私を見ませんでした」
「うん」
「でも、私の手は見ていました」
三浦は黙った。
凛は続けた。
「見たくないものを見た時の顔でした」
その言い方は、子供のものではなかった。
けれど、凛は子供だった。
子供のまま、人の表情だけを覚えすぎていた。
「拓也くんは、私に助けられそうになったと言いたくないと思いました」
「どうして?」
「嫌だと思うからです」
「何が?」
「からかっていた相手に、助けられること」
三浦は何も言えなかった。
凛は続けた。
「あと、自分がふざけていたことも、言いたくないと思いました」
「だから黙っていたの?」
「はい」
「自分が疑われても?」
凛は少しだけ首を傾げた。
「私が言っても、拓也くんが嫌だと思います」
「でも、あなたは押していない」
「はい」
「助けようとしたかもしれない」
凛は目を伏せた。
「かもしれない、です」
「それを言えば、あなたを見る目は変わったかもしれない」
凛は答えなかった。
三浦は続けた。
「それでも言わなかった?」
「はい」
「どうして?」
凛は少し考えた。
「拓也くんが、自分で言うことだと思ったからです」
三浦は言葉を失った。
凛は続けた。
「私が言ったことは、私が言います」
「うん」
「拓也くんが言いたくないことは、私が言うことじゃないと思いました」
三浦は、凛を見ていた。
泣かない子。
怒らない子。
冷たいと思われた子。
けれど凛は、人の気持ちがわからないのではなかった。
むしろ、わかりすぎるほどわかっていた。
そのうえで、黙ることを選んでいた。
三浦は静かに言った。
「西野さん」
「はい」
「先生は、あなたの黙っている理由を、何度も間違えました」
凛は何も言わなかった。
三浦は頭を下げた。
「ごめんなさい」
凛は少しだけ目を伏せた。
「先生も、言いたくないことがありますか」
三浦は顔を上げた。
凛はまっすぐ三浦を見ていた。
「あります」
三浦は答えた。
凛は頷いた。
「じゃあ、少しわかります」
⸻
五十五
拓也の声
拓也にも、音声のことは伝えられた。
保護者同席で、学校が確認した範囲を説明した。
拓也は黙って聞いていた。
母親は険しい顔だった。
「つまり、押したかどうかはわからないんですよね」
校長が答えた。
「はい。音声では、接触の有無は確認できません」
「でも、落ちればいいとは言っている」
「はい」
「危ないとも言っている」
「はい」
拓也の母親は唇を結んだ。
「それで済むんですか」
誰もすぐには答えられなかった。
拓也が言った。
「俺も言ってた」
母親が拓也を見た。
「拓也」
「俺も、いろいろ言ってた」
「だからって、落ちればいいなんて言われていいわけじゃない」
「わかってる」
拓也は小さく言った。
「でも、俺も言ってた」
三浦は拓也を見た。
拓也は左手でシーツを握っていた。
「見てるだけとか。だんまりとか」
母親は黙った。
「美月も言ってた」
三浦は息を止めた。
拓也は続けた。
「凛ちゃんは怒らないよって。見てるだけだからって」
母親が眉を寄せた。
「美月ちゃん?」
拓也は頷いた。
「それで俺、言った。じゃあ俺が落ちても見てるだけ、って」
病室が静かになった。
拓也は顔を歪めた。
「俺、ふざけてた」
誰も否定しなかった。
三浦は静かに聞いた。
「拓也くん」
「何」
「落ちる前、西野さんの手は見えた?」
拓也は黙った。
母親が拓也を見た。
「拓也」
「わかんない」
拓也はすぐに言った。
けれど、その声は前より弱かった。
三浦は続けた。
「本当に、まったく覚えていない?」
拓也はシーツを握った。
「覚えてない」
「西野さんが、危ないと言った声は残っていました」
「聞いた」
「その時、西野さんは近くにいた」
「うん」
「腕が動いたという話もあります」
拓也は顔を背けた。
「だから、わかんないって」
母親が言った。
「何か見たなら、ちゃんと言いなさい」
拓也は黙った。
長い沈黙だった。
やがて、拓也は小さく言った。
「手は、見えたかも」
三浦は息を止めた。
「西野さんの手?」
拓也は頷かなかった。
ただ、シーツを握る指に力を入れた。
「俺の方に、来た気がする」
母親が身を乗り出した。
「押されたの?」
拓也はすぐに首を振った。
「違う」
「じゃあ」
「わかんない」
「拓也」
「わかんないんだよ」
拓也の声が荒くなった。
「落ちるって思った時、手が見えた。でも、押された感じじゃなかった」
三浦は静かに聞いた。
「掴もうとしていたように見えた?」
拓也は答えなかった。
答えないことが、答えに近かった。
母親が言った。
「助けようとしたってこと?」
拓也の顔が赤くなった。
「知らねえよ」
「拓也」
「知らねえって」
拓也は布団を強く掴んだ。
「俺、あいつにあんなこと言って、落ちて、そんで助けられそうになったとか、そんなの言いたくねえよ」
病室が静かになった。
拓也は唇を噛んだ。
「しかも俺、手すり触ってたし」
三浦は何も言わなかった。
「ふざけてたし」
拓也の声は小さくなった。
「自分で落ちたみたいじゃん」
母親は口元を押さえた。
拓也は続けた。
「西野が落ちればいいって言ったのは、本当」
「うん」
「怖かったのも本当」
「うん」
「でも」
拓也はそこで止まった。
長く黙ってから言った。
「助けようとしたかもしれないのも、本当かもしれない」
三浦は、ゆっくり頷いた。
拓也は目を伏せた。
「でも、俺はそれ言いたくなかった」
その言葉は、初めて拓也自身の声だった。
からかいでも、言い訳でもない。
怖さと、恥ずかしさと、意地が混ざった声だった。
⸻
五十六
真央が知っていたこと
音声の話は、子供たち全員にはまだ伝えられなかった。
学校として整理が必要だった。
けれど、関係児童には順に確認が入った。
真央は、音声を聞いたあと、泣いた。
「美月ちゃんの声も入ってたんですか」
藤崎が聞いた。
真央は頷いた。
「はい」
「そのことを覚えていましたか」
「なんとなく」
「なぜ最初の聞き取りで、はっきり言わなかったの?」
真央はハンカチを握った。
「美月ちゃんが止めてくれてると思ったから」
「止めてくれてる?」
「拓也くんに、やめなよって言ってたから」
「でも、『見てるだけだから』とも言っていました」
真央は泣きながら頷いた。
「はい」
「それはどう聞こえましたか」
真央は答えなかった。
三浦が言った。
「杉崎さん、今は怒っていません。覚えていることを話して」
真央は涙を拭いた。
「美月ちゃんは、いつも凛ちゃんの味方みたいだったから」
「うん」
「だから、悪い意味じゃないと思って」
「うん」
「でも」
真央はそこで止まった。
藤崎が促した。
「でも?」
「最初に、佐藤遥のことを教えてくれたのは、美月ちゃんです」
部屋の空気が変わった。
三浦は真央を見た。
「いつ?」
「一学期です」
「どうやって?」
「図書室で」
真央は泣きながら言った。
「私が、先生って凛ちゃんのことよく見てるよねって言ったら、美月ちゃんが、前にも似た子がいたんだよって」
「似た子?」
「佐藤遥」
三浦の指先が冷たくなった。
真央は続けた。
「調べたら出てくるって。先生の名前も、記事に少し出てるって」
「それで調べたの?」
真央は頷いた。
「はい」
「みんなに話した?」
「少し」
「なぜ?」
「心配だったから」
いつもの言葉だった。
けれど今度は、その後ろに別の手が見えた。
「美月さんは、他にも何か言っていましたか」
真央はしばらく黙った。
「凛ちゃん、遥に似てるかもって」
三浦は何も言えなかった。
真央は泣きながら言った。
「でも、美月ちゃんは、凛ちゃんの味方だと思ってました」
⸻
五十七
美月の家
美月への聞き取りは、保護者同席で行われた。
美月の母親は、市の子ども家庭支援センターで非常勤相談員をしていた。
三浦は、そのことを初めて知った。
母親は落ち着いた人だった。
「娘が何か」
藤崎が説明した。
佐藤家事件の情報を、真央に伝えた可能性。
西野家の事情を、周囲より詳しく知っていた可能性。
事故前の言動。
母親の顔色が少し変わった。
「美月」
美月は母親を見なかった。
藤崎が聞いた。
「高瀬さん、佐藤遥さんのことを杉崎さんに話しましたか」
美月は黙った。
「答えられますか」
「話しました」
三浦は息を止めた。
「どうして知っていたの?」
「調べました」
「何で?」
「新聞と、図書室の資料です」
「三浦先生のことも?」
「はい」
藤崎は続けた。
「西野さんの家庭のことは、どこで知りましたか」
美月は答えなかった。
母親が強い声で言った。
「美月」
美月は、少しだけ母親を見た。
「家にあった紙」
母親の顔が白くなった。
「紙?」
「お母さんが持っていた」
「見たの?」
「置いてあったから」
「美月」
「閉じてなかった」
母親は口元を押さえた。
藤崎が声を落とした。
「どのような資料ですか」
母親は震える声で答えた。
「個人が特定できる資料を持ち帰ったつもりはありません。ただ、研修用のメモや、地域のケース整理を家で確認していたことはありました」
「西野家とわかるものが?」
母親は答えられなかった。
美月が言った。
「名前はなかったです」
「でも、わかった?」
「学校。学年。弟。母親が疲れていること。姉が弟の世話をしていること」
「それで西野さんだと思った?」
「はい」
三浦は美月を見た。
美月はいつもと同じ顔をしていた。
藤崎が聞いた。
「そのことを、誰かに話しましたか」
「話していません」
「杉崎さんには?」
「佐藤遥のことだけです」
「西野さんの家のことは?」
「話していません」
「本当に?」
「はい」
「では、なぜ佐藤遥のことを杉崎さんに話したの?」
美月は少しだけ首を傾げた。
「真央ちゃんが、先生は凛ちゃんをよく気にしていると言ったので」
「それで?」
「前にも、そういう子がいたと教えました」
「そういう子?」
「先生が気にしていた子です」
三浦の指先が冷たくなった。
「凛さんと遥さんを、似ていると思ったの?」
「思わせたら、どうなるのかと思いました」
部屋が静かになった。
藤崎が聞いた。
「どうなるのか?」
「はい」
「何が?」
「先生が、もっと凛ちゃんを見るのか」
美月は淡々と言った。
「真央ちゃんが、もっと心配するのか。拓也くんが、もっと言うのか。凛ちゃんが、それでも黙っているのか」
母親が小さく息を呑んだ。
「美月、何を言ってるの」
美月は母親を見なかった。
「確かめたかっただけ」
「何を?」
藤崎が聞いた。
美月は答えた。
「人は、先に答えを渡されたら、その通りに見るのか」
三浦は何も言えなかった。
美月は続けた。
「凛ちゃんが遥に似ているかどうかは、途中からどうでもよくなりました」
「どうでもよくなった?」
「はい」
「では、何を見ていたの?」
美月は少しだけ考えた。
「似ていることにされていくところです」
母親が震える声で言った。
「美月」
美月は、そこで初めて母親を見た。
「お母さんも、いつも言ってる」
「何を」
「家庭は、外から見えにくいって」
母親は言葉を失った。
美月は続けた。
「でも、少しだけ情報を置くと、みんな見えた気になる」
その声は、子供の声だった。
けれど、言っていることは子供の遊びではなかった。
⸻
五十八
つまらないから
美月との二度目の聞き取りは、本人の希望で短く行われた。
母親は別室にいた。
藤崎と三浦が同席した。
「高瀬さん」
藤崎が言った。
「階段で、あなたは『見てるだけだから』と言いました」
美月は頷いた。
「はい」
「それは、森下くんを止める言葉でしたか」
「はい」
「音声を聞く限り、その言葉のあと、森下くんはさらに続けています」
美月は黙った。
「あなたの言葉が、森下くんを進ませた可能性があります」
「はい」
「そうなると思いましたか」
美月はすぐには答えなかった。
「少し」
三浦は顔を上げた。
藤崎が聞いた。
「少し?」
「拓也くんは、そういう言葉に乗るので」
「わかっていて言ったの?」
「止める言葉でもあります」
「でも、煽る言葉にもなる」
「はい」
「どちらのつもりでしたか」
美月は三浦を見た。
「どちらに聞こえるか、知りたかったです」
三浦は息を止めた。
「知りたかった?」
「はい」
「人が落ちるかもしれない階段で?」
「落ちるとは思っていませんでした」
美月はそこで少しだけ目を伏せた。
「でも、何かは起きると思いました」
藤崎の声が硬くなった。
「何かとは?」
「凛ちゃんが怒るかもしれない。泣くかもしれない。拓也くんを押すかもしれない。何も言わないかもしれない」
「それを確かめたかった?」
「はい」
三浦は、手のひらに爪が食い込むのを感じた。
「高瀬さんは、凛さんを助けたかったんじゃないの?」
美月は三浦を見た。
「先生は、そういうことにしたかったんですか」
三浦は答えられなかった。
美月は続けた。
「先生は、凛ちゃんを怖がっていました」
「怖がっていた?」
「はい」
「私は心配していた」
「心配している人は、あんなふうに見ません」
その言葉は、静かだった。
三浦は言い返せなかった。
美月は続けた。
「先生は、凛ちゃんの中に遥を探していました」
三浦の胸が冷えた。
「それを、あなたは利用したの?」
美月は黙った。
藤崎が聞いた。
「答えてください」
美月は少しだけ考えた。
「利用というより、置いただけです」
「何を?」
「名前を」
「佐藤遥という名前を?」
「はい」
美月は膝の上で指を重ねた。
「名前を置いたら、先生が反応しました。真央ちゃんも反応しました。拓也くんも使いました」
「それで?」
「凛ちゃんが変わっていきました」
「変わった?」
「いえ」
美月は首を横に振った。
「変わっていないのに、変わったことにされていきました」
三浦は、美月の顔を見た。
その表情には、後悔よりも、納得に近いものがあった。
「それが面白かったの?」
藤崎が聞いた。
美月はすぐには答えなかった。
少しして言った。
「面白いとは違います」
「では?」
「きれいでした」
三浦は耳を疑った。
「きれい?」
「はい」
「何が?」
「何もしていない子が、周りの言葉で別のものになっていくところ」
美月は淡々と言った。
「水に絵の具を落とすみたいでした」
部屋の空気が凍った。
藤崎が言った。
「高瀬さん、それは人に対して言うことではありません」
「はい」
「わかっていますか」
「今は」
「その時は?」
美月は少し考えた。
「その時は、凛ちゃんが人だということを、あまり考えていませんでした」
三浦は言葉を失った。
美月は、静かに続けた。
「役だと思っていました」
「役?」
「先生が見つけた、二人目の遥」
三浦は息ができなかった。
美月は言った。
「でも、凛ちゃんは違いました」
「どう違ったの?」
「凛ちゃんは、自分の言葉を返してきました」
「落ちればいいのに?」
「はい」
「危ない?」
「はい」
美月は初めて、少しだけ目を逸らした。
「そこは、予定と違いました」
「予定?」
三浦の声が震えた。
美月は答えた。
「凛ちゃんは、最後まで黙ると思っていました」
「黙ったまま、疑われると思っていた?」
「はい」
「それを望んだの?」
美月は言った。
「結末が欲しかったんです」
「何の?」
「先生の後悔の」
三浦は何も言えなかった。
美月は続けた。
「佐藤遥の時、先生は見なかった。今度は見すぎた。どっちでも壊れるのか、知りたかった」
藤崎が低い声で言った。
「高瀬さん」
美月は黙った。
三浦は、美月を見ていた。
そこにいたのは、凛ではなかった。
遥でもなかった。
人が壊れていく過程を、物語の続きを読むように待っていた子供だった。
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五十九
西野家
西野家の浴室のことが明らかになったのは、そのあとだった。
きっかけは悠斗だった。
悠斗は、木村に言った。
「凛ちゃんは、やってない」
木村は無理に聞かなかった。
ただ、頷いた。
「何のこと?」
悠斗はしばらく黙った。
「お風呂」
木村は、三浦と藤崎に共有した。
その日の午後、悠斗はスクールカウンセラー同席で話した。
「お風呂で、水飲んだ時」
「うん」
「凛ちゃんは、外にいた」
「外?」
「脱衣所」
「浴室の外?」
悠斗は頷いた。
「そこにいた?」
悠斗は少し考えた。
「いた」
「何を?」
「お母さん」
三浦は息を止めた。
カウンセラーが静かに言った。
「お母さんは、何をしていたの?」
悠斗は膝の上の手を握った。
「怒ってた」
「どうして?」
「僕が、ふざけたから」
「それで?」
悠斗は目を伏せた。
「静かにしなさいって」
「うん」
「肩を押さえた」
「どこで?」
「お風呂」
「お湯の中?」
悠斗は頷いた。
三浦は動けなかった。
「苦しかった?」
悠斗は小さく頷いた。
「でも、すぐ離した」
「凛ちゃんは?」
「いた」
「何か言った?」
悠斗は首を振った。
「言わなかった」
「そのあと?」
「お母さんが泣いた」
「凛ちゃんは?」
「タオル持ってきた」
悠斗はそこで黙った。
「凛ちゃんが先生に言った?って聞いたのは、どうして?」
悠斗は少しだけ顔を上げた。
「言ったら、お母さんが困るから」
その言葉は、小さかった。
三浦は、第二部の絵を思い出した。
浴槽の中の男の子。
浴槽の外に、髪の長い人。
顔のない人。
その場にいた人。
それは凛でもあり、母でもあった。
けれど、手を出した人は凛ではなかった。
凛は、また黙っていた。
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六十
沙織
沙織は、学校に来た。
顔色が悪かった。
藤崎と管理職、カウンセラーが同席した。
三浦もいた。
沙織は最初、何度も「違うんです」と言った。
「殺そうとしたわけじゃないんです」
誰も、殺そうとしたとは言っていなかった。
沙織は泣いた。
「悠斗が、全然言うことを聞かなくて」
「はい」
「お風呂でふざけて、水を飛ばして」
「はい」
「私、もう疲れていて」
「はい」
「静かにしてって、肩を押さえました」
沙織は両手で顔を覆った。
「少しだけです。本当に少しだけ」
部屋の中に、誰の声もなかった。
「凛は?」
藤崎が聞いた。
沙織は顔を上げた。
「いました」
「どこで?」
「脱衣所のところで」
「何か言いましたか」
「言いませんでした」
「そのあと?」
沙織は唇を震わせた。
「私が、見てないよねって」
三浦は目を閉じた。
沙織は泣きながら言った。
「言ってしまいました」
凛に。
見てないよね、と。
凛は何を受け取っていたのか。
浴室。
母親。
弟。
水の音。
そして、言ってはいけないこと。
沙織は続けた。
「凛は、何も言いませんでした」
「凛さんに、悠斗くんの世話を頼りすぎていた自覚はありますか」
藤崎が聞いた。
沙織は頷いた。
「あります」
「助かっていると、何度も言っていましたね」
「はい」
「凛さんは三年生です」
沙織は泣きながら頷いた。
「はい」
三浦は、凛の作文を思い出した。
聞こえても、行かない時があります。
あれは冷たさではなかった。
行けば、また何かを受け取ってしまう。
受け取れば、黙らなければならない。
凛は、家の中でそうやって立っていた。
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六十一
凛と悠斗
凛と悠斗は、学校で会った。
面談室だった。
カウンセラーが同席し、三浦は少し離れたところに座った。
悠斗は凛を見ると、小さく言った。
「ごめん」
凛は首を横に振った。
「悠斗が謝ることじゃない」
「でも、言った」
「うん」
「お母さんのこと」
「うん」
悠斗は泣きそうな顔をした。
「凛ちゃん、怒る?」
「怒らない」
「本当?」
「うん」
悠斗は俯いた。
「凛ちゃん、いた」
凛は少し黙った。
「うん」
「何で言わなかったの」
凛は答えなかった。
悠斗は鼻をすすった。
「僕、苦しかった」
凛の指が少し動いた。
「うん」
「凛ちゃん、いた」
「うん」
「何もしなかった」
その言葉は、教室で何度も凛に向けられた言葉に近かった。
悠斗の口から出ると、別の重さになった。
凛は長く黙った。
それから言った。
「ごめん」
悠斗は泣いた。
凛は泣かなかった。
けれど、手を伸ばした。
悠斗の袖を掴む。
抱きしめるのではなく、袖を掴むだけだった。
悠斗はその手を見た。
そして、自分から凛に寄った。
凛は動かなかった。
ただ、袖を掴む手に少しだけ力を入れた。
三浦はそれを見ていた。
今は、二人の間に入らない方がいいとわかった。
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六十二
美月のノート
美月のノートが見つかったのは、図書室だった。
返却された本の間に挟まっていた。
表紙には何も書かれていない。
拾ったのは蓮だった。
蓮はそれを三浦に渡した。
「高瀬さんのだと思います」
「中は読んだ?」
蓮は首を振った。
「名前だけ見えました」
三浦はノートを開いた。
最初のページに、美月の名前があった。
その先には、短い文章が並んでいた。
日記ではなかった。
記録でもなかった。
もっと冷たいものだった。
図書委員に誘う。
理由はいらない。
本が好きそうだから、で足りる。
三浦はその一行で手を止めた。
ページをめくる。
隣にいると、味方に見える。
味方に見える人は、止めなくても責められにくい。
別のページ。
三浦先生は、凛ちゃんに反応する。
凛ちゃんが黙ると、時間が長くなる。
真央ちゃんは、その空気を拾う。
拓也くんは、拾ったものを投げる。
また別のページ。
真央ちゃんは「心配」を使う。
便利。
怒られにくい。
本人も悪いことをしていると思わない。
さらに。
凛ちゃんは、遥ではない。
でも、遥の場所に置くことはできる。
置いたあと、周りが勝手に形を整える。
三浦は息を止めた。
ページをめくる。
西野家。
弟。
母親が疲れている。
姉が世話をしている。
家でも役。
学校でも役。
役が二つになると、人はどちらから降りるのか。
次のページには、短く書かれていた。
凛ちゃんは、なかなか崩れない。
泣かない。怒らない。説明しない。
だから、周りが代わりに説明する。
その方が早い。
三浦はページをめくる手を止められなかった。
全部は渡さない。
全部言うと、そこで終わる。
少しだけ置く。
あとは勝手に増える。
最後の方のページには、一文だけ書かれていた。
声が残らなければ、言った人はいないのと同じ。
三浦はそのページで手を止めた。
美月は、声が残るとは思っていなかった。
残らないと思っていた。
だから、言葉を置いた。
凛ちゃんは怒らないよ。
見てるだけだから。
その声は、残っていた。
三浦はノートを閉じた。
蓮は廊下で待っていた。
「先生」
「ありがとう。これは先生たちで扱います」
蓮は頷いた。
「高瀬さん、怒られますか」
三浦は答えられなかった。
蓮は言った。
「僕、読まなかったです」
三浦は蓮を見た。
蓮は続けた。
「でも、持ってきました」
「うん」
三浦は頷いた。
「ありがとう」
蓮は少しだけ息を吐いた。
⸻
六十三
順番
美月は、ノートのことを否定しなかった。
「私のです」
藤崎が聞いた。
「なぜ書いていたの?」
「忘れないように」
「何を?」
「順番です」
「順番?」
美月は頷いた。
「誰が何を言うか」
三浦は、美月の顔を見た。
美月はいつも通りだった。
藤崎がノートを開いた。
三浦先生は、凛ちゃんに反応する。
凛ちゃんが黙ると、時間が長くなる。
真央ちゃんは、その空気を拾う。
拓也くんは、拾ったものを投げる。
「これは、何ですか」
「そのままです」
「あなたは、その順番を知っていた?」
「途中から」
「途中から?」
「最初は、先生が凛ちゃんを気にしているのが気になりました」
三浦の手が少し強く握られた。
美月は続けた。
「それで調べました」
「佐藤遥さんのこと?」
「はい」
「西野さんの家庭のことも?」
美月はすぐには答えなかった。
藤崎が言った。
「答えてください」
「知っていました」
三浦は息を止めた。
「どこまで?」
「弟がいること。お母さんが疲れていること。凛ちゃんが弟のことをしていること」
「それを知ったうえで、凛さんに近づいたの?」
「はい」
藤崎が聞いた。
「なぜ、図書委員に誘ったの?」
美月は少しだけ首を傾げた。
「近くにいられるからです」
「仲良くなりたかった?」
「違います」
「では?」
「近くにいる人は、疑われにくいので」
部屋の空気が止まった。
三浦は、美月の言葉の意味をすぐには受け取れなかった。
藤崎が低い声で聞いた。
「疑われにくい?」
「はい」
「何をしても?」
「何もしなければ」
美月は淡々と言った。
「図書委員なら、凛ちゃんの隣にいても変じゃありません。凛ちゃんと一緒にいても、みんなは味方だと思います」
「味方のふりをしていたということ?」
美月は少し考えた。
「ふりというより、席を取っただけです」
「席?」
「一番近くで見える席」
三浦は胸の奥が冷たくなった。
美月は続けた。
「真央ちゃんは遠くから聞くから、間違えます。拓也くんは近づきすぎるから、雑になります。先生は大人だから、途中で止めようとします」
「あなたは?」
「私は、隣にいました」
美月は膝の上で指を重ねた。
「隣にいると、凛ちゃんが何を言わないかがわかります」
「何を言わないか?」
「家のこと。悠斗くんのこと。お風呂のこと。先生を嫌がっていること」
三浦は声が出なかった。
藤崎が聞いた。
「それを、どうするつもりでしたか」
美月は答えた。
「置き場所を考えていました」
「置き場所?」
「真央ちゃんに渡すこと。拓也くんが使うこと。先生が反応すること」
「あなたは、情報を渡していたの?」
「全部は渡していません」
「全部ではない?」
「少しだけの方が、勝手に広がります」
美月の声は静かだった。
「全部言うと、説明になります。少しだけだと、みんな自分で続きを作ります」
三浦は、美月のノートの文字を思い出した。
凛ちゃんは、遥ではない。
でも、遥の場所に置くことはできる。
置いたあと、周りが勝手に形を整える。
藤崎が聞いた。
「高瀬さん、あなたは西野さんを壊そうとしたの?」
美月はすぐには答えなかった。
長い沈黙だった。
「壊れるかどうか、知りたかったです」
三浦は息を呑んだ。
「それは同じことです」
藤崎の声は硬かった。
美月は少しだけ目を伏せた。
「そうですか」
「そうですか、ではありません」
母親が別室にいることを、三浦は思い出した。
この子は今、自分がしたことを責められている。
けれど、美月の顔にあるのは、反省よりも、答え合わせに近かった。
「西野さんの家庭が不安定だと知っていた」
藤崎が言った。
「佐藤遥さんの事件も知っていた」
「はい」
「三浦先生がその事件を気にしていることも知っていた」
「はい」
「杉崎さんが噂を広げやすいことも、森下くんがからかうことも、わかっていた」
「はい」
「その全部をつなげた?」
美月は頷いた。
「はい」
「なぜ?」
美月は答えた。
「どこから壊れるのか、知りたかったからです」
三浦は、美月を見た。
美月はまだ、子供の顔をしていた。
そのことが、一番怖かった。
⸻
六十三・五
つまらない
美月は、ノートのことを否定しなかった。
佐藤遥の名前を置いたことも。
真央に渡したことも。
西野家のことを知っていたことも。
図書委員の席を選んだことも。
一つずつ聞かれるたび、美月は短く答えた。
「はい」
「そうです」
「知っていました」
「思いました」
その声は、最後まで乱れなかった。
藤崎が言った。
「高瀬さん、あなたがしたことは、遊びではありません」
美月は頷いた。
「はい」
「西野さんは実際に傷ついています。森下くんも怪我をしています」
「はい」
「杉崎さんも、小田切くんも、巻き込まれています」
「はい」
藤崎の声が少し強くなった。
「本当にわかっていますか」
美月は少し黙った。
それから言った。
「はい」
三浦には、その返事が届いていないように聞こえた。
届いていないのではない。
別の場所に届いている。
美月は、叱責を受け取っているのではなく、結果を確認しているようだった。
藤崎が続けた。
「なぜ、黙っているんですか」
美月は首を傾げた。
「何を言えばいいですか」
「自分がしたことについてです」
「言いました」
「感想ではありません」
美月は少しだけ考えた。
「感想」
その言葉を、口の中で確かめるように繰り返した。
三浦は嫌な予感がした。
「高瀬さん」
美月は三浦を見た。
「つまらないです」
部屋の空気が止まった。
藤崎が低い声で言った。
「何が、つまらないんですか」
美月は答えた。
「バレちゃったので」
三浦は息を呑んだ。
美月は続けた。
「声が残っていなかったら、もう少し続きがありました」
「続き?」
藤崎の声が硬くなった。
「はい」
「何の続きですか」
「凛ちゃんが、どこまで黙るのか」
美月は淡々と言った。
「拓也くんが、どこまで言わないのか。真央ちゃんが、どこまで心配を続けるのか。先生が、どこで凛ちゃんを疑うのをやめるのか」
三浦は言葉を失った。
「あなたは、それを見たかったんですか」
「はい」
「人が傷ついているのに?」
「はい」
藤崎が机の上で手を組んだ。
「高瀬さん」
美月は続けた。
「でも、音が残っていました」
その声に、少しだけ不満が混じった。
初めてだった。
美月の声が、わずかに子供らしく揺れた。
「声が残ると、順番が止まります」
「順番?」
「みんなが自分で続きを作る前に、答えが出てしまうので」
三浦は、美月のノートの一文を思い出した。
声が残らなければ、言った人はいないのと同じ。
美月は言った。
「つまらないです」
藤崎が言った。
「高瀬さん、それは反省の言葉ではありません」
「はい」
「わかっていますか」
「はい」
「では、なぜ言ったんですか」
美月は少しだけ目を伏せた。
「聞かれたので」
三浦は、美月を見ていた。
美月は泣いていない。
怒ってもいない。
怯えてもいない。
ただ、途中で本を閉じられた子供のように、少しだけ退屈そうだった。
そのことが、何より怖かった。
⸻
六十四
先生の証言
三浦は、佐藤家事件の裁判で自分が言った言葉を思い出していた。
遥さんは、しっかりした子でした。
弟の面倒も見ていました。
落ち着いていました。
あの時の三浦は、それを良いこととして言った。
今は、その言葉が怖かった。
しっかりしている。
落ち着いている。
面倒を見ている。
それらは、子供を褒める言葉にもなる。
閉じ込める言葉にもなる。
凛にも、同じ言葉が何度も向けられていた。
母から。
父から。
教師から。
同級生から。
そして三浦から。
放課後、三浦は凛を呼んだ。
「西野さん」
「はい」
「先生は、あなたを佐藤遥さんに重ねて見ていました」
凛は黙って聞いていた。
「それで、あなたを見すぎた」
「はい」
「その視線が、教室にも広がったと思います」
凛は少しだけ首を傾げた。
「先生が悪いんですか」
三浦はすぐには答えなかった。
「先生にも、責任があります」
凛は三浦を見た。
「私の言ったことは、先生のせいですか」
「違います」
凛は頷いた。
「じゃあ、そこは違います」
三浦は息を呑んだ。
凛は淡々と続けた。
「先生が私を気にしていたことと、私が落ちればいいと言ったことは、別です」
「うん」
「でも、先生が私を気にしていたことは、ありました」
「うん」
「それは嫌でした」
三浦は頭を下げた。
「ごめんなさい」
凛は答えなかった。
しばらくして言った。
「先生」
「うん」
「私は、遥さんじゃないです」
「うん」
「でも、落ちればいいと言いました」
「うん」
「危ないとも言いました」
三浦は頷いた。
「うん」
凛は少しだけ息を吸った。
「どちらも、私の声です」
三浦は何も言えなかった。
凛は、ようやく二つを同じ場所に置いた。
⸻
六十五
拓也と凛
拓也と凛がもう一度話したのは、三学期の終わりが近づいた頃だった。
場所は面談室。
三浦と藤崎が同席した。
拓也は腕の固定が外れていた。
まだ少し動かしにくそうだったが、鉛筆は持てるようになっていた。
凛は向かいに座っている。
先に話したのは拓也だった。
「俺、音聞いた」
凛は頷いた。
「うん」
「お前、危ないって言ってた」
「うん」
「でも、落ちればいいとも言ってた」
「うん」
拓也は少し苛立ったように言った。
「うんばっかじゃん」
「うん」
拓也はため息をついた。
三浦は口を挟まなかった。
拓也は続けた。
「俺も言ってた」
凛は拓也を見た。
「うん」
「だんまりとか、見てるだけとか」
「うん」
「ごめん」
凛は少しだけ目を伏せた。
「うん」
拓也は顔を上げた。
「お前は?」
凛は答えた。
「落ちればいいと言って、ごめんなさい」
「押してないんだよな」
「押してない」
「本当に?」
「うん」
拓也は凛を見た。
長い沈黙だった。
「俺、まだ全部は信じらんない」
「うん」
「でも、音聞いたら、少しわかんなくなった」
「うん」
「危ないって言ってたから」
凛は黙った。
拓也は左手で右腕を触った。
「あと」
凛は拓也を見た。
「手」
三浦は息を止めた。
拓也は顔をしかめた。
「お前の手、俺の方に来た気がする」
凛は何も言わなかった。
「助けようとしたのかもしんないって、思った」
「うん」
「でも、俺、それ言いたくなかった」
「うん」
拓也は少し苛立ったように言った。
「何で黙ってたんだよ」
凛は答えた。
「拓也くんが、言いたくなさそうだったから」
拓也は凛を見た。
「何でわかんだよ」
凛は少しだけ考えた。
「顔」
「顔?」
「言いたくない時の顔をしてた」
拓也は言葉に詰まった。
「何だよ、それ」
「そう見えた」
「お前、そういうのわかんの?」
凛は答えなかった。
少しして言った。
「わかる時があります」
拓也は目をそらした。
「じゃあ、言えばよかったじゃん」
「私が言うことじゃないと思った」
「何で」
「拓也くんのことだから」
拓也は黙った。
凛は続けた。
「私が言ったことは、私が言います」
「うん」
「拓也くんが言いたくないことは、拓也くんが言うことだと思いました」
拓也は唇を噛んだ。
「そういうとこ、むかつく」
「うん」
「でも」
拓也は小さく言った。
「ちょっと助かった」
凛は拓也を見た。
拓也はすぐに顔を背けた。
「今の、なし」
「うん」
「なしじゃねえけど」
「うん」
三浦は、そのやり取りを聞いていた。
二人は仲直りをしたわけではない。
傷が消えたわけでもない。
けれど、初めて同じ出来事を、同じ場所から見ようとしていた。
拓也は言った。
「階段、まだ嫌だ」
凛は頷いた。
「私も嫌です」
拓也は驚いたように凛を見た。
「前から?」
「うん」
「何で?」
凛は少し考えた。
「途中だから」
拓也は意味がわからない顔をした。
凛も、それ以上は説明しなかった。
三浦はその言葉を、ノートに書かなかった。
書かなくても、残ると思った。
⸻
六十六
真央の謝罪
真央は、凛に謝るまで時間がかかった。
何度も近づいて、やめた。
消しゴムを貸そうとして、やめた。
図書室に行こうとして、入り口で戻った。
ある日の放課後、真央はようやく凛の前に立った。
「凛ちゃん」
凛はランドセルに教科書を入れていた。
「何」
「ごめん」
凛は手を止めた。
真央は泣きそうだった。
「私、いろいろ言った」
「うん」
「聞いた」
「うん」
「広げた」
「うん」
「心配してるって言えば、聞いていいと思ってた」
凛は真央を見た。
真央は涙をこらえていた。
「ごめんなさい」
凛はしばらく黙った。
「嫌でした」
真央は頷いた。
「うん」
「何回も聞かれるの、嫌でした」
「うん」
「悠斗のことも、家のことも、嫌でした」
「うん」
「でも」
真央は顔を上げた。
凛は少しだけ言葉を探した。
「心配してたのが、全部嘘だとは思ってない」
真央は泣いた。
「うん」
「でも、嫌でした」
「うん」
真央は何度も頷いた。
「もう聞かない」
「うん」
「でも、何かあったら」
真央は言いかけて、止まった。
凛はそれを待った。
真央は言い直した。
「言いたくなったら、聞く」
凛は少しだけ頷いた。
「うん」
それは、仲直りではなかった。
でも、真央が初めて、扉の前で止まった瞬間だった。
⸻
六十七
美月の席
美月は、しばらく別室登校になった。
学校と家庭と関係機関で話し合いが続いた。
美月の母親は、資料管理の問題を含めて職場に報告した。
三浦は詳しい処分を聞かされなかった。
三年二組では、美月の席が空いた。
拓也の席が戻ったあと、今度は美月の席が空いた。
子供たちは、その席を時々気にした。
真央は特によく気にした。
「美月ちゃん、戻ってくるんですか」
三浦に聞いた。
「今は、別の場所で勉強しています」
「怒られてるんですか」
「必要な話をしています」
真央は黙った。
「私、美月ちゃんのこと、友達だと思ってました」
「うん」
「今も、嫌いとは違います」
「うん」
「でも、怖いです」
三浦は頷いた。
「そう思っていい」
真央は少し驚いた顔をした。
「いいんですか」
「うん」
「友達なのに?」
「友達でも、怖いと思うことはある」
真央は涙をこらえた。
「じゃあ、凛ちゃんもそうだったのかな」
「何が?」
「私のこと」
三浦は答えなかった。
真央は自分で頷いた。
「そうかも」
美月の机の上には、配布物が積まれていく。
誰も、それを勝手に触らなかった。
⸻
六十八
美月の言葉
三浦は、美月と最後に一度だけ話した。
場所は相談室だった。
美月は窓際の椅子に座っていた。
「高瀬さん」
「はい」
「凛さんに、言いたいことはありますか」
美月は少し考えた。
「ありません」
「謝りたいことは?」
「あります」
「では、なぜ言いたいことはないの?」
「謝っても、凛ちゃんは困ると思うので」
三浦は美月を見た。
「困る?」
「はい」
「どうして?」
「凛ちゃんは、言われたことを持つから」
美月は窓の外を向いた。
「私が謝ったら、それも持つと思います」
三浦は黙った。
美月は続けた。
「でも、謝らないと、私が持つだけです」
「それでいいの?」
美月は少し考えた。
「今は」
三浦は、美月が本当に反省しているのか、まだわからなかった。
たぶん、すぐにわかることではない。
「高瀬さん」
「はい」
「あなたは、見ていただけではありません」
美月は三浦を見た。
「はい」
「言葉を置いた」
「はい」
「人の見方を動かした」
「はい」
「それは、したことです」
美月はしばらく黙った。
「先生もです」
三浦は頷いた。
「そうです」
美月は少しだけ目を伏せた。
「じゃあ、同じですね」
「同じではありません」
「どう違いますか」
三浦は答えに迷った。
けれど、逃げなかった。
「先生は、止める立場でした」
美月は三浦を見た。
「止められませんでした」
「はい」
美月は頷いた。
「私は、止める立場じゃありませんでした」
「でも、動かしました」
「はい」
美月はそれを否定しなかった。
三浦は言った。
「そこから先を、考えてください」
美月は小さく頷いた。
「はい」
その返事が本物かどうかは、わからなかった。
けれど、三浦はそれ以上言わなかった。
⸻
六十九
最後の作文
年度末、三浦は最後の作文を書かせた。
題は自由にした。
子供たちは、それぞれの一年を書いた。
楽しかったこと。
頑張ったこと。
嫌だったこと。
来年のこと。
拓也は、短く書いた。
階段で落ちました。
すごく痛かったです。
まだ少しこわいです。
でも、手すりではもう遊びません。
あと、人にしつこく言うのもやめます。
たぶん。
最後の「たぶん」に、拓也らしさがあった。
真央は長く書いた。
私は、心配しているだけだと思っていました。
でも、心配と知りたいは違うとわかりました。
聞いていいことと、聞いてはいけないことがあります。
まだ間違えると思います。
でも、すぐ聞く前に、少し止まります。
蓮は、こう書いた。
確かめたことと思ったことは違います。
でも、確かめたことだけでも足りない時があります。
そこにいたなら、どうするかを考えないといけません。
僕はまだ、よくわかりません。
でも、持っていくだけなら、できる時があります。
三浦は、美月の作文も受け取った。
別室から届いたものだった。
私は、近くにいました。
近くにいるだけだと思っていました。
でも、言いました。
書きました。
教えました。
それは、近くにいただけではありません。
まだ、よくわかりません。
三浦はその作文を、長く見た。
そして、凛の作文を開いた。
私は、落ちればいいと言いました。
そのあと、危ないと言いました。
どちらも、私の声です。
階段は好きではありません。
でも、降りることはできます。
一段ずつなら。
三浦はその紙を机に置いた。
凛の字は、少しだけ乱れていた。
初めて見る乱れだった。
⸻
七十
階段に残る声
修了式の日、三年二組は最後の帰りの会をした。
机の中を空にする。
作品を持ち帰る。
忘れ物を確認する。
子供たちは、終わりの前だけ少し騒がしい。
拓也は、机の横に下げた荷物を左手で持ち上げた。
「重っ」
真央が言った。
「持とうか?」
「いい」
「本当に?」
「いいって」
真央はそれ以上聞かなかった。
蓮は窓の鍵を確認した。
美月の席には、もう配布物はなかった。
凛はランドセルを背負った。
三浦は黒板の前に立った。
「一年間、ありがとうございました」
子供たちは少し照れたように頭を下げた。
「ありがとうございました」
その声は、ばらばらだった。
でも、それでよかった。
全員が同じ声でなくてよかった。
帰り道、子供たちは階段へ向かった。
三浦は少し離れていた。
拓也は手すりを持って、ゆっくり下りた。
真央はその少し後ろにいたが、何も言わなかった。
蓮は、前を向いて歩いていた。
凛は踊り場で一度止まった。
三浦は声をかけなかった。
凛は下を向いた。
それから、一段下りた。
もう一段。
さらに一段。
階段は、何も言わない。
誰かを落とすわけでも、止めるわけでもない。
ただ、そこにある。
けれど、そこには声が残る。
だんまり。
見てるだけ。
落ちればいいのに。
危ない。
ごめん。
嫌でした。
どちらも、私の声です。
凛は最後の段を下りた。
振り返らなかった。
三浦は手すりに触れた。
冬ほど冷たくはなかった。
校舎の外から、子供たちの声が聞こえた。
春の声だった。
階段には、もう誰もいない。
それでも三浦は、しばらくそこに立っていた。
残った声を、消さないために。




